小春side 十六
気遣い、心配、全てが鬱陶しい。 大人しく寝て治せというのなら、お願いだから独りにして頂戴。 けれどここは久紫の家。 出て行けと言われる身は己で、言う資格のある人形師は傍らで、労わる視線を投げてくる。 幸い、倒れてからずっと、呼べば応えてくれる手伝いのお陰で、彼女が絹江へ連絡に向かう間を別すれば、久紫に頼る機会はほとんどない。 それでも彼が小春の傍に居続けるのは、偏に信用がないせいだ。
「……小春さん、また脱走しようとされたのですってね」 刺を存分に余すことなく含ませ、見舞いに訪れたさつきの第一声がこれ。 ぶり返した熱にふいっと顔を背ければ、深々と溜息がもたらされる。 「何を考えてらっしゃるやら。久紫様の看病なんて、羨ましい……もとい、貴重な体験をご自分からふいになさるなど」 林檎の皮を随分滑らかに剥き、小春に小さく切り分けたのを渡す。多少歪な形ながら、広がる甘さは熱に心地良い。 さつきがどうぞと渡すのを、久紫も躊躇いながらではあるが口にした。 林檎では味はさほど変わらぬというのに、驚きに開かれる瞳と、艶やかに笑むさつきを見比べ、内心良かったと思いながらも、顔はふてくされたまま。 「もう大丈夫だと思ったんです」 「素人判断も甚だしいですわね……その実、小春さん、長引かせたいだけなのでは? そうすれば久紫様、ずっと傍にいてくださいますものね」 ああ羨ましい、と顔を背けるさつきに、 「……ソウなのか?」 乗る久紫の笑いを堪える様に、妙な苛立ちを覚えた。 「違います。全然、全く、そんなつもりはございません!」 「まあ、いいですけれど? わたくしとしては、脱走なんて無茶なさらず、早く治って欲しいものですわね? まだ習得していない技もありますし?」 突き放すようにそう言われては、小春としても大人しく頷くしかない。 大丈夫? と問われるよりも、優しく響く皮肉は、さつきなりの案じ方なのだろう。 そこへ控えめな板戸を叩く音。手伝いの女が現れ、久紫とさつきが出て行く。
支えられながら清拭と着替えをする中、板戸の向こうが騒がしい。 声の煩さから伸介だと分かり、窘める悲鳴染みたのは瑞穂のものだろうか。 さつきや久紫の叫び声まで聞こえて、楽しそうで、少し羨ましい。 「すぐに良くなりますから」 驚いて見上げれば、女がにっこり笑っていた。心情が顔に出ていたのかと火が出る思い。 「良くなる前に、家に帰りたい……」 「それは……奥様次第ではないでしょうか……」 膝立ちで向き合い、こてっと女の肩に頭を預ける小春に、多少同情する声音が含まれる。 倒れた当日、手伝いを引き連れてやってきた絹江は、小春の身を慮り、しばらくこの家に滞在できないかと、熱にうなされる小春を差し置き、久紫に相談した。 あっさり了承した久紫も久紫だが、絹江はその後も、外に出ては体に障るからと、帰宅の許可を出してくれない。 確かに幸乃の家はここからだと町よりも少し遠いが、支えられればどうにか帰れそうなくらい回復したのに。 熱を吸った寝巻きを脱ぎ、ひんやりと心地良い新しいものに袖を通す。 「だーからっ! ちょっとくらい大丈夫だって!」 突然鮮明に聞こえる伸介の声。 丁度背にした板戸を見れば、それがぐらりと内側に倒れてきた。 唖然と固まった手伝いとは裏腹に、小春はぼんやり板戸の上に積み重なった、伸介と久紫、瑞穂を見やる。 暴れる伸介の首を久紫が絞め、瑞穂は助けもせず、その頭に袋を被せていた。
さながら殺害風景。
と、伸介を押さえつける久紫がこちらに気づいた。 一瞬驚きに固まって後、 「――ス、スマンっ!」 伸介を物凄い勢いで引っ張り居間に戻っていく。 何事かと己の体を見れば、着替えの最中。 けれど手伝いが板戸を背にするよう計らってくれたため、両袖を通した姿では、背中が少しばかり見える程度だ。 熱も手伝って、そう騒ぐほどのことでもないように思われた。 「……いかがされたのでしょう?」 手伝いに顔を移せば、笑いを堪えているような、困ったような、不思議な表情に迎えられた。
本来であれば着替えを覗こうとした伸介が謝るのが筋。 しかし、頭を深々と下げるのは、顔を朱に染めあげた人形師。 「スマン、本っっ当っに、スマないことをした!」 「異人さんが悪い訳では……それに見たといっても、少しばかり背が見えただけでしょう?」 「ほうほう、じゃあお言葉に甘えて背中だけでも――って、じょ、冗談だ!?」 対照的に近づこうとする伸介の首に、瑞穂が容赦なく腕を回す。 あの夏祭り以降、小春に目撃された恥ずかしさも手伝ってか、伸介に対する遠慮の一切を瑞穂は無くしてしまったようだ。 良いことと思われる反面、いつか本当に旅立たせてしまうのではと、小春は苦笑する。 「それに同じ背でも、雪乃さんの方が艶めいてらっしゃいますし」 悪戯っぽくそう笑うと、奇妙な沈黙が流れる。 小春の方を向く目がどれも哀れむようなもので、頭を上げた久紫に至っては珍妙な表情が浮かんでいて。 「……わたくし、何かおかしなことでも?」 「いや、うん、まあ、なんだ。それならお言葉に甘えて、俺が拝見――っが!」 そそくさ出て行こうとする足を素早く久紫が払う。 「アレは俺にとって貴重な合作ダ! 勝手に触れるナ!」 あまりの剣幕にくすくす笑えば、久紫は口を押さえて項垂れる。何かしら後悔した様子に首を傾げた。 とそこに、かなり呆れた面持ちのさつきが手を叩く。 「皆様? 小春さんは病人ですよ? 少しはお静かにしてはいかが?」
「どひゃひゃひゃひゃ」と下品な伸介の笑い声に、寝所で置いてきぼりにされた小春は眉を顰めた。 全員を見送った後で戻ってきた久紫は、碌に目も合わせず口元を押さえて項垂れたまま。 考えている風にも見えて、具合悪そうな様子に、己の病がうつってしまったのではないかと青くなった。 「異人さん、お加減でも?」 「イヤ、そういうワケでは……」 けれど俯いたまま言われては、説得力など欠片もない。 病人扱いもいい加減飽きてきた小春は、ここぞとばかりに、 「具合が悪いのでしたら、早くお休みになってくださいませ。わたくしも大人しく寝ていますから、そうまでして付き添われなくても大丈夫です。世話役を世話して貴方様が病にお倒れになられては、どうすれば良いやら」 攻め立てるように言えば、久紫の顔が上がり手が離れる。 「イヤ、大丈夫だ」 「……そんなにわたくしは信用なりませんか?」 半眼で尋ねれば目を思い切り逸らして、また俯き口を押さえる久紫。 意地でも動かぬ様子に、小春は頭の痛い思いを抱く。 そうしてまた、口を開きかければ、 「頼む。傍にイさせてクレ」 口元を離れた手は、今度は目元を押さえる。 吐息混じりのそれに、小春はみるみる顔が赤くなるのを感じた。体が妙な緊張感を伴って固まってしまう。 どうしたのだろうと問いたい反面、病の熱とは別の熱に絡まる舌が上手く回らない。 こんな状態の時に顔を上げられたら―― しかし、小春の心配を他所に久紫は俯いたまま、溜息を深く吐いた。 「師匠は俺が席を立った時に死んデしまった。まるでソレを待っていたヨウに。だから……死なないでクレ」 「異人……さん?」 懇願に覗いた片眼鏡の奥で、影が揺れていた。 本当は黒に近い灰が、黒よりなお暗い光を湛える。
――――そう、でした。
言葉を失くして小春は視線を受け止める。 最近では名を口にすれば、怒りと困惑を混ぜた様子に、完全に失念していた。 彼の師、宮内喜久衛門は流行り病で死んだのだ。
久紫が看病をしている最中に。 |
UP 2008/2/25
かなぶん
修正 2008/4/24
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