雨はいつだって変わらぬ冷たさを泉に与えてきたものだが、今年の秋雨は格別であった。 店先で雨宿りしていたせいか、身体はすっかり冷え切ってしまったものの。 しかして泉がそれ以上に寒さを感じたのは、降り止まぬ雨に痺れを切らし、パン屋の電話を借りてワーズが迎えを呼んだ後の事。
その日、何があってもへらへら笑っていた男は、ずぶ濡れの代償に高熱を出して倒れてしまった。
泉がこの事を知ったのは夕食時。 いつまで経ってもワーズが来ないというのに、定時に運ばれてくる料理を不審がり、給仕の一人に尋ねてようやく知り得たのであった。 自責の念にかられた泉は席を立とうとするが、話をした給仕は食事を優先させる。 心は落ち着かないものの、食べなければ自分まで倒れてしまうと給仕に従った泉。 食後、看病を申し出たなら思ったよりあっさりと了承され、必要な物を載せたワゴンをついでのように押し付けられてしまう。 そうして離れていく給仕を呆気に取られた表情で見送った泉は、ここに来て初めてワーズの部屋へと入室するわけだが。 広大な邸の中で、その部屋は他のどの部屋よりも簡素であった。 泉が使う部屋でさえもう少し、年頃の少女らしい、部屋の主を髣髴とさせるものだというのに、ワーズの部屋にはその個というモノが存在していない。 邸の色彩の延長のような、白で塗り固められた天井と壁、煤けた赤のカーペット。 機能性だけを重視した無機質なパイプで構成された白いベッドは、広い室内に対して小さ過ぎる窓際にぽつんと設置されている。 その横、引き出し付の事務的なサイドテーブルの上には、この部屋唯一の光源らしい今は明かりの落ちたランプと、盆に乗った水差しとコップがあるのみ。 質素な衣装棚はサイドテーブル横に大した容量もなく佇んでいる。 他には本当に、何もない空間。 生活用品が在る場所だけを切り取ればまるで病院の一室――いや、病室よりもなお寒々しい。 個という個を排斥した部屋に飲まれかけた泉は、ベッド上の膨らみがもぞり動いたのを目にし、慌ててワゴンを押し込むと開けっ放しにしていた扉を静かに閉めた。 途端、廊下からの光を失い、眩むような暗闇にワゴンを押す手が止まってしまった。 ならばと泉は直前までの記憶を頼りに、右手奥のベッド前にあるサイドテーブルを目指す。 ワーズのベッドまで障害となるようなものはなかったものの、ワゴンを押して行けばそのままぶつかってしまうイメージが先行したため、運ぶのは一時断念。 ワゴンの代わりに両手が先を求めて、頼りなげに宙を掻いていく。 しばらくはのろのろと、へっぴり腰のメイドが暗闇の中を妙な踊りをしながら進む、変な画が続いていた。 と、突然、何の前触れもなく付く明かり。 「ぎゃっ」と光を厭う魔物の如く色気のない短い悲鳴を上げた泉は、進むために上げていた足を大きく踏み出してしまい、結果。 「わわっ、きゃあっ!?」 あともう少し左にいたなら明かりが灯ったサイドテーブルに、右にいたなら足元のベッド柵に手が伸びたところを、何の悪戯か側面のベッド柵に脇腹を引っ掛けてしまった泉の身体は、気遣うはずの病人目掛けて倒れ込んでしまった。 綺麗に入った柵の痛みに脇腹を押さえた泉、遅れて状況を思い出しては身を起こそうとし。 「……夜這いでも、仕掛けに来たのかな?」 「!!?」 身体ごと圧し掛かる真似はしなかったものの、至近の中性的な美貌を己の両手が囲っていると知ったなら、弁明も出来ずに顔を真っ赤にして固まってしまう。 すると明かりを点けた張本人であろう部屋の主は、いつもより若干温まる腕を億劫そうに出しては泉の腰を抱いて中へ引き入れ、乗じて剥がれた布団を依然固まったままの泉に被せた。 先程よりも密着する形で抱き寄せた顔が泉の肩に埋まれば、へらりとした笑み含みの声は変わらずに、やや熱っぽい疲労感を滲ませつつワーズが続けて問い掛ける。 「それとも、てっとり早くボクを殺しに来たのかな? そうしたら賭けなんか関係ないから」 「なっ……にを、言って…………?」 随分な言い草だと怒りに我を取り戻した泉だったが、軽口を叩くにしてはだるそうな様子を前に、肩へ埋められた頭を軽く抱き締め、想像していたよりずっと艶やかな光沢のない黒髪を梳いていく。 乗じてワーズの両手が泉の背中に回され、甘えるように擦り寄る血色の笑みが楽しそうに言った。 「ん……今だったら、簡単だよ。弱っているから君でも大丈夫。いや、君だから出来る。たぶん、君じゃなかったらボクは抵抗する。でも、君は無理なんだ」 「無理って……そもそも、前提からして可笑しいです」 熱に浮かされたワーズの支離滅裂な言葉たち。 ……まあ、この格好からしてどうかって話ですけど。 今頃になって自分の置かれている状態の珍妙さに気づいた泉は、頬を少しだけ紅潮させながらも離れる事なくワーズの額に頬を寄せた。 「看病、しに来たんです。それはまあ私は素人で、特別人を看るのに長けている訳ではありませんが……駄目、でしょうか?」 気恥ずかしさを振り払うように若干早口で訪ねれば、肩から顔を上げた混沌の瞳が穏やかに微笑んで言った。 「ヤダ」 短い否定を受け、泉の顔に青筋が浮かんだ。 「ぐっ……ひ、人の親切を何だと」 「駄目だよ、泉。時間は有効に使わないと。君は価値を見つけて、それでボクとの縁を断つんだ。後はその価値を糧に生きてさ。ここでの一年なんて霞むぐらい、がむしゃらに生き続けて――どっか遠くで死んじゃってよ」 「…………」 初めて名前だけで呼ばれた事に口を閉ざせば、言葉とは裏腹に、ワーズは再び泉の肩に埋もれ頭を緩慢に振った。 けれども熱が上がってきたのか、背中を抱いていた腕は力を失って離れていく。 二人の距離を縮めるものが、肩に凭れるワーズの重さとその頭を抱く腕だけになれば、片腕を留め置いた泉は腰を浮かせ、下に潜り込んでいた彼の手を胸の前まで持っていった。 下敷きになるものが何もないベッドに再度身を沈めた泉、胸に抱く手へ指を絡ませては、片腕で抱く頭をゆっくりと引き寄せる。 「……聞きたいと、思っていた事があるんです。あなたはどうして……あなたといる時間を無駄だと否定されるんですか? それじゃあまるで、あなた自身が――」 「無価値みたい?」 肩の中でくぐもる引継ぎの言。 見やればそのままの格好でワーズがクツクツと笑った。 「みたい、じゃない。無価値なんだよ、ボクはね」 「そんな事」 「あるんだ。君と違ってボクは、最初から自分に価値がないと分かっているから。だから君は、看病なんて馬鹿げた事していないで早く探しに行っておいで。言ったでしょ? 身にならない感傷に引き摺られたら最期だって。お人好しも大概にしなよ……」 「……ワーズさん」 言いたいことだけ言い尽くし、くてりと力を失う身体。 残された泉は相手に意識がない事を知りながらも初めてその名を口にし、起こさぬよう注意を払ってベッドを降りる。 だがそれは、価値を探しに行くためではなく。 「あなたに構うほどのお人好しだから無価値だと?……私は自分がお人好しだなんて思わない。あなただって……無価値な訳ないじゃないですか」 こんなにも、良くも悪くも私の心を騒がせる人。 お人好しだけであなたの近くに、もっと傍にいたいなんて思えるはずないでしょう? 自覚したばかりの、ありったけの想いを込めてそっとワーズの頬へ手を寄せる。 ほんのりと熱を伴う体温を感じ、それでも微笑み眠る顔を見つめて泉の中に少しだけ悪戯心が芽生えた。 「いいですよ。分からず屋にはご期待通り――」 身を乗り出し、しっとりとした唇に自ら軽い口付けを施す。 お伽噺でもあるまいに目覚めぬ睫毛を認めたなら、もう一度、今度は唇を食むように。 堪能するていでゆっくりと離れた泉は遅れてやってきた羞恥に頬を染めつつ、これでは痴女じゃないかと後悔する心を誤魔化すように、唇を小さく押さえて呟いた。 「今までのお返しと、あとは……口直しに」 思い起こされたのは、自分を求める緑の相貌、口内を狂わせる今のワーズよりもずっと熱い温度。 「そーいえばあの後どうなったかしら。次に会ったら…………………………会わない方が身のためかもしれないわ」 自分にとっても、シウォンにとっても。 自棄になって受け入れかけてしまったが、想いに応えるつもりがない以上、会えばどちらも苦しんでしまう気がした。 気をつけなければならないのは通学路、それさえ避けていられれば問題ないと意気込んだ泉は、ワーズの看病をするためにワゴンの下へと急いだ。 頭の端に、あと少ししかない賭けの期限をちらつかせながら。
そんなこんなであれよあれよと時は過ぎ、冬。 泉がワーズと出会い、彼の邸で暮らすようになってから、あと二ヶ月で一年となる頃。 自らの価値をワーズに示せないまま来た泉は、けれどもすでにその価値を見出しつつあった。 あとはもう、彼へ告げるだけで賭けは終わり晴れて自由の身となる、はずなのだが。 教壇に立つ教師の話を耳に入れながら窓側の席の泉が見つめるのは、降りそうで降らない、なんとも不安定な灰の空。 思い浮かべるのは、あの邸での日々。 かといって四六時中共に過ごしてきたワーズの事ではなく、彼を取り巻く環境の事であった。 一般家庭にはない広さの豪邸、これを管理するために揃えられた数名の使用人。 こちらから尋ねれば答えはするが、それ以外ほとんど喋らない彼らは、常に己の存在を消すようひっそりと佇んでいた。 職務以外の物音を立てず、まるで人形のように。 しんしんと降りゆく雪の音、それよりも更に深い沈黙を保ちながら。 しかして泉は思う。 逆、なのかもしれないわ。 あの人たちが人形なのではなく、あの人たちとってあの邸に住まう者こそが、人形なのではないかしら。 泉は勿論の事、主たるワーズも含めて。 邸で日々を過ごし次第に内で燻り始めた推測は、秋の日の看病を経る事でより一層色濃く泉の胸を焦がしていく。 無価値だと己を笑ったワーズ。 そんな彼に接する給仕はどこまでも無機質で。 だからこそワーズは自身をあそこまで貶められたのだろう。 傍に居る者の冷たさに慣れてしまったがために。 訪ねてくる者ならばシウォンの他、感情を露わにする相手は多々いたが、大抵がワーズの小馬鹿にした言動を受け、早々と邸を後にしてしまう。 自惚れのように響くかもしれないが、あの邸で彼を彼個人として見てきたのは、この一年の中で泉だけだった。 そのせいか、ここ最近言葉には出さないが価値を見つけろとせっつくワーズを前にして、泉は彼の十八番の不真面目さでのらりくらりとこれを避けていた。 考えた末の価値を提示したなら、ワーズはきっと、泉を簡単に手放してしまうと知っていたから。 あの秋の日、護衛を付けているにも関わらず、ずぶ濡れになってまで探した相手だったとしても、彼は決して引き留めたりしないだろう。 引き留めて、くれない。 今の泉にはそれが何よりも苦しかった。 たぶんその後は会ってもくれないのだ、彼は。 自分と同じ想いをワーズも泉に対して抱えているとは思わないが、それでも気にかけてはくれていたはずなのに。 去るのを止めない、去っても追わない、望まれても会わない。 価値ある者に無価値な自分は必要ないと笑って言って。 「……変なトコ頑固なんだもの、あの人」 なればこそ、泉も意固地になるしかなかった。 期限ギリギリまで共に居て、ギリギリまで考える。 これで終わらない方法を。 ――たとえ彼自身がそれを望んでいなくとも、泉は彼の傍に、彼が見える位置にいたかった。
それがどんな方法で、どんな犠牲を払うものであったとしても。
ずっと考えてきた事柄が一朝一夕で解決するはずもなく、迎えた放課後。 掃除と部活と帰宅で慌ただしくなる教室の中、明日の休みに何処かへ出かけないかと誘われた泉は、友人たちの一人を呼ぶ声を聞いてそちらに視線を向けた。 見れば中年の男性教諭が少し困惑した様子で、泉たちにこちらへ来るよう手を振る仕草をしている。 何だろうと顔を見合わせ近づいたなら、実際には先程の一人だけを手招いたつもりの教諭はぎょっとし、再度彼女の名を口にすると他は違うと犬猫を追っ払うように手を払った。 「感じ悪ぅ」と口を尖らせつつも、いつもは大らかな教諭の緊張した面持ちに、込み入った話なのかもしれないと友人共々離れようとした泉だったが。 「――で、コロウと伝えれば分かると言われたんだが」 「……分かりました」 どこかで聞いた単語に続く、友人の硬質な返事。 引っ掛かりを覚えた泉は振り返るが、その時にはもう、教諭の姿も友人の姿も在らず。
何だったのかしら、あれ……
真相を追おうにも、他の友人の「帰りにケーキ屋のソフトクリームが食べたい」という、季節を考えれば寒々しい事この上ない提案に引き摺られてしまった泉。 よっぽど売上げのある店でなければ、冬場にソフトクリームを売るケーキ屋はないと知って解散した帰り道、ふと思い出した先程のやり取りに視線を俯かせて考える。 コロウ、コロウ、コロウ……何処かで聞いたような気がするんだけど。それも何か、とてつもなく良くない時に―― 「っと!」 かなり深く意識を奪われていたのだろう、誰かの腕に頭をぶつけた泉は「すみません」と謝るべく顔を上げては。 「す――うぉっん、さんっ!!?」 「……てめぇは何処の田舎モンだ」 妙なイントネーションが癪に障ったのか、秋の日以来、運良く避けていられたシウォン・フーリが忌々しそうに舌打ちをした。 あの時何も残さず居なくなった泉は、後ろ暗い気持ちごと全て清算するように愛想笑いを浮かべてお辞儀を一つ。 「そ、その節はどうも――」 「おいそこの餓鬼! 社長にぶつかって謝罪もなしに、その口の聞き方は何だ!?」 けれどもいきなり肩を後方に引っ張られては、その手の主であるやたらと目付きと柄の悪い男に睨まれた挙句、悲鳴を上げる暇も与えられずに振りかざされる拳。 辛うじて泉に出来た事と言えば、防御にもならない目を瞑るという行為のみ。 続く振動と共におぞましい打撲音が泉の耳にこだました。 が、痛みを受けたのは泉ではなく。 「てめぇが何だ。持ち場を離れて何していやがる」 低く威圧的な声を聞き、恐る恐る目を開けたなら肩を掴まれて逸らした腹の前、白いコートから伸びる長い足が泉を殴ろうとしていた男の腹に納まっていた。 身体を深く折り、男の口から出た涎が黒いスーツの裾に付く直前、目にも止まらぬ速さでそこから退いた足は、地を着く前に苦悶する男の頭を無造作に下へと蹴り落とす。 「っか、は……」 掠れに掠れた音が地に伏した男の開けっ放しの口から零れれば、その頬を踏み台にした黒い革靴の主は、緑の双眸を眇めて青黒い艶やかな髪をがしがし掻いた。 「なあ? 俺の記憶違いじゃなきゃ、てめぇは上司とお使いしているはずだよな、ええ? しかもあっちに行けと言った憶えはねぇってのに、何故この餓鬼の後ろから来る? お前の上司は何処で何をお前に命じてんだ? んな安っぽいビニール引っ提げてよ? 中身は何だ」 「あっち……って、この家って…………」 泉の視線がシウォンの向いていた方角を映せば、そこにあったのは極々普通の民家。 ただし表札に書かれている名字は、奇しくも一人だけ教諭に呼ばれていった友人と同じモノであり。 「どうやら酒盛りでもするつもりだったようですね」 淡々とした若い男の声にそちらを見た泉は、倒れた男が持っていたビニール袋を漁る、自分と同じ年頃の少年の姿に鈍る思考を揺らがせる。 状況からしてシウォンの部下らしき少年は泉の視線に気づくと小さく目礼、手に取った缶ケースをシウォンへと翳してみせた。 これに大きく舌打ちしたシウォンが「おい」と短く声を掛ければ、最初からいたのだろう数人の屈強そうな男たちが、友人と同じ姓の民家へと入っていく。 嫌な胸騒ぎに立ち竦むしかない泉を置き去り、気絶した男から足を退かせたシウォンが続いて民家の敷地へ一歩足を踏み入れたなら。 「いやあっ! 助けて……!」 先に入っていた男たちが民家の扉を開けた瞬間、制服を無残に引き千切られた下着姿の友人が、半狂乱のていでシウォンに向かって飛び出してきた。 あられもない姿の他に殴られた頬、刃物で切られた肌がシウォンの白いコートの陰から見え隠れすれば、追ってきたと思しき男たちが「待てこのクソアマ!」と叫びながらやってくる。 そうしてその目がシウォンの姿を捉え、恐怖するのを尻目に、泉は。 「……な、にを…………?」 二人の男が落としたカメラとナイフを認めては、ソフトクリームだなんだと自分たちが浮かれている間、友人を襲っていた惨たらしい現実を知り、ただ茫然と立ち尽くすしかなかった。
我を忘れて叫んでいた友人はシウォンの手により気絶させられ、そのまま病院に運ばれ入院する手筈となった。 外傷は頬の殴打と肌の切り傷。 しかし精神面の衰弱はそれよりも深く友人を傷つけており、死人のように青褪めた姿を泉に晒していた。 何も出来ないとは知りつつも同行を申し出た泉は、送るというシウォンの隣で俯いたまま、膝上の拳を小さく握り締めていた。 友達が大変な時に――。 そう自分を責める泉に対しシウォンは慰めを口にする事なく、沈黙を厭うように友人の身に起こったこれまでの経緯を簡単に語り始めた。 友人の父親は小さな会社を経営していたが、その資金繰りには不況もなんら影響を与えてはいなかった。 専業主婦である母親にしてもヘタな誘惑に嵌ることなく、公私共に順風満帆な一家であったという。 これが一変したのは、あの秋の時分。 両親が肉親の一人から連帯保証人を頼まれ、頷いてしまった事に端を発する。 情を与えた相手が逃げた矢先一家を襲ったのは、一生働き通しても返すのが難しいような莫大な借金と、伴う可笑しな連中からの嫌がらせだった。 そのせいで従業員が減っていけば仕事量も減り、築き上げてきた信頼も減る一方。 母親は昼夜問わず働く事を余儀なくされ、友人もバイトの日々に明け暮れていく。 だというのに負債ばかりが溜まる現状に疲れ果てた父親は、数多の金融機関から金を借り出し、最終的にシウォンの会社へと行き着いた。 元々が傘下の金融機関だったため、これを一挙に引き受けたシウォンは、とある条件と共に会社への圧力軽減を父親に仄めかす。 この条件というのが、 「返済期限に間に合わなかった場合、会社に纏わる諸々の権利と全財産、そして――娘の身柄を担保として引き渡す事だ」 「なっ!?」 悔やむ思いが瞬時に怒りへと熱せられれば、冷ややかな双眸が泉を出迎える。 「言っとくが俺は提示しただけだ。交渉もせず了承したのはあの娘の父親。……尤もあの精神状態でまともな判断が出来ていたかと問われれば。はっ、無理だろうがな」 「そんな……酷い…………」 「どこがだ? 付け込まれる奴が悪いのさ。キレイ事をどれだけ重ねようとも弱肉強食。言うなればあの父親とて例外ではなかろう。時化た会社とはいえ続けるには他を食い潰すしかない。奴のせいで括る羽目になった首は幾つある事か。まあ、俺が言えた義理ではないが」 一旦言葉を切ったシウォンは何も言えない泉を哀れむように見つめると、伸ばした手で顎を抓み、慰める風体で捉えた下唇をゆっくりと撫ぜていく。 「もう一つ付け加えておくなら、さっきのアレは傘下の駒が使えると言って寄越したゴミだ。最初から期待なんぞ毛ほどもしていなかったが、それでも折角の人身御供、返却状況の定期報告をさせようとすりゃ、ご覧の通りの有様。抵当がどれほどか、気まぐれにでも視察しとくモンだな。商品を危うく傷モノにしちまうところだった」 「っ! 商品って、あの子は」 「商品さ。このまま行けば、だがな」 激昂に任せて腕を払えば、これを圧倒する存在感で被せてきたシウォンが、泉の両肩を押さえて顔を近づかせる。 ギラつく視線に泉の喉が悲鳴を転がしたなら、それ以上は寄らずにニタリと笑う美貌。 「この前は挨拶もなしに袖にしてくれてありがとよ。お陰でお前を手に入れるには、とことん追いつめるしかないって事が理解できた」 「そ、れは……」 思い返せば逃げたと同義の過去を蒸し返され、何故今その話が出てくるのか分からない泉が眉根を寄せたなら、更にその身体をシートに倒してシウォンは言う。 「全く。何だってこの俺が、こんな餓鬼相手にここまでやってやらにゃあならんのか。焼が回ったとしか言い様がない――がしかし。そうまでしてお前が欲しいと言う事、念頭に入れて聞け、泉」 熱っぽく呼ばれた己の名。 添う身体に目を見開けば、触れるか触れないかの距離でシウォンの唇が泉の唇を擽った。 「お前の友人一家の人生、お前が俺のモノになるというのなら、それでチャラにしてやってもいいぜ? 前に聞いたワーズとの賭けにしても、俺の女という価値で充分釣りが来るだろう。どうだ? 悪い話ではないはずだ。だがもし拒むと言うのならば……友人が堕ちていく様をその目に直に焼き付けてやる」 「…………」 常軌を逸脱した表情でシウォンは歪に笑う。 何が彼をここまで泉に執着させるのかは知れないが、語りの全ては真を告げていた。 泉が頷けば友人の人生は保障され――頷かなければ眼前に青褪めるよりも惨たらしい姿が横たわる。 迷いは、不思議となかった。 それは半狂乱に陥った友人の姿を見たくないという、思いから来るものでもあり。 何より。 どちらにしてもあの人の元を離れなければならないなら、せめて近くにはいたいから。 この人の傍なら、あの人を見つめる事は出来るはずだもの。 たとえ望まぬ人に求められるがまま、肌を許す事になるとしても。 静かに閉じた瞳が先か、食らい尽す勢いで貪る唇が先か。 結わえられた褐色の髪がクセを思い出して流れるのを、解き放ったのはどちらであったか。 あの秋の日とは違い、受け入れるようにシウォンの背中へ手を這わせた泉は、遮光ガラス越しの外、暗がりに落ち始めた雪を見つけ、下がる頭を抱きながらか細く啼いた。 |
UP 2010/5/28 かなぶん
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