いつでも人を呼べるくらいには、そこそこ綺麗な、女っぽい部屋。

　お腹も満たされて、程よい疲れもあって、鼻唄混じり「ただいま」とか言ったりして。

　けれど、返事はない。

　まあ、気ままな一人暮らし。

　本来は返事がなくて当然。

　それでも私、鈴野遙は首を傾げつつ、自室のスイッチを押す。

　奥にベッド、隣にタンス、左にはテレビ、右にはソファ、真中には丸いテーブル。

　いつも通りの変わらぬ部屋。

　どうしたのかしら……？

　不思議に思いつつも、風呂に入ってさっぱり。

　冷蔵庫からビールを引っ張り出して、コップに注ぐ。

　泡を啜って悦に入り、テレビなんぞを点けては、世の情勢をなんともなしに見て――

『吸わないくせに…………煙草臭い……』

　やけに暗い声が、突き刺す“視線”と共にもたらされた。

男女

『遅い帰り……夕飯も食べない……なんだか楽しそう…………』

　私以外、誰もいない部屋に木霊する、暗く低い声。

　幻聴ではなく、怪奇の類でもない、部屋だと自身を称する声の主は、“視線”を私の眼に向けてきた。

　珍しい感覚に、瞬きが出来ない。

「…………何？」

　素っ気なく尋ねれば、“視線”が怯む感覚。

　のち――

『男か？』

「はあ？」

『男と一緒にいたのか、今の今まで！』

「何でそうなるのかしら？」

　心底呆れ、頭痛を感じては額に手を当てる。

　探るような“視線”に晒されては、溜息一つついて、ビールに口をつけた。

　容赦ない炭酸と冷えた喉越しに、「くはっ……！」と息がもれる。

　この一杯のために――というほどではないが、それなりに良いお味。

「あー……堅苦しい料理よか、やっぱりこっちよねぇ」

『な……！　や、やはり男と一緒だったんだな！？』

　なんで貴方がそんな悲壮な声を上げるのよ。

　理解できずに眉を寄せ、

「あのさ、別にいいじゃん、なんだって。こうして帰って来てあげたんだから」

　説明を面倒臭がって肩を竦めると、妙に恨めしげな“視線”が、床に投じられ――ている気がする。

　これも、珍しい。

　声の主は意識を持った時に、ここに住んでいた者から拒絶され、やたらと深い傷を心に負っているらしく、質感を伴う“視線”を私に投じては、拒絶の不安を解消しているのに。

　……そんな行為を許せている時点で、やっぱり私は病んでるなぁ。

　酒臭い溜息が漏れる。

　誰にも、この声の主にだって伝えてないが、私はこの部屋に惹かれている、どうしようもなく。

　けれど人間を捨てた訳じゃない。

　いつかはここを出て、ごくごく普通の新しい部屋で暮らすのが――――

『か、帰ってくる予定じゃなかったのか？　やはり男か？　私を捨てて、男と共に別の部屋で暮らすつもりだったのか！？』

「ひ、人聞きの悪いことを……」

　言いつつもちょっと目を他方へ向けた。

　心でも読まれたようなタイミングにドキドキしていれば、腕を突き刺す“視線”。

　ちょっと痛い。

『何故目を逸らす？　何故、何故、何故――』

「さあね、なんでかしらね……って、痛いから放して！」

　払えば離れる“視線”。

　全く……

　口の中で文句を留めてビールを一口、今度は頬に触れてくる“視線”。

『私を拒絶するのか？　お前には私がいるのに、男と暮らすのか、別の部屋で』

　これは……どっちなんだろう？

　男と暮らすことに関して拗ねているのか、別の部屋で暮らすことに関して拗ねているのか。

　しかし、邪魔だ。

　ビールを煽りたい身としては、頬を縋るように撫でる“視線”が鬱陶しくて仕方ない。

　手で頬を、ゴミを払う要領で払えば、声が一層悲痛な声を上げた。

『私がいるのに、他に行ってしまうのか？　男と楽しくお話して、別の部屋でゆったりくつろぐのか？』

「……両方かよ」

　ぼそりと低く吐いた台詞はコップの中でくぐもる。

　なおも言い募り縋るのを適当にあしらっていれば、玄関の扉が勝手に開いた。

　あ。そういや、鍵掛けるの忘れてた。

　開いた扉を前に、私が呑気に構えていられるのは、偏にこの部屋が意識を持つためだ。

　ヘタな勘繰りをする“視線”の主は、貧相な声を上げる割に、威圧感とでもいうのだろうか、そういう力を相手に向けることが出来た。

　大抵の人間はこれを受けると、恐れをなして逃げていく。

　過去、私の留守中に来たという泥棒がそうだった。

　まあ、普通の反応といえる。

　では、そんな部屋に暮らしていられる私はというと――

　いけないいけない。

　幾ら部屋に力が備わっていようと、呑気な構えだろうと、扉を開けた相手に今は集中すべきだ。

　……別に、自分が病んでいることを再確認するのが嫌だから、話を逸らそうとしているわけじゃない。

　断じてない！　から、そこのところ、勘違いしないよーに！

　って、誰に向けて言ってんだか……。

　兎も角、部屋の存在に慣れて、すっかり鍵を掛け忘れた、表向き一人暮らしの自分へは、あとで説教するとして。

　ノックもなしに扉を開けたのは、べれんべれんに酔っ払った女。

　しかも、何か言う前に、入ってすぐの段差に蹴躓いて、盛大に倒れやがった。

「うおおおおお……床がちべたいぃ……」

「…………由美？」

　何事かと近付いた私を酔っ払い、もとい、同僚の佐々木由美が恨めしげに睨んだ。

「酷いよぉ、遙ちゃーん。アタシを置いて、とっとと帰っちゃうんだものぉ」

　これに私は少々ムッとした。

　勝手に入って来た女に、酷いと言われる筋合いはないのだ。

　第一、言われるべきは私ではなく。

「いや、どっちかといえば、あんたの方が酷いでしょ。ご飯奢るって言ったくせに、男同伴とは聞いてなかった訳だし」

『ご飯？　この女と一緒だったのか？』

　肩に注がれる“視線”には返さず、

「で？　どうなったのよ、結局」

「それがねぇ、アイツ、遙ちゃん帰ってから送ってくって、いきなり襲ってきてぇ」

「げ」

「だから、二度と立ち直れなくなるまでボッコボコにシメてやったのぉ。そしたらねぇ、妙な感じで目覚めちゃってさぁ……アタシャ普通の男が良いんだってぇのぉ……」

　私より小柄な由美だが、彼女の強さはそこらの男相手じゃ通用しないほどだ。

　そのせいで「まともな男」と付き合った経験がないという彼女。

　これにより私は今日、夕飯の同席を謀られたわけだが、

「ううううう……顔は好みだったのにぃ」

　いや、そもそも初デートまでこぎつけたくせに、第三者を呼んじゃ駄目だろう。

　終始仲人か何かの気分に浸っていた、こっちの苦労も察して欲しい。

『……男ではなく、この女と食事……？』

　声は声で、何かをいぶかしむ様子。

　一向に動かない由美に溜息をつきつつ、

「んで、あんたは何で、酔っ払ってんのよ？」

「憂さ晴らしに呑んでたら、終電行っちゃって、タクシー拾おうと思ったら、財布店に忘れてきちゃってて…………マスターがお友達だから、盗られる心配はないんだけどぉ」

　ここでがしっと足首を掴まれた。

　少し引けば、ふふふ……と笑いがもれる。

「でねぇ？　お家遠いしぃ、遙ちゃん家に泊めて貰えないかなぁって」

『嫌だ』

　低く呻く素早い応答が為される。

　と、同時に後ろから抱き締める“視線”。

『お前がいると、はるかが私とお話してくれない。帰れ！』

　おいおい、それはあんまりじゃない？

　酔っ払いを公共の場に放つなんて。しかも有段者。

　世間様に迷惑をかける訳にはいかない、一社会人としては。

「いいじゃない、コイツ眠る勢いだし」

「いいえ！　アタシはまだ寝ませんとも！　まだまだ呑むんですよっとぉ！？」

　突然起き上がっては、靴を脱いで上がって躓き転び、苦痛に呻く。

「あうあうあうあ……い、痛いよぉ、お母さぁん！」

　言って由美が手を伸ばした先には、同い年の私。

　酔っ払いって奴は……と私は軽く頭を抱えた。

「誰があんたの母親よ……大人しくもう寝なさい。追い出しはしないから」

『嫌だ！　駄目だ！　コイツがいると碌なことにならない！』

「あら酷いぃー……アタシが何したっていうのよぉ？」

　完全に管を巻く女は、床にすりすり頬ずっては、楽しそうに笑っている。

　呆れて眺めていれば、床を這い出し、冷蔵庫に向かおうとするので、腰を踏んづけた。

「ぐへっ……ご、後生だから」

「駄目よ。人の冷蔵庫から勝手に酒掻っ攫おうなんて」

『ほら見ろ、碌なことにならないじゃないか』

　腕に絡み付いてくる“視線”を払いつつ、這う由美の足を引っ張る。

　部屋中央の絨毯以外はフローリングの床。

　擦れる、熱い、痛い、と喚く由美と格闘し、ようやく静まったのをソファに乗っけて、大き目の布を数枚、掛けてやる。

　腰を叩きつつ、

「やれやれ……この調子じゃ、またありそうね。布団、もう一組買っとくべきかしら」

『いらない！』

　やけに大きな声。

　もう時計は零時を過ぎているのだからと注意しかければ、

『何故、この女のために……はるかとお話する時間が、コイツがいると、少なくなるのに』

　ぶちぶち文句を言いながら、“視線”が絡んできた。

　払う気力も起きず、ぐーすか眠るソファを背に座り、残っているビールに口をつけた。

　騒動のせいで喉越しは格段に落ちていた。

「不味っ……そろそろ寝るかな」

　一気に飲み込んではコップを置きに台所へ。

『……寝てしまうのか？』

　髪を撫でる“視線”を感じながら、水を飲もうと蛇口を捻る。

　……出ない。

「ちょっと」

『もう少し起きてればいいじゃないか。明日はお休みだろ？』

　嬉々として甘える声と“視線”に、深く溜息を吐いた。

「あのね、疲れてるの。明日でも良いじゃない」

『……あの女の頼みは聞くのに？　私の頼みは聞いてくれないのか？』

　いじけた声で髪先を弄る“視線”だが、水は出してくれた。

　これを呑んで一息ついてから、

「……男と食事じゃないなら良いんじゃないの？」

　眉を顰め、点けっぱなしのテレビと灯りを消して、ベッドに座る。

　欠伸一つ、布団に入ると一段と拗ねた口調が降りて来た。

『ずっと待っていたんだ、今日も。はるかが帰ってくるのを。なのに幾ら待っても帰ってこない……お前と過ごす時間を減らす奴は、全員嫌いだ』

　……恥ずかしいことを言う。

　身じろげば“視線”が撫でる。

『男は私からお前を奪ってしまうから、他の部屋に連れてってしまうから……あの女は、自分ばかりお前とお話するから、私の元へお前を帰さないから――――』

　延々と続く嫌いな理由。

　好ましい声音が紡ぐ囁きは、寝に向かおうとしていた意識を遠ざけてしまう。

　仕方なしに起き上がり、

「…………分かったわよ、付き合ってやるわよ」

『寝るのではなかったのか？』

　心底不思議そうな声に、私は盛大な溜息を吐いた。