久紫side 

 

 伸介を追い出してしばらくの間、久紫は小春の様子を観察した。

 けれど普段通りの彼女に、伸介との仲を疑っている素振りは見出せず。

 茶を貰ってもなお見つめ続けていたなら、小春は首を傾げて「どうか致しましたか?」と問う。

 まさか自分から、噂を信じているのか確認できるはずもなく、焦りと恥ずかしさで、声も発さず顔を背け――――

 

 

 そんな日々が続いた数日後、いつも通り現れた小春の両手を見て、久紫はぎょっとした。

 最初見た時には、白い手袋かと思ったそれは、丁寧に巻かれた包帯。

 まるで何事もないように振舞う彼女は、人形を作る手が止まったのを見て取り、申し訳なさそうに笑った。

「申し訳ございません。お見苦しいものをお見せして。少々あかぎれが悪化しただけなのですが、母様がどうしてもと聞いてくださらなくて。見た目ほど酷くはございませんが……お気に障るようでしたら、他の手伝いを――」

「イヤ、大丈夫だ」

 それでもふいっと逸らしてしまった視線の内で、何が大丈夫なものか、と久紫は自身の受け答えに頭痛を感じた。

 少しのあかぎれ程度で包帯を巻く――春野宮の令嬢ならば兎も角、幸乃の娘ではあり得ないことだと思う。

 春、合作の人形に触れようとした小春の手を叩いた際、袖からは幾度も青痣が覗いていた。

 時折顔を顰めても、文句一つ言わず世話役に徹する頑なな態度に、久紫は罪悪感と感心をない交ぜにしたものだが、その時でさえ薬を使わず、包帯などせず。

 そこでハタと気付かされたのは、小春が世話役となってから、一度も休んでいない事実。

 受注の人形作りに没頭し終われば、久紫とて自然と寝に入るのに、小春はその間もずっと働いている。

 ならば、と休むよう促せるはずの久紫は、しかし、黙々と人形作りに勤しむ。

 疲れていようとも、決して表に出さない小春に、口は開いては閉じるを繰り返す一方。

 もし、休ませてくれと言われたなら、首を縦に振る覚悟はあった。

 

 そう、覚悟。

 

 昼餉の仕度も包帯のまま、滞りなく終えた小春は、予想に反して人形の手入れはせず、寝床の掃除を始めた。

 不審に思って見つめていれば、気付いたように頬を掻き、

「このような手で触れては、雪乃さんが汚れてしまいますから」

 そう笑って敷き布を取り替える。

 洗い物以外、全てそつなくこなす姿は、ふとした合間に人形に傾きかけ、はっと我に返っては他の仕事を探す。

 久紫はその背を、手を休め休め追いつつ、小春が手の痛みに顔を顰めれば、腰を上げかけ、また床に落ち着け。

 もし、久紫が手伝いを申し出れば、娘はやはり代わりの手伝いをと寄越す手配を済ませるだろう。

 口を挟む暇さえ与えず、驚くほど早く。

 そこに他意などありはせず、ただただ、世話役という勤めを全うするために。

 己の仕事を途中で投げ出す行為に対し、多少は悔やむ気持ちもあるだろうが、人形師の利便を優先させるに違いない。

 久紫本人の思いも知らずに。

 正直なところ、休め、と言いたいし、手伝ってもやりたいが、反面、小春以外の手伝いが来ると想像するだけで、人間の浅ましさが浮かんでくる。

 こうなると、久紫は自分から彼女へ、他の手伝いを頼む覚悟を失い、小春が言い出すのを待つという、なんとも具合の悪い結果に納まり――

 

 そしてやっぱり、小春は自分からは決して、休ませて欲しい、などとは言わないのだ。

 

 

 

 

 

 

 年が明けての三が日、御節を用意してくれた小春に、流石にこの間は休むのだろうと、嬉しくも些か寂しい思いに駆られていた久紫。

 だが、変わりなく働きに来た姿を見ては、呆気に取られてしまうばかり。

 一々驚くものだから、困惑した小春が「ご迷惑でしたか?」と所在なく尋ねるのを、まさかという驚き混じりで首を振った。

 途端にほっとした顔つきが浮かんでは、こちらもつられて安堵した。

 久紫こそ己の存在故に、小春に無理強いをさせているのではないかと、心配していたくらいなのに、先に問われ安堵されては、本当にこの娘は自分のことをよく理解してくれるのだと錯覚してしまう。

 

 けれど、果たしてこのままで良いのだろうか、とも悩み始める。

 

 悩めば悩むほど深くなる眉間の皺を揉み解し、開閉を繰り返すだけで沈黙を続ける口から溜息を漏らす。

 年末年始さえ休まない身を案じては、小春が買い物に出かけた隙に、答えを探して居間に視線を送り、部屋奥の窓近く、立てかけられた人形に目が止まってしまった。

 あかぎれが治まり、少女が最初に行ったのは、この人形の名を呼び、髪を梳き、頬を撫でては埃を払う、慈しみに満ちた行為。

 この時ばかりは世話役ではなく、大きさは兎も角として、人形と戯れる少女特有の雰囲気を纏う小春に、つい、久紫は魅せられてしまう。

 ふらふら誘蛾灯に惹かれる蛾のように足を運び、人形を降ろさず身に添うてみた。

 頬へ手を這わせ、髪の一房を掬う。

 何かを渇望するように、自然とその黒髪に口付け――耳元で上がった嘲笑に強張った。

 幻聴だと、知っている。

 それでも苛む嗤いに、久紫は人形の艶やかな髪の元の持ち主を浮かべ、奥歯を締めた。

 次いで上がるのは、似た響きの重なる声音。

 精神を脅かすように緩やかに耳朶へ響く、幻の二重奏に対し、久紫が出来たことといえば、合作の人形という事実を忘れ、衝動のまま、この人形を壊す気概に達すること。

 しかし――

「異人さん! 雪乃さんが壊れてしまいますっ!」

 悲鳴に近い非難に驚き、戸口を見ては怒り肩で駆け寄る姿。

 弁解も許されず、自分より小柄な体に力ずくで引き倒された。

 驚いて見上げた先には、人形を背に庇う、苛立った小春の顔がある。

「何を考えてらっしゃるんです!? 最初で最期の合作、そう仰ったのは、異人さんではありませんか!」

「ユキノの娘……? いつから――」

「いつからだって良いでしょう!? 人の手を二回も叩いて、触るなと壊れると怒鳴ったのはどなたですか!?」

 それは自分――ではあるが、これは何の冗談だろう?

 耳元で今も嘲る声音はいつも、小春の背後にある人形からもたらされていたもの。

 そして、人形を庇う少女は、いつだって久紫の望みをごく自然に叶えてくれたのに。

 

 己に優しくしてくれた者が、一転、己を蔑ろにする様は、数にするならこれで三回目。

 

 急に自分の立場が危ぶまれ、拙い足取りで雪降る外に出ても、小春は止めもせず。

 見捨てられた思いに駆られ、戸口を閉めてはずるずるとうずくまった。

「何やってんだ、久紫?」

 名を呼ばれ、顔を上げた先には、二度と来るなと払ったはずの、ざく切り頭の伸介。

 久紫の顔を認めるなり、ぎょっとした表情で迎える。

「……泣いている、のか? 野郎の涙なんざ、気持ち悪いだけだぜ?」

 馬鹿にした口振りだが、慰めるように頭をがしがし乱暴に撫でる様に、やはり伸介は嫌味なほど、喜久衛門に似ていると思った。

 

 

 

 寒空の下で全てを吐露すれば、伸介は頭を数度掻き、口元に手を当てて俯く。

 嫌な予感に、目元の赤くなった目で睨むと、にやにやした目つきが交わされた。

「何がオカシイ?」

「ひっひっひっ、怒んなって。仕方ねぇだろう? 小春にぞんざいに扱われた程度で泣いてちゃ、俺は今頃目も当てられない姿だぜ?」

 くるりと一回転しては「うふっ」と科を作り、

「ま、気にするな。小春の不機嫌は他に原因があるんだろうさ。でもよ……その原因には絶対、お前が関係してるぞ?」

 急に真面目な顔つきになり、苦笑に似た困惑を浮かべる伸介。

 図りかねて鼻を啜り、首を傾げれば、伸介が肩を竦めて首を振った。

「聞いた話じゃ、久紫、お前さ、生きた女に興味はないんだろ? 人形を愛しちゃってるんだろう?」

「は!? ナニを馬鹿なコト……ヲ?」

 その人形のせいで自分は落ち込んでいるのに、と思い、何か忘れている気になって地に視線が落ちた。

 一度溶けて凍ったと分かる氷が、いつかの得体の知れない丼の中身を思い出させ、勢い良く上げた久紫の顔色はすこぶる悪い。

 これを受けた伸介は、うんうん真面目くさった表情で頷いた。

「……そういうことだ。つまりな、たぶん、小春は恋人である人形に対し、惨い仕打ちをし掛けたお前に怒ってんだよ。触るだけで叩いたっていうお前が、大事にしている人形だからこそ、あいつは腹が立ったんだろ?」

 安心させるように伸介は一度笑み。

「お前が後で自分の行為を悔やまないように、さ? 相手は人形だが、お前は人。あいつにとっちゃ、優先すべきは人形じゃなくて、先に待ち受けるお前の心。大体、交代でやった方が要領いいってのに一人で世話役に徹してるのも、無愛想なお前のためだろうしな。ま、どっちにしろ、小春にゃ自覚なんざねぇんだろうけど。妙なトコ鋭いくせに、変なトコ抜けてっからなぁ、あいつ――って、なんだ、その不審に満ち満ちた目は?」

「…………イヤ……ヤケに小春の気持ちを当然のヨウに代弁するカラ……なあ、シンスケ。お前、本当に小春の恋人じゃナイのか?」

 疑う目つきで問えば、途端に苦い薬をたらふく呑まされた顔の伸介。

「違う。が、付き合いは長いんだ。とと、勿論、変な意味じゃないから安心しろ? でも、そうまで思い遣って貰ってんだから、さっさと戻れ。ここで風邪引いた日には、お前、それこそ小春は確実に自分を責めるだろうし、最悪、自分にゃ世話役は相応しくないって辞退しちゃう可能性も――」

「ソレは困る!」

「そうだろう、そうだろう。じゃあ張り切って戻れよ。心配はいらねぇさ。どうせ小春のことだから、お前の顔見ちゃ謝るのがオチ」

「……本当に、シンスケと小春は何でもナイのか?」

「しつこい! 天下の幼馴染様を不埒な目で見るんじゃねぇ!」

 仕舞いには本気で腹を立てた様子の伸介に、それでも疑りの眼を持ちつつ、立ち上がって戸口に手を掛ける。

 躊躇いは一瞬。

 

 心を決めて、開けた先には――――

 

 


UP 2008/7/28 かなぶん

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