久紫side 

 

 誰だ? と問えば、男は頬を赤らめて、一夜を共にした相手に酷い! と科を作った。

 愕然として言葉を失う久紫をじっくりと眺めた後で、にっと笑い、冗談だ、と告げる。

 師である喜久衛門そっくりのおどけた表情に、久紫は途端に口をひん曲げた。

 

 が、押し倒したのは真実だと聞かされ、危うく卒倒しかけ――。

 

 

 こつん、と額を小突かれた。

 一体何事かと思って顔を上げれば、煙管を手にした小柄な老人が、からかう笑みを浮かべていた。

「これ久紫や。何を惚けておる? 座って寝るのは結構じゃが、せめて刃物くらいは仕舞わんか。指を失くしても知らんぞ?」

 深く皺を刻んだ柔和な顔立ち、齢を感じさせない真っ直ぐな背、好んで着用していた褐色の着物――

「……師匠?……ナゼ、生きてる?」

 その死に顔は酷く痩せてはいたが、残酷なほど穏やかで――

 信じられない気持ちで目の前の師を見ていたなら、鈍い音が頭上から伝わってきた。

 声も出せず頭を抑えたなら、いつの間にか煙管の代わりに杖を手にした喜久衛門が、いじけたような顔をしていた。

「酷いのぉ。お前の中のワシは既に死人か? 色々世話してやったというに、久紫の甲斐性なしぃ」

 まるで幼子のように口を尖らせ、杖を振っては身をくねらせる姿。

 混乱しつつも呻く久紫。

 間違ない――――間違いなく、師匠本人だ。

 では、今までのことは全て……夢?

 師が死に、知人宅へ身を寄せ、幽藍に招かれ――

「師匠」

「ぬ? なんじゃ? 人がこんなにショックを受けてるのに、ささやかなフォローもなしか?」

 拗ねた素振りで、喜久衛門がぶーぶー文句を言ったが、久紫はこれを流して眉を寄せた。

「…………幽藍デ世話になってイタ娘の名は?」

「ほ? はてな? ワシが幽藍で誰ぞ世話になっとると、お前に言ったかな?」

 語り口は不思議そうだが、目がこの上なく笑みに歪んでいた。

 それで久紫も合点がいってしまう。

 こちらが、夢なのだと。

 喜久衛門は己が行って来た場所の話を久紫にしてくれた。

 といってもほとんどがその景色や食べ物の話で、人に関係する話は皆無。

 なればこそ、含ませる意味は久紫が幽藍に身を置いていなければ、用をなさぬモノで。

 姿勢を正し、じっと見つめて返答を待っていたなら、喜久衛門の口から苦笑が漏れた。

「ふむ……ああ、世話になっとったな。確か……おお、そうじゃ。千代だ」

「誰ダ?」

「おおっ? 折角答えてやったのに冷たいのぉ。……いやしかし、今は源氏名がついとったか? しかも太夫なぞと呼ばれて……やれ、最初会うた時は十二、三の娘じゃったが、時が経つのは早いのぉ」

「太夫……?……イヤ、ソウではなくて」

「ほうほう。では――――」

 そう前置いて好き勝手に様々な名を列挙する喜久衛門だが、夢だというのに、久紫の思う名をいつまで経っても語らない。

 しかも楽しげな様子から、久紫が示す相手を知りつつも、ワザと違う名を挙げているのだと察し、段々苛立ってきた。

 次、違う名を挙げたら抗議しよう。

 名の紹介を長々続ける喜久衛門へ、そんな決意を持った矢先――

「小春ちゃん、でしょう? 喜久衛門様、おいたはそのくらいにしてくださいな。ほら、久紫様が困ってらっしゃいますわ」

 穏やかな優しい音色が背後から届く。

 胸を衝く温かな声に久紫の息が詰まった。

 目の端に喜久衛門の姿を捉えつつ、ギクシャクした動きで振り返り――

「……ナゼ、アンタがココにイル……師匠の、近くに…………」

 上擦った声で問うた。

 その時久紫は、自分の表情がどんなものだったのか分からず。

 ただ、振り返った先、生き人形に似た、より鮮やかで優しい、けれど寂しそうな微笑に、また息が詰まって――――

 

 瞬間、思いっきり突き飛ばされて、覚醒した。

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!

 振り返って叫んだ罵倒は、彼には分からない言語だったのだろう。

 ぎょっとした顔つきのざく切り頭は、しかし、次の瞬間には思いっきり眉を顰めて言った。

「だーれが、師匠だ。俺をあの爺さんと間違えんな、久紫!」

 辛うじて師匠という単語は聞き取れたらしい男の非難に対し、当の久紫はしたたかに打ちつけた頭を擦り擦り、怪訝な顔つきで問う。

「…………シ……………………………………アー、なんダ?」

「お前な、名前忘れたんなら面倒臭がらずに聞けよ。ったく、揺すっても起きないからって突き飛ばしたのは悪かったが――って、げ……!」

 瞬間、呻いた男は久紫の手から刃を取り上げた。

 どうやら作業中に、うとうとしてしまったらしい。

「あっぶねぇな、おい。座って寝るのは結構だが、刃物くらい放しとけよ。でなけりゃ、起きて早々指のない御手とご対面だぜ――って、なんだよ?」

「イヤ……」

 やはり夢であった、喜久衛門との再会をなぞるような言葉に、久紫は首を振り、改めていぶかしむ男の姿を眺める。

 

 彼の名を春野宮伸介という。

 

 幽藍を実質支配する春野宮分家の中でも、特に本家筋に近い家の者で、けれど放蕩者で名が通っている――と自分で語っていた。

 久紫たちに同行し、花街で馬鹿騒ぎを繰り広げていたのだから、その言葉は正しいと久紫は思う。

 が、決して自分から誇らしげに言うことではないとも思いつつ。

 それがどうして久紫の下へ訪れているのかといえば、酔い潰れた久紫を家まで運んだ際、何を考えていたのか伸介を押し倒した久紫自身が望んだらしい。

 不可解にも、コハルのことで知っていることを全て教えろ! と凄んだそうな。

 あんまりにも恐ろしいから通っている、そう告げる伸介に、久紫は覚えてないのだから無理しなくても良いと告げたが。

「じゃあ、知らなくて良いんだな?」

 と、師に似たにやけた顔つきに、とうとう「構わない」とは言えず。

 

 

 

 自分の所在を確かめるよう、ぐるり見渡せば、点けた憶えのない明かりが一つ、二つ……。

 囲炉裏は寒さを凌ぐため、炎を宿してはいたが、くべた憶えのない炭が爆ぜていた。

 これに気づいた伸介が呆れた溜息をつく。

「久紫、もう年の暮れだぜ? いくらこの家が冬暖かく夏涼しいって、羨ましい限りの造りだったとしても、だ。何か羽織らなくては、最悪――風邪引くぞ?」

「…………ソウ、だな。スマン」

 茶化すような伸介の言い草だったが、久紫は火の礼を一つしては、赤く滲む木炭がじりじり灰に染まるのをぼんやり眺めた。 

 

 年の暮れ――だからあんな夢を見てしまったのかと物思いに耽る。

 

 新しい環境に霞んでいた日数が、もうすぐ喜久衛門の一周忌を告げていた。

 喜久衛門が病死したのは幽藍でいうところの本島であるが、ここより北だったせいもあり、今時分には雪が降り積もっていて。

 西洋被れの住処と、注文で作らせた家をせせら笑う師の姿が、ベッドの上で冷たい骸となってから、随分長い年月が過ぎ去ったように思える。

 彼が死んでから、まさかこんな風に懐かしむ自分がいようとは、当時の久紫では思いも寄らず。

 

 それほどまでに、当時の彼には余裕がなかった。

 

 島国を離れて己のところへ来るよう、大陸の知人から手紙がなければ、今頃、自分か他人を殺めていただろう。

 世界的にも有名な喜久衛門の死には、才能を惜しむ声の他に、作成された人形の値段の高騰話が持ち上がっていた。

 そこに付け込み、親族のいない喜久衛門の遺産を相続するであろう久紫に対し、周囲の眼が欲とかす。

 久紫を、養子に、婿に、夫にと望む、無遠慮な、近所の暖かであった人々。

 仕舞いには揃えて言う。

 身の休まる場所があったなら、亡き喜久衛門殿も安心されることでしょう、と。

 親切心に託け、自分たちの益のために、欲を満たすためだけに、己を、師を利用しようとする、浅ましき人間たち。

 逃げるように向かった知人の家でも同じ類の輩に出会い、次第に荒んでいく心。

 人形作りに没頭する内に尋ねてきた信貴は、久紫にとって同種の人間で。

 けれど彼は自身をそういう人間だからと、隠そうともせず前置き、幽藍の話を持ちかけた。

 揺らいだのは、師の居場所の欠片を見つけた――そう思ったから。

 同時に、自暴自棄にもなっていた。

 どこへ逃げようとも追ってくる浅ましさは変わらない。

 ならばせめて、師のいたという場所で、全てを拒絶して朽ちてしまうのも悪くはない、と。

 

 

 

 

 

 

 ことっと音がして、見れば湯呑みの中に茶が注がれていく。

 差し出されたのをそのまま口に含み――

「…………マズっ」

「悪かったな。仕方ねぇだろう、俺は小春と違って茶を入れる機会がそうないんだから。考えようによっては貴重だぜ?」

「……小春……カ」

 呟いた途端、胸に去来する温かさは何なのだろう。

 

 一言で表すなら、救い――――

 

 幽藍に住み、知った情報の疎さ。

 島国の中にある外れの小さな島で、喜久衛門の弟子とは知れても、久紫自身の実力も遺産も未だ知る者はなく。

 遺産を狙い追ってくると思われた人間たちは、春野宮の名の下、この島へは容易に近づけず。

 久紫の世間での位置づけを遅れて知った分家も、庇護する幸乃の名の下、容易には近づかない。

 そして、そんな己の一番近くにありながら、見返りを何も求めず、逆に与えてくれてばかりいる世話役の娘――。

 有難い、申し訳ないとは思っているものの、幽藍へ向かう船上、信貴から聞いていた、謝礼は不要という言葉が、物での感謝を拒んでいた。

 一応、なしくずしで知り合いになった伸介にも、小春へ何かしら贈りたい旨を伝えたのだが、爆笑された上に却下されてしまった。

 つい、小刀を持ったまま立ち上がれば、慌てた彼は両手の平を久紫へ向けて言った。

「いや、礼自体は悪くないが、物は止めとけって話だ! あいつ、変なとこ強情だから、絶対受け取んねぇよ。それよか――」

 そうしてにんまり笑った伸介の顔は、小春の初恋という師によく似ていて。

 やっぱり恋仲ではないかと眉間に皺寄せ疑えば、楽しげに提案した。

「折角、小春って流暢に呼べるようになったんだから、本人の前で言えよ。幸乃の娘じゃ、他人行儀どころか個人ですらねぇだろ?」

 

 飛躍して、嫌なことまで思い出してしまったと、茶の苦さと違う要因で久紫は顔を顰めた。

 

 伸介に言われるまでもなく、いつまでも幸乃の娘という記号のような呼び方ではなく、ちゃんと名で呼びたいと思った久紫。

 そのために一人の時でもこの国の言葉を使う、地道な努力を続けてきたのだから。

 けれど今まで放っておいた分、名を呼ぶ切っ掛けが見当たらないと嘆けば、伸介が喜久衛門に習え、というのが始まりであった。

 喜久衛門自身、当初、小春のことを「お嬢ちゃん」、とだけ呼んでいたらしい。

 名で呼ぶようになったのは、何気ないやり取りの中、自然に育まれたものだ、と。

 未だ人間不信の久紫が、伸介という新たな人間を受け入れる気になったのは、こんな風に助言する様が、喜久衛門に似ていたせいかもしれない。

 本人に言えば、物凄く嫌な顔をしたから、師が幽藍に来た際、何かしらお茶目な仕打ちをされたのだろう。

 それに関しては、こっそり合掌しとく久紫。

 兎にも角にも早速、小春に対して積極的に、今までおざなりにしてきた何気ない礼や気遣いを実行した。

 元々が弟子という立場上、そういうやり取りは幾度となく重ねてきたが、極度の人間不信に陥っていた久紫、感覚を思い返すのも一苦労であった。

 些かぎこちないせいか、小春は戸惑っていたものの、さして不審と問わず、いつも通りてきぱきと仕事をこなしてくれる。

 

 正直、この娘のそんなところに、久紫は救われていた。

 

 女運が悪かったのか、久紫の出会う女という者は、大抵が久紫を放っておいてくれない。

 なんやかんやと構っては、世話を焼きたがるのだ。

 これを不満に思って伸介に一度だけ愚痴った久紫は、盛大な溜息の後「羨ましい悩みだ」と殺気に満ち満ちた目で睨まれた。

 久紫とてそこまで鈍くはないから、言いたいことは分かるが、それはそれ、人には心静かに暮らしたい時があるというもの。

 そして、小春はその思いを余すことなく汲んでくれている――というのは、多少言い過ぎかもしれないが、久紫にはそう思えてならない。

 だからこそ、名をきちんと呼びたかった。

 そうして今日、良い具合に空になった湯のみを握りしめ、何気ない風を目一杯装い――。

 極々自然に名を呼べたのに、余りに自然過ぎたのか、師と間違われてしまう始末。

 肩透かしを喰らった気分で自分で茶を入れたなら届く、小春の声。

「喜久衛門様はそんなこと言わないのに」

 

 湯呑みを落さなかった己を褒めて――詰ってやりたい。

 

 

 

 そうだ。

 だから作業に没頭することで、嫌な気分を払拭するはずであったのに。

「そういやお前、知ってるか? 幽藍に横行している噂」

 そのまま眠ってしまった久紫を突き飛ばし、起した伸介は、楽しそうににやにや笑っていた。

 逆恨みとは知りつつ、段々彼に対して屈折した恨みが募っていく。

 この無言をどう取ったのか、伸介は「やっぱり知らねぇか」と呆れた風体で首を振った。

 余計気に入らず、鼻を不機嫌に鳴らせば、宥めるような苦笑を浮べる。

 ……齢は大差ないはずなのに、飄々とした喜久衛門然の言動がなお苛立たしく――

「実はな、どうやら俺とお前は恋仲らしい」

「……濃いナカ?」

 心外だと思って口にした言葉へ、伸介は困惑した顔で頬を掻き、ぽんっと手を打つ。

「いや、つまりだな、愛し合ってるというんだ」

「アイ?…………誰と、ダレがダ?」

「俺と、お前が、だ」

「……………………………………………………………………………………ハア!?」

 意味を嚥下するまで時間の掛かった反動か、湯呑みを蹴っ飛ばして立ち上がった久紫。

 不快且つ不可解極まりない噂話もさることながら、この男、横行とまで言ってのけた。

 それは、すなわち――

「いや、悪い。どうも放蕩者の俺が、お前のところへは足しげく通ってるって話があってな。でも、否定できない事実だろ? 小春もあの調子じゃ、絶対勘違いしてそうだしな……いや、本当にすまん」

「…………」

 合掌し、頭を下げられたとて、目が眩むような怒りを宥めることは出来ず。

 つまり何か? 小春の戸惑う様子は、久紫の突然の変化によるものではなく、その噂のせいであって――

 今までの苦労は水の泡。最悪、最初から何の意味も成さず……

 飛躍し、膨張を重ねた思いはやがて怒髪天を衝き、伸介へ転がった湯呑みを容赦なく叩きつけた。

 これをひらり避けた身へ、頭に血がのぼったまま饒舌に叫ぶ。

「何が恋仲ダ! シカモ、小春ガ勘違いなゾ、ソレではお前が来なかっタ時の方がマシではナイカ! お前に関わるト碌な事にナラない! モウ二度とココへ来るナ!」

「おおっ!? な、何だよ、いきなり! やめっ、危ねぇって!!」

 癇癪に手当たり次第他の物を投げつければ、ひらりひらりと逃れ、伸介は物凄い勢いで出て行った。

 それでもしばらく物を投げつけ、止めては肩で息をしつつ、熱せられた身体を冷やす寒風はそのままに、散らかしてしまった品々を片付ける久紫。

 その合間にも沸々燻る怒りは収まらず。

 気に入らない。

 気安く名を呼べる声も、喜久衛門を髣髴とさせる話し振りも、伸介の全てが今はただ、気に入らない。

 

 ――どうしてそう思うのか答えも出ず、ゆえに尚更、不快は留まるところを知らず。

 

 あらかた片付け終わって後、戸を閉めようと顔を上げれば、戸口に小春の姿を見つけた。

 忘れ物を取りに来たのだと告げるだけの彼女に久紫は、この時ばかりは、上がった息の理由を尋ねて欲しい、話を聞いて欲しいと、こっそり願ってしまった。

 

 


UP 2008/7/21 かなぶん

修正 2008/7/28

目次 

Copyright(c) 2008-2017 kanabun All Rights Reserved.

inserted by FC2 system