小春side 二十二

 

 幸乃信貴の目利きは、何事にも代え難く、素晴らしい。

 引く手数多の彼を春野宮に留めたのは、偏に、先代への恩。

 けれど、春野宮の先代は少しばかり前に逝去する。

 慌てたのは側近たる彼に、長い間寄り掛かり過ぎた、肥えし本家の膿。

 何か手はないか、考える彼らに、一計を案じた者がある。

 柔らかな人好きのする笑み。

 本家の嫡男であり、兄たちより次期当主に近い彼は、言う。

「時代錯誤ながら、人質、というのはどうでしょう?」と。

 

 

 こちらに来てからというもの、掃除どころか作法の一つも習えと言われず、小春は暇を持て余していた。

 監視する目つきの手伝いに、自分は何かした方が良いのではないか、そう尋ねれば、意外なほど晴れやかに微笑まれ、

「いいえ。小春様に作法なぞ、必要なしとお見受けいたします」

 また、厳しい顔に戻る。

 だからこそ、座って月夜なんぞ見つめれば、回され絡み付いてくる腕があった。

「そんなところに座りっぱなしじゃ、体が冷えてしまうよ?」

 いつでも笑みを絶やさない男の囁きにも慣れ、諦めに似た溜息を吐く。

 静かな抵抗とばかり、腕に手を乗せれば、逆に包まれてしまう。

「へぇ?随分綺麗な手になったじゃないか」

 言葉通り小春の手は、家事から長く離れていたため、あかぎれが薄まっていた。

 あれほど嫌っていたものでも、なくなると少しばかり寂しい。

 そう思わせるのは、あかぎれた手が確かに、小春の生きた証しであったせいかもしれない。

 幼い日より、家事の手伝いに勤しみ、痛みや憂いを引き起こしながら、同時に、必要とされる勲章のように刻まれた証し。

 今の小春には望めない、ひやりとする、厭う痛みの名残は心に突き刺さるのみ。

 生から離れた手は、本来のきめ細やかな滑らかさの、死に近い冷たさを保つ。

 その手触りを楽しむように、志摩は抱きしめたまま遊ぶ。

「小春ってさぁ。肌、綺麗だよねぇ」

「…………有難うございます」

 本家に来てからこの方、短い髪を恨めしく思わない日はない。

 髪がもっと伸びてくれれば、首筋へ口付ける志摩を少しでも邪魔してくれただろうに。

 笑う揺れが小春にも伝わり、月が歪んだ形になる。

「……志摩様」

「何かな?」

 首を捻れば倒され、志摩の胸に体が押し付けられた。

 自然と見上げる形になれば、敵のように嫌う顔が眼前に広がる。

「貴方は……嫌ではないのですか? このような……策略染みた婚姻が」

 頬を撫ぜる手にも構わず見つめ続ければ、笑んだ唇が目蓋に落ちる。

「そうだねぇ…………確かに婚姻なんて、窮屈だし、面倒だ。女の加減を一々気にしてやるなんて、馬鹿らしいだろう?」

「…それでは、わたくしは女人ではない、と?」

 不思議そうな瞳をやれば、志摩は心底おかしそうに、小春を胸に体を折って笑う。

「まさか。君は最初から立派に女であったよ?そうでなけりゃ、こんなこと、私はしないさ」

「っ!」

 顎下をざらりと這う舌。

 しばらくじっとする志摩に合わせ、小春も身動き一つできず――

「ふぅん……みかんは来ない、か。どうもあれ、唇に触れようとすると、やってくるらしいね?」

 小春の下唇をなぞった指をそのまま舐め取れば、みかんが志摩のこめかみに当たった。

 随分と力の入った一投だったようで、ぼとりと床に落ちたみかんが拉げている。

 またくつくつ笑う志摩は、尚も小春を胸に抱いたまま。

「何の話だったっけ? ……ああ、そうそう。婚姻の話だ……結構面白いこと訊くよねぇ、小春は。私が嫌じゃないかって? どうしてそう思うのか、凄く不思議だけれど――」

 逃げられないように、しっかり腕が這わされ抱きしめられる。

 頬を這う手が首を伝って肩を掴んだ。

 頭に、目元に、額に、鼻先に、頬に、順に柔らかな感触。

 悲鳴も上げない小春に、志摩は耳にも唇を落としながら、

「こんな風に小春で遊んでも、誰も咎められない、なんて、君が好きな私としては、充分良縁だと思う――だっ!?」

 どこから飛んできたのか、続々襲うみかんは、計算されつくしたように汁すら小春には付けず、志摩が小春から離れるまで、彼の顔面のみを殴り続けた。

 

 

 酷い目にあったよ、と汁塗れになってまで笑う志摩を、それでも嫌う己を、一人、小春は考える。

 理由は明白。

 傍目には小春を口説いている風にしか見えないが、その目はいつだって何が益かを小春に問うてくるのだ。

 正直、息が詰まる。

 肉親のためにここまで来て、望まぬ縁談に落ち着こうとする小春とは対照的に、志摩はそんな小春の内情をひっくるめて、玩具程度にしか考えていない。

 このまま婚姻を結べば――

 先を想像すればあまりにおぞましく、青褪めた顔で己の身を抱く。

 しかし、涼夏が治るのなら……と、自暴自棄とさえ思える気持ちも同居していた。

「想い、想われ、なんて、疲れるだけ……」

 軽く、重い、呟き。

 ぽて、と小春の頭に乗る物がある。

 軽い衝撃はあったが、微々たるもので、何事かと去らぬ重みを手に取った。

 目の前まで運べば、みかん。

 まるで小春を責めるように、橙の無表情は冷たく見つめ続ける。

 それにどういう訳か重なる影は、似ても似つかないのに。

 次第に歪む視界を止める術さえなく、小春は崩れてしまう。

 

 額に押し付ける冷たさは、あの日の手よりも、ずっと、冷たい。

 

 

 

 煌びやかな衣装に身を包まれても尚、陰鬱な表情を浮かべる小春を気遣う、なんて芸当、志摩には期待していない。

 無遠慮に「似合っているよ」と笑う優しい顔を、頬を撫でる手を、拒絶できたらどんなに幸福だろうか。

 手を引かれて席に座れば、厳しい顔の老人が目の前に座している。あれが現当主だと志摩が囁く。

 周りをぐるりと囲うのは、ふてぶてしい相貌の男たちが大半に、老人と似た顔が数人。

 志摩に似た若い顔もあるが、どれも何かに怯えるような目をしていた。

 志摩が小さく、彼らは春野宮財閥の頭だと告げられた。

 少しばかり驚いた表情をすれば、察して笑う。

「凄いだろう?現当主の叔父様とあの中の数人以外、全員使えないときたものだから。私の兄たちも、見ての通り、ぼんくらばかり」

 身内を紹介するにはあまりの言い草。

 けれど確かにそうなのだろうと小春は納得してしまう。

「コホン」と一つ咳払い。

 気を引き締めれば、当主の隣で信貴が渋い顔をしていた。

「えー……今回皆様方にお集まり頂きましたのは、先代のご嫡男であらせられる志摩様と、我が娘、小春との…………婚姻について、ですが――」

 馬鹿げた集まりだと父とて思っているような歯切れの悪さに、小春は内心で苦笑する。

 状況は全く笑えないのだが。

 すると内の一人が、

「良いのではないですか?優秀な幸乃君の娘御だ。申し分はない」

「ええ。手伝い共の話では、所作に不審な点はないとも聞きましたし?」

 と、次々小春の批評がなされていく。

 縁談というのはもう少し色気のあるものでは?

 これでは本当に、新商品か、使い勝手のよい道具を品定めする雰囲気。

 人としての尊厳など得られない、不躾な視線が小春の気を徐々に滅入らせる。

 やがて、口々に交わされる意見が婚姻を過ぎ去り、遺産にまで及びだす始末。

 しばらくして、それまで沈黙を保っていた当主が、口を開いた。

「して、娘御や、お前さんはどう思われるかね?」

「…………………」

 冷ややかな思考が、一瞬止まる。

 どう…………とは?

 姉を盾に婚姻を迫りながら、今更意見を尋ねるのか。

 爆発しそうな思いに駆られ、立ち上がりかけた肩を押し止める手がある。

 振り向けば志摩。

「叔父上。しばらく時間を頂けませんか?小春は今、混乱しております故」

「ほ、時間とな?」

「ええ。通常の見合い等ならいざ知らず、こんな品評会染みたもの、彼女は始めてですから」

 物怖じしない志摩を、当主は皺に隠れた目でジロリと睨む。

 油断ならない鋭い目に気おされながら、小春は志摩に手を引かれ、庭に出る。

 

 

「さて、小春。どうする?」

 集った人間なぞ忘れた素振りで小春に尋ねる志摩。

 惚けた様子に口を開け、

「どう…………とは、どういう意味ですか?姉様を治す代償だと、貴方は仰って……」

「そうだよ。代償さ。けれど叔父様はあの通り、鋭い目をしてらっしゃるからねぇ。

下手な覚悟で嫁がれて、将来有望な私の足を引っ張るような気概じゃ、納得してくれないだろう?」

「将来…………有望……?」

 一度たりともそんな目で、志摩を見たことがなかった。

 確かに彼の打算的な考え方は、無情なあの老人の瞳と連なっていると分かる。

 もし嫡男の中で誰が次期当主となるべきか、小春が一族の者であったならば、確実に、志摩を選ぶ。

「つまりは、覚悟だよ。この際、君のお姉様は放ってさ、もう一度、よく考えてご覧?」

「……ですが、断れば姉様は……」

「勿論、治療できないだろうねぇ」

 残酷なまでに艶やかに志摩は微笑む。

 退路は完全に断たれているのに、尚も聞くのか。

「私はねぇ、小春?私の下にあろうと、君があの人形師殿を想い続けても、良いと思っているんだよ?」

 人形師殿――その言葉に、小春の心が軋む。何故今更、久紫のことが出てくるのだろう。彼はさつきとの婚姻を結んだはず。

 さつきが望むまいと親には逆らえるわけもなく、久紫とて幽藍にいる以上逃げ道はない。

「叶わない恋に焦がれ続ける女ってのも、中々面白そうだしねぇ?君の姉様のように」

 完全な侮辱。けれど怒る気力さえない。

 ここに居れば姉は救われ、志摩を嫌って去れば姉はあのまま――あの瞳のまま。

 志摩に毒される不快さから、忘れていた。

 募っていた久紫への想いが、急速に気味の悪さへ変貌を遂げる。

 例え己の意に沿い、幽藍へ、世話役へ帰ったとて、さつきと婚姻を交わしてなくとも、久紫のあの目を見なければいけないのだ。

 あの、何者かに焦がれる瞳を――

「小春?」

 打算に満ちた瞳には、決してあの色はなく、小春だけを映している。

 どう転んでも報われない想いを自覚し、頷けば、頬に添えられる両手。

 払えば逃げられるものを、小春は構わず上に顔を向ける。

 にやついた志摩の笑みが下りてきた。

 

 見守る者たちから、どよめきが漏れるのを聞く。

 

 


UP 2008/3/28
かなぶん

修正 2008/4/24

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