小春side　四

「オカシイな、と思ったコトはないか？」

　始めにそう切り出されて、小春はようやく顔を上げる。

　火照る名残に潤む瞳が、困惑を映したのを受けて、久紫はやれやれと首を振った。

「作り置いた料理が消えてタ、とか。前掛けがドコかに落ちていた、とか。買出しには足りてたハズの材料が、早くに底をツイた、とか」

　上げられて思い当たる節は全て。

　驚いた顔つきに、久紫は疲労感満載の溜息を一つついた。

「でも、どうしてですか？異人さんには気づかれないように……あ」

　家に暮らしているのは久紫だが、この家の所有権は幸乃家にある。

　人形師として高名な喜久衛門の弟子で、人形の出来も素晴らしければ、商品価値はかなり高い。

　だからこそ、打算的な父は、久紫を住まわせている。価値ある人形を優先で手にしたいがために。

　だのに「何がなくなった」「どれがどうなった」という不安要素が出てきては、肝心の人形師が逃げてしまう可能性が高いのだ。

　小春もこれを心得ており、久紫に何も告げなかったのだが……

　しかし、久紫は失態に口を塞ぐのを、怒りも浮かばせず、

「気づかナイも何も、俺の目の前で行われてイタんだ」

　深々と疲労の息を吐いた。

　あれは春の終わり頃だ、と久紫は語り始めた。

　小春が帰ってから、戸を叩く音がするのに気づいた。

　崖上のこの家には日頃から、世話役の小春と数人の使いが訪れるだけ。

　てっきり小春が何か忘れ物をしたのだろうと、返事もせず戸を背に人形の具合を確かめていると、

「また、戸を叩く音がスル」

　淡々とした語り口ながら、臨場感溢れる様に、怖い話の類が苦手な小春は、青褪め涙ぐむ。けれど逃げはしない。

　久紫から幽霊の類ではない、と聞いていたから。充分怖くはあったのだが。

　作業に集中できないと、次第に苛々してきた久紫は、思い切って戸を開けた。

　だがそこには誰もおらず、代わりに白い文が戸の隙間からはらりと地面に落ちた。

「何が書いてアッタと思う？」

　尋ねられ、今にも泣き出しそうな顔で首を振る。

「タダ一言。“お慕いしております”、とな」

　更に青褪める小春を前に、久紫は段々肩を怒らせる。

　次の日、また同じような文が届いた。

　今度の文面は“この想い、いかほどか、貴方様に届きましょうや？”。

　知るか！　と怒鳴りつけたところで、相手はない。

　また次の日も、“夢で貴方様にお会い致しました。きっと赤い糸で結ばれているのですね”。

　怒りに息が詰まったのは初めてだった。

　それから十日ほど、同じような文が届き、久紫の機嫌は比例して悪くなる。

　どうにか捕まえようと思うのだが、この犯人、計算なのか間抜けなのか、散々好きだなんだと抜かしておきながら、肝心の名前を書いていないのだ。

　となれば、隠れて実行犯として捕らえるべき、そう考えて小春が帰って後、家の影に隠れて犯人を待つ。

「で、来たんダ」

「どなたが？まさか、さつき様が……？」

　名を出すとかなり不機嫌さを増した久紫の表情に、正解かと思いきや、

「イヤ、男だった」

「へ？」

　戸の前、例の文と丼を持った小男の姿を認めた時、久紫の心は決まった。

　コイツを葬り去るしかない、と。

　人形師とはいえ久紫は自分の腕力に自信があった。伊達に師匠に着いてくために、重い人形や材料を背負った訳ではない。

　あとで全て師匠のお茶目な冗談と聞いた時は、倒れそうになったものだが。

　それはさておき、小男はあっさり久紫にとっ捕まり、ついでに容赦のない拳と蹴りを受けた。

　変態め！　と罵倒する久紫だが、小男はそれよりも、落とした丼に青褪める。

　不可解なその様子に、尋問をしようとしたその時、激昂する声高な悲鳴が耳を貫いた。

　今度はなんだと見れば、おでこの広い、随分艶やかな衣に身を包んだ少女の姿。

　少女は茫然とする久紫には目もくれず、小男を怒鳴りつけて叩きのめす。

　殺しそうな勢いに呆気に取られていると、少女はようやく久紫に気づいたのか、小男そっちのけで顔を赤らめた。

「イヤですわ、ワタクシったらはしたない……と」

「……まさか……さつき様ですか？」

　驚いた表情の小春に、渋い顔で頷く。

　さつきは自己紹介をした後、文の経緯を事細かに久紫に説明した。

　町で貴方様を拝見して以来、この胸のトキメキが治まらないの。

　最後に加えられた言に青筋を浮かべ、久紫ははっきり拒絶する。

　俺はお前が嫌いだ、と。

　けれどさつきは身をくねらせて、

「お前、ダなんて、夫ミタイな台詞……嫌い嫌いもスキの内だって、分かってますわ……と言われた時、本気で殺意が湧いた」

　ぎりっ……と力一杯噛み締める久紫。

　小春はといえば、常時余裕ばかりちらつかせて、艶めくさつきの知らない様に、ただただ呆気に取られるばかり。

「丼には得体の知れない料理モドキが入ってた。アレを作ったのは自分だと胸を張っていたぞ、アノ娘。幸乃の娘より料理が美味いのだと自負していたが……」

　眉間に皺を寄せ、苦い薬でも無理矢理呑まされたような顔。

「断言してヤッタ。お前のソレが料理と認識されルなら、幸乃の娘が作ったのは、神の域に達した芸術品に等シイとな」

　褒められて嬉しい反面、そこまで称されなくては釣り合いの取れない料理とは？

　悪寒が背筋を通る。

「スルと今度は、幸乃の娘の料理に毒されてシマッタのね、待っててアナタ、必ず救い出して差し上げます……などとのたまう。さっさと帰ったカラ、終わったとバカリ思えば、夕暮れ時にナルと、作り置きの料理全て捨て、毒染みた丼を置いてイク。前掛けが忘れてアレバ、崖に投げ捨てる。風呂を借りに町へ降り、帰ってミレバ、材料を勝手に使って得体の知れナイ汁が出される――――」

「………………………………………………………………………」

　言葉は終ぞ、口から漏れやしない。

「ソレでモウ来るなと、目の前で文を燃やしてヤッタんだが――」

　さぞさつきは傷ついたのではないか。そんな風に少しだけ可哀想に思えば、

「ソウよね、ワタクシは今ココにいるのだから、文なんて野暮だったわ…………なあ、幸乃の娘？　アレは病気か何かか？」

　こっちが聞きたいくらいだ。

「……？　でもそれなら何故、わたくしに文を託されたのでしょう？　さつき様はもう文は送らないと言われたのに？」

　小首を傾げる小春に、答えは後ろから戸を叩き開いて現れた。

「勿論！　牽制のためですわっ！」

　いつの間にか夕焼けになった空を背負って、目をギラつかせるさつき。

　草履を丁寧に脱いで床に上がってから、

「小春さん！　あなた、図々しくてよっ！？　わたくしの久紫様の家にいつまで居るおつもり！？　たかだか世話役風情が、いつまでもいつまでも――――っ！」

　長い髪をぱさっと掻き揚げ横に払う。

　長い黒髪は女の命と豪語する彼女は、家事のために髪を短く切った小春にこれを見せつける。

「春野宮家の一人として忠告して差し上げます！　有名な人形師のお近くに、御当主に認められた信貴様ならともかく、その娘ごときが居て良いことなど、一つもありませんわ！　早くお帰りになったらいかが？」

　勝ち誇ったように胸を張るさつき。

　長い台詞ながら、数々突き刺さる語に、小春は唇を軽く噛む。

　春野宮家、そう言われれば、この島にいる以上、側近が父なら尚更娘が歯向かう訳には行かない。

　有名な喜久衛門の弟子である久紫。彼の腕なら間違いなく有名になるだろうし、そんな風に言われるのも構わない。

　けれど、世話役風情などと、知った口を聞かれるのが腹立たしい。

　喜久衛門の頃より、乞われてではあるが長く務めてきた役目だ。小春は誇りすら感じているというのに。

　と、目に入るのはさつきの綺麗な手。

　腹立たしさが一瞬で朽ちていく。

　先ほど手を取られた時に感じた久紫の、女に勝る美しい肌は、小春のあかぎれた手を否応なく際立たせた。

　さつきの手なら、あの肌に似合うのかもしれない。

　なんとなく、そう思う。

　のろのろさつきに言い負かされた風体で立ち上がり、一歩、踏み出す。

「いい加減にシテくれ！」

　苛立たしげな声に振り向けば、真っ直ぐ射る久紫の黒い、しかし異国の瞳。

　ただし、その眼差しはさつきに向けられている。

「モウいい、はっきり言ってやる！俺は――――」

　ぐいっと引っ張ったのは、合作の人形。

「――――生きた女に興味はナイ！」

　愛おしそうに久紫は、人形の唇を舐めとり口付けた。

　生々しいソレに、色々崩壊した悲鳴を上げるさつきを遠くに、小春はぐらりと体が傾くのを辛うじて止める。