!注意!
このお話には奇人街のキャラを起用していますが、仕上がりが程好く危険です。
それでも良いという方のみ、どうぞ。

 

 

人魚姫A面 1

 

 昔々のお話です。

 

 陸の人間たちが大海原へ漕ぎ出す前より、海には人魚と呼ばれる生き物が住んでいました。

 人魚は上半分を人間、下半分を魚とする、それはそれは美しい姿をしていました。

 声は歌うように軽やかで麗しく、心は清らかで純粋。

 ――だけで生きていけるほど、世の中、生易しくは出来ていませんので、その性格は人間同様、それぞれ個性的です。

 

 そんな人魚たちの中に、人魚姫と呼ばれている少女がおりました。

 

 数多くの姉たちに見守られながら、権力争いの絶えない王宮より、少しばかり離れた宮で伸びやかに育った人魚姫は、その日、大人として認められる時期を迎えようとしていました。

 このため、人魚姫は来る時を迎えるにあたり、豊かと表現するには若干足りない胸を高鳴らせています。

 何せ人魚は、大人として認められると、今まで行けなかった処まで行くことが許されるのですから。

 これは、いかに表面上は美しい海と言えど、弱肉強食の世界、自分の身を守るには成長が必要不可欠とされているためです。

 とはいえ、小さい頃はその体格差を生かして、隠れつつ活発的に動き回っていた人魚姫。

 大人になるに際し、興味は専ら、隠れ場所のなかった水上へと向けられていました。

「はあ……上はどんな風になっているのかしら?」

 海底の岩場に腰掛けた人魚姫は、波間に漂う自分の褐色のクセ毛を払いながら、柔らかな光を落とす上を、こげ茶の瞳で見つめます。

 この光が赤く染まり、これより淡い光が降り注げば、晴れて人魚姫は大人として扱われるようになるのです。

 自分の青い鱗が朱に染むのを待つ人魚姫は、恋焦がれる瞳で上だけを見つめ続け。

「おい、人魚姫」

「わわっ! お、お姉様……」

 いきなり、鋭い眼光に射られたなら、じたばたもがいて姿勢を正します。

 くるりと一回転、岩を下とすれば、偉そうに腕を組む、銀の鱗を持つ黒髪黒目の姉姫が其処にいました。

 不機嫌この上ない表情を貼り付けた姉姫に対し、揉み手の勢いで愛想笑う人魚姫は問います。

「ど、どうされたんですか?」

「どうもこうもあるか。お前、上ばかり見ているってことは、あっちに行くつもりだろ? なら、注意するべき事があるだろうが。言え。でなけりゃ、上には行かせんぞ」

 有無を言わさぬ威圧的な姉姫の言葉に、人魚姫は少しだけ怯えましたが、これも身内を心配しての事と思えば、しっかり頷いて答えます。

「に、人間に気をつける事。間違っても、彼らに姿を見られてはいけない、話しかけてはいけない。でなければ、捕まって殺されてしまう」

「うむ、結構。分かっていれば良し」

「……ふぅ」

 姉姫が横柄に頷く様に、人魚姫は額に手を当て、架空の汗をぐいっと拭いました。

 もし、一字でも間違えていたなら、数居る姉の中でも特に凶暴なこの姉姫は、たちどころに人魚姫をなますに切り刻んでしまうでしょう。

 普段は、言い方は怖くても優しい姉姫なのですが、自分の正義から反する行いには、とてつもなく厳しいのです。

 小さい頃、冒険に明け暮れていた人魚姫が、その冒険を諦める切っ掛けになったのも、言い付けに反したばっかりに、幾度となく殺されかけたためでした。

 その都度、友達である、影の靄を纏う金目の鮫に助けられてきた人魚姫ですが、植え付けられた恐怖は尋常ではありません。

「お、どうやら時間だな。おめでとう、人魚姫。これでお前も立派な大人だ」

「は、はい。それではお姉様」

「ああ。くれぐれも気をつけるように」

 言いつつ、常時携えている、鞘に納まった刀の切っ先を向ける姉姫。

 海の中にあろうとも、錆びない白刃を知っている人魚姫は、頬を引き攣らせながら、姉姫へと手を振り、上をひたすら目指します。

 そのスピードたるや、死に物狂いの形相を浮べるほどで、姉姫の恐ろしさが如実に現れている代物でした。

 

 

 場面は移り変わり。

 海上の船には、一人の人間の青年がおりました。

 黒い羽根付き帽子に黒い衣服、それより昏い闇色の髪、白い顔に張り付いた真っ赤な笑い顔。

 やや男性寄りの中性的な美貌を持つその青年は、とある国の王子様でした。

 とはいえ、不鮮明な混沌色の瞳も加えると、不気味な事この上ない配色の王子様は、国内外問わず、あまり受けはよくありませんでした。

 そのいい例が、今現在、この船で行われているパーティーです。

 王子様の誕生日を祝す名目で開かれたはずのこのパーティーは、彼を外へと追いやった背後で、一層華やかな音色を響かせています。

 主役なしの方が盛り上がる――言外に届く思惑でしたが、当の王子様は柵にもたれながら、一人でクツクツ楽しそうに笑っていました。

 何故なら、どんな扱いを受けようとも、王子様は人間が大好きだったからです。

 だからこそ、恨み言を呟くでもなく、かといって、パーティー会場へ戻るでもなく、染み入る夜風に当たりつつ、王子様は月の光が照る、黒い海を見つめ続け――

「あ、危ない!!」

 そこに直撃する、信じられないくらいの破壊力を持った綺麗な声。

「おっと」

 拍子にバランスを崩した王子様は、呑気な声を上げて、頭から真っ逆さまに落ちてしまいました。

 主役を無視したパーティーでも、そこは一国の王子様の誕生を祝う船。

 いかに下が海であろうとも、普通なら、頭の骨を砕いても可笑しくない高さです。

 けれど王子様は生きていました。

 笑い顔はそのままに、意識を失った状態ではありましたが……

 

 

 

 一夜明け、翌日、海の中。

 

 大人と認められた矢先、朝帰りをキメた人魚姫は、帰るに帰られない状況まで陥っていました。

 一つ尾ひれで海水を蹴る度、後悔から頭を抱えて立ち止まります。

「うわー、ど、どうしよう! お姉様に知られたら、確実に斬られるっ……!」

 実は昨日、船の上で身投げする一歩手前の人間の青年を見つけた人魚姫は、止めようとして思わず声を掛けてしまったのです。

 人間の生態については一通り勉強していたため、人魚でもない彼らが夜の海に服を着たまま飛び込む事は、死に繋がると知っての行動でした。

 ――が。

 制止により踏み止まってくれば、と思ったのも束の間、青年はあろうことか船から転落。

 慌ててそんな身体を掬った人魚姫、最初は、青年を落ちた船に戻そうと思っていたのですが、船から聞こえて来た声が彼女の息を詰まらせました。

 ――王子様、王子様。ふむ? 落ちたのかネ? じゃあ、仕方ないヨ。

 まだこの腕の中にいるのに、仕方ないで済まされる命。

 形だけでも探すような真似はせず、どんどん離れていく船を視界に、人魚姫は居た堪れない気持ちになってしまったものです。

 しかし、そんな船であろうとも、王子様を落としてしまった責任は自分にあると、人魚姫はようやく理解しました。

 何せこの王子様、完全に気絶した状態でも、どこか満足そうに微笑んでいるのです。

 こんな表情の出来る人間、どう考えてみても、身投げするほど思いつめていたとは思えませんでした。

 下されたのは、人魚姫の声に驚いて落ちてしまった、という結論です。

 このため人魚姫は、近くの岸とは名ばかりの、物凄く遠い砂浜まで青年を運び。

 ついでに目覚めるまで、なけなしの体温で彼を温めることにしました。

 全ては、自分のせいだから、と。

 帰りが遅くなるのも構わずに。

 

 姉姫が確認を取った注意事項を、何から何まで破ってしまった人魚姫は、とんずらしたい気持ちと格闘しつつ、家路を目指します。

「それにしてもあの人……大丈夫だったかな?」

 ポツリと呟けば、姉姫の脅威を一時忘れた人魚姫の脳裏に、先程まで胸に抱いていた王子様の顔が浮かびました。

 一言で表すなら不気味な相貌――ですが。

「何だろう……この、妙にモヤモヤした感じ」

 王子様が目覚める直前、人間の娘が砂浜に来たため、海へ身を潜めた人魚姫。

 そこで帰れば良いものを、何故かじっと行く末を見守り続けた彼女は、目を覚ました王子様が、緊張感のない顔で、娘にへらへら礼を言うのを聞いていました。

 それからです。

 人魚姫に負けず劣らず、ひんやりした王子様の体温を感じていた胸に、鈍い重さを感じるようになったのは。

 助けたのは私――落としたのも私、ですけど。うぅ……。

 そう言いたい気持ちをぐっと堪え、砂浜からだいぶ離れたここまで来ても、人魚姫の気分は全く晴れませんでした。

 それどころか、悪化の一途を辿っている気がしてなりません。

「これって…………まさか!」

 はっとある事に気づいた人魚姫は、胸元できゅっと拳を握り締め、瞳を潤ませました。

 次いで頭を振ると、家路に背を向け、来た道を引き返します。

 心の中で、もう会えないかもしれない、姉たちへ謝りながら。

 

 

 人魚姫が向かった先は、王子様のところではありませんでした。

 数多くの骸が眠る白い大地を通り、海中火山により熱せられた海水を避けつつクレバスに入り、途中の岩壁に開けられた穴から、ヴェールのような海草を掻き分けた先。

 海の奥底、妖しげな紅い光が揺らめく窟。

 そこに住まう、そら恐ろしい魔女の元へと人魚姫は訪れ――

 

「――は? 病気だと? それで珍しく、お前の方から俺のトコへ来たって訳か、人魚姫?」

 煙管を咥えた魔女が、ねとりと絡みつく声で人魚姫に問い掛けました。

「う……は、はい。大体そんな感じです、魔女様」

 素直に頷いた人魚姫は、煙混じりの吐息に、顔を逸らして小さく咳をしました。

 ついでに身を捩ってもみましたが。

「おっと。用件は終わってねぇんだろう? 今は何もしやしねぇから、大人しく座っていろよ」

「い、今は……?」

 意味深に鮮やかな緑の瞳を細めた至近の美貌に、訪れた途端、魔女の膝の上に横向きで座らされた人魚姫は、身体をぴしっと固まらせました。

 顔も青褪めさせ、心の中で、来るんじゃなかった、と何度も何度も後悔の言葉を巡らせます。

 赤い衣を纏う、青黒く長い髪を持つ魔女は、そんな人魚姫の様子ににやりと笑みを浮かべました。

 魔“女”とは名ばかりの、美丈夫の体躯に抱かれた人魚姫は、肩に回された手が煙管を回収する様を受け、殊更身を硬くします。

 これを端で確認したのか、魔女の喉がクツクツ鳴りました。

 実はこの魔女、こんな辺鄙な場所に住んでいるにも関わらず、女の人に不自由したことがありませんでした。

 なので、多分に自信を持っていて、人魚姫のこの反応も、恥ずかしがっているだけと解釈しておりました。

 ちなみに、人魚姫から見た魔女の姿は、とある理由により王宮で初めて会って以来、必ず苛めてくる怖い人でした。

 双方のこのズレは、時として惨たらしい結果をもたらします。

「ほら、お前も呑むがイイ。めでたく大人になったんだろう? 煙の一つでも覚えておけ」

「い、いえ、今はあの、それどころじゃ――んんっ!」

 先程まで魔女が咥えていた吸い口を口に突っ込まれた人魚姫は、吸うまで離されない身を知り、仕方なしに煙を一つ吸いますが。

「ぅぐっ!? げぇっ、げほっ、けほっ、ふぅっ」

「何だ何だ、だらしのない。その程度じゃ、大人が聞いて呆れるぜ?」

 涙目になって苦しんでいるというのに、人魚姫を放さず、煙管をまた咥えた魔女は愉しそうに笑います。

 これには、やられるだけだった人魚姫、流石に目を吊り上げて怒りました。

「ひ、人が苦しんでいるのに、けほっ、笑うなんて! わ、私に何か、恨みでもあるんですか!?」

「んん? 恨みなんかないさ。そもそもお前みたいな小娘、俺が特別気に掛けてやる必要があるとでも? ちょいと自意識過剰じゃねぇのかい、お嬢さん?」

「うぅっ」

 どこまでもからかう口調に、性別は違えど、色々な面で魔女に勝てる箇所の浮かばない人魚姫は、睨みつける目はそのままに、悔しいと唸りました。

 このままでは、本気で泣いてしまいそうです。

 魔女の前で泣くのは不本意ですが、それすら涙の要因と為るのに十分でした。

 「ぐっ」と息が詰まり、溜まった涙が零れ落ちる直前。

「……で、何が原因で病気だと思ったんだ?」

「へ――――ぅひゃっ!?」

 かけられた言葉に一瞬惚けた人魚姫は、魔女を見上げようとし、その前にぺろり、目の下を舐められてしまいました。

 ざわりと背筋を走るモノを感じ、そこをゴシゴシ擦ったなら、何やら傷ついた表情が魔女の目に浮かびます。

 けれど人魚姫には、そんな事を気にかけている余裕はありません。

 一通り、気が済むまで拭うと、やがてポツリポツリ、ここに至るまでの経緯を話し始めました。

 あれだけ、姉姫に知られたら、と怯えていた人魚姫が魔女にはあっさりと全てを語ります。

 その理由は、どうせ魔女が言いふらしたところで、彼と折り合いの悪い姉姫が信じるとは思えなかったからでした。

 大抵、その時の状況に流される事が多い人魚姫ですが、考えは時折、したたか且つシビアになります。

 ともあれ、人魚姫が口を噤んだなら、彼女を腕に閉じ込めたままの魔女が口を開きました。

 干からびた、痛々しい声音で。

「それは、お前……病気、じゃない」

「え? ち、違うんですか? だって、あの人の事を考えると、こう、胸がきゅっと鳴って。だから私、人間に関わったせいで、病気になったとばかり」

 言いながら、淡く染まった頬を人魚姫は無意識に押さえました。

 

 

 勘違いを恥じているというより、自分の腕の中に在りながら、その王子様の事を思い出して赤くなる人魚姫を前に、魔女は酷く不愉快な思いを抱きました。

 女の人に不自由しないだけあって、魔女はどこへ赴いても熱い視線を受けて来ましたが、人魚姫だけは、あまりそう言った表情をみせませんでした。

 それどころか、構ってやっても嫌がる顔しかしなかったのを思い出しました。

 ちなみに、あの刀を持った姉姫も、人魚姫と似た反応を示しましたが、嫌がるだけに留まらず、反撃してくる相手を魔女は女と認識していません。

 なので、今まで人魚姫の反応を照れから来るものと思い込んでいた魔女は、人魚姫の本当の照れを初めて知り、吸い口を苦々しく噛み締めます。

 何故、こんなにも腹立たしいのか理解出来ないままに。

 くだらないと吐き捨てる口調で、人魚姫の問い掛けに答えながら。

「恋……と言うんだ、それは。お前が、その男を……好きだ……ってことだ」

「好き……これが、恋」

 先程、人魚姫へ告げた通り、彼女の存在など、特別気にかける必要を感じなかった魔女。

 だというのに、惚けた顔で王子様を思い出す度、高鳴っているであろう鼓動を、大切そうに押さえる人魚姫を目の当たりにしては、大きく叫びたい気持ちがありました。

 何故、俺の傍に居て、お前は他の奴を想う?

 俺の腕の中に居る時ぐらい、俺だけを見つめてくれ!

 お前には俺がいるのに……俺にはお前しかいないのに……

 段々雲行きが怪しくなっていく、魔女の中に眠っていた剥き出しの心。

 人魚姫の告白で表出したソレは、しかし、魔女にとっては馴染みのないものでした。

 音に聞く魔女を前にしても取り繕わない、素の表情で接してくる人魚姫は、ただの生意気な小娘であったはず。

 このため魔女は、止めどなく湧く狂おしい想いを拒み、振り払うべく、人魚姫にある提案をしました。

 それは――

「私を……人間に?」

「……そうだ。今のままじゃ苦しいだけだろ? このまま帰ったところで、人間と関わった事がバレるのは時間の問題。ならばいっそ、人間になって、その王子とやらに近づけばいい……」

 ――そしてフラれてしまえばいいんだ。

 さっさと無理だと気づいて、報告をしに来たなら……俺のところへ来るのなら。

 その時は、優しくしてやってもいい。

 泣く為の胸を貸してやる、嗚咽に揺れる髪を撫でてやる、嘆きを辛抱強く聞いてやる。

 だから。

「だから、お前を人間に――て、何だその、疑わしいモノを見る目付きは?」

「いえ、別に……ただ、あんまりにも親切な感じがしたから、裏があるんじゃないかと」

 どうやら、普段の行いの悪さが裏目に出たようです。

 最初から嘘しか言わないと決め付けられている魔女は、人魚姫の軽蔑の眼差しに、ちょっぴり傷つきました。

 毛が生えた鋼の心なので、あくまでちょっぴり、でしたが。

「ぐっ。ひ、人の好意を踏み躙りやがって」

 とはいえ、親切な思いは毛ほどもない魔女。

 付け加えるなら、人魚姫の指摘は半分図星でした。

 もう半分は、この図星を否定する思いで出来ていたため、魔女は人魚姫を片腕で抱いたまま、後ろをごそごそ漁ります。

 だから、今度は俺を好きになれ……だと? どうしたっていうんだ、俺は。こんな、こんな色気もねぇ小娘風情に。

 ともすれば、取り出した薬を渡す事も、人魚姫を手放す事もしたくない、という思いを踏み躙りつつ。

「ほれ。コレが薬だ。んな顔しなくとも、薬に関しちゃ俺は嘘を言ったりしねぇよ。だが、身体の組織構造を変える、無茶な薬だからな。副作用がある」

「副作用……?」

「ああ。人魚が人間になった場合、歩くだけで焼け付くような痛みが走る。しかも劇薬を煽った反動で喉が潰れる」

「それじゃあ……会話する事も出来ない?」

「そう、だな。言われてみりゃ、副作用の方が強いかもしれん。誰かに会いに行くなら尚更。……やっぱり止めておくか」

 人魚姫の問い掛けに、魔女はあっさりと薬を仕舞いにかかります。

 言いだしっぺのくせに、何故かほっとしている自分に戸惑いながら。

「あ、待ってください」

 けれどその時、魔女の手を人魚姫の伸ばした両手が包み込みました。

「なっ」

 どくり、魔女の心臓は高鳴りましたが、人魚姫が欲したのは、手ではなくその手が包む薬。

 隙をつき、薬を奪われてしまった魔女は、それでも残る、初めて人魚姫から触れられた熱に侵され。

「魔女様……私、この薬を頂きます。いえ、欲しいんです。下さい!」

 真剣な瞳で訴えた人魚姫は、薬を胸に抱き締めつつ、こちらへ必死に頭を下げています。

 未だかつて、こんな風に人魚姫から頼られた事のない魔女は、眩暈にも似たトキメキを感じましたが、この必死さこそ王子に対する想いと察すれば、底意地の悪い考えが浮かびました。

「ああ。いいぜ? ただし――」

 ――女として、男の俺を満足させられたらな。

 この際、身体だけでも構わない、心は他にあろうとも身体だけは繋げ続けてやる……。

 そんな想いで続けようとした魔女は。

「わぁっ! あ、ありがとうございます!! 御免なさい。私、今まであなたの事を勘違いしていたみたいです。魔女様のご厚意、無駄にしないよう頑張りますね!」

 今にも泣き出してしまいそうな笑顔を浮べた人魚姫は、被せた言葉の続きを知らず、ありったけの親愛の情を込めて、魔女の頬にキスをしました。

 人魚姫から向けられた笑顔とキスに、言葉を失った魔女は、煙管が口から離れても、波を漂う影を作っても、何も目に入りません。

 ただただ、窟を去る人魚姫の後姿だけが、目の奥に焼きついていて。

 妹の不在を訝しんだ姉姫が尋ねてくるまで、魔女は片時もその場を動けず、我を取り戻してからようやく思い知るのでした。

 自分は人魚姫が好きだった、という事を――。

 

 


2009/9/21 かなぶん

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