小春side 十七
看取ったと聞いて、死の間際独りではなかったのだ、良かったとのたまった己が憎い。
棚を背にぽつりぽつりと語る久紫の横顔を見つめ、小春は思う。 どんなに怒りや困惑を内在させて、名を嫌うように見えても、確かに喜久衛門は彼にとって大切な人であったのだと。
「佐々峰雪乃とイウ女を知っているか?」 問われて頷けば、 「俺はアノ女が大好きだった。そして――トテモ恐ろしかった」 そう語りだす。
久紫が彼女と出逢ったのは、喜久衛門と共に異国を幾度となく放浪した後の、本島でのこと。 手伝いをしてくれる、そう喜久衛門から紹介を受けた。 人見知りの激しかった久紫だが、雪乃にはすぐ懐いた。 それは恋の類に似たもので、けれど、故に気づいてしまう。 雪乃の、喜久衛門への想いに。 不思議なことに傷つくことはなかった。二人の寄り添う姿が、隙間なく合っていたせいかもしれない。 喜久衛門は、彼なりに雪乃を愛していたのだという。 長い間人形にしか興味を持たなかったために、その想いは不器用で下手で―― そんな喜久衛門が花街へ行く際、雪乃は淋しそうな顔を見せるが、心配する久紫にこう言う。 「あの人は、研究熱心だから」 安心させる微笑み。 だから知っている、分かっていると思っていた。 ある日、喜久衛門の下に女が一人やってくる。 騙り、たかろうとする女を彼は冷たく一瞥し、 「悪いが、ワシは生きた女の動きには用があっても、興味は一切ない。全て、人形がためのこと」 非情ともとれる言葉に、女は口汚く罵って帰っていく。 振り返って久紫と雪乃に悪戯っぽく笑ってみせた。 「しつこい女はこれに限るさね」
「…………ええと……それは……?」 尋ねずとも、鼻の頭を掻く様子に、先ほど皆が妙な視線を送った理由を知る。 つまり、久紫もこの手を使って、さつきを払ったわけだ。 確かに効果はあった。否、あり過ぎた。 すっかり、今のいままで信じ込んでいた小春は、遅れてきた羞恥に頬を染めた。 あの様子では、どうやら皆、気づいていたらしい。 かなり酷い勘違いをし続けていたのは自分だけ。 まともに久紫の顔を見られなくなって俯いた頭だが、覗いた先の違和感に首が傾きかける。 だが束の間のこと。 苦笑混じりの、けれど痛々しい声音が被さっては、ぼんやりしたそれは掻き消えてしまった。 「ソウ、追い払うための嘘ダッタ。だが、彼女は信じてシまった」 小春の脳裏を、冗談交じりに思ってしまった姿が過ぎる。 さつき辺り、本当に――
喜久衛門に微笑み返した雪乃は、その日の夕方姿を消した。 子供ではないからと久紫を落ち着かせようとしていたが、久紫の目からは喜久衛門の方こそ焦燥にかられていた様に見えた。 そして明けての早朝、雪乃は近くの海岸に打ち上げられた。
沈黙が落ちる。 小春はいつかの冗談に青褪め震えた。 けれど久紫の語りは先を告ぐ。 「雪乃は…………マダ生きていた。彼女が本当に“死んだ”のは、ソレから一年後。師匠が死ぬ、一年前だ」
海岸から引き上げられた雪乃が目覚めたのは、それから十日ほど経ってのこと。 丁度喜久衛門が席をはずしていた時。 久紫の袖を彼女が引いた。 目覚めに驚き、師に伝えようとする彼を、彼女は止めた。 細い線のどこにそんな力が隠されていたのか、雪乃は痺れるほどの力で腕を握る。 「いいの、分かっているのよ。あの人は、私を見ないでしょう?生きてる、こんな女を」 違う、そう言おうとも、届かないと知った。 どうして目覚めた時、彼女の傍にいたのが喜久衛門ではなかったのか。 部屋に戻った喜久衛門は、目覚めを喜び抱きしめたが、雪乃が自嘲気味に笑うのを見たのは久紫だけ。 以来、雪乃は徐々に壊れていく。 喜久衛門がいなくなれば、しばらくは去った戸を愛おしそうに眺め、ある時は頬ずりまでする。 これを咎めれば、久紫をあやすように抱きしめて、 「可哀想な子。貴方も置いてかれたのね」 そんな風に同情する一方、 「貴方じゃ、あの人のような人形は造れないんだもの、仕方ないわ」 そう卑下して突き飛ばす。 久紫はその頃、世間の評価に値する人形を造れるようになった反面、そのあり方に悩む時期だった。 見透かされた思いで「俺は師匠ではない」と叫べば、雪乃は「そうね」と穏やかに笑うのだ。 無駄だ、諦めろと言われている気がして、久紫は雪乃の看病を止めた。 数日後、喜久衛門の下を訪れた久紫を待っていたのは、雪乃の死。 白い布を取り払えば、熱病に浮かされた柔らかな表情が現れる。 衰弱死だったと告げられながらも、呼べば起き上がりそうなほど穏やかな相貌。 式を終え、打ちひしがれる喜久衛門に、言葉など掛けられなかった久紫だが、その行動にぎょっとする。 眠りについた雪乃の、長く艶やかな黒髪を、あろうことか無残に切ってしまったのだ。 唖然とする久紫に向かい、喜久衛門は驚くほど正気を宿した眼で頭を下げる。 「久紫よ、人形の肌を――ワシには出来ぬ、お前の腕を、貸してはくれまいか」 頼み事など一度もされたことのなかった久紫は、容易く頷いてしまった。
「出来上がった人形を見て驚いタ。アノ人形は、“雪乃”の死に顔にソックリだった。そしてアノ髪は違え様もナイ“雪乃”の――」 雪乃の経緯を聞き、思う。 果たしてその喜久衛門は、“雪乃”の死後、幽藍へ訪れた喜久衛門だろうか? 変わらずふざけた態度の好々爺に、小春は胸元を握り締める。 同時に、どちらも喜久衛門だったのだろうと結論を出した。 そしてきっと―――― 「…………いぶかしム俺に、師匠は晴れ晴れと笑って。その後はイツも通り、花街へ行ったりシテは、馬鹿をやって……非情とも思えるホド“雪乃”の話題も口に出さず、造り出したアノ人形でさえ、関心を寄せず――そして、倒れた」 自戒するようにまた俯いて目元を押さえる。 「長いコト、傍にイタんだ。寝てりゃ治るというノに、気づいたら寝所から消えるなんてザラで。人をからかっている、ソウ思ってた。だから、水が呑みたいとイウのに、マタ脱走する気かと問えバ、一瞬驚いた顔をして、バレたか、と」 深い溜息が漏れる。泣いているような、胸を押しつぶすような吐息。 けれどこちらに目線を合わせた瞳は、涙など浮かばず、乾いたもの。 「アリガトウ、と言われたんだ。仕方ないと背を向けた時に。スマナカッタ、アリガトウ、と。似合わナイ言葉に俺は振り向きもセズ……」 振り向いていたら、どうなっていたというのか。 小春は、しかし、察する。 「…………喜久衛門様は、病んでらっしゃったのですね…雪乃様と同じように、精神を」 囁きに熱が浮かんできた。 これに久紫は慌てた様子で小春の背もたれを除いて寝かし、布団を首下まで掛ける。 額に押し当てられた手はひんやり心地良い。 「ソウだ……師匠の葬儀が終わってカラ遺品を整理する中で、日誌を見つけタ……他人の日誌なぞ、そうそう見るものではナイな」 一体何を見たのだろうか。 優しく額を撫でる顔は、苦悶に満ち、今にも泣きそうで。 そっとその袖を掴んだ。 少しばかり見張られた瞳に、神妙な面持ちを向ける。 「わたくしは死にません。まだまだやりたいこともありますから。大人しく寝てれば治るのですから、ね?」 「ソウ……だな……」 額から離れた手は、もう一方の手と共に袖を掴む小春の手を包む。 優しげな様子に顔を朱に染めながら、これは熱のせいと言い聞かせた。 「でも…………やはり傍にはいないでください」 ハの字に曲がる眉に苦笑を漏らす。 「忘れて頂いては困りますが、わたくし、これでも女人のつもりですから」 「アあ……いや、違うゾ?今のは深い意味はナクて、忘れて……いや、ソウではなくて」 途端しどろもどろになる、初めて見る様があまりにおかしくて、小春の目尻から一つだけ涙が零れた。 |
UP 2008/2/29
かなぶん
修正 2008/5/29
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