!注意!
このお話には奇人街のキャラを起用していますが、仕上がりが程好く危険です。
それでも良いという方のみ、どうぞ。

 

 

人魚姫B面 3

 

 ところで。

 人魚姫には、冒頭で出てきた姉姫以外にも、たくさんの姉がおりました。

 そのどれもが人魚姫を大切にしてくれたのですが、中でも人魚姫を可愛がっていたのが――

 

 同じ親から生まれたとは思えない、黒い靄を纏った、シャチサイズにもなれる、完全魚型の姉姫でした。

 

 身体の大きさを変えられる特異さに、見合うだけの力を持っていたこの姉姫は、人魚姫の危機に際し、どれだけ遠くにいても必ず助けてくれます。

 なので、人魚姫が「助けて!」と叫んだ時、船が大きく揺れたのも、この姉姫の為せる業でした。

 駆けつけた勢いのまま、シャチサイズとなった巨体を、船へ容赦なく叩きつけたのです。

 些か乱暴に過ぎる部分はありますが、お陰で人魚姫は海へ帰る事が出来ました。

 しかし。

 

 

 尾の拘束と轡は取り払われていましたが、手首と身体を絞める縄はそのままでした。

 このため、海に潜った人魚姫は苦悶に喘ぎます。

「うっ……み、水を吸って縄がキツく…………」

 元より、人魚姫がどれだけ暴れても緩まなかった縄ですから、水で膨らんだ分、容赦なく肉に食い込んできます。

 せめてこの腕の隙間がなくなる前に、尖った物で縄を切れれば良いのですが、生憎と人魚姫はそんな便利道具に縁がありませんでした。

 ――んが。

「あ、あの人!」

 痛みに霞む視界の中、人魚姫は少し離れたところに浮かぶ、獣面の王子様を発見します。

 暗い海中だというのに、乳白色の鋭い爪が、きらりと輝いた状態で人魚姫の目に映りました。

 通常なら、逃げ出した船の持ち主、近づくことすら躊躇われるところでしたが、四の五の言っている内に、拘束の苦しさは増すばかりです。

 何より人魚姫の性格上、気絶している姿を見た後では、見なかったで済ませる事ができませんでした。

 放置すれば、確実に後味の悪い思いをするからです。

 尾で海水を蹴った人魚姫は、バランスの取り辛い身体を揺らしつつ、王子様の下へ向かいます。

 かといって、腕は使えませんので、頭を王子様の胴に潜り込ませると、ぐんぐん上を目指して泳いで行き。

「ぶはっ!……と、あの岩場に」

 先に浮かんだ王子様を引っくり返して、水面に顔を出したなら、彼の襟首を噛み、見定めた岩場に直行。

 どうにかこうにか王子様の身体を上げては、自分もその隣に座り、乳白色の爪を拝借。

 のこぎりの要領で縄を切っていきました。

「ふ、う。や、やっと楽になった……」

 久々の解放に諸手を挙げて喜ぶ人魚姫は、海に戻りかけ、はたと気づきました。

「ええと、船はすぐ近くだし、大丈夫だとは思うんだけど……起した方が良いかしら?」

 未だ気絶したままの王子様と、少し遠くで停泊したままの船とを見比べた人魚姫、「よし」と頷いては行動します。

 まだひりひり痛む縄目跡を擦りさすり、仰向けの王子様の肩へ手を置き、静かに揺らしました。

「王子様、王子様、大丈夫ですか、生きてますか、陸地ですよ、岩場ですよ」

「……あと十分」

「じゅっぷん……?」

 呑気な人魚姫の訴えに、背を向けて横になってしまった王子様。

 時間に一々目安をつけない人魚の人魚姫は、困惑した表情で青黒い毛並みを包む白い背を眺めます。

 けれど、程なくして王子様から「ひぇっぐしっっ」と、なんともオヤジくさいくしゃみが聞こえて来たなら、慌てて近づきました。

「か、風邪引いちゃいますよ?」

 人間の事などほとんど分からないくせに、何故かくしゃみ=風邪の式が出来上がっている人魚姫は、もう一度王子様の身体を揺すりました。

 が、やっぱり反応は芳しくありません。

 どうすれば良いのかと迷う傍ら、思い当たったのは、王子様の服が濡れている事でした。

「そ、そうだ、脱がせれば少しくらいマシになるかも……夜って言っても暖かいし、毛だって乾かさなくちゃいけないもの」

 思い立ったら吉日、とばかりに、王子様をごろんっと仰向けに戻した人魚姫は、上着を脱がしに掛かります。

「うわ、人間の服って脱がし難い。まあ、そもそも人魚の男の人って、大概上半身裸なんだけ、どっ!」

 ぶちぶち愚痴りつつ、王子様の服を引っぺがす事に成功した人魚姫は、毛むくじゃらの上半身を背に、服の水気をぎゅっと絞りました。

「うーん。絞り難い。どうしてこんなに装飾の多い服を着るのかしら? 服なんて恥ずかしくない程度に隠せれば良いと思うのだけれど」

 人間ではない人魚姫は、年頃の娘にあるまじき台詞をぽんぽん口にします。

 そのせいで、後ろが起き上がった事にも、近づいては鋭い乳白色の爪を伸ばしてきている事にも気づかず。

「おい」

「うひゃあっ!?――ああっ!」

 いきなり背後から抱きつかれ、驚いてしまった人魚姫は、頑張って絞っていた服を海へ落としてしまいました。

 咄嗟に追って前のめりになれば、がっちりした腕に胴が囚われてしまいます。

 その上。

 む、胸! 胸を掴まれてるぅっ!?

 腹とは別に、布越しに伝わる腕と手の感触に、心の中で悲鳴が上がります。

 表で上げられないのは偏に、状況から言って、覆われた胸が胴扱いされているかもしれないという羞恥からでした。

 指摘したが最後、「胸だったのか……」と気まずそうにされては、立つ瀬もありません。

 だからと大人しく受け入れる気もさらさらない人魚姫は、突然の拘束からして許容するわけにもいかず、自由の利く手で王子様の腕を押しました。

「は、離して!」

 人魚姫の必至の訴えに、王子様は至って簡潔に。

「無理だ」

「む、無理って何ですかっ!?」

 暴れたせいで、否応なく揉まれているような刺激を感じる胸に、人魚姫が喘ぎつつ振り返ったなら、爛々と輝く緑の瞳がそこにはありました。

 思わず「ひっ」と声を漏らし、王子様と視線を交わしたまま仰け反った人魚姫は、そのせいで可笑しな事に気づきます。

 あ、あれ…………………………ちょ、ちょっと待って、これってまさかっ!!

「なっ、やっ、は、離して! 止めてっ、て、ひゃあっ!?」

 拒絶を再開した人魚姫に対し、一瞬眉を顰めた王子様ですが、その頬に赤らみが浮かび始めている事を知っては、にやりと笑いました。

「ほお? 人魚であっても、此処の感じ方はさして変わらんようだな?」

「っ! やぅ、やっぱり、知ってたんですね!? ひ、人の胸を何だと、ぁっ」

「何って、可愛がってやる処だろ? イイじゃねぇか。ちぃとばっかし、俺の好みには足りねぇが、なかなか味わいのある形だぜ」

「やだぁっ! 変な事、言わないで下さいっやっ!」

 抵抗虚しく、しっかり抱きかかえられた人魚姫は、王子様の腕に爪を立てますが、毛並みの良さが伝わるばかりで引っかく事も出来ません。

 徐々に、人魚姫の力が抜けていったなら、蹲る動きに合わせて王子様の鼻面が耳に当たりました。

 妖しく弄る手と熱い吐息に、ビクビク震えるしかない人魚姫ですが、その脳裏に映るのは無下に扱われた女の姿でした。

 あんな風に為るのは嫌!

 しかし、そうそう実戦の免疫があるわけでもない人魚姫に、王子様の、文字通り魔の手を脱する術はありません。

 まだ近くにいる姉姫を呼ぶにしても、嬌声交じりでは、きっと遠慮して助けに来てくれないでしょう。

 人魚姫も大人になったんだ、と想像で細められる姉姫の金の目に、違います!、と否定を入れつつ。

「王、子さ、まぁ……お願い、します。や、止めて…………」

 潤んだ目で見返り、懇願しながら王子様の手に自分の手を重ねる人魚姫。

 そのまま胸に縋りつくよう、頭を擦り付けたなら、ようやく王子様の動きが止まりました。

 ただし、手は其処から退かず。

「ああ、悪い……もっと大切に扱ってやるつもりだったんだが、こうしてお前の傍にいると、どうも調子が狂う」

「じゃ、離れて――」

「だから無理だと言っているだろう?」

「んっ」

 隙あり! とばかりに王子様の台詞に併せて逃げようとした人魚姫ですが、柔らかく撫でられては力が入りません。

 先程より王子様に身を預ける形を取れば、蕩けるような緑の視線に射すくめられました。

「不思議だ。最初に見た時は、人間ではないお前の姿に、自身を重ねただけだというのに。食器の上に乗せられたお前を見た時、不老不死の言い伝えは知っていても、動いたのは男としての欲だけだった」

「に、人魚を食べても、不老不死にはなれません」

 ねっとり絡みつくような、耳に染み入る低音を掛けられても、人魚姫の関心は不老不死の言い伝えに向けられています。

 構わず、王子様は続けて。

「この魚の部分にさえ女を感じてしまった。こんな事は初めてだ。そうして思ったんだ。お前を俺の女にしたいと」

「う、鱗、剥がさないでくださいね? 結構痛いんですから」

 一方の腕が腰の辺りを撫でれば、すかさず人魚姫が訴えを起しました。

 噛み合わない会話を重ねても、飽くことなく人魚姫を捕まえる手が、ふいにするりと移動します。

「ひゃっ!? だ、駄目!」

 遮ったところで、後手に回り続ける人魚姫が防げるはずもありません。

 まんまと布の中に侵入した手は、膨らみを揺らす鼓動を、さも愛おしいと撫でつけました。

「助けて、くれたんだろう? 幾ら何でも、俺にだって分かるさ。お前の方は会ったばかりの俺をどうとも思っていないと。だが、それでもお前は、海に落ちた俺をここまで運び、介抱までしてくれた。これを喜ばずに、何を喜べと言う?」

「し、知りません……」

 逃れられない恥ずかしさから、ぎゅっと目を瞑った人魚姫ですが、閉ざされた視界の分だけ、直に触れられる肌のざわめきが明確となり、熱に浮かされたこげ茶の眼が切なげに開かれました。

 これを知ってか、喉をククッと震わせた王子様は、手の平を布の中で翻します。

「っ! やああっ!?」

 胸元を過ぎる海風、目の前をひらり飛んでゆく薄桃の布を知り、人魚姫の目が開かれました。

 半ば機械的な動きで布に手を伸ばす人魚姫を尻目に、王子様は再び艶かしい動きを再開して行きます。

 反動で露わになった首筋も舐めながら。

「安心しろ。必ず俺に惚れさせてやる。身も心も全て委ねたくなるほどに。俺ナシでは生きられないほど、望むように、求めるように」

「んっ、ひぁ……」

 言葉は届いても、拒むための首が触れません。

 人魚姫が満足に喋れない事を、拒絶どころか快諾と都合良く解釈した王子様は、続けて言いました。

「今は上だけだが、将来的には下も、必ず俺で満足させてやる。魔女と契約したあかつきには――」

「ま、じょ……様?」

 愛しい呼称を耳にした人魚姫は、辛そうに喘ぐ中で愕然としました。

 もし、王子様の言う通りになってしまったなら。

 一番好きな人に、一番見られたくない場面を見られてしまうのです。

「い、いやあああああああああっっ!!!」

 上がる絶叫、怯む王子様、唸る尾ひれ。

 続くは。

 

 ばしぃぃぃんっっ、という凄まじい音と飛沫。

 

「グッ」

 横っ面にこれを食らった王子様は、腕の拘束から逃れた人魚姫へ手を伸ばしますが、その前に海水が勢いよく目に入ってしまいました。

 幾ら海中で目を開けられても、目潰しの直撃に閉じぬ眼はないでしょう。

 このため、王子様が急いで目を開けた時には、人魚姫の姿はどこにもなく。

 ただ、彼女がいたという証が、手に残る温もりと、岩場に引っ掛かった薄桃の布として、そこにあるばかりでした。

 

 

 

 

 

 王子様のせいでズタボロになった乙女心が、涼しい胸元を腕で覆い隠すだけに留めて向かった先は。

「ん? 何だ? もう二度と来るなと言った筈だろ? なのに――人魚姫?」

 追っ払ったと思った人魚姫が、またしても窟へやって来た姿には、盛大に眉を顰めた魔女ですが、自分の後ろに隠れられては、赤い笑みにも困惑が映ります。

 かといって、縮まり震える背中を、擦ってくれるはずもない魔女は、何かに気づいて片眉を上げました。

「人魚姫……お前、いつもの小汚い布切れはどうした? それに首筋、妙に赤くなっているぞ?」

「いやっ!?」

 魔女の指摘を受け、真っ青になった人魚姫は近くにあった鏡で、王子様に舐められたであろう箇所を眺めました。

 そこに幾つも赤くなった箇所を認めたなら、総毛立つ思いのままに、ごしごし擦り。

「…………………………痴女になりたいんだったら、別の奴を相手にしろよ」

「え――――きゃあっ!」

 一方の手で褐色の髪を除け、もう一方の手で赤くなった肌を擦っていた人魚姫は、ふよふよ揺れる存在を、余すことなく魔女に晒していたと知り、両腕で隠すと身を縮めました。

 付き合いの長さからいって、何だか今更な気もしましたが、見せたがりになった憶えはないのです。

 つい先程までそこに、ほとんど知りもしない男の手が這いずり回っていたなら、尚更に、魔女だけには見せたくありませんでした。

 次々浮かんでも、魔女が嫌がるだろうからと零せぬ涙だけ溜める人魚姫。

 と。

「…………布?」

 何の脈絡もなく被せられた紫の布に惚け、それを巻きつけつつ、顔を出した人魚姫は、一枚分、ボリュームの落ちた魔女の姿を見て、目を丸くしました。

 煩わしそうな笑顔を浮べる魔女は、今にも舌打ちしそうな口調で。

「ボクの目に最悪の毒。それとここで泣かないでくれる? 生臭い涙なんて、壁に着かれちゃやってらんないからさ」

「魔女様……あの、この布は」

「……その布はやるよ。間違っても返そうとは思うなよ? 人魚の匂いが一度でも染み付いたモノなんか、ヘドロに捨てたようなモンだからさ」

「酷っ」

 ぽんぽん飛び出す悪態に、ごちゃまぜの感情を一時忘れて、ちょっぴり傷つく人魚姫。

 返さなくても良いのなら、と涙を拭けば、くれた魔女は嫌そうにしかめっ面をします。

 そのくせ、二度と現れるなと言った割に、追い出そうとしない様子に気づき、人魚姫は布の中でくすくす笑いました。

 するとすかさず、魔女が嫌悪感も露わに問い掛けます。

「何?」

「いえ……何だかこの布、良い匂いがして、落ち着くなぁって」

「はあ? 変態か、お前」

「うわ、酷い。まあ、そうかも知れませんけど」

 こんな人が好きって時点で、もう手遅れ。

 肯定した人魚姫へ、より一層嫌な顔をした魔女は、溜息混じりに首を振りました。

「ったく。何だってこのボクが人間以外に……追剥にでもあった気分だよ――おや?」

 何かに気づいた素振りで、一転、にやりと笑顔になる魔女。

 人魚姫の方に近づいてきては、驚く彼女へ言いました。

「邪魔」

「きゃっ」

 ついでに布ごと背後に放られ、ぞんざいな扱いに人魚姫は哀しくなってきました。

 が、それも束の間の事。

『魔女!』

「!?」

 つい今し方、振り払ってきたばかりの王子様の声を耳にしたなら、反射的に人魚姫はそちらを見やり。

 鋭い緑の双眸がこちらに気づき、熱病に浮かされた光を携えれば、好き勝手された記憶から震えが起こってきました。

『そこに、いたのか……』

 苛むような低音。

 人魚姫は拒むために耳を塞ぎ、首を振ります。

 そこへ掛かる、事情を知らない声が一つ。

「んー? 久々に人間からのお声掛かりかと思ったんだけど……一応、聞くよ。君、人間だよね?」

 人魚姫と王子様の間で流れる空気をぶち壊しにする呑気さは、それまでただの鏡だった場所に映る、獣面の男へと問い掛けました。

 この鏡は、魔女と地上を繋ぐ唯一の通信手段だそうで、人魚姫も一度だけその場面に出くわした事がありましたが、姿形と声だけと知っていても、対峙する王子様の恐ろしさは変りません。

 なるべく魔女の陰に隠れるよう動くと、王子様から大きな舌打ちがされました。

『ああ、そうだ。人間だ。こんな見目でもな! チッ、何回確認するつもりだ? それよりお前、そこをどけ。俺はソイツを探していたんだ』

「あ、そうなの? じゃあ」

「いやっ!?」

 するりと伸びてきた蛸足。

 初めてこれを拒絶した人魚姫ですが、愉しそうな笑みを浮かべた魔女から、逃げる術はありません。

 布ごと胴体を取られては、鏡越しに居る王子様と対面させられてしまいました。

 息が届くほど間近にいる錯覚だけでも大変なのに、歪な笑みを刻んだまま手を伸ばされたなら、味わわされた怖気に身体が大きく震えました。

 けれど。

「改めて言うのも何だけど、届くのは映像だけで、手は無理だよ?」

『くっ……分かっているさ、んなことは!』

 第三者が見つめる、己の間抜けな姿を思い出した王子様は、乳白色の爪が鏡を叩く前に手を引っ込めました。

 そうして忌々しそうに魔女を睨みつけます。

 辛くも緊張から脱した人魚姫。

 ですが、何かに引っ掛かって、魔女を見つめます。

 二対の別々の視線に晒された魔女は、にんまり笑って首を傾げました。

「で? 用はコイツを探す事だけかい?」

『いや、ソイツをこちらに、俺のところに』

「ふーん? それだけ?」

『……いや。人間の生殖機能をソイツに持たせたい。お前なら、出来るんだろう?』

「んー、無理」

『なっ』

「そんな部分的な変化は、ね。人間になら出来るだろうけど……でも、それじゃあ君の望みには応えられないよねぇ」

『はあ?』

「だってさ、君は人魚のコイツが良いんだろ? 人間にしちゃったら、人魚でも何でもなくなっちゃうけど?」

 言って魔女は、目に見えて苛立つ王子様などどこ吹く風で、人魚姫の頭に手を置きました。

 一見、出来の悪さを指摘するような触れ方でしたが、人魚姫の緊張が少しだけ解れていきます。

 何だろう、この違和感。……魔女様?

 ともすれば安心させる、ひんやりした頭上の熱。

 戸惑うばかりの人魚姫を余所に、王子様は鏡向こうで首を振りました。

『構わん。人魚でなくとも……俺一人、こんな容姿かと思えば、自棄になる事もあったが、コイツさえ傍に居てくれるなら。たとえその姿が完全な人間になったとしても。……俺はお前が欲しい。お前の全てが愛おしい』

「!」

 いきなり矛先を変えてきた王子様に、先程までの不快感はどこへやら、真っ赤に染まる人魚姫。

 お前を食ってやる、と言わんばかりの獣面でも、掛ける声音や雰囲気は魅力的で、心を揺さぶるものがありました。

 だからと一時の感傷に流されて、全てを忘れ去る事など出来ません。

 いかに望まれ、愛を囁かれようとも、有無を言わさず屈服させられる行為は、堪ったものではないのです。

 ふらりと傾ぎそうになる部分を律するため、陰で魔女の衣をきゅっと握り締めます。

 払われる事を予想していた人魚姫は、多少身じろいだだけの様子に、内心で首を傾げつつも、ほっと一息。

 まだ少し赤らむ顔で、王子様を睨みつけました。

 しかし、視線が交わされるだけで、ごくりと喉を鳴らす王子様を視界に留めるのは難しく、ごくごく短時間で、人魚姫は目を逸らしてしまいます。

 通常、視線を先に逸らした方が負けなのでしょうが、分かりやすい拒絶に、王子様は狼狽します。

 人魚姫の注意を自分に向けさせるべく、まだ何か言い募ろうとした矢先。

「んじゃ、人間にするってことで良いんだね?」

『……ああ』

 その存在を忘れていたていの王子様は、唐突に話を戻されて、憎々しげに魔女を睨みつけました。

 でも、魔女にそんな睨みは通用しません。

 本来怯えるところをへらりと笑み返し、棚から小瓶を蛸足で取り出した魔女は、これをフリフリ、王子様に言いました。

「これがその薬で」

『ああ、頼む』

「ボクとしてはどうでも良い事なんだけど、副作用があってね」

『……それは命に関わる代物か?』

「んー。丸っきり別の種族に、身体の構造を作り変えるわけだからねぇ。んで、その副作用ってのが、声を失う事と、陸地では満足に歩けなくなる事なんだけど」

『ふん。命や精神に異常を来たすわけではないなら問題ないだろう。声は惜しいが、足に関しては寧ろ、そちらの方が好都合だ。何処に出かけずとも、共に過ごす時間さえあればイイ』

「ひっ!」

 滴ってもいない涎を零すまいと、顎下を拭いながら視線を這わせてくる王子様に、人魚姫は内容も相まって、顔を真っ青にさせます。

 暗に示される、“今夜は寝かせないぞっ!”状態が延々続く未来へ、がむしゃらに首を振り続けました。

 しかし、人間に甘い魔女は、人間外に非情です。

「そ? で、薬は今?」

「魔女様っ!?――ふがっ」

 蒼白した顔で魔女を見上げた人魚姫は、抗議を受け付けない白い手により、下から顎を掬われ、開かないように固定させられてしまいます。

 恋しい人とはいえ、今回ばかりは思い通りになりたくないと、爪を立てて抵抗しますが、魔女の手には傷一つつきません。

 容赦ない魔女の行為には何も言わない王子様、顔の下半分を潰され、苦しむ人魚姫を愛おしげに見つめては頷きました。

『ああ。今すぐにでも』

「……いいのかな?」

『ああ。勿論だ』

「…………本当に、いいのかい?」

『……ああ』

「本当の本当に、いいのかい? 後悔しないかい? 選択は早まったら――」

『いいと言っとるだろうか! てめぇ、ここまで来て、ナシなんて言うつもりじゃねぇだろうな!?』

 しつこい魔女の確認に、痺れを切らした王子様が怒鳴りつけます。

 鏡越しで歯を剥く王子様に人魚姫は怯えますが、もしかしたら、という期待を込めて魔女を見つめました。

 もしかして、魔女様、私を助けてくださ――

「んじゃ、投入ー」

「ふぐぉっ!?」

 唐突に鼻を抓まれた人魚姫。

 条件反射で、いつの間にか解放されていた口が、大きく開いたなら、小瓶の中身を注がれてしまいます。

 大して抗えず呑み込めば、時を置かずに、焼け付く痛みが喉を通り、全身が総毛立つような圧迫感に襲われました。

 な、内臓が……口から、出ちゃい、そ……う…………

 失える気があれば楽なモノを、流石は魔女というべきか、意識を保てるギリギリの状態で苦痛が与えられ――。

 

 


2009/9/26 かなぶん

目次 

Copyright(c) 2009-2017 kanabun All Rights Reserved.

inserted by FC2 system