一夜漬けの日々 1
まるで全てが夢のようであったと、自宅のソファでクッションを抱えながら、里理はぼんやりと思った。
今日の昼。 けたたましい恵の声に急かされ、近くのファミレスへと向かった里理は、彼女が口を開く前に朝から何も食べていない旨を告げた。 今の今まで寝ていたのだから、当たり前の話だが、聞けば恵も同じだという。 そうして各々、サンドイッチととんかつ定食を頼み、水を一口飲んだところで、本題に入った。 「……里理、あの方は?」 何も食べていないと言う割に、油っこい定食を頼んだ恵は、それに似つかわしい、脂ぎった視線を里理に注いできた。 正直、昨夜のコトがなければ、置いて帰りたいほど、暑苦しい顔である。 身を乗り出す凝視から目を逸らしつつ、落ち着けと両手を掲げた里理は、荒い鼻息が椅子に戻ったのを目の端にし、溜息をついた。 視線を元に戻しては、はたと気づき、瞬きを数度。 恵……化粧してないの? 普段、厚化粧というほどでもないが、ナチュラルとは程遠いメイクをした恵の、ほぼすっぴんに近い顔へ、里理は内心で首を傾げた。 御世辞にも、美女とは言いがたい相貌。 だというのに、肌は非常につやつやしているのだ。 ファンデーションを塗ったくっても、こうはなるまい。 打って変わり、自身が注視されていると気づいた恵は、不機嫌そうに薄い眉を寄せた。 「何よ、人の顔をじろじろ」 「いや……恵、化粧しないなんて珍しいなって」 素直に感想を述べると、打って変わって気まずそうな表情が恵に宿る。 薄っすら、朱に染められた顔色。 聞かない方が良かったかもしれない。 そんな後悔が過ぎれば、ぽつりと恵が漏らした。 「だって……暇、なかったんだもの。明け方近くまで一緒にいたのに、次、目が覚めたら家で昼で一人で。しかも、身体にも何の痕跡もないんだよ!? あんだけ――」 「っとぉ! す、ストップ、恵! ここ、公共の場所! 真っ昼間!」 一人で盛り上がり、立ち上がりかけた恵の肩を押さえた里理。 慌てて周囲を見渡したなら、近くにいた老夫婦と主婦の団体が、ささっと顔を逸らした。 恵の発言はばっちり聞かれてしまったらしい。 が、今日は世間的に平日で、昼といってもラッシュ時間は過ぎている。 ある程度、距離が保たれたこの席割りは、普通に話すくらいなら聞き取られる心配はないだろう。 相手の野次馬根性が筋金入りでなければ。 幸い、彼らの根性はそこまで酷くない様子。 一応、気にはしているようで、時折伺う視線を感じるものの、進んで関わり合おうとする気配はなかった。 恵も大人しく座り直したことから、里理はほっとし、彼女の肩に置いた手を戻し。 途中でがっしり捕まってしまう。 「な、何?」 テーブルを挟み、両手を包まれた自身の状態に引き攣る里理。 黒茶の戸惑う視線を受けて、ギラつきを取り戻した恵は言う。 「この際だから、はっきりさせておきたいの。あんたの反応からしても、あの方に会ったのは夢じゃないのよね!?」 「え…………」 危なっかしい光を携えた瞳を揺るがせるのは、半信半疑の思い。 「夜」との突拍子のない出会い。 現実と夢の真偽を見極めるための問いかけ。 てっきり、恵は「夜」の存在を現実と認識していると思っていたのに。 そうと知っていたなら……もう少し違う反応を用意していただろう。 たとえば――
しらばっくれる類の。
恵の指摘を受けた後では、今更の話ではあるが。 とはいえ、どう答えたものか迷う里理。 改めて夢じゃないかと問われると、現実だと確証出来るモノがないのだ。 従者になったと聞かされても、実感できるモノが何もないのと等しく。 言葉を濁すことも出来ない戸惑いを察したのか、恵の表情も頼りのない形へと変わり。 「あ、あの、お客様、御注文の品をお持ちしたんですけど」 「「あ、はい――げっ」」 引き攣る接客業の微笑みへ、同時に顔を向けた二人は、互いの手を取り合うような姿を思い出し、慌てて席に腰を下ろした。
着替えたとはいえ、昨日とあまり変わらない男染みた装いの里理。 取られた手により、恵との仲を勘違いしているであろう店内を意識外に、大通りに面した窓の外を見やる。 桜もぽつりぽつり咲いてきたが、まだ肌寒い三月。 街路樹が緑の色彩を取り戻すのは、もう少し先。 天気は見事な快晴。 それだけに、照らされる対象がアスファルトと枯れた色の木しかないのは、心象的に物悲しかった。 外を歩く人々もまばらで、冬と春が混ざり合った格好で行き交う姿には、どちらも少しばかり後悔の気配がある。 冬物のコートではしっとり暑く、春物のジャケットではひんやり寒い。 絶妙のバランスで若干の不快を招くのが、現在の気温なのだろう。 これを店内で見つめる、程好い温度を感じる自分に苦笑しつつ、里理は一口、サンドイッチを頬張った。 もぐもぐ咀嚼しながらも、視線は変わらず外へ向けられ。 「……もうちょっとで一週間かぁ。早いねぇ」 とんかつ定食をがっついていた恵が、箸休めの漬物に手を出しては、そんなことを呟いた。 意味を解するまで数秒、きょとんとした表情の里理は、ご飯粒を口に付けた顔を眺めた。 「ああ、卒業のこと? そうだね。……恵も大学、だっけ?」 「そう。正真正銘の学生様よ」 ばりっと漬物を噛む恵。 口が空になった里理は、再度サンドイッチへ齧り付く。 里理と恵は先日、同じ高校を卒業したばかりだった。 猛勉強の末、特に恵は死に物狂いで試験に臨み、結果、春からはそれぞれ、別の大学に通うことになる。 恵は比較的近場の、里理は自宅通いの難しい所の。 このため、大学寮の世話になる予定の里理は、着々と準備を整えている真っ最中。 一応、入寮の手続き等は済ませているので、気持ち的には余裕がある。 が、しかし、実は里理、まだ肝心の寮を見ていなかった。 大学のパンフレットやら何やらで、外観や内部の雰囲気を味わっただけ。 勿論、これにはいくつか理由があり、その一つが―― 「にしても、大変よねぇ、あんた。寮生活ってったら、あのおに様、毎日無駄に泣いてんじゃない?」 「…………言わないで」 んぐっと危うく詰まりそうになったサンドイッチを呑み込み、げっそりした顔を恵へ向けた。 これを無視したていのすまし顔は、最後の味噌汁をずずーっと啜り。 早々にとんかつ定食を始末した食欲には呆れつつ、彼女を睨む里理の頭に過ぎるのは、「おに様」と称された兄のこと。 平手を喰らって以来、里理の兄を「おに様」と呼ぶ恵の憶測は半分当たっていた。 そのせいで、一泊二日で計画していた大学の下見予定を白紙に戻されたのだ。 毎日、ではなく一日中、駄々っ子のように兄に泣きつかれて。 どうせ春には行ってしまうのだから、ギリギリまでお家に居てよ! 卒業式を終えたところで、年度変わるまでは高校生でしょおっ!? じゃなきゃお兄ちゃん、大学で客引きしちゃうぞっ!――と。 んなことすれば、確実にとっ捕まってしまうのは兄の方だが、里理はその言葉に真実を見た。 コイツなら絶対やる、という鬼気迫るぶ厚い信頼から下見を断念。 その代わり、大学には近づかない、学生生活を送る里理を見かけても声をかけない、姿を見せない、という誓約書を書かせた。 破った場合には、兄の目の前で今は募集中の未来の恋人とキスをする、里理にとってマイナスでしかない条件付きで。 ちなみにコレを意気揚々と書いたのは、現在、大叔母を偲ぶ名目で海外旅行に浮かれているであろう里理の父親。 勿論、誓約書を読んで青くなった兄の父でもある彼は、胸倉を掴んで泣き叫ぶ、暑苦しい息子を豪快に笑い、破らなければいいんだと諭した。 長い沈黙の後、渋々了承した兄の姿を見た里理、誓約書がなければ、下見関係なく大学に来るつもりだったと知って、ぞっとした。 兄から離れるために選んだ訳ではないが、結果として遠くの大学、こっそり陰で喜んでいたのだ。 世間一般で言うほど父を毛嫌いしていない里理は、先手を打って兄を撃沈させたその手腕に、心の中で割れんばかりの喝采を贈った。 と同時に、兄の異様且つ異常なシスコンっぷりを知っていて、ほとんどの場合笑って放置する豪胆な性格へは、この父あっての兄かもしれないと白い目を送り。 次々浮かぶ鬱陶しい過去を頭の一振りで払った里理、今は腹を満たすことだけ考えようと、サンドイッチへ齧り付いた。 「で、夢なの、夢じゃないの?」 「……ふぇ?」 咀嚼の最中に問われ、黒茶の瞳がぱちくり瞬いた。 もきゅもきゅ揺れる視界で、じとりとした恨みがましい視線がこちらに向けられている。 質問や確認よりも、色濃く感じられるのは疑いの意。 しばらく、じーっとこれを見つめた里理は、はっと気づいては中身を飲み下し。 「ちょ、ちょっと恵!? あんた、もしかして…………疑ってるの?」 「な、何を?」 途端、動揺を示し、髪の毛の先を弄くる恵。 とても分かりやすいアタリに、里理は水に口をつけ、溜息を吐き出した。 「違うから。全然違う。私とあんた言うところの“あの方”は、そーいう――」 「てことは、やっぱり夢じゃないんだ!?」 「あ」 関係じゃないし、と続く言葉を切った恵が、ずいっと身を乗り出してきた。 空いた食器を避けるだけの余裕はあっても、ほとんど変わらない目には血が走っており。 「夜」との一件を語れたものかどうか、未だ判別のつかない里理は、答えを探して愛想笑いを浮べた。 「あー、ははははは……」 「さーとーりぃ?」 けれど、相手がそんなことで引き下がる奴じゃないのは、友人である以上、よく知っている。 束の間、わざとらしく笑い続けた里理は、観念した様子で息を吐き、最後のサンドイッチを手に持っては目を逸らした。 「……別にさ、隠したとかそういうことじゃないんだってことだけ、分かっといてよね」 「うん。で?」 促す早さに辟易しつつ、視界の横で恵が席に落ち着いたのを確認。 サンドイッチを小さく頬張り、顔を戻してから飲み込み。 「紹介して欲しいって言われたの。面倒だから“あの方”で通すけど、その方がね、私の友人を一人、て」 「それって…………私じゃなくても良い、って話だったの?」 「う……」 そのままズバリと言い当てられ、里理の眼が恵の姿を拒否した。 サンドイッチの食感だけが鮮明な暗闇の中、物憂げな溜息が恵から零れては、もう一度呻き。 「反応だけで十分ね……まあいいけど。薄々分かってたし。そうじゃないかな、とはさ」 「わ、分かってらっしゃいましたか」 「そりゃあねぇ、伊達に経験積んじゃいないからさぁ」 「そ、それはそれは……」 恵のしみじみ語る声音に押され、ゆっくり光を取り入れた視界。 少しだけ寂しそうに笑う表情を見たなら、胸がずきっと痛んだ。 改めて、「夜」に恵を紹介したことを後悔――しかけ。 「積んでたってのに…………ふふ」 ぽっと蕩けそうな顔で頬を赤らめた友人に、里理は悔いた心を放り投げ、再びサンドイッチを口にした。 邪念を払うように、半ば自棄で噛み砕けば、陶酔から帰ってきた恵が困惑に眉を寄せた。 「でも……なんで私? いや、私が選ばれた理由が聞きたいわけじゃなくてさ。あの方の目的がアレなら、近場にいたあんたでも支障なさそ」 「ふぼっ!?」 先程まで疑いの眼差しで見ていたとは思えぬ発言に、危うく噴出しかけた里理。 「汚いわねぇ」と眉を顰めた元凶へ、首を振り、中身を空にした口で言う。 「い、いきなり変な事言わないでよ! え、選ぶ権利は私にだって」 「あら? じゃあ、私はどうなるの? そもそも、部屋にいたはずなのに、なんであんな場所に」 「そ、それは……」 てっきり「夜」の事だけしか聞かれないと思っていたため、問われては尤もな話に里理の目が泳ぐ。 最中で、最後の一口を食べて終えつつ。 あの時の不可思議な状況ならいざ知らず、こんな平凡なファミレスで、魔法云々語れるわけがない。 非日常な出来事は、非日常の場面で語られない限り、笑い話で終わるのが常。 語ること自体が恥ずかしいという結論に至った里理は、とある苦肉の策を思いついた。 人の記憶がいかに曖昧かを証明するような、実験的な試みを。 「あーと、恵……もしかして、忘れちゃった?」 「……何を?」 訝しむ顔に引き攣りそうになる頬を宥めた里理、気遣わしげな表情を繕い。 「昨日、さ? 私、恵ん家行ったじゃない?」 「はあ? なに言ってるの、里理。昨日家になんか……第一、あんたは――」 「憶えてない? 丁度、夕食後でさ、ぼやいてたじゃない。服にニオイ付くから家で焼き魚なんて、って」 「え……」 呆れる恵を遮り、里理が述べたのは、いつかの恵のぼやきである。 昨日の彼女の家の夕食のことは、「夜」の下へと召喚された際、嗅いだ服の匂いからの連想だが、反応をみるに当たったらしい。 それでも中々に苦しい嘘。 自らの記憶を探るべく、恵が目をうろつかせた矢先、里理は畳み掛けるように言った。 「でさ、一緒に行ったでしょ、街。そうしたら、ばったり出くわして。で、あの方にあんた紹介したんじゃない」 「え? そ、そうだっけ?……でも変じゃない? さっきあんた、友人紹介してって、私じゃなくてもいいって」 「あー、アレね」 省き過ぎた説明よりも、少し前に口にした言葉の揚げ足を取られ、大きく被せる声を発しながら、里理は無理矢理話を繋げる。 「アレはさ、初めてあの方に会った時、この格好だったから男と間違われちゃって……で、可愛い女の友人がいたら紹介して欲しいって言われてて」 「……可愛い」 ひたすら必死な里理の言い訳も聞く耳半分で、あまりそぐわない評価へぽっと赤くなる恵。 これだけ「夜」に夢中となっているなら、無理な記憶の書き換えも上手く行きそうだ。 友人に嘘をつかねばならない現状へは、胃の痛みを覚えつつ。 里理は強めに問うた。 「ね、恵? 本当に覚えてない?」 「…………」 大丈夫かと尋ねる柔らかい声音に、恵の目がふらふら何かを探して動いた。 あと一押しかな? 里理は一層、心配する表情を浮かべ。 「あんた……部屋で眼が覚めるまでの記憶、ちゃんとあるの? その、言いにくいけど、朝までで――あんだけ、だったんでしょ?」 「っ!」 途端、瞬間湯沸かし器の如く、蒸気を発しそうな勢いで恵の顔が赤くなった。 隠すべく押し当てられた両手から、物憂げな熱っぽい潤んだ瞳が覗く。 まともに見た里理は、そもそも恵を指名した理由でもある、元気の取り戻された現状を、喜んでいいものか、はたまた謝罪したものか迷った。 迷った挙句、黙っているしかないのだから、苦笑する形に顔を固めた。 と、恵は言う。 「いや、でも、そんなはずは……」 改ざんされようとしている記憶への疑惑のせいだろう、否定を下す恵だが、その声はどこか弱々しく里理に響いた。 これにより推し量れた、ゆえに推し量れない、恵が過ごした「夜」とのひと時。 自分でもかなり無理があると思う改ざんを、ここまで信じさせる要因へは内で身震い一つ。 転じ、里理は底意地の悪い、小馬鹿にした笑いを恵へ向ける。 心の中では、掘った穴に頭を丸ごと突っ込んだ土下座をし、恵へ御免なさいと連呼しながら。 「恵……まさか、魔法のせいとか狐に化かされたとか、思ってないよね? そんなの信じないあんたが、まさか、ねぇえ?」 「えっ!? ま、魔法って……」 目を剥きしどろもどろになる恵を、表面ではにやにやからかう里理。 もしここで、恵が「魔法だったのかも」などと真面目に言おうものなら、きっちり謝って本当のことを教えるつもりだった。 けれど、長い付き合い、それは絶対にないと知っている。 何せ恵は、非科学的な物は信じない、否、信じたがらない性質なのだ。 「夜」の屋敷ならば観念して信じるかもしれないが、それとて外に出たなら、あーだこーだ言って、魔法の存在を否定するだろう。 現実的じゃないモノは怖いから、という理由で。 現実的でさえあれば、自分より腕力のある相手でも、平気で喧嘩腰になれる恵。 里理の言葉に、しばし動揺し。 のち。 「……ふぅ…………御免、やっぱ疲れてるみたい。呼び出しといて難だけど、私、もう帰るわ」 あっさり帰ることを選択した恵に、里理は曖昧な笑みを浮かべ、首を弱く振って応じた。
そうして各々、会計を終えて出る間際。 「でも里理……後で絶対、あの方のこと詳しく聞くからね!」 「げ……」 疲労の中にも脂ぎった眼光を見出し、里理が軽く呻いた。 引いた彼女へ、恵は剣呑な眼差しを向ける。 「何よ、げ、って。紹介したんなら、最後まで取り持ってよね」 「さ、最後って?」 恐る恐る尋ねたなら、恵はふっと艶やかに微笑み。 「ふふ……分かってるくせに!」 「あだっ!」 ばしっと叩かれた腕のまま、よろめいた里理は、疲れていると言った割に元気に帰る姿を見送る。 少しばかり項垂れては。 「なんだよ、どきっ、て。男と勘違いされるったって、そういうんじゃないってのに……」 化粧っけがないくせに色っぽかった恵。 不覚にもときめいた自分へ、里理は傾ぐ事を止められず、途方に暮れてしまった。 |
2009/5/15 かなぶん
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