自分の人生を賭けた勝負が始まってからの一週間、少女・綾音泉の生活環境は大きく変わっていく。
賭け事に頷いてすぐ、ワーズと名乗った男の邸に身を置く事が決まり、時間の経過と共に冷静さを取り戻した頭が状況の危うさに怯えれば、何事もなく迎えた翌朝、中学卒業後は近所にある高校へ通うよう命じられた。 中学を出てすぐ働くしかないと思っていた泉は、内心で進学を喜びつつも、表では訝しむ表情を崩さず、食事の手を休めてワーズへ問う。 「見返りは……何ですか?」 自分の身一つしかない少女が出せるモノなど決まっている。 勿論、泉にもそれは分かっていた。 分かっていて、聞いたのだ。 流されて事が進むよりも、言われた方がまだマシだと、震えそうになる声を律しながら。 だがしかし、対するワーズは豪邸に似合わない行儀の悪い食事を続けつつ、不思議そうな顔をして首を傾げた。 「見返り? 君がボクに出来る事なんかあったっけ?」 「…………」 とどのつまり、高校へ通わせるのは彼の都合であり、泉が不利になるような交換条件は何もない、という事だろう。 たぶん、きっと、それは喜ぶべき事のはずで。 けれど泉は言い知れぬ敗北感を味わった。 この男にとって自分は真実、何の価値もないのだと思い知らされて。 ではどうすれば価値を感じさせる事が出来るのか、早速悩もうとした矢先。 「ああでも、勘違いはしないで? 確かに高校へは通わせるけど推薦じゃないから」 「……へ?」 「君は君の実力で、ボクが選んだ高校に受験し合格するんだ。落ちたらペナルティーとして賭けは即終了ってことで」 「は!? ちょ、話が違うじゃありませんか!」 高校に通えるという話だけを鵜呑みにし、受験をすっかり忘れていた泉はそんな己を恥じながらも、いきなり付け加えられた罰則話に思わず席を立った。 ワーズは面白くなさそうなへらり顔でその様子を見やると、終えた食事の後に出てきた紅茶を優雅に、意地汚く啜って一つ息をつき。 「言っただろう、君に拒否権はないって。それに話が違うって、どこが? 言っとくけどあの高校は今の君のレベルで充分合格ラインなんだよ? だというのに環境が変わった程度で不合格になるんなら、この先どう足掻いたって君に価値が生まれるとボクは思えないし、思わない。……忘れちゃいけないよ、綾音泉。こうして同じ席で飯を喰おうとも、ボクが生きているのは君ほど温い環境じゃない。身にならない感傷に引き摺られて一度でも目的を見失ってご覧? 隙を見せたが最期。そんな世界に片足突っ込んだって事、もう少し自覚した方がいいよ?」 相変わらず何の感情も見せない瞳で泉を一瞥したワーズは、自身の食事を終えると彼女を残して食堂を出て行く。 泉一人増えたところで何一つ生活スタイルは変わらない、変わるはずがない。 そう、言わんばかりに。 「…………………………………………………………………………………………………………美味しくない」 無関心が漂う食堂で、残りの食事を平らげた泉はぽつりと零し、控えていた使用人たちが黙々と後片付けをする姿を横目に、あてがわれた部屋へ戻っていった。 ベッドに伏せば、顔を埋めた枕にじわりと涙を滲ませて。 「絶対っ、認めさせてやる……!」 憎悪混じりの誓いを口にした。
この後、泉は無事、高校入学を自力で果たす。 けれどもその実力は、もう二つ分上の高校に入れると担任から勧められるほどで。 なればこそ泉は思うのだ。 無価値だと勝手に決められた自分の価値を覆してやる、と。
そして迎えた高校の入学式――から帰ってすぐ。 「あの……私には価値がないはず、ですよね?」 泉は価値を覆すどころか自らを貶めるような言を携え、手渡された着替えをじーっと見つめた。 白いフリル付のエプロンにカチューシャ、ミニじゃないだけマシな、やけにヒラヒラした紺色のワンピース。 セットで身につけたなら、紛う事なきメイド姿が出来上がる。 着用を躊躇させる可愛らしさに青褪めた泉へ、へらへら笑いっぱなしのワーズは首を傾げて鼻でも笑った。 「ああ、勿論だとも。ボクは君に価値があるなんて思っていない。あ、そうそう。これもちゃんと着けてね」 「げっ」 応接室の窓を背にした机の陰からひょいと現れたのは、バラがあしらわれた純白の下着。 それもご丁寧に上下共々専用のハンガーに掛けられており、見た目が酷くいやらしい。 しかもテレビショッピングの特典宜しく、太腿までのストッキングとガーターベルトを用意された日には…… 「分かっていると思うけど、君に拒否権はないよ?」 「うっ」 黒いマニキュアの白い指が、愛でるようにストッキングを撫で付けた。 断固拒否の言葉を拒否された泉は、これ以上見ていられないとワーズからストッキングを奪い、用意された服ごと腕に抱え込んだ。 ワーズは肩を竦めて椅子に腰掛けたままにたりと嗤う。 「まあいいじゃない。これで君に価値が付けば一挙両得。ささやかな親切心って事で」 「し、親切って!? このメイド服が!?」 「おや? メイド服にご不満があるのかい? じゃあコレなんかどうかな?」 ワーズが机の陰に腕を落とせば、引き上げる度、次々出てくるコスチュームの数々。 時代劇の茶屋の娘が着ていそうな和服、チアガール衣装、巫女服、モフモフした黒いシャツとミニスカート+犬耳・尻尾・肉球セット+鈴つきの首輪。 大きめサイズのパジャマ(上着のみ)、明らかに男性用のスーツ、バニーガール、ディーラー、スクール水着、ブルマ、果ては拘束具のような革製品まで。 ついでに対応する下着も続々と本来書類を置くはずの机の上を占拠したなら、迎えるように両手を広げてワーズが満足げに笑った。 「これだけ出せば充分かな」 「じゅ、充分?……というか何か、モノによっては下着の数が合わないような」 「ん? そんな事ないよ? これとか直で着るものだし。ああ、そうそうこういうのもあったな」 これ、とワーズが示したのは拘束具然のあの代物。 絶句する泉。 けれども更に加えられた「こういうの」を見ては、喉がひぐっと変な風に鳴いた。 泉には価値がないと断言するワーズが、取り出だしたるソレは――
さておき。
メイド服を「喜んで着させて頂きます!」と涙目の笑顔で自室へ持って行った泉は、普段の着替えでも出来ないスピードで下着共々服を着替えると、再びワーズのいる応接室へ向かった。 扉前に辿り着いてもすぐには入らず、二階にある自室から一階にある応接室への往復で上がった息を整え、次いで軽く身なりも整え。 「変、じゃないかしら?……って何言っているの、私。変に決まっているでしょ、こんなの」 ヒラヒラ心許ないスカートの端をエプロンごと引っ張り、少しだけ頬を染めた泉は目を閉じて溜息を一つ。 「大体、着ろとは言われたけど、着たら見せに来いなんて言われてもいないのに……どうして来ちゃったのかしら?」 自分の行動に疑問は尽きないが、今更引き返すのも駄目だと思い直す。 ここに至るまでの短い道程で擦れ違った使用人の数は一人か二人、しかして己の職務に忠実な彼らが泉の挙動不審な行動をワーズに報告しないわけがない。 どっちに転んでも滑稽でしょ。それならここは腹を決めて。 ノックを二回。 「失礼します」 声をかければ。 「どうぞ」 泉の苦悩も知らない、呑気で不鮮明な声が入室を許可した。 ノブに手を掛け深呼吸。 いざ、と扉を開けて入った泉。 対して向かえたワーズの反応は。 「ああ、着たんだ。うん、よく似合っているよ」 「え……」 心なし、いつもより嬉しそうに見える微笑。 思わぬ感想を得て虚を衝かれた泉を余所に、手にしていた書類を机に置いたワーズは、ここへ来いとばかりに彼女へ手を差し伸べた。 これへ反抗する意思も取り戻せずに近づいたなら、机を挟んだ手前で止まるところを更に横へスライドした手が誘導する。 椅子に座る彼の傍へ来るように。 示されるまま、机を横にしたワーズの真正面まで来たなら、尚も伸べられた状態の手に逡巡。 恐る恐る泉が己の手を乗せれば、ひんやりとした手に軽く握り締められる。 意味なく逸る鼓動を感じて泉は戸惑い、おもむろにワーズの空いている手が下がっても緊張は保たれ続け。 しかし。 「ああ、下着もちゃんと着けてきたんだね」 「んがっ!?」 いきなりスカートをぺらっと軽く捲り、露わになった太腿のストッキングのバラの刺繍をまじまじと覗き込むワーズ。 瞬間的に真っ赤に染まった泉は、ワーズの手から自分の手を奪い取り、半ば広がるスカートを両手で勢い良く上から押さえつけた。 と同時に一歩距離を置き、指を差して激昂を言葉にしようとするのだが、どれだけ指を上下に振っても、あまりのショックで声が喉を通ってくれない。 しばらくそんな泉の様子を愉しむように眺めていたワーズは、悪びれもせず机に肘をついては足を組み。 「サイズもピッタリ。これと言って際立つスタイルじゃないけど、太過ぎず細過ぎず、なかなか美味しそうな身体だねぇ。バストもアレで良いならそこそこ楽しめそう」 「……呑み屋の酔っ払いですか、あなたは」 「おや酷い。これでもかなり褒めているつもりなんだけど」 「褒め方がどれもいやらしい上に生々しいんです!!」 置いたはずの距離をなくし、一歩詰め寄り牙を剥く泉。 これを変わらぬ笑いで迎えたワーズは、小首を傾げて眉を寄せ。 「それはそうと君、呑み屋なんか行った事あんの? 駄目だよー、未成年が」 「ただの例えです! 大体、その未成年にこんな格好強要した挙句、スカート捲ったのは誰ですか!」 「ん? ボクだけど」 「ぐっ、このっ、よくも抜け抜けとっ!」 あくまでのほほんとした態度を崩さないワーズに対し、上手く怒鳴る事も出来ずに吐き捨てる泉。 けれどもそこではたと気づいては、熱された頭を冷やして今一度向き直り。 「でも、この格好でそんな感想って事は、もしかして私の価値――」 「あ、それとこれとは別だから。ボクも男だからねぇ。近くにテキトーな女がいたら目の保養したくなるでしょ?」 「て、テキトー……」 一つ屋根の下、女として見られる身の危険よりも、テキトーという言葉に傷つきよろめく泉。 「にしても、一挙両得ならずだったねぇ? ボクだけ得しちゃって悪いなー」 「い、一挙両得ってそういう……と、得があっても私には価値ナシ?」 「うん」 簡単に頷かれ、打ちひしがれた泉は顔を覆って泣きたい気分を味わった。 「こ、こんな格好までしたのに」 「そだねー、残念だねー」 「こ、ここまで来るのに、恥ずかしい思いだってして」 「ふーん? 恥ずかしかったのかい、それ?」 「当たり前です! こういう服装って好きな人が着る物であって」 「じゃあ普段着、別のにするかい?」 「そういう問題じゃ………………………………………………………………………………普段着?」 勢い良く上げた顔が、遅れて訪れた理解に固まった。 そんな泉にワーズはきょとんとした表情を浮かべ、怪訝そうに眉根を寄せる。 「目の保養って言ったよね、ボク。一時だけな訳ないでしょ? 勿論毎日同じ服じゃないけど、毎日似たような服で過ごして貰うから」 「なっ、聞いてません!」 「当たり前でしょ? 言ってないもん」 「だ、だってさっき、言ったよねって」 「だからそれは、目の保養って言ったってだけ。一時じゃないっていうのは君が察して然るべき事柄なんだよ」 「そんな……そんなのって!」 「アリ、なんだよ」 「きゃっ!?」 酷いと叫ぶつもりで顔を付き合わせたなら、酷く疲れた気配を滲ませ、ワーズの手が泉の腕を乱暴に引き寄せた。 そのまま椅子に座る彼へ覆い被さるように抱きついてしまえば、後方に突き出た尻が腕を離した手に撫でられる。 「! やっ!?」 驚いて起き上がろうとすれば、逃げを許さない手が泉の腰を下に引き、組むのを止めていたワーズの膝を腿で挟むように座らせ、弾みで前倒しになった頭が黒い胸に落ちていく。 すぐさま退くべく動くものの、上げた視線の先には面白くなさそうなワーズの顔があり。 この人って……こんな綺麗な顔をしていたの? 思わぬためにならない収穫を得て惚けると、その隙を縫って顎に指が添えられ、唇にふわり、何かが触れた。 二度三度同じ事が起こり、ちろりと濡れた感触が唇の間から歯に当たり帰るまでを認識出来たなら。 「キ、ス……?」 「うん。その反応からして初めてかな?」 「っ!」 追いついた感情のまま、ワーズを突き飛ばして立ち上がり、口を押さえては背を向ける。 「酷い……」 ぽつりと呟けば、拍子で涙が一粒、眦から零れ落ちた。 しかして背にした男はクツクツ笑う。 涙目で振り向き睨みつけても、その笑みは変わらず。 「酷いも何も、君はそういう存在なんだよ。価値がないから買ったボクに弄ばれる存在。悔しかったら早く価値を見つけておいでよ。こんな風にボクと話す時間なんて、君にとっては無駄以外の何者でもないんだからさ」 「…………」 勝手に口付けられた事、それ自体の怒りは未だ、ワーズを睨みつける泉の中に宿っている。 けれど。 何かしら? 今の言い方……妙に引っ掛かるわ。 価値を見つけろというのは、ワーズにとってゲーム感覚、不審がる必要は全くないのだが。 感情任せで熱せられた頭とは別の、冷静な思考が覚えた違和感に耽る―― 直前。 軽いノック音が扉向こうから聞こえて来た。 「シウォン・フーリ様が御越しに為られました」 「そ。入って貰って」 「はい」 使用人なのだろう、抑揚のない男の声にワーズが同じ声音で応じる。 次いで扉向こう、恭しく入室を促す言が聞こえたなら、泉ははっと我に返り、己の姿を顧みた。 無関係の客とはいえ、傍若無人なワーズの前で礼儀を重んじる気はしないものの、こんな格好を邸の者以外に見られたくはない。 焦った泉は先程の怒りを一旦脇に置くと、どこか良い場所はないかと視線を巡らせ。 ――最中。 急に涼しくなる後ろ。 正確に表すならば腰から下にかけて、今まであったはずのスカートの感触が消えていた。 突然の出来事に固まったなら、背後の男が「うーん」と唸った。 「ああやっぱり。さっき見た時なんか変だなって思ったけど、ショーツの後にガーターベルト着けたんだ。見る分には良くても実用的じゃないんだよ、コレ」 「〜〜〜〜っっ! い、言いたい事はそれだけですか!?」 爆発寸前の怒りに、後ろから大きく捲くられたスカートも直せず、わなわな震える泉。 しかしワーズは察する事なく続け様。 「んー。折角だから、ボクが直してあげるよ」 「ひぁっ!? や、どこ触って!」 「太腿。直してあげるって言ったでしょ?」 「やあっ! や、止めてくださいっ! そんなのっ、後で自分でやりますから!!」 「何言ってるの。ボクの発案に対して君が拒否出来る事なんて何もないんだよ? 大丈夫、悪いようにはしないから」 「今もって充分あくどいです――ぅって、やぁっ! スカートの中に入って来ないで! 腰掴まないで!」 「じゃあ動かないでよ」 いつの間にやら椅子から下りたワーズが、紺色のスカートに歪な膨らみをつける。 泉が引き剥がそうと力を入れても、接する部分が後ろから前に変わっただけで離れようとしない。 「両手使えた方が何かと便利でしょ。でも暗いかな? 悪いけど君、スカートたくし上げてくれない?」 「悪いって、最初っから悪いんですってばっ! んっ、にゃあっ!? や、あっ、もう、許してお願――い……」 相変わらずもぞもぞ動くスカートの頭に両手を置いた泉。 叫ぶために顔を上げたなら、机越しに見知らぬ男の姿を目撃。 唖然とした表情を受け、赤らんだ顔が音を立てて固まり。 「おや?――って、やあシウォン・フーリ。どうしたんだい、間抜け面して」 泉が動けない事を訝しみスカートから顔だけを出したワーズは、何も言えないでいる男を視界に納めて、にへらと笑いかけた。 |
UP 2010/5/11 かなぶん
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