常夜ノ刻 1

 

 あれから――屋敷へ戻ってきた「夜」が笑い死ぬ寸前の従者を発見してから、数日が経った。

 

 

 しばらく腹筋の痛みに耐えつつ、時折思い出し笑いに苦しむ従者は、その間に、様々な知識を吸収していった、らしい。

 「夜」自身は、その成果を見届ける前に、知人たちの下へ向かってしまうため、トヒテからの報告でしか知らず。

 これにより、トヒテの一人が、里理に耐性をつけて欲しい、と訴えてくる場面があった。

 不可解な言を追求すれば、彼の形代はとんでもない事を言ってのける。

 曰く、里理様の動作に煽られて、御前は早々に退室されてしまうようなので――と。

 勘違いも甚だしい。

 激昂こそしなかったが、「夜」は軽い眩暈に襲われた。

 里璃がひきつけを起して倒れたからこそ、不安から口にした言葉とは思えど。

 よもや、そのように考えていたとは。

 けれど、完全否定もしなかった。

 決して煽られたわけではないが、早々に退室する一因には、里璃の存在も少なからず関与していたために。

 とはいえ、大本の原因は別。

 

 全ては、里璃との接し方に未だ思い悩む、己自身にある。

 

 今まで男と言えば、己と同程度の実力を有する者以外、気にも留めなかった「夜」。

 それが、弱者且つ従者の立場である里理に関しては、ついつい、その身の安寧を慮ってしまうのだ。

 これを仮に、“里璃は特別”という言葉で区切ったとしよう。

 すると現れてくるのは、かつて真に求めた相手と同等の位置に男を置くという、「夜」にとって冗談では済まされない弊害だ。

 しかも、興味のない男の中で突出した存在は、かつての相手よりも「夜」の中に大きく居座る事になるだろう。

 はっきり言って、これは非常に宜しくない。

 女好きを豪語した憶えはないが、男と女を並べ、どちらか一方を好きにして良いと言われたら、「夜」は迷わず女を取る。

 ……そんな選択を強要した愚か者共々、以降こんな馬鹿げた選択を用意できぬよう、男という性を消した後で。

 女は好きに出来るが、男を好きなようにしたいと思ったことはないのだから。

 だというのに、里璃は「夜」を迷わせる。

 全て思い通りにしようとすれば、全てを自分の望む通りに出来る「夜」だけに、勝手に己の心を乱す、里璃の存在は煩わしい事この上なかった。

 これが只の男であれば――いや、たとえ女であったとしても、「夜」はさっさと殺していただろう。

 里璃なればこそ、傍に置き続けるのであって。

 アレが女であったなら…………どちらにせよ、成果は見届けられないか。

 女ならば、たぶん、里璃を従者とはしなかった、と「夜」は思う。

 それよりも、と巡らせては、不毛な話だ、と浮かんだ女装姿に首を振りつつ。

 里理の――男の成長に目を細める自分を浮べるだけで、「夜」は胸焼けに襲われる。

 まるで、男に情を向け始めたようだ、とまで思えば、押し寄せる不快から逃れるべく、女の肌を求めて。

 

 結果、認めたくはないが、誰よりも気に留める従者の成長を、直に見届ける事が出来ず。

 

 だが、トヒテに指摘された手前、いつまでもこうしている訳にもゆくまい。

 里璃を従者に望んだのは、他の誰でもない「夜」自身。

 下らぬ一時の感傷で、従う者の情報を疎かにする事は、愚の骨頂である。

 とはいえ、今まで里理に与えてきたモノといえば、形代が教えられる程度の知識でしかなく。

 ゆえに「夜」は、最後まで見届けるついでにある計画を立て、正式な手順で彼の従者を召還する。

 

 

 

 

 

 

 

 産毛が総毛立つように、ぴりぴりし始める肌。

「……あ」

 ソファで寛いでいた篠崎里璃は、それを感じるなり、目を通していただけの雑誌を横に置くと、ゆっくり立ち上がった。

 召還の予兆。

 「夜」の臥所に誤って招かれてしまった時はよく分からなかったが、毎夜繰り返し呼ばれる中で気づいた、彼女だけが知る合図。

 里璃を呼ぶ主人や彼に仕える形代には、きっと分からない感覚だろう。

 何せ彼らは里璃とは違い、ヒトではないのだから。

 ……かといって、従者と為った里璃が、純粋なヒトの分類に納まるかは、彼女自身、甚だ疑問に思うところではあるが。

 それはさておき、リビングの、何もないところまで移動する里璃。

 場所を選ぶのは、その場所がここに戻される時の立ち位置となるからだ。

 予兆に気づく前、召還時にソファの上で寝転がっていた里璃は、立ち姿でそこに戻され、不安定な足場からバランスを崩し、危うく背もたれに顎を打つところであった。

 無論、寝転がったまま召還された時も、滑稽な姿を「夜」に晒しており。

 その際、里璃の主人は「……猟虎(らっこ)の真似か?」と、しばらく雑誌を抱えて固まる彼女を興味深そうに眺めていたものだ。

 

 ――という過去は、過去として処理するものとして。

 

 丁度、望みの立ち位置に辿り着いた矢先、彼女の身体は僅かな浮遊感を得た。

 今まで存在していた床の感触が消え去り、肝が冷える間もなく、いつの間にか靴を身につけた足が硬質な床を叩く。

 ヒトの世に在るべき姿から、従者本来の姿へと変わる瞬間を、身に纏う衣の肌触りで実感。

 浮遊感と同時に閉じていた眼をゆっくり開けば、ぼやけた蝋燭の灯りの中、里璃よりも上質の黒い礼服に身を包む、男性的なシルエットを視認する。

 と同時に、里璃は膝を折り。

「今宵も参上仕りました、我が君。拙が為、御足労頂きました事、心より感謝申し上げます」

 トヒテから教わった謝辞の礼を取った。

 とはいえ、彼女から教えられた一人称は「ワタクシ」で、「夜」への敬称は「御前」。

 里理にとって言いにくいこれ等を、テキトーにそれっぽく述べたのが、先の言葉である。

 特に強要されはしなかったこの礼に対し、受け取ったシルエット――「夜」の反応は、最初から余り変わらず。

「ふむ。では、行くか」

「……はい」

 頷いて、終わり。

 この素っ気なさは、主相手とはいえ不満であった。

 最初に召還された石室から、洋館の応接室染みた内装へと、「夜」がその力を用い、改築した床を踏みしめつつ、里璃は思う。

 改築の原因が自分にある事には、若干の気後れを感じながらも。

 何度も繰り返している礼なれば、素っ気なくとも構わないのだが、せめて最初の一回くらいは違う言葉が欲しかった。

 例えば――

「時に、リリよ」

「あ、はい、サトリですが」

 思考を中断させる「夜」の呼びかけに対し、彼へ追従していた里璃は、一向に直して貰えない自分の名の訂正を入れつつ応えた。

 リリで妥協してしまえば良いものを、つい直そうと働きかけてしまうのは、「夜」との会話で培われた、条件反射の賜物である。

 そして毎度のことながら、この訂正を全く耳に入れない「夜」は、里理に向き直ると首を傾げた。

「従者とは言え、常に肩肘を張る必要はないぞ?」

「え……と」

 足を止めた「夜」に合わせて動きを止めた里璃は、言われている意味が分からず、黒茶の瞳へ、ヒト為らざる主人の黒い目に映る自分の姿を映した。

 撫でつけられた黒髪を後ろに流して、一つに纏めた「夜」の顔は、どっからどう見ても白い仮面であり、依然として里璃から逸らされない黒い目も、仮面に嵌め込まれた無機質な造り。

 なれど、里璃はこれが仮面ではなく、ヒトと同じ口内を持つ正真正銘の顔と知っており、迷いなく交わす視界に自分の姿があっても、彼女が真実見つめているのは「夜」の眼。

 だからといって、色素の薄い長い髪を「夜」と同じように結んだ、黒い眼の中の黒い衣装の従者に、主人の考えを察せた気配は一向に現れない。

 これを知ってか、元より気にしていないのか、鷹揚に頷いた「夜」は言う。

「確かに、主人に対する従者の礼は必要だ。社交の場ならば、満足に礼を取れぬ従者は主人の恥。従者にその気はなくとも、侮られているようにしか見えぬ主人なぞ、誰からも相手にはされんだろう。……だがしかし、今は誰人も訪ねて来てはおらんのだ。わざわざ、私の従者である事を示す必要はなかろう?」

「で、ですが」

「ふむ。ヒトの世では違うと見える。否、こちらの他の者共も、私とは異なる考えやも知れぬな?……お前の場合は、大方、トヒテが教えた事を忠実に守った結果と見えるが」

「…………」

 探る「夜」の声音に、里璃は気まずそうに下を向いた。

 トヒテを罰さない話は「夜」から聞いていたし、彼はその名を用いて、誰かを傷つけたりしないと、従者相手に契約までしてみせている。

 それでも、トヒテが怒られてしまうのではないかと口を噤めば、白い手が里璃の顎を抓んだ。

 促されるままに顔を上げれば、黒い双眸が静かに里璃を映しており。

「案ずるな。誰もお前を害そうとは思っておらん。ただ、お前はこれから永き時を私と有する事になる。今はさほど苦に思わずとも、いつかは綻びが生じよう」

「それはつまり……私の所作に問題が」

「そうではない。お前の所作はとても美しい」

「っ」

 思いがけない褒めの言葉に、里璃の息が詰まった。

 見た目、仮面の礼服姿で変質者っぽい「夜」だが、滲み出る雰囲気は、異性としての男を強く意識させる代物。

 しかも、仮面越しですらくぐもらない声は、耳によく馴染む低音で心地良く響き。

 「夜」には依然として、男と勘違いされているが、正真正銘女である里璃にとって、至近の好意的な言葉は、色んな意味で心臓に悪かった。

 無駄に高鳴る胸を持て余す里理に対し、「夜」は今にも口付けしそうな角度で更に告げる。

「この短期間で、お前はよくやっていると私は思っている。お前を従者にした事を誇りと思うほどに」

「よ、「夜」……あっ」

 喘ぐように名を呼べば、何を思ったのか、空いている腕で里璃の腰を引き寄せる「夜」。

 思わず声を上げた里璃は、額を合わせる主人に向け、しどろもどろに礼を言う。

「も、勿体ないお言葉です……えと、その、う、嬉しいです、ありがとうございます……」

 恥ずかしい事この上ない姿勢に、これ以上近づくのは拙いと、里璃は「夜」の胸を両手で軽く押した。

 以前、許しもなく主に触れるな、と叱られたが、こんな状況、「夜」とて望んではいまい。

 女との色を好む「夜」は、その反面、男に対してかなり非情だ。

 男と認識されながらも、何故か「夜」に気に入られている里璃を除くと、話で聞く限りの扱いはどれも悲惨。

 そのくせ「夜」自身は、男を居ても居なくても良い、感心の対象外だ、とうそぶく。

 本当に対象外だというのなら、存在を無視すればいいだけの話だろうに。

 男と勘違いされている里璃としては、「夜」のこの扱いはとても怖かった。

 今は、特別視されているため無事だが、一転、もしも通常の男と同じ認識をされてしまったなら……

 待っている未来は、確実に楽しいものではないだろう。

 かといって、女であることを色好みの主人へバラしては、今度はまた、別の意味で身体が持ちそうにない。

 どこまでいっても八方塞な自分を思うと、涙の一つでもハンカチに落としたいところだが、抱き寄せられた格好ではそれも出来ず。

 すると、胸を押す里理に気づいた「夜」。

 おもむろに頷くと、何のつもりか、更に里璃の腰を己に引き寄せた。

「ひゃっ! よ、「夜」!? わ、私は男で――」

「そんな事は言われずとも、百も承知だ」

 一瞬、女である事がバレたのかと思いきや、あっさり肯定されて目が回る。

「で、では何故、こんなっ!?」

 混乱にあたふたして尋ねると、顎を離した手が里璃の手を一つ掴んだ。

 ま、まさか、主に触った手なんかいらないって、千切られちゃうんじゃ!?

 スプラッタな映像が、混乱の只中に合って、色鮮やかに里璃の頭の中で再生される。

 これを真実と受け取った里璃は、赤から青に顔の色を変え、頭の温度も引き下げて、囚われの手を取り戻そうと口を開いた。

「「夜」! わ、私は決して、触れたくて触れたわけでは――――ひゃっ!?」

 けれど里璃の弁解を待たず、「夜」は取り上げた手に対し。

「な、ななななななな何を、何をされているんですか、「夜」!? わ、私は――」

「黙れ」

 ぴしゃりと告げられ、押し黙る里璃。

 空気のざわめきがそのまま、「夜」の苛立ちとして伝わり、ごくりと里璃の喉が鳴った。

 しかし、里璃の表情は、潤んだ目を湛えたまま。

「っ」

 上がりそうになる声を、「夜」に取られた手とは別の手でもって留める。

 そんな里璃を尻目に「夜」は。

「……ふむ。なるほどな。リリよ、お前は……………………………………………………女を未だ、知らんだろ?」

「ふごっ!?」

 相手がヒトであっても、男に間違えられる事の多い里璃だが、同性を恋愛対象として見た事は、一度たりともありはしない。

 当たり前の事を言われ、喧嘩腰に「はあっ!?」と、遮る手の中で発した口だが、続く「夜」の言葉には真っ赤になって沈黙する。

「そして無論、男も知らん」

「っ…………」

 とはいえ、心の中はやさぐれた気持ちで一杯だった。

 えーえー、そーですともっ! 格好が男に間違えられるせいで、出逢いも少ないしっ!? 大概の男は私をライバル視してくるくらいですからね!

 表面でちょっぴり涙を浮かべ、恨みがましく「夜」を睨んだなら、これに気づいた顔が小さく傾いだ。

「ふむ。済まんな。男のお前に言うべき事ではなかった」

「…………」

 中々どうして、里璃の性別を正しく知らない割に、「夜」の言葉は彼女の胸を鋭く抉る。

 ……けっ。だからどうだって言うのよ。男はどうだか知らないけど、女はソレが必ずしもステータスになるわけじゃないんだから。恵のバカ!

 最後に罵倒した名は、里璃がやさぐれる原因となった友人・間宮恵のモノである。

 邂逅は一度きりだったにも関わらず、「夜」に心酔している彼女は、その昔、中性的な容姿ゆえに、仲間内で最も色事とは縁遠そうな里璃を、そーいうネタでからかっていた。

 お陰で里璃はしばらくの間、同い年以上は全員が道徳観念をすっ飛ばした行動理念の下、自由気ままな学校生活を満喫している、という疑いの眼差しを向ける羽目となり。

 これを矯正してくれたのは恵以外の仲間たちであった。

 ――が、今では大半が彼氏持ちとなった彼女らの経験値など、里璃は知る由もなく。

 あーあ、怖いな、最近の若い子。

 最終的に全てを若さのせいにして完結させた、結婚は出来ても未成年というビミョーな年頃の娘は、意識を再度、自分を抱き寄せるヒト為らざる男へと向けた。

「っ」

 またっ!?

 正確には、幾度となく白い仮面の口元へ押し付けられる、捕らえられた左手へ。

 ちなみに、「夜」の語りと共に口から離されていた左手は、里璃が意識を向けたタイミングで、またしても「夜」の餌食になっている。

 押し付けられた箇所から返って来る感覚が、見た目通りの硬質的なモノならば、里璃とてここまで動揺はしない。

 ううううううう……ど、どうして?

 触れて、離れる。

 それだけの動作のはずなのに、赤らむ頬が戻らない。

 黙れと命じられた手前、抗議する事も叶わない里璃の脳裏に、以前、寝惚けた「夜」に触れられた記憶が過ぎった。

 あの時は混乱が勝っていたため、全く気づかなかったが、仮面の顔を持つ「夜」の口付けは、ヒトのソレとほとんど変わらないのだ。

 否、ヒトよりもなお、心を騒がせる質感。

「っ…………っ……!」

 抱き寄せる温もりと蕩かす香りも相まって、軽く触れられるだけで、里璃の鼓動は否応なく昂るばかり。

 声を堪えるのも大変だというのに、そんな従者の様子にはさっぱり感心のない「夜」、口元を離すと小さく息を吐き出した。

 薄く開いた仮面の向こうから訪れる呼気に晒され、里璃の身体が大きく震えても我関せず。

「不思議だ……男の肌だというのに、不快を感じない」

 そりゃ、女ですから。

 熱くなる身体とは対照的に、口元が離れたことで幾らか冷静を取り戻した心が、間髪入れずにつっ込む。

 勿論、心の中で思っている事が、主といえど、特別心が読める魔法を里理へ掛けたわけでもない「夜」に分かるはずもなく。

「ふむ、なるほど。……しかし、細い指だな? しなやかで美しく……肌もきめ細やかだ。瑞々しい。甘くもあり」

 ぽんぽん下される、自分の手に対する評価。

 青白い指の腹で撫でられながらの行為に、心が再度、身体以上に熱を帯び始めた。

 ここでようやく、里璃を黒い瞳に収めた「夜」は、けれども、朱の走る頬や潤んだ黒茶の瞳を不審がる事なく、里璃の手を捕らえたまま。

「さて……話しの途中であったな」

 前置き。

「そういうわけで、リリよ。私やトヒテしかいない時まで、礼に徹する必要はない。楽にせよ」

 どこで“そういうわけ”になるのかは、毛ほども理解出来ないが、主人の言葉に逆らうつもりのない里璃は、加えて早く離して欲しい一心で、こくこく頷いた。

 が、「夜」は未だ、里璃の手を解放せず。

「それと……無闇に男である事を訴えるな。うっかり殺したくなってしまう」

「!」

 気だるげに言いつつ、左手へ落とされる口付け。

 恐れたものか赤らんだものか迷い、目を回す事しか出来ない里璃に対し、手の平を己の頬へ宛がった「夜」は囁く。

「あとは、コレだな。許しなく触れるなと言ったが、お前に限り、許そう。留める手は必要なれば――」

 何を留めるのか、問わずとも分かる意は聞かず、里璃は再度頷いた。

 けれど、「夜」はこの返答の仕方に不満を抱いたらしい。

 白い仮面の、丁度眉間に当たる位置が、ぐっと盛り上がった。

「リリ……先程から何を黙っておる?」

「…………………………え。しゃ、喋っても良かったんですか?」

「? 当たり前であろう。私はお前に語りかけているのだから」

 口を開いた途端、眉間の皺を取った「夜」は、甘える仕草で額を合わせてきた。

 男にも女にも見える、中途半端な身長の里理にとって、完全に上から覗き込まれる経験はあまりないため、身体が簡単に固まってしまう。

 やはりというべきか、こうした里璃の様子を一向に気に留めない「夜」は、従者の靴が地を離れかけている事も知らず、黒茶の瞳をじっと見つめた。

「お前は……少々素直に過ぎる帰来がある。私の言葉に、そこまで馬鹿正直に応える必要はない」

「ば、馬鹿正直……」

「うむ。あのエルの遠縁とは思えないくらいだぞ? お前はとても清らかだ……私へ、身も心も捧げた者にしては、穢れを知らなさ過ぎる」

 捧げ“た”……って過去形なんですか。

 「夜」と共に生きる従者としては、その通りかもしれないが、深い意味はなくとも普通に聞くと大変恥ずかしい台詞である。

 かといって、不自然に眼を逸らす事も出来ない里璃は、口角を引き攣らせては、別の話題を口にした。

「すみません、その言い方だと、何だかエル大叔母さんが、その、とっても……」

 確かに、親族連中の身柄を勝手に担保とした、どうしようもない大叔母だが、裏を返せば穢れまくっているという表現は、いかがなものか。

 関節的であるにしろ、今や故人。

 そして里璃の記憶にある大叔母は、多少の美化は否めなくとも、穏やかな貴婦人といった具合なのだ。

 よく、死んだ後も陰口を叩かれる人間は碌なモノではない、と聞くが、そこまで酷いヒトとは思えなかった。

 一応、勝手に担保とした事へは、罪悪感めいたモノを抱いていた節もある。

 ……これを解消するため、ツケの全部を里理へ回してきた事については、一言言ってやりたいところだが。

 兎にも角にも、里璃は「夜」の言葉を、ややオーバーではないかと評し。

 けれど「夜」は、そんな里璃の感傷を嘲笑うかのように、諭す言を続けた。

「む?――ああ、そうか。リリは若かりし頃のエルを知らないのであったな。……まあ、斯く言う私とて、彼女の全てを知るわけではないが」

「……「夜」が知らない?」

 それだけで、何やら里璃の胸中に暗雲が立ち込めてきた。

 「夜」は面白そうに、嵌め込まれた黒い双眸へ、不安がる里璃を映す。

「うむ。……さて、困った。試しにお前へ、エルの逸話を一つ聞かせようと思ったのだが――」

 おもむろに里璃の耳元へ近づく仮面。

 青白い首筋に、自分の唇がつくかつかないかの位置に彼女が惑えば、耳に快い低音が悪戯っぽく告げた。

「どれか一つ取ってみても、お前の耳を腐らせてしまいそうだ」

「ひゃっ」

 弄る吐息に上がる声。

 クツクツ震える喉が後に続いて遠退けば、ようやく離された身体は、支えを失いへたり座る。

 いつだったか、トヒテは「夜」には里理への耐性が必要だと語っていたが。

 本当は、こういう経験の少ない自分こそが、「夜」への耐性をつけるべきなのでは? と、熱に浮かされる里璃は思う。

 眼を閉じ、息を吐き、熱を外に移し。

 カツンと踵を返す靴音が響けば、はっと顔を上げて、主の背を追うために立ち上がる。

 最中、過敏な里璃の反応へ、不審も何も告げない「夜」に首を傾げた。

 何だか、今日は随分、「夜」の機嫌が良いような……?

 普段なら、特別扱いの従者と言えど、あそこまで過剰なスキンシップをしたりしない主。

 しかも彼自身は、その不可思議な行動にまるで気づいていないのだから、今までとは違う何かがこれから起こりそうで。

「っ……」

 次第に高まる予感を胸に、熱せられた分だけ冷めた心身が、里璃の背筋を震わせた。

 

 


2009/9/8 かなぶん

修正 2009/9/8

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