一夜漬けの日々 5

  

 里璃の思わぬ告白を受け、思考を止めた「夜」は、己を取り戻すべく、起きてから今までの行動を反芻する。

 瞬きほどの、短い時間の中で――

 

 

 

 ヒト為らざる「夜」の目覚めは物凄く、悪い。

 ヒトに譬えるなら低血圧と評せよう。

 このため、宣言通り“もう少しだけ”眠った「夜」は、まどろみから覚める最中で、腕に抱いた柔らかな物体に気づいた。

 頭の上には慣れ親しんだ感触があるため、枕ではない。

 かといって、こうして腕に抱く事の多い女の肉体とも違う。

 しかし、触り心地はなかなかに良い物であった。

 はっきりしない頭で感じる心地良さに、「夜」は物体の正体を深く考えず、締めてみたり、引っ張ってみたり、それはもう色々と動いてみた。

 そんな風に、身体だけ先に動いたせいか、浮上してきた意識に合わせて、黒い瞳に薄っすら光が滲む。

「む……」

 起きるつもりはあるものの、まだ弄り足りない腕の物体に、「夜」は思いっきり顔を埋めた。

 ぼふっと気の抜けた音が耳朶を打ったが、それよりも「夜」の気を惹いたのは、鼻腔を擽る香り。

 芳香、とでも評すべきか。

 包み込むような温もりを感じるそれは、嗅ぎ慣れた女の匂いとは違い、「夜」にとっては不純物以外の何者でもない、化粧類の臭みが一切なかった。

 在るのはただ、常にこうあれば良いと思う、入浴後のまっさらな肌の甘さ。

 それとて、こうもそそりはしまい。

 まだまだベッドの上で、あーでもないこーでもないと起床を拒むつもりだった「夜」は、結局匂いの主につられ、物体から顔を離すと同時に黒い眼に光を呼び寄せた。

 淡く、黒い臥所を照らす、白い光。

 捉えた眼前、腕の中にあったモノは――

「…………クッション?」

 若草の淡い色彩を基調とした、両腕にすっぽり抱き納まる大きさのクッション。

 重たい寝起きの頭を枕に擦り付けながら、煩わしそうに口にしたソレは、黒と白で構成された臥所において、明らかに異質であった。

 確実に「夜」の持ち物ではない。

 己の感知せぬモノがある現状は、酷く不愉快だった。

 仮面の中、眉の辺りを微かに寄せた「夜」は、鈍い頭痛を感じつつ、ある記憶を引っ張り出した。

 いつの間にやら臥所に招いてしまったらしい、従者の事を。

 つまりこれは……里璃と共に呼んでしまった、のか……?

 思えば、更に深まる不快。

 幾ら自ら求め、待ち望んだ従者だったとしても、所詮は男。

 そんな輩を寝惚けの延長線だろうと、臥所へ招いた事は恥以外の何でもない。

 あまつさえ、里璃が制止を叫ばなければ今頃、同衾紛いの洒落にならない状況に陥っていたと思い出し。

 ……褒めるべきであろうな。我が醜態を従者の身でありながら回避し得たのだから。

 やつれた溜息を仮面の下で吐き出した。

 後悔が募る原因は、里理に迫り掛けた事だけではなかった。

 褒めるべき、拒まれた事象。

 それすら「夜」の気を揉んでいた。

 ――よくぞ留めてくれた。

 ――よくも……拒んでくれたな。

 相反する思いに「夜」は自身の不調を考える。

 里璃を従者に迎えてから、どうも心が定まらない。

 主として接しようとしているのに、気づけばその身を案じてしまう。

 心を、推し量ろうとしてしまう。

 相手は男……だというのに。

「エルよ……アレは本当に、男、なのだろうな?」

 今は亡き知人へ問う。

 

 

 

 

 

 はらはらと雫に濡れる、つれないエルを腕に抱き、宥めたあの夜。

 一時だけ、緊張から開放された彼女は、赤く腫れた瞼を微笑みに変え、「夜」を居間へと招いた。

 出された酒を煽りつつ、昔に思いを馳せていたなら、闇間に利く「夜」の眼が一つの写真に釘付けられた。

「夜行?」

 訝しむエルの声を背にした「夜」。

 夜行というのは、ヒトであるがゆえに「夜」より力の劣るエルが、彼を呼ぶ時に使っていた名である。

 これを流した「夜」は、惹きつけられるまま、チェストの上の写真を手に取って眺めた。

 そこに映っていたのは、二匹の人間の子ども。

 一匹は倒れ、もう一匹はバッドを肩に担いだ格好で、こちらへにっこり笑いかけている。

 うつ伏せで倒れた子どもが「夜」の気を惹いた訳もなく、黒い嵌め込まれた双眸に映るのは、専らあどけない笑いを見せる子どもの方で。

「エル、この――娘は?」

 指の腹で淡く朱に色づく柔らかな頬を撫で、振り向いた「夜」に対し、古い知人はぱちぱち青い目を瞬かせた。

 何をそんなに驚いているのか分からず、近づく彼女に写真を見せれば、引き攣った笑みがその顔に浮かんだ。

「…………………………………………………………………………………………夜行、非常に言いにくいんだけど、この子は男の子よ?」

「……む? 確かに格好は男に見えなくもないが……いやしかし、この骨格や雰囲気は女の――」

「夜行……そこまで人肌に餓えていたの? まあ、私は嘘の付けない女ではないけれど。だからといって、こんな事で嘘を付くとでも?」

「…………」

 気の毒そうに言われ、ぐぅの音も出なかった「夜」は、エルとの過去を思い出す。

 彼女自身が言う通り、エルは決して嘘を付かない相手ではないが、以前、物のついででアルバムを出された際、一族を差して、男のような姿をしていても女だと告げられた事があった。

 手を出すな、とも言われたが、その場しのぎで頷いた「夜」が実際手を出してみても、エルはやれやれと呆れるばかりだった。

 なればこそ、今更、写真の子どもを守るため、彼女がわざわざ嘘を付くとも思えず。

 釈然としない気持ちは残ったが、相手が男だと知った「夜」は、写真から早々に手を引いた。

 けれど。

「……その子が、気になるの?」

 チェストに返したものの、一向に動かない「夜」へ、エルが探るような疑いの声を掛けてくる。

 まるで、女から男に好く相手を乗り換えたのか、とでも問う口振り。

 受けた「夜」は、言い当てられた内心の動揺をひた隠し、鷹揚に頷いてみせた。

「ああ。此奴は男、なのだろう? それなのに、見ても不快を憶えない、となると……どうだろう、エル。コレを私の従者にくれる気はないか?」

 するとエルは一瞬、息を詰め、その後ふっと微笑んでみせた。

「良いけれど……それには一つ、条件があるの」

「借金の事か?」

 すかさず指摘をしたなら、またも息を詰めたエルが、口をぱくぱく開閉し、酷く掠れた声で言った。

「ま、まだ何も話していないのに……」

「言わずとも分かる。お前とは浅からぬ仲なのだから」

 そのまま手を伸ばし、するりとエルの頬を撫でた。

 反射のように預けられる重みを知り、瞬時にエル好みの容姿へと姿を変えた「夜」は、折れそうな腰を柔らかく引き寄せて、静かに彼女の唇へ自身のソレを重ねた。

 恍惚に細められた青い瞳を穏やかに見つめつつ、一方で、また拒む動きをする胸元の手を知っては、語らせまいと呼吸の合間だけを開けて何度も啄ばむ。

 若くはないとエルは自身を評していたが、それならそれで、別のやり方があると「夜」は考えていた。

 確かに滑らせた肌に以前のような張りはないものの、零れる吐息は齢を重ねた分だけ濃厚な味わいをもたらしてくれる。

 とはいえ、これ以上を望んではいけない。

 「夜」の手に掛かれば、エルに負担を掛ける事なく過ごせるが、彼女が許容した以上の事はしていけない――なればこそ。

「や、夜行……」

「ん?」

 頬へ触れていた手を背後へ回し、腕の中にすっぽりエルを閉じ込めたなら、緩やかな合間を縫って声が掛けられた。

 何を言いたいか分かっている「夜」は、それでも同じ間隔でエルを求めた。

 本格的な手は出さずとも、この流れで彼女を閨で抱く考えを端にちらつかせながら。

 しかし、僅かに朱を滲ませたエルは、「夜」の想像以上に頑なでつれなかった。

「まだ、話の……途中、よ?」

「……そう、だったな」

 宥めるように胸板を撫でられ、静かに「夜」は頷いた。

 それでも、ほっとする吐息が腕の中に落とされたなら、少しばかり意地の悪い思いで持って、エルの身体を拘束。

 驚く彼女へ微笑みかけ、先程とは打って変わり、「夜」の思う通りに貪り愉しむ。

 非難の声さえ喰らえば、後に残されるのは、くたりとしなだれるエルの脆い身体。

 恨みがましい目付きをおどけた調子で受け、姿を元に戻した「夜」は、エルが一人で立てないのを良い事に、恋人然で彼女に寄り添った。

 抱く手とは逆の手で、微かに熱を上げたエルの頬を優しく撫でる。

 呆れ返った溜息がもたらされたなら、「夜」の喉が自然にくくっと笑った。

「夜行……お願いだから突拍子のない動きは止めて頂戴。私はもう、心身ともに柔軟な受け答えは出来ないのよ」

「それもまた一興。私はお前の全てが愛おしいよ、エル。その身に、心に、重ねられた時間の全てが」

「……お前、じゃなくて、お前たち、の間違いではなくて?」

「否定はしない。だが、他の女の話を持ち出すのは賢くないな。それでは誘っているように聞こえるぞ? 無論、他の男の話もなしだ。私といる時は私だけに意識を向けて欲しい。でなければ、お前の意識が私だけに向くよう、私なりの気の惹き方をさせて貰う」

「もうっ! だから、私にソレを求めないで頂戴! 身体がいくつあっても足りないのだから!」

 少女のように怒り、ぱしりと腕を叩くエル。

 「夜」は白い仮面に嵌め込まれた黒い瞳でこれを迎え、喉を震わせて低く笑った。

「いくつあっても、か。私はお前一人居れば、それで良いのだが」

「あ、貴方って人は……よくもまあ、恥ずかしげもなく」

「ふむ? 恥ずべきことなぞ何もないぞ? 私は真実、お前が愛おしい。愛しているよ、エル」

「はあ……こんなお婆ちゃんに、そんな無茶言う人も貴方くらいのものだわ」

「はて。それは周りの目が節穴だからではないか? 私のエルはこんなにも愛らしいというのに。まあ、お前の魅力が私だけのモノだというなら、悪い気はしないが」

 クツクツ笑いつつ、エルのこめかみに、口に当たる部分を押し当てる「夜」。

 受けたエルは頬を染めたまま、視線をずらしにずらし。

「……貴方ったら相変わらず、どれだけ言っても、そこに被せてくるのね。憎まれ口一つ、許してくれないなんて。でもお生憎様。残念な事に、私に魅力を感じる殿方は、まだ一人だけっ」

 エルが言い終わる前に、ぺろりとその唇を舐め上げた。

 軽く飛び跳ねた青い目が、白い仮面を睨むのを「夜」は平然と受け止め、否、些か興が削がれた思いで見返す。

「知っている。だが、言ったであろう、エル? 私の前で私以外の男の話をするなと。私がその気になれば、お前が私を拒む理由を全て消し去る事も出来るのだぞ? たとえば、こんな風に――」

「っ!」

 「夜」の指がエルの頬に円を描く。

 途端、エルの姿が瑞々しい肢体を持つ、美しい娘へと変貌を遂げた。

 ふんわりとした金色の髪は白いナイトガウンを飾り、豊かな胸元に落ちてはその曲線を惜しげもなく露わとする。

 皺一つない肌はきめ細かく、少しばかり浮いたそばかすは、彼女の魅力を損なわず、逆に愛嬌を演出していた。

 まるで砂糖菓子のように甘い容姿の娘。

 しかし、長い時を見つめてきた思慮深い青の双眸は、重ねた齢の分だけ力のある光を携え、「夜」を睨みつけた。

 頬を慈しむ手を邪魔だと払い除け、腰に回された手からも、身を捩って逃れ。

「夜行!」

 凛とした若々しい声が、嫌悪も露わに「夜」を名だけで咎めた。

 対する「夜」は、怯える事なぞ最初からあるはずもなし、口元に指を置いてはクククと肩を揺らした。

 次いでその手が下りれば、娘の姿は一瞬にして、元のエルへと早変わりする。

 ただし、不機嫌な表情は、エルに戻っても晴れることはなく。

「エルよ。そう睨むな。私とて、過ぎ去った時を戻す術なぞ掛けたくはない。出来る事なら、自然のままのお前が良いのだ。けれど……私の忠告を蔑ろにされては、な」

「……分かっているわ。でも、謝らないわよ? 時を戻す術はヒトの範疇じゃないのに、掛けられて。魔女といっても私だってヒトの端くれ、戻りたい自分があるのだから」

 笑い含みに告げた「夜」から視線を落とし、エルは震える手を顔に当てて呻いた。

「……酷いわ。望みたくなんかなかったのに。このまま、静かに齢を重ねていたかったのに。一時でも、思い出してしまった。望んで、しまったわ。この、若い姿のままでいたいと」

 吐露される思い。

 先程の娘は在りし日のエルの姿であり、「夜」にとっては過去の産物。

 今に在っては異物でしかない容姿に、一時でも執着を見せたエルを「夜」は冷めた目で見つめた。

「ふむ。ヒトというのは、実に欲深きモノよ」

「あ、貴方がそれを言えるの!?」

 白々と吐き出せば、激昂が「夜」にぶつけられる。

 これを鼻でせせら笑った「夜」は、泣くエルの腕を取り強引に引き寄せた。

 腰に手を回しては逃れる動きを封じ、顎を捉えて青い瞳に白い仮面だけを映させる。

 相対する己が、何者であるかを彼女へ知らしめるために。

 他の男の存在を匂わせた彼女の意識を、根こそぎ己へと向けさせるために。

「言えるだろう、エル? 分不相応を望むが欲深き証。だが私は、己の身に余る事を望んだ憶えはない。全て、相応。お前の身に流れる時を戻した事さえも、私の力に過ぎん」

「傲慢な……」

「そう。だがそれは、持たざる者の見解だ。分からぬお前ではなかろう? ヒトの流れを汲む魔女よ。私は欲深かったか? 過ぎたモノを望んだか?――答えろ」

 どこまでも包み込む優しげな低音。

 柔らかく甘い声とは裏腹に、エルの胸奥から無理矢理答えを引き出していく。

 抗うことは許されない。

「い……いえ、貴方は、望んでは、いない」

「そう。私はこの身に過ぎたるモノなど望まん」

 エルの中の真実を語らせると同時に、潜り込ませた己の魔力を彼女の中から消し去る。

 無理を強いたせいで、支える力すら失った身体を「夜」はしっかりと抱き止めた。

 あやすように髪を撫でつけ、胸に預けられた頭へと口元を寄せ。

「過ぎたモノでなくとも、手に入れられないモノがあったけれど」

「……エル」

 ぼそりと言われ、「夜」の動きがぴたりと止まった。

 彼の肩が落ちたのを見計らい、上げられたエルの顔には、悪戯っぽい微笑があった。

「ふふふ。確かに貴方は欲深くはないわ。でも、手に入れられなかったモノを引き摺る質ではある」

 人懐こい印象を与えるエルの笑いだが、声に宿るのは悪辣な響き。

 場の主導権がそのままエルに移行したなら、「夜」は黒い目の上を少しだけ怪訝に上げさせた。

「……何が、言いたい」

「手に、入れたいのでしょう? 私の借金と引き換えにしてでも。けれど困ったわ。あの子、男の子なのよ? 他の男性の話をしては、夜行の機嫌を損ねてしまうし……ねぇ、どうしましょう?」

「……エル。仕返しか? 意に添わぬ、時の巻き戻しと発言の強要に対する」

「ええ? なになに? 聞こえないわ、困ったわ。齢は取りたくないモノねぇ。耳まで都合悪く聞こえなくなってしまうなんて」

「都合良く、の間違いだろうに……」

 今のエルも嫌いではないが、一瞬だけ、時を戻したエルの姿を浮べた「夜」は、あの時はもう少し純粋だったと思いを馳せる。

 だからといって、エルの一時の望み通り、彼女の時を戻したいとは欠片も思わないのだが。

 

 


2009/6/14 かなぶん

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