静寂の森   前編

 

 差し込む陽さえ朧に翳る、鬱蒼と生い茂った森。

 常人であればこの森へ一歩、足を踏み入れるのさえ躊躇うだろう。

 己が内に言い知れぬ不安を感じて。

 それは先天的な本能からか、後天的な理性からか。

 自然と沸き起こるようでいて作為的にも思える恐怖は、不安を絡めて喰らい、奥へ進めば進むほど増長の一途を辿る。

 内側で成長を遂げる負の感情は、腐葉土を踏みしめる度膨れ上がり、容量を超えては人を狂わせる。

 退けば二度と入れず、退かねば二度と戻れず。

 視覚の先に動ける生は意識外の蟲のみ。

 囁く木の葉、奏でる草花、撫でる風、惑いの羽ばたき、嗤う囀り、遠いせせらぎは耳朶へそそがれ――

 音はすれども姿は動じず、ゆえにこの森を人は名付く。

 

 静寂の森、と。

 

 そんな曰く満載の森を一人の男が進んでいく。

 澱みない足取りはささやかな獣道を正しくなぞるためか。

 その身を包むよう幾重にも纏うのは、光のような水のような、蒼と白のヴェール。

 ヴェールの縁には金銀の飾りがぶら下がっている。

 歩かずとも風に吹かれれば音がしそうな飾りは、しかし無音でヴェールの裾を揺らすのみ。

 腕には細やかな紋様を描く銀糸の輪。

 右手の甲には腕輪に似た模様の、蒼い刺青。

 宝石の類がはめ込まれた首飾りは、誇らしげに男の胸元を飾る。

 目元は同色のヴェールで髪と共に隠され、窺い知ることが出来ない。

 中背には、長い透き通る白髪がヴェールの端から零れていた。

「ここ……ですかね?」

 涼やかな声がもれる。

 男女問わず惹きこまれる、旋律に似た囁き。

 獣道の途中、陽の光が徐々に薄れる闇間で男は急に歩みを止めた。

 辺りに人の目を留めるほどのめぼしい物はない。

 それは彼の目の前に広がる森も例外ではなく。

 しかし、男は構わず右手をかざして、宙へ何かをなぞる仕草をし、吐息の如く囁いた。

『力の名・まどろみの誓い・果ては朽ちて・老いては廃れ――――』

 響きを伴う言葉は、宙に描かれた呪式を広げていく。

 蒼く光る、月の輝き。

『現す・澱みの静寂――』

 つ……と右手が引かれ、それを追って光が呪式から糸を曳く。

 その糸を男は両手で掴み、一気に引いた。

 

 刹那、男の周囲が顔を変えた。

 

 景色は鬱蒼と生い茂る森のままだが明るさが格段に違う。

 光源はどこから来ているのか、まるで木々自体が発光しているような淡い翠と蒼の光。

 辺りには淡い光の綿毛が飛び交う。

「あら? 人だわ!」

 甲高い悲鳴が綿毛の一つから上がった。

 よく目を凝らせば、薄翅を背にした子供の姿が綿毛の下にぶら下がっていた。

 するする男に近づく綿毛の後に、同じような綿毛がいくつも続く。

「本当だ! 人間だ!」

「珍しい……何か持ってないかしら?」

「私たちを捕まえに来たのかしら?」

「いっそ殺してしまおうか?」

 物騒な言葉を吐く者もあったが、綿毛は一様に好奇心に溢れている。

 纏わり付いてくる綿毛を払いもせず、

「こんにちは、静寂の妖精方。代表者に合わせては貰えませんか?」

「きゃあっ! 口を聞いたわ!」

「凄く綺麗なお声ね」

「有難うございます」

 優雅に一礼してみせると、綿毛――妖精たちから黄色い歓声。

 男は表面に笑みを携えたまま、内心困ってしまう。

 静寂の森の所以たる、人心を狂乱させる結界を通り抜けたとはいえ、ここは妖精たちの領域。

 邪険にして機嫌を損ねれば、高い確率で襲いかかってくるのは必定だ。

 妖精は好奇心が強い反面、自己防衛能力も外見に似合わずかなり強い。

 この数の綿毛を軽くいなすのは男にとって造作ないが、喧嘩の押し売りに来たわけではない。

 最悪の場合、結界の外へ弾き飛ばされ、折角見つけた入り口さえ巧妙に隠されてしまうだろう。

 まだ若い妖精の領域であったなら単純な暴力で片付けようとするだろうが、相手は古参の静寂の森。

 なるべく穏便に済ませたい。

 かといってこれでは彼の目的を達成する前に日が暮れてしまう。

 

 ……暮れたからといって、彼の歩を止める要因になりはしないのだが。

 

 さてどうしたものか、悩む間にも物珍しい人間に妖精たちが集ってくる。

 黙ったままの男の胸元まで、綿毛の光が群がった頃。

「お前たち! 何をやっているのだ!」

 凛とした女の声が妖精たちを一喝した。

 慌てて綿毛の妖精が男の側から散っていく。

 完全に綿毛たちが離れたのを見計らい、男の手の平ほどの大きさの妖精が眼前へ飛来した。

 薄翅を忙しなく動かし飛ぶ甲冑姿の妖精は、兜から覗く金髪を払いながら、

「全く……そしてお前! 何者だ?」

 手にした小さな槍を男に向かって構える。

 一喝したのと同じく張った声だが、やはり妖精、好奇心が少しばかり滲んでいた。

 一つ苦笑したなら、甲冑の妖精はさっと顔を赤らめ、厳しい表情を貼り付けた。

 これへ手の平をかざし、やんわり謝罪する。

「失礼、助かりました。私の名はアルト=パウム。吟遊詩人を営んでいる者です。あなた方の祖、シリン様にお目通り願いたく」

「シリン様に……? 人間如きが何用だ?」

 男――アルト=パウムの申し出に、甲冑の妖精はそれでも残っていた好奇心を一切消し、警戒心を強めた。

 向ける槍に風が渦となって集う。

 小さな体に似つかわしくない威力を持つその風に、アルト=パウムは少しも動じず、逆に冷ややかな声を投げた。

「末端の妖精が知るべきことではありません」

「なっ!?」

 無礼な男の言に、甲冑の妖精は有無を言わさぬ内に槍の風を開放する。

 逆巻き流れる風の渦がアルト=パウムに襲い掛かった。

 同時に、首飾りに宿る琥珀の煌き。

 防壁がアルト=パウムの周囲に展開、風を巻き取る。

「なんだと……!」

 甲冑の妖精が青褪めた。

 防がれただけでも驚くべきことだが、それを散らすことなく防壁に渦巻いたままの流れを持続させている。

「末端にしてはなかなか……さて、どうしましょうか? この荒ぶる力は」

 風の音に掻き消されず届く声に、甲冑の妖精は戦慄する。

 その様子を知っているかのように、木の葉や泥で霞む風の中、アルト=パウムは笑みを滲ませた。

「これを、開放するとどうなってしまいますかね? シリン様は無事でしょうが……」

 暗に目的を達成するためならば、手段は厭わないと伝える。

「くっ……少し待っていろ。今、お伺いを立ててくる」

「ええ、よろこんで」

 低く唸る甲冑の妖精に対し、アルト=パウムは笑んだまま礼を述べた。

 

 

 

 甲冑の妖精が去ったのを見届け、アルト=パウムは風を周囲に開放する。

 無論風の威力を殺した後で。

 元々、そのまま開放する気はなかった。

 脅したのは……ちょっとした鬱憤晴らしである。

 不躾な好奇心を寄せて進行を邪魔した綿毛と、あからさまな敵意を向けつつ不躾な興味の目を向ける甲冑に対する――。

 お陰で話は手早く済みそうだが。

 ……妖精の感覚で“少し”とはどのくらいでしたかね?

 追い込んでから気づいた疑問に溜息を吐いた。

 仕方なしに近くの手ごろな石に腰掛け、報せを大人しく待つ。

 時の経過を愉しむように、森を駆ける風をヴェールに感じながら、ふと顔を上げた。

「――っ!」

 息を呑む気配。そして――――逃げようとする気配。

 アルト=パウムはその気配に惹きつけられ、声音に優しさを乗せて呼び止める。

「お待ちください、実は私、暇を持て余しています。慈悲がありますれば話し相手になってはくださいませんか?」

 しばしの沈黙。のち、

「わ、私で良ければ……」

 ゆっくり警戒しながら降りて来たのは、四肢の先を碧に染めた妖精。

 薄い金糸の波打つ髪は縛られており、申し訳なさそうに伏せられた瞳は深い青。

 愛らしい少女の姿の背には、先ほどの妖精たちより更に薄く透ける翅。

 甲冑の妖精と同じ大きさの身に纏うは白の衣。

 怯えているのか一定の距離を保つ妖精へ、アルト=パウムは小首を傾げて笑んでみせた。

「アルト=パウムと申します。アルトとお呼びください。貴方のお名前は?」

「イシェル……です」

 イシェル、反芻するように口の中で呟き、

「良い名ですね。ところでイシェル? 私は貴方を攻撃する者ではありませんよ?」

 手の平をイシェルに向かい伸ばす。

 微笑むアルト=パウムの様子に警戒を解きながら、頑としてイシェルは首を振った。

「いえ、決してそういう訳じゃ……」

 言いよどむ小さな妖精にアルト=パウムは手を降ろし、

「ではそのままで……イシェルは詩は好きですか?」

「うた? あの、演奏に言葉が付けられた?」

 興味を引かれたのかイシェルは少し近づき、はっとしてまた元の場所に戻る。

 不可解なその行動に疑問を感じながらも、いいえと首を振る。

「詩は吟遊詩人特有のものでしてね。確かに演奏を行いますが、あれは節と情景付けのためだけにです。貴方の考える歌とは若干趣が違います」

「……よく、分からないわ」

「では手始めにこのような詩はいかがでしょう?」

 ポロン……

 アルト=パウムから静かな曲が奏でられる。

 弾く指に楽器などないのに、確かに彼から流れてくる旋律。

 それだけでイシェルは瞳を輝かせた。

 けれどアルト=パウムは反して疑念を抱く。

 これは…………どういうことでしょう?

 詩を紡ぎながら、妖精たちの気配が忽然と掻き消えているのをいぶかしむ。

 甲冑の妖精から風の魔法を奪った時でさえ、彼らの気配はそこかしこに感じられたのに。

 好奇心旺盛な彼らのこと、イシェルに聞かせるための詩だろうが、群がってくると踏んでいたが。

 適当にあしらう相手がいないのは嬉しいことだが、いなければいないで何となく不愉快な気分に陥る。

「どうしたの、アルト?」

 イシェルの声で我に返ったアルト=パウムは、随分近くまで彼女の姿があるのを知って息を呑み、手が止まっていたことに気づいては柄にもなく慌てた。

「あ……申し訳ありません、イシェル。私としたことが」

 仮にも詩で生計を立てる己が、些末な事柄で手を休めてしまうなど、あってはならないこと。

 人の倍以上ある自尊心に深く傷がついた。

 焦りと羞恥で逆恨みから妖精の領域ごと静寂の森を消失させたくなり、事実、実行しようと無言で魔力を練る。

 幾ら吟遊詩人といえど、一介の人間。

 常であればそんな大層な魔力は持ち得ないのだが、アルト=パウムは例外中の例外であり、その扱いさえ長けていた。

 だからこそ共もなく、一人で悠々自適に旅をして来られたのだが、長所があれば短所あり、他者のいない旅路の果てで彼の利は己を最優先とする。

 シリン様さえ口の聞ける状態であれば良いのです。

 ふふふ……と暗い微笑が、整った輪郭の薄い唇を飾った。

「アルト……大丈夫?」

 そこへ掛かる心配そうな声。

 碧の腕が触れるほどの距離でアルト=パウムの頬を捉えた。

「イシェル……」

 すっかり忘れていた、あれだけ近づこうとしなかった妖精の大胆な行動は、アルト=パウムの毒気を徐々に削いでいく。

 力に差はあれど隔てなく魔力を扱える妖精なら、彼が練り込む魔力の不穏を察し、逃げ惑うものなのに。

 そこで気づく、甲冑の妖精とのやり取りと、妖精本来の自己防衛能力の高さ。

 ゆえに、綿毛たちはアルト=パウムを恐れて、それこそ逃げたのだと。

「貴方は、逃げない……のですか?」

 言った後でかなり間抜けな質問だったと内で嘆けば、イシェルは優しく笑った。

「どうして? だってアルトは詩を聞かせてくれるって言ったじゃない? 離れたりしたら聞こえないわ」

 逃げるとは言わず、呑気にそんな事を言う。

 アルト=パウムの問いを受けて聞き返さない辺り、彼がしようとしていたことは察していただろうに。

 無意識に触れようとして手を伸ばせば、離れないと言ったくせにあっさり逃げるイシェル。

「…………」

 些か寂しさを覚えるが、先程と同じ位置で期待する視線を感じて、応えない訳にはいくまい。

 感情に流された暴挙の予定は、完全に除去されてしまったのだから。

 気を取り直し、旋律を奏でれば感嘆の吐息がイシェルから漏れた。

 それだけで先程までのギスギスした思いはどこへやら、アルト=パウムの口元に穏やかな微笑みが戻ってきた。

 

 

 

 

 

「待たせたな、人間……なんだ、その沈黙は」

 少し、そう言った甲冑の妖精が戻ってきたのは、詩が佳境に入る直前だった。

 突然イシェルが下手な言い訳をして去ってからすぐ、である。

「もしかして、怒っているのか? 仕方なかろう、人間と妖精では時間の感じ方が」

「そういうわけではありませんが」

 納得いかない。詩が気に障った様子はなかった。

 第一アルト=パウムは吟遊詩人である己の技量にそれなりの誇りを持っていたのだ。

 だというのに席を立たれた。

 剣呑な雰囲気のアルト=パウムに甲冑の妖精は少し怯えを含む。

「シリン様から許可が下りた。付いて来い」

「…………ありがとうございます」

 刺々しい低い礼がアルト=パウムの喉から垂れる。

 これに不安を浮べて先導する甲冑の妖精をヴェールに隠れた瞳で見つめ、否、睨みながら彼は後に続く。

 

 


UP 2007/11/25 かなぶん

修正 2008/7/2

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