次の日、ひよこ 

 

 茫然とする事、瞬きの数度。

「…………っ」

 一連の行動を受け、言い知れぬ不安が小春の中に沸き起こる。

「久紫さん……!」

 襖を閉められた拍子に、若干よろけた足へ力を入れ、襖を開けては閉めもせずその背を追った。

 久紫の背を襖に遮られてから、そう時間は経っていなかったのに、着物の裾を少し乱しても、廊下に彼の姿は在らず。

 小春が向かっているのは、父の書斎兼寝室。

 本を小脇に抱えた久紫のこと、行き先ならまず、返すために書斎へ向かうと踏んで。

 真っ先に、矛先を決めた……けれど。

 同時に、本当は反対側にある玄関へ、久紫は行ってしまったのではないか、とも思う。

 早足の最中、幾度となく生じる迷い。

 何度、歩が緩みかけたか知らぬ。

 広くても限りある屋敷内、書斎に姿がなければ、すぐさま玄関へ向かえば良い、それだけの話――だというのに。

 怖かった。

 目的の場所に、彼の姿がないという、その想像だけで息が詰まる。

 途中、すれ違う人影はあれど、どれも手伝いの女のもの。

 親しげに話しかけられても、返す余裕なく、小春は信貴の書斎の襖を見ては、更に歩を早め。

「久紫さんっ!」

 襖を開ける動作に合わせて名を呼んだ。

「小春……? ドウした、そんなに慌てて」

 すると返ってくる、棚に向かい合い、本を納める久紫の丸くなった目。

 ようやく捉えられた彼の姿に安堵した小春は、襖の縁に手を当て身体を支えながら、荒く息をついた。

「い……え、な、何でも…………」

「――言うワリには、息が荒いぞ?」

 久紫のからかう口調に反論も出来ず、息を整えるだけで精一杯。

 少しだけ回復したなら、顔を久紫へと向けた小春、奥に机、両側に本棚を備えた中央、敷かれていた布団が畳まれているのを知った。

「お、ふ……とん」

「ム?」

「久紫、さんが、畳まれ、て?」

 久紫を起こしには行ったが、彼を残し居間へ向かった小春に、布団を畳んだ覚えはない。

 では、手伝いの女たちかといえば、人形師の世話は小春の役目、というのが彼女らの暗黙の了解らしく、配膳一つとってみても、小春に全て任されていた。

「アア。湿気が籠もるとも思ったんダガ、運ぶならばそちらの方が良いダロウ?」

「あ……」

 そこで気付く、抜け落ちていた世話役としての仕事。

 布団干し。

「も、申し訳ございません、只今」

 疲労の回復もそこそこに、襖を押して自分の身体を前へ出す。

 もつれる足も考えず、小春の頭にあるのは、外の天気・温度。

 昼餉を終えてしばらく経った今、春という季節柄陽のある時刻は伸びても、夕方となれば涼しい風が吹く。

 乾ききる前に布団が冷たくなってしまいそうだ。

 まさか冷え切った布団を敷くわけにもいかず、かといって、来客用に閉まっている布団では、押入れのニオイが染み付いているはず。

 不甲斐ない、そう思えば、畳の些細な凹凸に躓く足。

「っ」

「おっと」

 受身も取らず倒れかけ、その前に腕が一本、小春の肩を前から抱いた。

 どくり、追いかけてくる、倒れた恐怖に縮む心音。

 膝から床に落ちそうになったなら、支える腕も共に下降した。

 隣に久紫がしゃがみ込む気配。

 溜息をつかれて、叱られたように肩が揺れた。

「大丈夫カ、小春?」

「……はい」

 反し、掛けられた声は気遣う音色。

 呆れられた方がまだ良かったかもしれない。

「申し訳、ございません……お布団を干し忘れたばかりか、この様な失態を」

 小さく、久紫の見えないところで唇を噛む。

 半年間、世話役から離れたくらいで、自身のやるべき事を見失うなど、あってはならないのに。

 だからと、感情のまま涙を流すのは、残っている自尊心が許さなかった。

 

 仕事で弱みを見せてはならない――在る日の信貴は語る。

 

 喜久衛門の世話役を務めることになった、まだ幼き小春へ。

 確かに涙は女の武器となるが、使いどころを誤れば、性別だけで己を侮られることになる。

 そもそも、裏方に徹する世話役に涙はいらない。

 涙とは情ある者にしか通用しない手だ。

 世話役が接する相手は、人でも物でもなく、情そのもの。

 微に入り細に入り、何が必要でそして何が不要か。

 決して心には添わず、だからと見当違いを行くことは許されぬ。

 ただ、その心が世話役の手により、良くも悪くも変化することなく、身の利便だけを優先しろ。

 ゆえに、世話役を人と見ず、道具のように扱う者もあるが、それこそが誉れと思え。

 褒められる事、卑下される事、接する心に変化を与えるならば、これを不服とせよ。

 信貴にそう聞かされた小春は、すかさず返事をした。

 「はい」、と。

 しかし、彼は続けて言う。

「というのが、私の考える世話役だ。はっきり言っておくとな、小春。あの古狸……もとい、宮内殿は、それを良しとしない例外だ。こちらが世話役を務めようと思っても、何かにつけて飴玉を寄越したり、と思えばいきなり足を引っ掛け人を転ばすような、どうしようもない方だ。これに一般的な世話役のまま応じるのは難しい。とりあえず、適当に合わせておけ。大丈夫。あれでも無駄に齢を重ねたお陰で丸くなられたはずだ。それに最悪を経験した後なら、この先、どんな相手に仕えようとも柔軟な対応が出来る。ていの良い、実験道具だと思えば――」

「……信坊。お前、子に教える時はいつもこうなのか? せめて本人のいないところで教えよ。第一、飴玉をやったところできっちり金を払い、足を引っ掛けたところでその足を容赦なく踏みつける輩に、どうしようもないと言われとうないわ」

「おや、宮内殿、いらしたのですか。これは気付かず、とんだ御無礼を。それにしても、なかなか骨のある方がいらっしゃったものですね。いやぁ、天下の古狸……もとい、宮内殿をして、そうまで言わしめる御仁がおられるとは。私もひと目、見てみたいものですな」

「ぐっ、この……ならば、毎日鏡を見るがいい。ひと目どころか、幾度でも見られよう」

「いえいえ。化粧をする身でもあるまいに、鏡なんぞ見る機会はありません。宮内殿と違って私は暇ではありませんので、っとと。すみません、つい、本当のことを」

 等等。

 

 

 ついでに思い出したやり取りに更ければ、はたと我に返った小春。

 支えられたままの腕を知り、慌てて顔を上げた先、久紫の呆れ返った面持ちを目の当たりにした。

「小春……確かにアンタは世話役かも知れないが、今の俺は、アンタに世話をして貰う身ではナク、世話を掛けている。人形師のクセに人形も作っておらん相手、失態も何もナイだろう?」

「で、ですが、久紫さんは」

「そう……ソウだ。厄介になっているハズなのに、その意識も忘れ、布団を畳むダケに留めてしまった。全く……不甲斐ないな、俺は」

 言って、するりと離れる久紫の腕。

 支えを失い、畳に座り込んだ小春は、廊下へ向かう久紫の背を見やり、何か交わす言葉はないかと探した。

 たとえ、人形を作っておらずとも久紫は客なのだから、世話をかけている、厄介になっているという意識は違うのではないか――。

 そんな言葉がすっと浮かぶ。

 けれど、そっくりそのまま言ったところで、久紫が喜ぶとは思えず。

 結局、父の説いた一般論は、小春に実践できないと知った。

 世話役勤めの最初が、喜久衛門だったせいもあるだろうが、一対一だとどうしても、仕える相手に喜んで欲しいと望んでしまう。

 仕える、相手……?

 ふと、違和感を覚えた。

 小首を傾げても回答は転げ落ちて来ず。

 クツクツ笑う久紫の声に、意識がそちらへ向けられた。

「気にするナ、小春。布団は明日にデモ干せば良い。本当は俺がヤルべきだろうが、陽の暮れる前に探す必要があるノデな」

「探す……一体、何を」

 首だけ振り向いていた己の姿を正し、久紫の言を待てば、キョトンとした顔が象られる。

 すぐさま、苦笑のていに変えた久紫、目を細めて言った。

「今宵の宿だ。昨日は勧められるママに泊まってしまったが、これ以上迷惑は掛けられん。本当ならマズ、俺の――人形師の家が出来上がるマデ、長期滞在出来る宿を探すべきだろうが。交渉は陽の高い内が良い」

「……何故?」

 久紫の意を量るまで時間が掛かった。

 ぽつり、一言だけ問いが零れたなら、頬を掻いた久紫は気まずそうに。

「暗くなると、人は増して感情的に為り易いカラな。知っての通り、俺は人と接するのが苦手ダ。だというのに、苦手な感情を剥き出しにされた状態では――」

「そういう意味ではございません!」

 剥き出しの感情を厭うと言われたばかりなのに、久紫へ被せた声は当にそれ。

 目を丸くした久紫以上に、小春自身驚き、口元を覆っては小さく謝罪する。

「す、すみません。ですが、わたくしがお聞きしたいのは、そのような事ではなく……何故、宿をお探しになるなどと? この屋敷をお使い頂けるのに、何故、探す必要が」

「ム? そうか。外聞もあったナ。俺を呼んだ幸乃家の人間がいるというのに、他に宿を探したのでは、悪い噂が立ってしまう、カ」

「っ! そのような事は思っておりません。ただ、わたくしはっ」

「小春は――」

 今度は久紫から、静かに言葉を被せられ、小春の声が喉の奥に消える。

 見計らったように、座ったままの小春へと歩んだ久紫は片膝をつき、伸びたとはいえまだ短い黒髪を軽く撫でた。

「小春は、肩肘を張り過ぎダ」

「……ぇ?」

「気付いていないヨウだが、アンタは今日一日、俺の事ばかり気にしていた。アンタの後に付いていた俺が言う事デハないが……小春の姉、スズカと言ったか。あの女も気付いていたのだろう。鬱陶しくないか、とは、俺が後に続く事を指してではナイ。俺自身を指していたんだ。居間の茶にしても、アンタは世話役に徹し、俺の家にしても早い手配を、と」

「それは……」

 久紫が少しでも暮らしやすいように。

 考え出た結論。

 なれど、世話役の否定にはならず。

 続けて久紫は困ったように笑った。

「ナア、小春? ココはアンタの家だろう? ソレなのにアンタ自身が休めないのは可笑しい。幾ら家事をこなす必要があるとはいえ、手伝いの女ドモは己の時間を上手く見繕っている。手際の良さも少なからずあろうが……俺は、アンタの負担になりたくないんダ」

「!」

 負担、なんて。

 思ってもみなかった言葉を掛けられ、絶句する小春をどう思ったのか、久紫はふっと笑みを深め、軽く彼女の頭を叩いた。

「フム。少し、言葉が悪かったか。まあ、最後の部分は聞かなかったコトにしてくれ。……そうだな。俺の意見を尊重シタと思えば良い」

 昨日のやり取りを出され、二の句も告げない小春を残し、廊下へ出て行く久紫。

 去り様、振り返ってはにこりと笑い。

「じゃあな、小春。マタ、明日にでも顔を見せに来ル」

 小春の返事も待たず、行ってしまった。

 あまりにもあっさりした態度を取られ、しばし、茫然としていた小春だが。

「……久紫さん」

 おもむろに立ち上がっては、よろける足取りで廊下を出る。

 混乱する頭では早足すら考えられず、ふらふら覚束ない足取りで玄関へと歩みを進めた。

 途中出会う、手伝いの心配の声には、青い顔をしつつも大丈夫と告げて。

 何が悪かったのだろう。

 昨日、久紫を背にして告げた言葉は、確かに本心であったはずなのに。

 今日、久紫から同じ言葉を告げられたなら、眩暈に似た苦しさが襲ってきた。

 思考すら、満足に紡げない程、息苦しくて。

 ――突き放すようなコトを言わないで欲しい。

 そう言った久紫の想いを今頃になって真実、思い知る。

 相手を慮れば慮る度、ずれて離れていく感覚。

 幽藍で巡る噂を恐れて、幸乃の屋敷を後にしようとした久紫と。

 安く過ごして欲しいと、新しい家の話を持ち出した小春と。

 どちらも相手の事を考えて。

 けれど久紫は、彼は小春と違い、後に告げた。

 ココ以外に行くところなどない、と。

 では……

 わたくしは、どうしたいのでしょう?

 振り返れば小春の言は、同じ立ち位置で久紫を想うようでありながら、その実、全てが世話役という役目を軸としていなかっただろうか。

 本島から幽藍島へ戻る際、自分から動くべきだと気付いたはずなのに。

 世話役に甘んじるばかりで、周囲から小春個人として動くよう促されなければ、満足に久紫の下へすら赴けず。

 だが、それなら何故、自分は今、久紫の後を追っているのか。

 久紫の背を追う今の小春に、世話役としての考えはなかった。

 誰かにそうするよう、促された覚えもない。

 ならば。

 答えなぞ、考えるまでもなく――

 玄関先から届く声。

 久紫と、誰かと。

 話し込んでいたのか、滲む笑いに小春はほっとした。

 まだ、久紫はココにいる。

 しかし、次いで聞こえて来たのは、苦笑混じりの「じゃあな」という別れの言葉。

 久紫の声で、紡がれたソレ。

「っ!」

 息を詰めた小春。

 履物を求め、久紫の薄茶の背が下を向いたところを認めたなら。

 不安定な足はどこへやら、床を蹴って走り出す。

 

 


2009/8/3 かなぶん

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