それは長く続いていた残暑が終わりを告げ、冷ややかな空気が秋空を遠く感じさせた、晴天の日の事。

 メイド服を着せられているにも関わらず、邸の主人が淹れた紅茶を勧められ、特に躊躇する事なく受け取った泉は、応接室のソファに腰掛けながらこれを美味しく頂いていた。

 当の主人は紅葉色づく窓を背に、いつもの場所で下品な音を立てながら紅茶を飲んでいたのだが。

 ふと、彼の眼が泉に向けられ、これに気づいた彼女は小首を傾げてワーズを見やった。

 絡められる混沌とこげ茶の視線。

 程なく口を開いたワーズは、常時へらへら笑う顔に少しの困惑を滲ませた。

「あのさ。前から……正確には君が邸に来てからずっと気になっていたんだけど」

「はい……?」

 

「何で君、此処に居るの?」

 

 

「……要はどうして応接室に来るのかって事だったんです。嫌な目にも散々合ってきているのに、別に応接室に来る事は強要していないのにって」

「…………………………で? 何故、俺がそんな話を聞かねばならんのだ?」

 ぽつりぽつり話し出せば、その腰を折るように不機嫌な男の声が正面から届いた。

 この様子に「それはあなたが、何かあったのか? と聞いてきたからです」と馬鹿正直に答えられない泉は、小さく鼻を啜ると出された緑茶を静かに口に含む。

 そうして小さく息をついては何がどうなって現在、シウォン・フーリが経営している会社の一室に自分がいるのか、順を追って思い出していく。

 

 

 先のワーズの言を借りるなら、泉は別に、邸の外へ出ても何の問題もない身であった。

 安全や監視は今もどこかで張り付いているであろう護衛が担っているため、単身で邸から出ても常に守られており、反面逃げようとしても常に妨害されてしまうのだ。

 けれども泉はこれまで、一度も通学時以外に外へ出ようとはしなかった。

 それどころか邸に居ても、ほとんどの時間を自室ではなくワーズが居る応接室で過ごしていた。

 なればこそワーズから「何故此処に居るのか」を問われた時、泉の口から出てきたのは明確な答えではなく「へ?」という間の抜けた音。

 そこから始まり逡巡、はっとしては「価値を見つけるため」との答えを出した訳だが、続くワーズの言葉は泉のこの答えを真っ向から否定するものであった。

 彼は言う。「ボクにおべっかを使っても無駄なのに? こんな閉じた空間で何の価値が見つかるのさ?」と。

 言われてみれば正しいと響く事柄に、それでも何か反論せねばと泉が思ったなら、間髪入れず彼は続け様にこうも言った。

「ボクが君にする事が気に喰わないなら、最初っから来なけりゃいいのに。確かにボクは君に拒否する権限はないって言ってきたけど、何かをするなとは言ってないはずだよ?」

 ――この後の自分の行動を泉はよく憶えていない。

 ただ、何かしらの激情に身を任せたのは確かで。

 ワーズに向かって捨て台詞を吐いたような気もするのだが、いかんせん、落ち着きを取り戻したのが邸を出てから10分間、ひたすら走った後の事。

 近くにあった公園のベンチで息を整えつつ仰いだ空の透き通った青さに、何をやっているのかしら私、と黄昏た泉は、項垂れ姿勢になると軽く頭を抱えてしまう。

 幾らか冷静になったところで、ワーズの言葉への反発はゲームの期限まであと半年を切ってしまった焦りのせい、とこじつけてみるも、それは違うんじゃないかと内側から誰かが言った。

 次いでなぞられていく記憶は、ワーズの言葉の粗を探そうと試みる。

 が、しかし結局何も見つけられず、それどころかワーズのセクハラに激昂しても、応接室に居続けた自分を再確認しては溜息を一つ。

 だが真実、憂いを抱いたのは別の理由からだった。

 あれって拒絶されたって事よね……

 楽しい思い出は皆無と言って良いほどだったにも関わらず、何故居るのかと問われては胸が苦しくなる場所。

 酷い事ばかりしてくるのに拒絶されたと思えば哀切を抱かせる人。

 知らぬ内、零れた涙が後から後から頬を濡らして零れ落ちれば。

「こんなとこで何をやっているんだこむ――な、何故泣いている!?」とうろたえるシウォンに引っ張られ、あれよという間に泉の身柄は彼が所有する会社へ連行されてしまった。

 泉が抵抗しなかったせいか、はたまた危害は加えられないと判断したのか、護衛は今も沈黙を保っている。

 

 

 ともあれ視線を今一度、足の低いテーブルを挟んだ向かい側のシウォンへ向けた泉。

 あのキス以来、ワーズの応接室でも会わなかった彼は、泉自身よく分かっていない、泣くまでに至る経緯を聞くなり、とてつもなく嫌そうな顔で押し黙ってしまった。

 護衛の話ではワーズと同等かそれ以上にあくどいこのシウォン、何の冗談か泉に気があるらしい。

 かといって彼の態度は最初とあまり変わっていないため、真偽の程は定かではない。

 泣いている彼女を保護する辺り、だいぶ気安くなったように思ってしまいそうだが、交わす視線の刺々しさは態度同様、全く軽減されていなかった。

 対峙すれば蛇に睨まれた蛙状態で固まるしかない泉へ、たっぷりの時間を置いて何やら思い巡らせたシウォンは、至極鬱陶しそうに背もたれへ肘を突いた。

「ちっ。この俺が、小娘なんぞの痴情を聞かされるとは。しかも相手は何を間違ってかあのワーズ。はっ、世も末だな、おい」

「……痴情?」

 思ってもみなかった言葉を聞かされ、泉の喉がしゃっくりを上げるようにひくくと鳴った。

 涙跡により引き起こされる痒みを指で押さえつつ、やっていられないと頭を掻くシウォンを前に考えに耽る。

 痴情――その本来意味するところはさて置き、シウォンからすれば泉の語った事はそういう風に聞こえてしまうらしい。

 甚だ不愉快、そう思うのが常であった泉だが、不思議とその言葉はコトリと涙の原因に当て嵌まった。

 そっか。私……だから泣いているんだ。

 夏の日、ワーズが好きなのかと自分に問い掛けた事が思い出された。

 肯定も否定もしなかった答えは、ここに来て明確な理由をも露わにしていく。

 彼を意識し始めたのは、最初から、だった。

 無価値だと決め付けながらも一年という猶予を与え、価値を見出せと言われたその時に、泉は彼を自分の中の特別な位置に据えたのだ。

 その時の思いが好感情だったか悪感情だったかは別としても、今の想いの出発点は間違いなく其処。

 泉に価値はないと言葉に出して言うくせに、ワーズは決して、価値を見つけられないとは言わなかった。

 それどころか探しさえすれば、すぐに見つかるような事さえ口にしていた。

 こんなところで油を売っている暇があったら、他の場所で価値を見つけて来れば良い、と。

 親にすら必要とされなかった自分に本当に価値があるのか、迷う泉を焚きつけるように。

 繰り返し、ワーズは言う。

 泉に対し無価値な存在だと。

 反面で自らの価値を探せと。

 指し示すところは即ち。

「あ、の」

 挟んだテーブル分、怖さの遠退いたシウォンへ声を掛ければ、緑の瞳がじろりと睨みつけてきた。

 迫力ある眼光に「やっぱり何でもありませんっ」と言いたい口をぐっと堪えた泉。

 言葉を練るように緊張から粘つく口内をもごもご動かしては、一大決心の風体で言った。

「か、帰ってもいいですかっ!?」

「……随分と真剣な顔して何事かと思えば」

 面白くなさそうな顔で応じたシウォンに対し、はっと何かに気づいた泉は続け様。

「や、やっぱりお金がないと帰して貰えませんか?」

「ちょっと待て小娘。お前、俺が誘拐犯だとでも」

「そんな滅相もない! た、ただ、迷惑料とか……そ、相場ってお幾らですか? もしかして50万以上――」

「おい。いい加減にしないと殴るぞ。人の親切を何だと」

「ひいっ!? ご、御免なさい! どうにか用立てますから命だけはご勘弁を!!」

「っ!!? お前本当に――」

 好意があるとしても、泉にとってシウォンは恐怖の対象でしかない。

 言葉だけ聞けば粗末なコントだが、彼の纏う雰囲気は泉の口走った被害妄想を現実の物にしてしまうだけの迫力があった。

 泉の本気の怯えを見て取り、憤り立ち上がったシウォンは盛大に舌打ちして後、頭を毟る勢いで掻きながら席に戻る。

 弾む背に併せてテーブルの上に両足を伸ばし乗っけては、向けられた靴底に蹴られると身構えた泉へ、忌々しそうに声を掛ける。

「帰れ」

「…………へ?」

「帰れ、と言ったんだ。泣いているから何があったのかと思いきや奴の事ばかり。そのくせ俺には礼はなく無駄に怯えやがる。ちっ。俺が何をしたってんだ」

「殴られました」

「…………」

 先程までの怯えはどこへやら間髪入れずに泉が返したなら、シウォンの顔が決まり悪く背けられた。

 これを不思議そうな顔で見つめた泉は、とはいえ確かに心配はしてくれたのだろうと思い直し、席を立つとシウォンが背けたのとは反対側のソファの横まで移動、深々と頭を下げた。

「怯えてしまって、すみません。話を聞いて下さって、ありがとうございました」

 一息に言って顔を上げても、シウォンはそっぽを向いたまま。

 怒りよりも反応を面倒臭がるような、呆れに似た空気を感じ取った泉は、そんな彼に今一度辞去の礼をし、扉へと身体の向きを変える――が、しかし。

「え?――――んんっ!」

 横から無造作に伸びた手が腕を掴んで泉を引き倒し、ソファが彼女の背中を受け止めたなら、反動で跳ぶ唇を柔らかな熱に塞がれてしまう。

 眼前には悔しそうな緑の双眸。

 驚き振り払おうとしても手首は両方シウォンの片手に絡めとられており、足に至っては邸を出る時に着替えたスカートの間を膝で押さえつけられているため上がらず。

「い、やっ!」

 それでも首を振って払えば、頬を捕らえられ再度触れてくる熱。

 ぬるりとした侵入を歯で噛もうとしても、その前にするりと逃れてしまい、予想を裏切られた前歯が激しく打ち鳴らされてしまう。

 衝撃と痛みと恐ろしさと、ありとあらゆる感情が泉の眦に涙を呼べば、避ける事の叶わない唇をちろりと舐めたシウォンが鼻で笑った。

「お前がそういうつもりなら、俺は幾らでもお前が期待する俺になるぜ? どうせあの野郎の事だ。こうやって触れはしても本格的に手は出してないんだろう?」

「ひっ! や、止めて下さいっ、やあっ!?」

 頬から離れた手が身体の線をなぞっていく。

 未だかつてワーズからでさえ感じた事のない怖気に身を捩ったなら、クツクツ喉で笑うシウォンの歯が下唇を甘く噛む。

 柔らかな中に埋まる硬質を感じ、錯覚の血に震えが起これば、これを知って深まる口付けに抗う術はなく。

「ん、ふ……ぁ…………く」

 目を閉じ伝う涙。

 蠢く内側は果てを知らない熱を孕み、何度も泉を攻め立てていく。

 溢れ出る唾液が口の端を垂れていこうとも、離れる事を良しとしない唇は熱い吐息と共に貪り続ける。

 やがて迎える口付けの終わりは、けれどまだ全ての始まりに過ぎず。

 涙と唾液に塗れて朦朧とする泉の眼前で、さも愛おしげに彼女を見つめ、顔に張り付いた褐色の髪を撫で除けたシウォンは告げた。

 恐ろしいほど穏やかな顔つきで。

「奪ってやる。お前の何もかも全てを。構わねぇだろう、最初は俺のモンだったんだから。御大がしゃしゃり出て来なけりゃ奴とて動かなかったんだ。だからこれは当然の権利さ」

「おん、たい……? 当然の、権利……って」

 奴とはワーズの事だろう。

 御大というのが誰を指しての言葉かは知らないが、うわ言のような呟きが明かしたのは、あのワーズの行動さえ誰かの指示だという事。

 そんな……それじゃあ私の、価値は……存在する意味は?

 目の前のシウォンに泉の意思なぞ必要ないのは、この行動・言葉からも分かる。

 しかし泉に価値を問い続けたワーズとて、彼女を見ていないのだとすれば。

「ああ? 急に大人しくなりやがってどうした。俺の女になる決心でもついたか?」

「…………」

 解放される手首に併せて降りてくる唇。

 一切の抵抗を止めた泉には拒む理由もなく、静かに受け止めては、反し暴れようとする手の力を逃すべくソファを強く掴んだ。

 従わせようとする動きに抗おうとする意思さえ、瞳をキツく閉じて無視する。

 迎え入れる泉の様子に気を良くしたのか、シウォンの両手が自由に衣服を乱し、肌に触れては優しく苛んでいく。

「イイ子だ。そのまま俺に全てを委ねておくれ。お前さえ受け入れてくれるなら、俺はどこまでも甘やかしてやれる。身体も、心も、これ以上ないくらいに蕩かしてやろう。だから……お前は代わりに俺を骨の髄まで溺れさせるんだ」

「ぅ、ん、あっ」

 垂れた唾液を追って下がる舌。

 しゃぶられた首筋に泉の唇が熱く震えれば、弄る手が首元のボタンを一つ一つ外していく。

 その緩慢さすら楽しむようにシウォンの顔がゆっくりと下がり――

 

「ねぇ? ボクはいつまでこの茶番を見ていれば良いのかな?」

 

 唐突に訪れた高い声は一気に目を開いた泉の真正面、ソファの背もたれに肘を付いた状態で彼女を覗き込んでいた。

 黒い前髪に隠された金の眼がつまらなさそうに泉を映し、その中に共に居たシウォンの顔が憤怒を示して上がっていく。

「邪魔を、する気か?」

 地を震わせるような低音。

 けれどもいつかの夏、シウォンをあっさり伸した護衛は「まさか」と首を竦めた。

「邪魔するなら君が彼女を押し倒した時点でしているよ。この前とは違って、君の腹は決まっているみたいだし、みすみすその子を殺したりはしないでしょ? たださ、もうすぐシウォン・フーリにお客さんが来るみたいなんだ。ほら、例の物件の」

「……ちっ」

 護衛の言葉に一気に起き上がったシウォンは、泉の乱れた姿を直すでもなく背を向けると、「続きは後だ」そう一方的に言い残して去っていった。

 しかし泉はのろのろと身を起こし乱れた衣服を直すとふらり立ち上がり、シウォンが閉めていった扉へ向かう。

 この様子に傍らの護衛が問うた。

「何処へ行くの? 待っていろって事でしょ、あれ」

「強制……される筋合いはありませんから」

 半ば投げやりに答えたなら、一歩進んだ足を止めるように掴まれる腕。

 反射的に振り払い振り向けば、張り付く褐色の髪さえそのままに激昂する。

「放って置いて下さい! どうせ私なんて何処にも――」

「そっち行ったら確実にシウォン・フーリに捕まるよ? それが嫌ならこっち。ボクに付いて来て」

 人の話を全く聞いていない素振りで背を向けた護衛に対し、続けるはずだった言葉さえ見失った泉は、それでも囚われる事を良しとせずにその背を追った。

 

 

 ビルの所有者であるシウォンさえ知らないという抜け道を通り、「じゃあね」とあっさり手を振ってきた護衛と形だけ別れた泉は、とぼとぼ行く当てもなくひたすら道を歩き続ける。

 途中、今の泉の心境を表すように雨がぽつりぽつり降り始めたなら、雨宿りしようと近くにあったパン屋の中に入りかけ。

「お金……持って来てなかったんだっけ…………」

 流石に無一文で入る勇気もなく、邪魔にだけならないよう店員の死角になりそうな軒先の隅に身体を寄せた。

「これから、どうしようかな?」

 呟きは空を流れ、激しくなる雨に打たれて消えていく。

 女心と秋の空。

 今までの青天は何処へやら、どしゃ降る曇天はまだまだ降り続くと報せていた。

 晴れやかな気分まで落ち込ませる変わりようだが、元からこの天気と同じように気分を落ち込ませていた泉には、思いの外変化は在らず。

「……とりあえず、賭けは終わり、かしら?」

 そして先程シウォンから受けたような事が、これからの日課になるのだ。

 相手は不特定多数、拒む事も許されずに。

「だって私には価値なんてないんだもの」

 冷えた心に喚起される涙はなく、分かっていた事だと思えば苦笑が自然と零れてしまう。

 繰り返されてきたワーズの言葉。

 無価値な泉、反面で探せと言われた自らの価値。

 これらが指し示すところは即ち、ワーズは最初から泉には価値があると思っていた――そう推測したばかりなのに。

 覆されてしまった。

 ワーズのあの言葉は彼から出たモノではなく、御大という見知らぬ誰かから出た言葉なのだろう。

 ではその御大こそが泉の価値を知るのかと言えば、そうではないのだ。

 何せその人物は一度として泉の前に姿を見せず、ワーズに全てを託したのである。

 無力な少女が在るはずもない価値を探して愚かに足掻きもがく、そんなゲームを彼に。

「それともこのまま逃げちゃう? お金なら……手に入れる方法は在る、だろうから」

 泉自身は無価値でも、若い女というだけで寄ってくる者はいる。

 少なくともシウォンという前例がある以上、女である魅力が泉に――泉の身体にはあるはずだ。

 やけっぱちな思考に震える手は胸の前で握り締め、俯く絶望は目を閉じて闇の中に閉ざす。

 この身体なら幾らぐらいで売れるだろう、そんなところまで落ちていったなら。

「…………?」

 大降りの中、ぱしゃぱしゃと車とは違う音が近づいてくる。

 リズミカルとは言えないふらついたその音は、急に立ち止まっては走り出しを繰り返し。

 雨に濡れる事を厭う泉は音源の不思議さに小首を傾げ、前方の雨を見つめながらも数度瞬き。

 ――と。

「う、わ?」

「ん? あれ? 何してんの、こんなとこで?」

 端にいたせいで、勢い良く飛び出して来るまで分からなかったその音源、姿は、いつでも黒一色の男。

 けれども全身、引っ繰り返したバケツの中身を被ったように水を滴らせては。

 けれども何事もない様子で泉の隣に立ち、手遅れの雨宿りをする彼は。

「いや参るね。さっきまであんなに晴れていたのに、こんなに降ってきて」

「……あの、何でそんなに濡れて」

「うん? ほら、出がけは晴れていたから傘持ってなくて」

「そ、そうじゃなくて! あ、雨宿りするならもっと早く何処かに」

「うん? ああ、そうだね。全然気づかなかった。まあ、だから今こうして、君に倣って雨宿りをしている訳なんだけど」

「い、急いでいたんじゃないんですか?」

「うん。急いではいたよ。この雨だからね。ホント、どうしようかと思ったよ」

「…………」

 駄目だ、全然話が通じない。

 それとも……私の質問が要領を得ていないだけ?

 泉が聞きたいのは、何故ここに居るのか、ではなくて。

「用事……いつも車なのに、歩いて来た用事は……?」

 ほとんど掠れた、呟きに似た声で訪ねる。

 理由を聞いたところではぐらかす言が返って来る彼の事、もしかしたらまた話を逸らされるか、もしかすると雨音で聞こえなかったかもしれないが。

「用事なら……もう終わった」

「そう、ですか……」

 どうやら泉の呟きはしっかり聞こえていたらしい。

 答えはやはりはぐらかすようでもあったが、短い沈黙の中で交わした混沌の視線は、不気味な色彩のくせにとても穏やかで。

「雨、止みそうにありませんね。どうやって帰りましょうか」

「んー、それなら携帯で迎えを……って、ああ駄目だ。コートに入れっぱなしにしてたからビショ濡れだよ、これ」

 言ってへらへら笑う赤い口がポケットから出した、黒いコートと同じく雨に濡れた二つ折のこれまた黒い携帯を開き、ひらひら降ってみせた。

 音沙汰のない真っ黒な液晶画面に口元を押さえた泉は、照れ隠しも忘れて頭を下げた。

「すみません、私のせいで」

「ん? 何言ってんの? ボクはボクが決めた行動をしただけ。その結果がコレ。なのに君のせいって。はっ、笑っちゃうね。都合の良いように考えないでよ。君には未だ、価値なんてないんだろう? あるんだったらこんなトコにいるはずないし、さっさとボクのトコ来て、証拠叩きつけているはずなんだからさ。そうしたら君は晴れて自由の身。綺麗さっぱり、ボクとさよなら出来るよ」

「…………」

 おどけた調子でクツクツ笑い、揺れる肩。

 併せて飛ぶ雫が泉に向かっても、避けずに当たった彼女はおもむろにワーズへ手を伸ばした。

 これを知って黒い身体は後ろへ引くが、一歩詰めて追えば簡単に捕まるワーズの右手。

「こんなに冷えて……なのに、謝る事も許してくれないんですか?」

 逃げる動きを封じるように胸に抱けば、柳眉を寄せてワーズが困惑を示した。

「いやあのね」

「駄目、ですか? 価値がなければ……価値を見つけなければ…………私の為す事全て、認めてくれませんか?」

「認めてって……だからさ、ボクに認められようとしてどうすんの? 君の価値は君自身が見つけなければ意味がないんだよ? それなのに期限はもう半年も切っている。こんな悠長で無駄な事している暇があったらさ、ボクなんかに関わっているよりも、もっと有意義な事をしようよ」

 諭すような静かな声音に、激しい雨の音が重なっていく。

 それでもワーズの右手を抱き続ける泉は、狂いかけた認識を改めた。

 ゲームを思いついたのは別の誰かかもしれない。

 しかしワーズ個人が泉に価値があると思っているのは確かだ。

 こんな雨の中を、口ではどうとでも言いながら、探して来てくれた事実は大きい。

 そして。

 まるで代わりのように彼は言う。

 ――ボクに関わるのは無駄なこと。

 それは単に、無駄な時間を過ごしていると泉を嘲っているように聞こえていたが。

 

 もしかするとその意味するところは、本当は別にあって、それは――

 

 


UP 2010/5/26 かなぶん

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