!注意!
このお話には奇人街のキャラを起用していますが、仕上がりが程好く危険です。
それでも良いという方のみ、どうぞ。

 

 

人魚姫B面 1

 

 昔々のお話です。

 

 陸の人間たちが大海原へ漕ぎ出す前より、海には人魚と呼ばれる生き物が住んでいました。

 人魚は上半分を人間、下半分を魚とする、それはそれは美しい姿をしていました。

 声は歌うように軽やかで麗しく、心は清らかで純粋。

 ――だけで生きていけるほど、世の中、生易しくは出来ていませんので、その性格は人間同様、それぞれ個性的です。

 

 そして、そんな人魚たちの中に、人魚姫と呼ばれている少女がおりました。

 

 今日が誕生日の人魚姫は、薄桃の布に覆われた、豊かと称すにはやや足りない胸へそっと手を当て、柔らかな陽光差し込む頭上を見上げています。

 流れに漂う褐色の髪を耳に掛け、煌く青い鱗の尾ひれで腰掛ける岩場を仰ぎ、こげ茶の瞳をキラキラ輝かせながら。

「あの光がもう少し弱まれば、私も水面まで行けるのね」

 人魚は成人として認められる齢になると、それまで行く事を硬く禁じられていた水面まで赴けるようになります。

 誕生日は今日でも、生まれた時刻は夕日が落ちてからの人魚姫は、その時を今か今かと待ちわびておりました。

 と、そこへ、人魚姫に同意する声が掛かります。

「ええ、そうですよ、人魚姫」

「あ、お姉…………………………様」

 呼ばれた人魚姫がそちらを向けば、優しい姉姫が、頼りない微笑を浮べていました。

 灰色の長い髪におどおどした金の瞳、姉が背負う女という性別にしては高い身長・広い肩幅を丸めて縮めた姿は、冴えない感じを前面に押し出しています。

 鱗も黒ずんだ灰色の地味な色合いで、割と筋肉質な胸はぴっちりとした青い布で覆われています。

 もう少し、しゃきっとしたならマシに見える、とりあえず女には見えない姉姫は、人魚姫のビミョーな笑みに首を傾げました。

「あの、やっぱり変ですよね、この格好」

「いや……ええと、その」

「……そもそも、俺が姉っていうところからして無理があったんじゃ」

「わわっ、だ、駄目ですよ! そういう事言っちゃ! え、えと、それでお姉様、そうですよ、の次、どうぞ!」

 話が脱線しそうなところで、人魚姫がすかさず両手を差し出し、先を促しました。

 姉姫は「あ、はい」と小さく頷き。

「あー……で、でも、気をつけなくてはいけない事があります」

 つっかえつつも、神妙な顔つきで告げる姉姫に対し、人魚姫は似たような表情を浮かべました。

「はい。人間に気をつける事。間違っても、彼らに姿を見られてはいけない、話しかけてはいけない。でなければ、捕まってしまう――でしたよね?」

「ええ。じ――じゃなかった、人間、人間はとても恐ろしい事を考えつく生き物ですから。人魚の血肉を食べたら不老不死になる、なんて伝承まででっちあげるくらいに」

 ああ怖い、と自身を抱き締め身震いする姉姫へ、その仕草の方が怖いという風体で、頬を引き攣らせた人魚姫は、気を取り直すように首を振りました。

「人間が恐ろしい事は重々承知しています。でも――」

「勿論、行くな、とは言いませんよ。ただし、注意は怠らないように、って話ですからね」

「はい、お姉様」

 視線をがっちり交わして力強く頷く人魚姫へ、姉姫は娘の成長を喜ぶ父の如く、腕を組んで二回ほど頷きました。

 どっからどう見ても、姉妹とは言い難い二人は、それからしばらく話し込み。

 

 

 

 

 

 海の光景が、鮮やかな青から赤みがかった色、暗い蒼へと変化したなら、人魚姫は無事、大人になりました。

 見た目は全く変わりませんが、心なし、力が溢れてくるように感じられます。

 人魚姫は姉姫と別れるなり、上を目指して尾を海水に叩きつけます。

 速度を上げ、もう少しで水面に辿り着く――その前に。

「あっ! 先にご挨拶をして来なきゃ」

 かくっとUターンをキメた人魚姫は、一気に海底へと潜ってゆきます。

 昼であっても変わらぬ薄暗い闇の世界。

 砂は白く、ところどころ覗く残骸は、海で死に、流れ着いた様々な生き物のなれの果て。

 薄ら寒い思いに囚われれば、益々一帯の温度は低く感じられ、先を行くことすら躊躇わせるでしょう。

 けれど人魚姫は、それらの恐怖に構う事なく、ある場所を目指して、ひたすら尾を動かしました。

 人魚の感覚は人間のそれとは違い、目に頼り切ったモノではないので、障害物も難なく避けてゆく事が出来ます。

 自分より身の丈のある凶暴な生物と出くわしても、吹き上げる海中火山の熱があっても、剥き出しの岩場が進行を邪魔しても、人魚姫は泳ぎ続け。

 彼女以外はあまり出入りしない窟まで辿り着いた人魚姫は、呼吸を整えるとその中へと入ってゆきました。

 陽の恩恵が薄いわりに、生い茂った海草が、ヴェールのように波間に漂い、人魚姫を出迎えます。

 これを除け続けると、何とも妖しい、赤と黒の入り混じった煙る光が、奥から届いてきました。

 普通の生き物であれば、それだけで危険を察知して逃げる場面ですが、人魚姫はここに来るまでの間、保ち続けていた緊張を容易く解いてしまいます。

 次いで浮かぶのは、和らいだ微笑み。

「こんばんは」

「…………」

 声を掛けつつ、煙る光の中へ向かえば、つまらなさそうにこちらを見やる、一対の混沌の瞳に出くわしました。

 人魚姫の姿を認めるなり、赤い口の笑みはそのままに、闇色の髪に隠れた柳眉を盛大に顰めて、病的とは違う真っ白な肌の持ち主は首を振りました。

 濃淡の違いはあれど、幾重にも身に纏う紫のヴェールと衣を、アクセサリーと共に揺らしながら。

「はっ。なんだか生臭いと思ったら、また来たんだ」

「……生臭いって、海の中なのに…………そんなこと言ったら、自分だって似たような姿なのに」

「何か言ったか、人魚姫?」

「いいえ、何も」

 出鼻を挫く悪態にはヘソを曲げる人魚姫でしたが、この程度の挨拶はいつもの事。

 構わずに煌びやかな小瓶が棚に飾られた、不気味な色彩と偏屈で知られる、悪名高い魔女の部屋に入って行きます。

 小さい頃、今よりずっと活発だった人魚姫が、偶然発見して以来、度々訪れるこの窟の主は、手にした水晶玉を海草で拭きながら、嫌そうに言いました。

「誰が入って来て良いって言った?」

「私が、入っても良いと思っただけです。魔女様は用がある者の訪問を拒めないんでしょう?」

「用? お前が? ボクに? 馬鹿も休み休み言え。毎度毎度、大した用もなくここに来るくせしやがって」

 仰々しい溜息をつかれ、人魚姫はむっとして口を尖らせました。

 腰に手を当てては胸を逸らし。

「大した、って、ちゃんと用はありますよ!」

「へぇ、どんな? そういや聞いた事なかったな。まあ、元より人魚じゃ興味もないんだけど」

 素っ気ない魔女の受け答えに、若干怯みかける人魚姫ですが、気を取り直しては腕を広げました。

「まあ、それはそれとして。実は私、大人になったんですよ」

「あ、そ」

「……そ、それだけですか?」

「……それ以外に何を求めているのさ。図々しい奴だねぇ? ボクは人間以外嫌いだって言ってるのに。それともその耳は、海水に浸かり過ぎて腐れているのかな? いや、腐っているのは頭の方か」

 冷たい反応には肩を落とし、嫌な笑いにはちょっぴり困惑する人魚姫。

 あからさまな落ち込み具合をどう思ったのか、魔女は息を吐くと、衣の下から吸盤のついた黒い蛸足を出しました。

 棚の小瓶の一つを取り出したその足は、ふらふらした動きで、人魚姫の前まで伸びてゆきます。

 惚ける顔の前で、小瓶をゆらゆら揺らしながら。

「ま、その図々しさに免じて、大人になったお祝いにこれをやるよ」

「えっ!? く、下さるんですか、私に?」

 目を剥いた人魚姫が両手を差し出せば、それが足に触れる前に、小瓶が手の平に落ちました。

 蛸足は正真正銘、魔女の足でしたが、手と同じ役割をするそれから物を受け取っても、人魚姫は顔を顰めず、それどころか嬉しそうな笑顔を浮べました。

「ありがとうございます! 大切にしますね」

「ん? 嬉しいのかい、それが」

「え? はい、それは勿論……あ、でも別に私、物が貰えたから喜んでいるのではなくて」

 あなたが私の事を気にかけて下さったから嬉しい。

 そう告げるより先に、魔女はへらりと笑って言いました。

「ふーん? 勿論、ねぇ? 言っとくけど、毒だよ、それ」

「え」

「煽った瞬間にね、小煩いその口から溶けていく毒。しかも水中で開ければ被害拡大は必至。それなのに喜ぶなんて……ククククク。お前って、本当に頭が湧いているよね」

「! そ、そんなモノを渡すなんて!」

 素直に喜んだ分だけ、魔女の底意地の悪さに怒る人魚姫。

 扱いに危険を伴う毒を後生大事にする謂れはないので、すかさず魔女へと付き返します。

 これを蛸足で取った魔女は、毒を戻す傍ら、もう一方の足で人魚姫の腕を掴みました。

「きゃっ!?」

 続いて無遠慮に引っ張られてバランスを崩した人魚姫は、文句を言おうと顔を上げ。

「っ!」

 至近に魔女の顔があったなら、頬を真っ赤に染めて言葉を失ってしまいました。

 気づけば首、両手首、両腕、腰が蛸足に捕らえられており、それぞれがぺたぺたと吸盤で人魚姫の肌を撫で回します。

 けれど、その擽ったささえ、魔女から目を逸らす要因にはなりません。

 そんな人魚姫の顎下にするり、細い足先を這わせた魔女は、口付けを交わすほどの近さで言いました。

「愚かな人魚姫。知っているか? 古来より、誕生の時は呪いの材料として使われるんだよ。それなのにお前は、呪いを専門とする魔女の元までノコノコやって来て……救いようがないくらい、愚かだ」

 蔑むようでありながら、窘める音も多分に含まれた言を受け、人魚姫が僅かに身じろぎます。

「うっ……の、呪いって、何を」

「さてね。どうしようか。こうやって簡単に捕らえられる人魚、呪ったところで疲れるだけな気もするし。……にしても、大人、ねぇ?」

「な、何ですか、その目は! 文句ありますか!?」

 顔はつき合わせたまま、魔女の視線だけがちらりと下に走りました。

 羞恥に染まった人魚姫が喧嘩腰になったなら、魔女は嫌味ったらしく肩を竦めます。

「いいや。人魚って時点で文句は限りないけどさ。まあ確かに、この辺とか」

「ひゃっ!?」

「こっちとか」

「あぅっ!」

「ここも」

「やっ」

「あと、こういうところが」

「っ、あ、ひっ、ぃやっ、はぅうっ!?」

 指摘する声に倣い、拘束に使われていない足がそこを撫で上げます。

 その都度、あられもない声を上げて跳ねる人魚姫ですが、軟体の足は依然として彼女の身体を捕らえたまま。

 最終的に両手を上で固定された人魚姫は、上気する頬、荒い息、霞む視線で、下方、へらへらした魔女をぼんやり見やり。

「大人にしては、肉付きが足りないねぇ? 反応だけは一丁前、身体付きは半人前ってとこかな」

「ひ、酷い……」

 散々弄ばれた末の結論に、人魚姫の身体ががっくり項垂れました。

 かといって、これで解放してくれるほど、魔女は生易しい性格ではありません。

 するする、またしても人魚姫を自分の至近まで引き寄せた魔女は、項垂れた両頬を黒いマニキュアの白い手で包み込みます。

 ゆっくり、人魚姫の顔が上がれば、にたりと笑い。

「懲りもせずにボクのところに来た、図々しさに敬意を表して、呪いをやろう――」

「ふっ……?」

 ふいに訪れる、静かな時間。

 荒い息を忘れた人魚姫は、変わりに蠢く感触を口にし、思わず混沌の瞳を見返しました。

 愉悦に満ちたそれは、人魚姫の反応を拒絶と受け取り、一層喜んでいるようにも見えます。

 糸を引くに似た動きで、ゆっくり離された魔女の唇は、赤い笑みを刻んでは、驚きから何も語れない人魚姫へ告げました。

 今し方触れたばかりの唇を何度も挑発するように掠めながら。

「お前はこれから上に赴くだろう。そして、運命の人とやらに出逢い、未来永劫、幸せに暮らすんだ。この口付けは呪いの成就を約して祝す」

「! やっ、嫌――んんっ!」

 魔女の言葉の意味を理解した途端、再び人魚姫の唇が塞がれてしまいます。

 今度は甘受する事なく、激しく抵抗を見せる人魚姫でしたが、魔女の拘束はビクともしません。

 しばらくは、じたばた暴れていた人魚姫、魔女の口付けが深まるにつれて、段々頭の芯がぼーっとしてゆき、力が抜けていってしまいます。

 駄目、なのに……そんな呪い、先に待つのが幸せでも、受けたくないのに…………

 辛そうに瞼を閉じる人魚姫に対し、魔女は不審も露わに眉を寄せました。

 大人しくなった人魚姫から、絡み合わせていた舌を回収しては、袖を口元に当てて、眉間の皺を更に深く刻みます。

「嫌? 何が嫌だと言うんだ? 折角このボクが祝ってやるっていうのに。それとも……好きでもない奴から口付けされたのが、そんなにショック? ま、当然だろうけど」

「っ!? ち、違――」

「てなわけで。はい、さよなら、人魚姫。どこぞの馬の骨と一生お幸せに。そしてもう二度と、ボクの前に現れないでおくれ? お前なんかにこれ以上、煩わされたくないんだからさ」

「そ、そんな」

「はいはい、散った散った。一名様、地上までご案内ー」

「!」

 ひらひら振られる魔女の手に併せ、人魚姫の周りに水流が生じます。

 意思に反して、窟の外へ運ばれる身。

 人魚姫は必死の抵抗を試みますが、魔女の力はこれを許しません。

 疲労を感じたなら、不自然な水の流れが人魚姫を一気に水面まで運んでゆきます。

 それでも人魚姫の視線だけは、遥か海の底、魔女の窟がある辺りを見つめ続けていました。

 

 

 

 

 

 程なく海から顔の半分を出した人魚姫は、待ちわびていた上の世界に瞳を輝かせることなく、どんよりした面持ちで、水面を泳いでゆきます。

 本当はもう一度、魔女の下へ行きたいのですが、人魚姫を押し上げた水流は未だに彼女の身体に纏わりついており、潜ろうとしても上手く行きません。

 そのしつこさが、魔女が自分を不快に思う証と思えば、尚更、人魚姫の気は沈みました。

 毎度毎度……人間じゃないってだけで、こんな扱い。

 しかも、初めてのキスだったのに、相変わらず素っ気ないっていうか……

 知らず唇に触れた人魚姫は、ひんやりした熱の辿り方を思い出し、顔を熱くさせました。

 次いで、ちょっぴり泣きそうになりながら、立ち泳ぎの姿勢で、海中に視線を落としました。

 幸せ、なんて……自分で見つけなきゃ意味ないのに。

 幾ら魔女の呪いが強力でも、心まで簡単には支配できません。

 つい先程まで、人魚姫が幸せを感じていたなら、尚の事。

 でも、こんな風に邪魔者扱いされるんじゃ、やっぱり駄目、よね?

 切ない思いを抱え、溜息をつく人魚姫。

 誰にも言った事はありませんでしたが――いえ、言えば必ず止められてしまうので、口外していませんでしたが。

 人魚姫は魔女が好きでした。

 魔女との出逢いは、人魚姫にいつも安堵を与えてくれるのです。

 魔女の窟までの道のりを思えば、当たり前のような気もしますが、人魚姫はそんな自分の精神状態を把握しつつ、それでもやはり魔女を恋しく想い。

 と。

「…………あれ?」

 暗くなった人魚姫に合わせたかのように、突如、海に影が落ちたのを知り、慌てて辺りを見渡します。

 前方、左右、何もなければ――

「後ろ!?――って、うぎゃあっ!!?」

 何故、今まで気がつかなかったのでしょうか。

 波を起こすほど大きな船が、針路を人魚姫に向けて進んで来ていました。

 これが噂に聞く人間の乗り物! などと感動している暇はありません。

「ま、待って! ぎゃわうっ、ちょ、ストッ、除け、除けるから――――ぁあああああっっ!」

 押し上げる水流があるため、潜って回避する事は不可能。

 人魚にあるまじき滑稽さで、手と尾をじたばたさせながら逃げても、船が辿り着く頃には思いっきり波にもまれてしまい、人魚姫は目を回してしまいました。

 それでも不幸中の幸いというべきか、船の側面まで移動出来た人魚姫、荒い息で「お、溺れるかと思った」と、自身の種を忘れ去った言を吐きます。

 ともあれ、眩暈が取り除かれれば、仕切り直し。

「に、人間の作った船って……思っていたのより大きい」

 人魚姫が聞いていた船は、漁船やヨットの類であるため、あんぐり口を開けて見入ってしまいます。

 自発的に起こる波で、近くまでは寄れませんが、それにしたって、見上げれば首が痛くなるような大きさ。

 上部には灯りが点々と見え、賑やかな音が潮騒に混じって届いてきます。

 驚くほどの贅を尽した豪華客船の外装は、人魚姫の目にはおどろおどろしいシルエットにしか見えませんが、好奇心は疼くものです。

「うーん。でも、こんなに波が起きていたら、近寄ることも出来ないわ…………と?」

 諦めるしかない、と人魚姫が思った矢先、船がぴたり、動きを止めました。

 あまりのタイミングの良さに、一瞬、惚けた人魚姫でしたが、我に返ると早速船に近づいてゆきます。

 あれだけ大きい船ですから、また動き出すにしても、時間が掛かるでしょう。

 それに、灯りの位置から察するに、あの高さと夜の海の暗さからでは、人魚姫の姿を捉える事は難しいはず。

 幸い、月明かりは人魚姫に船の陰を与えてくれています。

 好条件を換算し、問題なし、と判断した人魚姫は、随分近くまで船に寄り。

「――んっ、はぁっ、お、王子、様ぁんっ」

「!!?」

 何やら辛そうな女の声に、思わずそちらを見やった人魚姫は、上の灯りに照らされた人間の姿を目にし、身体をぴしっと硬直させてしまいました。

 んなっ、ななななななななな、何、何、何ぃっ!?

 本当はさっさと顔を背けたいところでしたが、船から落ちそうなくらい上半身を前に突き出した女は、赤い舌を垂らしながら、苦悶の表情を人魚姫に向けています。

 目を閉じているのか、それとも薄く開いているのか、兎も角、ヘタに動けば見つかりそうな状況下、人魚姫は口を真一文字に閉じて、ただただ顔を赤くさせていました。

 けれど腕だけは、不規則に揺れる女の胸元のせいで、己の胸を隠すよう動いてしまいます。

 比べようもないたわわな胸に這わされた、鋭い爪を持つ、青黒い手の妖しい動きを目にしてしまったせいで。

「も、もぅっ、お、お許し、お許しをっ! わ、私が浅はかでございましたっんぁっ、お、お願、ひっ」

 鼻がかった女の声は甘えそのものでしたが、どうやら誰かに謝罪を述べているようです。

 身を捩って、何かから逃れようとする女は、汗で化粧が崩れても、ほつれた髪が張り付いても、その場から動けず、終いには声にならない声を上げて仰け反ってしまいます。

 がっくり力の抜けた女が落ちかけたなら、茫然と見ているだけだった人魚姫は、「危ない!」と声を掛けかけ。

 その前に、女の胸から退いた手が、意識を失った様子の髪を引っ掴みました。

 肌蹴た胸元を直しもせず、喘ぎを象ったまま口の端から涎を垂らし、それでも揺れ続ける女は、身体が船の縁にぶつかる度、だらけた喉から肺に溜まった空気を断続的に零します。

 う……な、何なの、アレ? 大丈夫なの、あの人?

 女が意識を失った事により、動いたものか惑う人魚姫は、常軌を逸脱したこの様子に怯え、頬を引き攣らせました。

 すると、人魚姫の心配を余所に、乱れた格好の女は乱れた格好のまま、髪を掴む手により、乱暴な動きで船の中に消えてしまいます。

 床に叩きつけられた音と呻く声が聞こえたなら、鈍い打撃音が漏れました。

「っ」

 くぐもった女の声に人魚姫が震えれば、女とは別の影が、女のいた位置に現れました。

 外に背を向けて縁に尻を乗せ、冷え切った視線で女が倒れていると思しき場所を、感慨もなく見つめるその姿は。

 に、人間なの、アレも……?

 尖った耳に長い鼻面、煙管を咥えた口から覗く牙の羅列、睨まれたら即座に萎縮してしまいそうな鮮やかな緑の双眸。

 身につけた白い衣装や体躯は、確かに人間を象ってはおりましたが、顔立ちや全身を包む青黒い体毛は、海に住む人魚姫は見たこともない獣のモノです。

 遥か下方で顔を青褪めさせる人魚姫なぞ知る由もない、その人間(仮)は、先程女の胸元を弄っていたと思しき手で煙管を持つと、忌々しそうに煙を吐き出しました。

「ちっ……話にもならんな。大方、王子という肩書きにつられたのかも知れんが、そこら辺の青臭い餓鬼と俺を同一視するとは。どっかの貴族の女だか知らんが、躾けてやる必要がありそうだ。誑し込むにしては場数が足りんだろう。……どれ、手を貸してやるか」

 にたりと嗤った人間(仮)は、煙管を再度咥えると、別の場所へ視線を移しました。

「おい、従者」

「はい、なんすか、王子様」

 呼べばすぐさま応える、姿は見えない第三者の声。

 王子様と呼ばれた人間(仮)は、続いて女が倒れている場所をくいっと顎で示しました。

「ソレを水夫どもにくれてやれ。とりあえず、五体満足で生きてりゃ上々だ、とな」

「はあ……もし、欠けたり殺しちまった場合は?」

「んなもん、いつも通りさ。テキトーに持ち帰っても良し、死んだら魚の餌でイイ」

「この親には、何て言っときます?」

「ああ? そうか、今日のアレには親がいるのか……なら」

「なら?」

「海に落ちたとでも言っておけ。あんまりにもうるせぇようだったら、好きに始末しろ。王子を誑かそうとする女の親だ、情けはいらん」

「情けなんて最初っから持ち合わせていないくせに。大体、好きに……って、オレ、そういう作業に向いてないんすけど」

「お前の都合なんざ知るか。向かなきゃ向かないなりに努力すればイイだろ?」

「努力……はあ、どこで間違ったのかな、オレの人生。まあこれも仕事だと思えば」

「……つくづく変わった奴だな、お前」

「王子様には言われたくないっすよ」

 やれやれと言う従者が歩き出せば、何かを引き摺る音が続きます。

 人間の世界の詳しい事は人魚姫に分かりませんが、かなりえぐい話を聞いてしまった事だけは何となく分かりました。

 今すぐ海に潜り、聞いた話全てをなかった事にしたい人魚姫。

 けれど魔女の力は、まだ人魚姫を海中に帰してはくれません。

 こんな、こんなところに、運命の人がいるなんて……呪い以外の何ものでもないわっ!

 ちょっぴり目の端に涙を浮かべた人魚姫は、こうなったら、さっさと船から離れようと身を翻し。

「おい、そこのお前……そんなところで何を泳いでやがる?」

「げっ!」

 背後から剣呑な声を掛けられ、つい人魚姫の顔がそちらを見てしまいました。

 王子様、と呼ばれていた人間の声だと分かっていたのに。

「! お前、その身体は!?」

「ひぃっ!!?」

 しかも、いつの間にか中天に差し掛かっていた月のせいで、人魚という事までバレてしまったようです。

 姉姫から受けていた注意に加え、王子様と従者のやり取りを聞いてしまったら、捕まって後の楽しい明日など、あるはずがありません。

「す、すみません、御免なさい、私は何も聞いていません、見ていません、ただのしがない通りすがりで、人の世には全く持って関わりないので――――と、兎に角、失礼します!」

 早口に捲くし立て、じゃっと小さく手を上げた人魚姫は、王子様の視線からとっとと逃れるため、船を大きく迂回して行きます。

「ま、待て!」

 逃げれば追いたくなるもの、とでも言うつもりでしょうか。

 届きもしないのに、鋭い爪を携えた手をこちらへ伸ばす王子様を見もせず、待てと言われて待つ人魚はいません! と心で叫ぶ人魚姫は、無事、船を曲がりました。

 が、しかし。

「きゃあっ!!?」

「おおっ! どうやら面白いモノが掛かったようだね!」

 途端、投げ網に引っ掛かってしまった人魚姫は、混乱の内に漁船へと引っ張り込まれてしまいました。

 

 


2009/9/21 かなぶん

修正 2009/9/24

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