季節は巡り、夏。

 かといって窓の半分を庭の木が埋める応接室は空調の効きもあって涼しく、ともすれば骨まで冷えてしまいそうなほどであった。

 そんな部屋に在ってワーズとの賭けを未だ続行中の泉は、現在、そんな彼の膝の上に腰掛けさせられていた。

 しかも窓を背にした状態で机越し、艶めく青黒い髪と鮮やかな緑の瞳の持ち主の苛立ちを目の当たりにしながら。

「……おい」

 不機嫌極まりない声が相手から発せられれば、受け取るべきは自分ではないのに身体がビクッと跳ねてしまう。

 あの春の日以来、ワーズの前での室内着として着用を義務付けられたメイド服のカチューシャが震えれば、背後から腹に回された腕が宥めるように軽く締まる。

 まるで自分に身を委ねろと言わんばかりの動きに、緊張から抗う事も出来ず後ろへ体重を傾けたなら、座った事で近くなった唇が耳の上を擽った。

 これにもビクンッと反応を示した泉は、前後の動きを捉える事を放棄し、俯き加減に目を閉じてしまう。

 視覚を諦めたところで何も変わらない――それどころか他の感覚が研ぎ澄まされて行く事を知りながらも。

「ワーズ、てめぇ……いい加減、俺が来る度イチャつくな! 見る度ムカムカする!」

「んー? 別にイチャついてなんかないけど。ムカムカするなんて大変だねー? 医者に診てもらえば? でもって、もう二度と来ないで? ああ、見る度ってんなら目玉抉るのもありかもね」

「くっ、このっ……って、お前も一々ビクついてんじゃねぇよ!!」

「ひっ!? と、とばっちり……」

 目を惹く美貌に凄みのある声を上乗せさせた黒いスーツ姿から、指を差された泉。

 眦に若干涙を浮かべ、逃れるように上半身をずらして背後に縋ったなら、向かいから響く盛大な舌打ちが耳朶を震わせた。

 シウォン・フーリという名のこの男は、泉がメイド服を強制されたその日に、ワーズの下へやって来た人物である。

 詳細は不明だがシウォンはワーズと古くからの知り合いであり、来る度怒鳴り散らしている事から、仲が良いとはお世辞にも言えない関係だろう。

 それでも彼が度々ワーズの元を訪れるのは、金貸しという職業柄、必要事項らしい。

 何を隠そう、泉の両親が作った借金も元々はシウォンのところのもので、初めて会った時にワーズが言った通り、この借金ごと泉は彼に買い取られたのだそうな。

 価値がないと散々言って置きながら、可笑しな話ではあるが。

 ともあれ、無価値宣言されているにも関わらず、シウォンが来る度緩衝材代わりにワーズの膝上で抱かれる泉にとって、彼の考えなぞ考えるだけ無駄。

 それよりも今はこの状況を打破する方法を考えるのが先決である。

 後ろ暗い人間にもポンッと大枚を貸し与える金貸しだけあって、シウォンの纏う空気はその辺の不良どもが束になっても無意味なほど、血生臭いものがあった。

 今までに幾人葬ってきたと冗談混じりに言われても、全て真実に違いないと思ってしまうだろう。

 現状、借金塗れでも普通の高校生として毎日登校している泉からしてみれば、シウォンは尤も縁遠くありたい世界の住人だった。

 けれども実際は、縁遠くどころか眼前にいる真っ最中。

 まずはここから抜け出すのが先決……なんだけどっ。

 再び開始された男二人の睨み合いを余所に、腹に回されたワーズの腕を外そうともがいてみる。

 ――が、しかし。

「あーらら? 駄目だよー、こんな男の言う事聞いちゃ」

「ひゃはっ!?」

 ぐるりと巻きついた片手が腰を撫で、跳ねれば耳たぶが甘く食まれる。

 ただでさえ恥ずかしいところを人の眼がある中でやるなんて――と抗議する口は、最初の数回で何の意味もないと証明されているのでどこにも見当たらない。

 それでも耳を払って睨みつけるよう振り向けば、すかさず重ねられる唇。

「だあっ!?」

 間の抜けた声は絶えず恐ろしい気配を放ち続けているシウォンから。

 今まで散々、それはもう本当に散々、ワーズのセクハラ染みた行いを彼の前でされてきた泉だが、キスはあの春の日以来の出来事。

 羞恥よりも先に立つ驚きから身を引こうとすれば、いつの間にか離れていたワーズの手が後頭部を捕らえてこれを許さず。

 バランスを崩さぬよう両手が黒い胸を掴んだなら、知らず知らず椅子の左横にずらされた足首へ、ひんやりとした手の平が押し当てられた。

 スカートの布を掻い潜り、腿まで到達した左手は愛でるようにストッキングから移り変わる地肌を撫でていく。

 しかして深まるキスを強要されている泉に出来る反応は在らず、それどころか寄せては返す波のようなワーズの舌遣いに、段々と意識が朦朧としてきた。

 最終的にまるで自分からせがんでいる気分に陥ったなら、ゆっくり話されて後の口付けを、手が離れた頭を寄せて自ら受け入れる。

 と。

「おいコラ小娘。てめぇ、俺が居るって事、忘れてねぇか?」

「ふごっ!?」

 一秒前の甘い空気はどこへやら、ワーズとは異なる手にがっしり後頭部を掴まれた泉。

 そのままべりっと剥がされ、無理矢理後ろを向かされた目に映るのは、机に片膝を乗っけた状態で身を乗り出し、盛大に陰惨に笑いかけてくる美丈夫の姿。

 ひくりと鳴る喉の先、どうにかこうにか引っ張り出した答えは。

「す、すっかり忘れていました……」

「ほお? イイ度胸だ」

 鋭く細められる至近の緑。

 ワーズにより紅潮していた頬が色を失くしていく――直前。

「!」

 ふいに唇に押し当てられたのは、ひんやりとしたワーズのソレとは違う、もっと熱い何か。

 ――シウォンの唇。

 理解が及んだ頭は、即座に命令を下す。

 手を離し、そのまま振り抜け、と。

 

 かくして振り抜いた左手は、シウォンの右頬の下を強く打ちつけた。

 

「くっ、この餓鬼!」

 これにより仰け反り離れたシウォンは、条件反射とでも言うべきか、泉の髪を無造作に引っ張り首を逸らさせると、逆の手の甲を用いて無造作にコレを張った。

「……っ」

 反動で掴まれた髪の毛が数本抜ける音が肌に響き、続いて投げ出されるように頭がワーズの方へと乱暴に押し返された。

 混乱と悔しさと痛みの中、それでも咄嗟に、相手がワーズであっても負担になりたくないと除けようとすれば、始終を見ていた腕は泉の頭を柔らかく抱く。

 いつもの傍若無人な態度が欠片も感じられないその仕草に、腕の中で泉が軽く目を見開いたなら、頭上ではいつも通りのワーズがにへらと笑って言った。

「虎狼のシウォン・フーリともあろうお方が、キスの一つに動揺したばかりか“この餓鬼”相手に強要した挙句、拒絶された上に平手を見舞うなんてねぇ? あ、それともボクとの間接キスでも狙ったのかい? わー、キモッ」

 あからさまに「おえっ」と声を上げるワーズ。

「んな訳あるかっ! クソッ……」

 即座に否定を下したシウォンは、苛立った足音を響かせて応接室の扉へと向かっていく。

「んー? ボクに用事があったんじゃなかったのかい?」

 その背中へだろう、飄々としたていでワーズが問い掛けたなら、返事の変わりに扉を力一杯閉める音が続いた。

 しばし扉越し、怒れるシウォンの動きが伝わり。

「やれやれ。何がそんなに気に喰わないんだか」

 呆れ返った口振りで呟くワーズの声に、泉の身体が意味なく震える。

 これを知ってか腕を離したワーズは、泉の顔を上げさせると片眉を上げてみせた。

「おや、これはこれは――」

「ぃやっ!」

 口付けるように降りてきた顔を知り、痛みの恐怖から泉の手が再度勝手に振り払われる。

 シウォンを打った時以上に乾いた音が鳴り響けば、続く更なる痛みを予想して泉の身体が縮こまり、こげ茶の瞳がぎゅっときつく閉じられた。

 けれども幾ら待っても平手の応酬は在らず。

 変わりに軽々と縮まったままの身体が浮いたなら、降ろされたのは本来客と応対するはずのソファ。

 恐る恐る顔を上げれば、自らも左頬を赤くしたワーズがシウォンに打たれた泉の頬へとゆっくり手を添わせた。

「腫れているね。血も端にちょこっと」

 言って茫然とする泉に近づく、病的とは違う白い面。

 払わずにいたなら指先が唇の端を軽く擦り、染みる痛みで口の中が切れている事に気づいた。

 併せてぼとり、忘れ去られていた涙が頬を伝って落ちたなら、打たれた場所を気遣うように包んだ手の平がその後を優しく拭っていく。

「待っててね。今、冷やすものを持ってきてあげるから」

 幼子に言い聞かせるよう紡がれる不鮮明な旋律が、泉の中に染み渡っていった。

 立ち上がり離れていこうとする服に気づき、その裾を掴めばへらへらした赤い笑みが首を傾げる。

 心配いらないとでも言うように。

 途端、これまでどう接してきた相手だったか思い出されるが、今だけはという思いから構わず告げた。

「御免なさい。打ったりなんかして」

「…………」

 泉の謝罪に対し、ワーズは何も答えなかった。

 代替の行動さえ何もなかった。

 それでも。

 

 この日を契機に泉の中で何かが変わっていく。

 

 

 泉自身は平凡な高校生であるとはいえ、住んでいる場所は一般家庭にはない豪邸。

 住んでいても他人の家、無闇に同級生を近づけるような真似はしないものの、人の眼というのはどこにでもあるもの。

 ゆえに泉の通学は、車と徒歩の七面倒臭い方法を取られて行われており、何処から来たのか余程の物好きでなければ分からないように工夫されている。

 勿論、離れた場所で合流したところで車の送迎が毎日あれば、泉をどこかの金持ちの令嬢と勘違いした輩が徒歩を機会と狙う可能性もある。

 このため徒歩時には泉専属の護衛を付ける、とワーズは言っていたのだが、入学式を迎えてからこの方、当の護衛の姿を泉は一度も見た事がなかった。

 ――その時まで。

 

 

 いつもの帰り道、友人たちに別れを告げ一人歩く泉がここ最近、暑さにやられた風体でぼんやり思い巡らせるのは、二つの口付け。

 一つはワーズから、一つはシウォンから為された、彼らにしてみれば単なる戯れであり――泉にとってはそれだけでも大問題な行為である。

 だが、それ以上に問題なのはその後の泉自身の反応だった。

 あの怖い人にされた時は凄く嫌だったのに。どうしてあの人にされるのは嫌じゃなかったのかしら……

 知らずそっと押さえた唇にシウォンの熱は残っていない。

 あるのはただ、頬を冷やすタオルを押し付けた後で、熱を取り払うように這わされた、ひんやりした指の感触のみ。

 怯える泉を知ってか、その後の接触も以前より段違いに減っていた。

 とはいえ、それでもゼロではなく泉の価値も相変わらずの評価――だが。

 ここ最近、泉は思うのだ。

 たぶん、本気で嫌がったらあの人は何もして来ない。

 メイド服も、キスも、セクハラ染みた行動も、何もかも。

 って、それだと私が乗り気みたいじゃない。……でもまあ、そうね。最初から全く乗り気ではないけど。

 着替えた姿を可愛いと言い、勘違いしてしまうほど慈しみに満ちたキスをし、まるで気を惹きたいとばかりに触れてくる。

 何かしら? 大人の男の人なのに、こうして行動を並べてみるとすっごく……子どもっぽい。

 だから何一つ完全には拒めないのか。

 構って欲しいとせがまれるような錯覚に陥り、払う事すら満足に出来ないのだろうか。

 それとも。

「私……もしかして…………好き、だとでも?」

 背負わされた借金のカタという立場で、一年後の身の振り方をゲーム感覚で決めようとする男なんかを。

 君は無価値だと何度も告げてくる冷酷な人間を好きになった、と?

 ――在り得ないわ。

 自らの呟きに首を振った泉は、自分には苦境に立たされて喜ぶ性癖など持ち合わせていないと溜息をつく。

 しかし同時に巡るのは、本当にそれだけだったのかという問いかけ。

 半年にも満たないこれまでの時間の中で、ワーズと過ごした記憶にはそれだけの関係しかなかったのか……

 これにも首は再度否定を示して振られていく。

 価値がないと言われながらも、ワーズと接している時間は驚くほど長かった。

 今まで生きて来た中で、ここまで一緒にいた人はいない。

 毎日顔を合わせ、毎日挨拶して、毎日他愛ない言葉を交し、毎日喜怒哀楽をぶつける。

 互いを呼ぶ名も使う事なく――

「……あれ? そういえば私、あれだけ長く居るのにあの人の事、「あなた」としか呼んだことがないような」

 他人行儀にも聞こえるその呼び方は、なれど親密な間柄のようにも思えてしまう。

 気づけば気づくのが遅れた分だけ赤く染まる頬。

 反して、ワーズも泉の事を「君」としか呼ばないと気づいたなら、それはそれで腹が立ってくる気がした。

 泉の呼び方よりも遠く感じる「君」呼ばわりに、自分の名前を呼ばせたいとまで思い。

 わわっ。私ったら何を考えているのよ。ええと、でも「お前」じゃないだけマシなはずで――

 などと泉が思った矢先。

「おいお前」

「はぅわっ!?」

 今し方そうじゃないだけマシと思っていた呼称を耳にし、泉の身体がビクッと跳ねた。

 次いで、進行方向にあるはずの傾く陽の陰にいつの間にか自分の姿があると知ったなら、考えに没頭するあまり自然と下がっていた視線を上げた。

 これにより陰を作っているのが、見覚えのある黒いスーツ姿だと分かった泉の顔が強張っていく。

 更に顔を上に向かせれば、逆光の中で呼び声よりも鋭い緑の瞳が泉を射竦めており。

 シウォン・フーリ――あれから一度もワーズの元を訪れなかった美丈夫をしっかり捉えた泉は、張られた左頬を無意識に押さえて後ずさる。

 けれども泉の怯えを不可解だとでもいうように怪訝な顔をしたシウォンは、更に下がろうとする動きを知ってか距離を詰めて手を伸ばしてきた。

「お前、奴のところの餓鬼だろ? 何故こんなところを――」

「ひっ」

 軽く掴まれた腕にまた殴られると泉が身を縮めれば、無造作にその腕を持ち上げたシウォンが顔を付き合わせるようにして屈み込み。

「一人で出歩くなんざ、攫って下さいと言っているようなもんだと思わねぇか、ええ?」

「っ!!」

 頬を庇う手をもう一方の手で捕らえたシウォンは、青褪める泉へ嘲笑交じりに哀れむ視線を投げかけた。

 

 瞬間。

 

 ぱっと解放される両腕。

 恐怖に見開かれていた瞳が同時に離れるシウォンの姿を追ったなら、これを遮るように黒い影が泉の視界に躍り出た。

「ちっ」

 打ち鳴らされるシウォンからと思しき舌打ち。

 取り戻された陽の光に泉の手が日除けに動く最中、細めた視野を舞台に二つの姿が弧を描いて舞った。

 隙を許さず姿勢を低くした黒い影が、常人では考えられない動きで距離を詰めたなら、その拳が身体に触れる前にシウォンの手がこれを受けて横に流す。

 それに引き摺られる形で倒れようとする影は、しかし逆に流れを利用して逆の手をシウォンへ伸べた。

 きらり光るのは、鋭利な刃物。

「くっ!?」

 身長差はあっても、甲に隠された得物の存在は直前までシウォンの目に入らなかったのか、流した拳の隙をついて攻勢に転じようとしていた身体はすぐさま守備に戻り、男の体躯を木の葉のようにひらりと後方へ飛ばした。

 けれども完全には避け切れず、スーツの胸元が猫の爪に引っ掛かれたように裂けていく。

 否、その大きさは虎の爪跡と表した方が打倒であろう。

 避けなければ肉ごと抉っていた凶器の持ち主は、掠めた服には何の興味も示さずに、大きく動いた上半身を補う足のステップを用いバランスを取りつつ、振り回した足から金属状の何かを飛ばした。

 間髪入れずに襲い来る得物を知りシウォンが咄嗟に横へ逃れたなら、この動きを先に追っていた黒い影が死角を縫うようにして、一度外した拳をシウォンの腹へと叩き込んだ。

 捻じ込まれた打撃音に小さな呻きが重なっても黒い影は動き続け、シウォンが逃れようとしていた方向へとその身体を拳ごと叩きつける。

「かはっ」

 圧迫された肺から声が零れ落ちても、影は素知らぬ風体で項垂れた顔を掴むと、シウォンの頭を同じ塀に叩きつけた。

 決定打を受けて力を失くした膝が地に着けば、そこまでを眺めていた黒い影はシウォンの喉を掴み上げ、逃れた分を取り戻すように虎の爪跡を残した得物を再び翳す。

 陽光を浴びて輝くその得物は、血を求めるが如く鮮やかに色めき立ち。

「! ちょ、ちょっと待ってください!!」

 ここでようやく我を取り戻した泉は、茫然としている間に終わりを迎えかけていた光景へ、大音量で水を差した。

 どれだけの戦闘能力があろうとも、突然の爆音に対する耐性を黒い影は持ち得なかったようで、何かを投げつけられたように頭を傾がせては痛がる素振りで泉の方を向いた。

「何?」

 届く声は、男か女か判別し難い不思議な音色。

 それでも不機嫌な事は確かであり、目の前で展開された闘いがある以上、呼びかけたくせに慄く泉は喉をごくりと鳴らした。

「その、あ、あなたは?」

 今発するにしては場違いな言葉だったが、とりあえず知っておくべき事柄ではある。

 黒い影――半袖の黒いシャツに黒いズボン、黒い帽子と黒い手袋をした相手も、そんな泉の問いを尤もだと言うように頷いてみせた。

 支えを失い地に伏して苦悶するシウォンを横にしつつ。

「見た通り、君の護衛。この前は御免ねぇ? コイツから守ってあげられなくて。何せ許された役割は外出した君に関してのみ、だったからさ。ま、それもあって上乗せしちゃった」

 ぺろっと悪戯っぽく舌を出した少年とも少女とも付かない彼は、「上乗せ」の部分でちらりとシウォンを見やった。

 これを憎悪混じりに睨み返したシウォンは、血混じりの唾を吐き出すと息苦しそうに言葉を返した。

「何が、上乗せだっ……俺はただ、そこの餓鬼が、一人で出歩いていたからっ」

「慣れない親切無謀なお世話、だね。君だったらボクの存在に気づいても良かったはずなのに。そんなに心配してくれたの、彼女の事」

「………………………………………………………………………………えっ!? あ、あれってそういう事、だったんですか?」

 先程のシウォンの言葉が攫う予告ではなく、攫われる忠告だと知り、泉はやや大袈裟に驚いてしまった。

「あははははははははっ! 自分で蒔いた種とはいえ、ホント滑稽だよシウォン! とすると、これから先上手く伝わる事もなさそうだから、代わりにボクが言ってあげるねー」

 一通り笑い倒した彼は、代わりに何を伝えるのか分からない表情のシウォンを背に、泉の方へと軽い足取りで近づいて来た。

 先程展開された争い事への恐怖も今の会話で幾らか薄らいだ泉は、シウォンよりは低くとも泉より若干背の高い彼を見上げる。

 帽子と黒い前髪の翳りから、陽光の反射なのか金に光る瞳が上弦を描いて笑った。

「あのね、シウォン・フーリはね、君に構いたくて、構って貰いたくてしょうがないんだ。君があのバカに構われているところを見てからさ、ずっと羨ましがっているんだよ」

「え……と、あのバカって」

 こっそり耳打ちされた言葉に目を丸くすれば、彼の方が驚いたように肩を竦めた。

「あらま可哀相。これは脈ナシだねぇ? さておき。バカってのは勿論、君の護衛をボクに依頼してきた奴の事さ」

 話はこれで終わりとウインク一つ、「あーあ、喋り過ぎちゃったよ」ときゃらきゃら笑った彼は、姿を見せては護衛にならないからと離れていく。

 もたらされた疑問は多々あるものの、何よりも気になった事を最後に泉は尋ねた。

「あの、あなたの名前は?」

「ボク? ボクの名前は――知らない方が身のためだよ」

 そう告げた背は次の瞬間、伸びる影に溶けたように消え去った。

 彼の持つ雰囲気のせいか、怪奇現象染みた光景を目の当たりにしながらさして驚きもしなかった泉は、呻く声を耳にするとおっかなびっくりシウォンの補助へと回る。

 

 あのバカと評されたワーズのいつもの行動が、珍しいと響いた語りに思い悩みながら。

 

 


UP 2010/5/21 かなぶん

修正 2010/10/27

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