久紫side 二
きちんと謝ろう――もう来なかったら、どうしよう。
眠れず迎えた朝、戸が叩かれ応えれば現れた姿は幸乃の娘。 良かった、これで謝れる――そう思ったのも束の間。 挨拶もそこそこに、久紫が何か言うのを察しては、これより早く娘が外に向かってにっこり頭を下げた。 虚を衝かれて戸惑う久紫の前で、熊に似た毛深い男が入ってくる。 続いてひょろりと背も顔も長い男が道具を抱えて現れた。 説明を求めて幸乃の娘を見れば、無表情に毛深い男を示す。 「こちら、この御宅を造られた棟梁です。棚を治して貰うためにお呼びしました。宜しいでしょうか?」 「あ、アア」 頷くと説明は終わりとばかりに棟梁に頭を下げ、娘は世話役の仕事に戻る。 完全に呑まれてしまった久紫は妙な空気の中、謝る機会を失い仕方なしに己も仕事に戻った。 が。 ……あれはやはり、怒っているのだろうか? いつも通りきびきび仕事を無言でこなしていく娘に、久紫は途方に暮れて溜息を零す。 仕事の進みに影響はないが、気になる。 それでも棟梁連中が帰れば謝る機会はまだあるはずだ。 と、明るく考えていた、夕刻、 「では、失礼します」 頭を垂れては先に出て、棟梁連中を促して戸を閉める娘に、久紫はまたしても謝罪の機会を失ってしまう。
元々会話があった仲でもないが、棟梁連中が来た初日以降、交わされたのは素っ気ない挨拶のみ。 この国の発音に不慣れ且つ、人との交流を極力避けてきた久紫にとって、声を掛けるタイミングを見出すのは至難の業だった。 胸内でこれを得意とする喜久衛門に尋ねてみるが、よくよく考え、師ならこんな失態犯さないと気付き、また項垂れ――
そうして迎える、棚の修理が終わった翌日。
色々あれこれと手順を考え整え、 「おはようございます」 戸口で頭を下げる幸乃の娘を目にしては、全てが吹っ飛んでしまった。 時間はたっぷりあった筈なのに、上手い言葉が見つからず、焦りだけが募るなか、幸乃の娘の顔が上がって目がまともに合う。 一瞬驚いたのは、久紫が戸口に向かって立っていたせいだろう。 呼んでは浮かぶ、愛想笑いと分かるそれに、久紫は未だ言葉を見出せず、視線だけが交わされる。 顔には戸惑い滲ませぬよう気をつけていると、娘がふいっと視線を外してしまった。 やはりまだ怒っているのか…… 溜息が自然に漏れ、取り敢えず出てきた打開策まで招くつもりで背を向け、 「来い」 些か偉そうだとも思ったが、付いてくる気配に緊張が少し和らいだ。 居間の左奥、障子窓の近くにある等身大の人形前で立ち止まり、袖に備えていた飴色の櫛を取り出す。 この櫛は喜久衛門が物の試しに作り、久紫にいるかどうか尋ねた品。 いらないと言ったなら師のこと、犬のノミ取りに使う気だと察し、それでは勿体無いと頂戴して今に至る。 これで許して貰えるかどうか分からないが、意を決しては振り返った。 「お前、人形の手入れもできるのカ?」 「え……あ、はい。多少ですが」 困惑する幸乃の娘に、こちらも内心では困惑しつつ櫛を渡し、受け取ったのを安堵しては咳払いを一つ。 畑違いと言いつつ、職人に負けず劣らずの出来栄えを渡すのは心苦しいが、相手はそんな師の世話役を務めていた娘。 たぶん、悪いようにはしないはず――たぶん。 胸奥で言い聞かせ、人形を指差しては一息の内に喋る。 「この前は悪かっタ。謝る。蜘蛛の巣がついてるとは思わなかったんダ。それでナ、考えたんだガ、俺は人形は造れても、出来上がった人形にまで気が回らナイ。だから……幸乃の娘。アンタにコイツの世話を頼みたいんだが……良いカ?」 怒っていたのはきっと、叩かれたことよりこの人形に対するぞんざいな扱いについてだろう。 それほどこの三日間、娘は何より人形を気に掛けていた。 久紫の言に多少困惑は残るものの、驚き頷いた娘は、 「……でも――」 「?」 「私が触っても良いのですか? ずっと怒って……」 「ああ、アレは……素人に触られて壊されたら困るカラな……師匠との最初で最期の合作だったカラ……」 納得したように頷きかけ、「最期」と問う眼に、久紫はしばらく鈍っていた胸の痛みを覚え、小さく呻いた。
世話役だからという訴えを退け、久紫が茶を入れる間手持ち無沙汰となった娘は、早速人形の髪を梳く。 呼ぼうと上げた視線の先で、人形を見る娘の表情が幾らか青褪めて見えた。
久紫の師である宮内喜久衛門は昨年の暮れ、流行り病で亡くなった。 告げれば幸乃の娘は言葉を失くし、悲しみに俯く。 その視線の先で茶が震えているのに気付き、久紫は酷く安堵した自分に戸惑う。
昔、喜久衛門は茶化すように久紫に吐露したことがある。 ――ワシが死んで残念がるのは五万といようが、悲しんでくれるのは……ほれ、片手で足りてしまう。 目の前で指折り数え笑う中に陰りを見ては、久紫には何も言えず。 そうして本当に死んで、師の遺品を整理する中で、報せるべき相手全てに訃報を伝えたが、新聞の片隅を一時賑わせただけで、世間での師の生きた認識は終わった。 残念がる――その意を知り憤る久紫だけが残されて。 信貴が尋ねてくる前に一度、紳士然の男が訪ねて来た。 悲しむに似せた態度の後、久紫に小切手を渡し、 ――キクエモンの遺作、貴方の言い値で買い取りますよ? にやけた笑みに、気付けば知人が久紫を抑えた眼前で、男が血溜りに倒れていた。 死にはしなかったが久紫は男の生存を心底残念がり、知人から呆れた溜息が漏れても気にせず。 どうしてこんな者が生きて、喜久衛門が死なねばならないのか……
沈む気持ちに幸乃の娘がぽつりと漏らした。 「でも信じられません……いえ、異人さんの話が信じられない訳ではなくて」 「分かってル。俺だって未だに信じられん。自分で看取っといてナンだが、ひょっこりその辺カラ現れるんじゃないかと、ツイ思ってしまう」 そうであったならどんなに己は救われるか知れない。 目を閉じずとも、温かな笑みはすぐに思い返され、忘れ去れない涙も戻りかけ―― 「そうですね。そんな方……でしたから……でも、良かった」 思いがけない言葉に動揺し、不快なざわめきが体を駆け巡る。 あと一押しで、この娘を殺めてしまいそうなほどの昂り。 増長するように微笑まれては、安堵した分の憎悪が上乗せされ、 けれど―――― 「喜久衛門様が昔、仰っていました。己は人形ばかりかまけていて、どうも人を蔑ろにしてしまう。だから、死ぬ時はきっと、一人で死ぬのだろう、と。……だから嬉しいんです。異人さんが喜久衛門様の側に居てくださって」 「……ソウ、か」 それより更に上乗せされた己への失望に、幸乃の娘の笑みから逃げるように俯いた。
幸乃の娘が歪な笑顔で去り、きっとあの娘は後で泣くのだろう、とぼんやり思う。 同時に吐き気を催す後悔に苛まれる。 己は先程、何を思い、何に駆られ、何を実行しようとしたのか。 ようやく会えた、師を惜しみ、悲しむ者に向かって―― 幸乃の娘は久紫を信じ、死の間際に居てくれて嬉しいと、そう微笑んでいたのに。 「師匠……俺は……」 亡き姿を追い求めて辿り着いたのは、柔和な笑みを絶えず浮かべる人形。 日の陰りを受け、その笑みが、少しずつ変わっていく。
まるで、打ちひしがれる久紫を憐れむような、嘲り。
耳元で囁きが訪れた。 ――貴方はあの人じゃないもの。 幻聴だと、知っている。 喜久衛門が亡くなってから、薄れたと思っても舞い戻る、優しい狂気。 それは二重の声で久紫の耳に纏いつき、離れない。 未熟なこれを払うように、一人、呟く。 「俺は……師匠とは、違う」 当たり前の言葉。 しかし、身を切り裂く痛みを感じては、静かにうずくまる。 |
UP 2008/6/16 かなぶん
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