常夜ノ刻 2
「夜」の後を追い召還された部屋から出れば屋敷の廊下が左右に伸びる。 赤いカーペットが敷きつめられた床を照らす灯りはクリーム色の壁に等間隔で設置された蝋燭で、ゆらゆらと不安定な光を提供している。 ともすれば、何か得体の知れないモノが出てきそうな全体的に薄暗い廊下。 しかし、ヒトの世から見た得体の知れなさでは引けを取らない「夜」が、自身の屋敷でもある此処を恐れる謂れはないだろう。 淀みない足取りで「夜」が左に折れたのを知り、里璃は小首を傾げて歩みを止めた。 いつもであれば右に折れるか、控えていたトヒテに里璃を託して自身は左、里璃はやはり右へと連れて行かれるのだが。 左に行く……って事は、知人の処に行くのかな? 知識を得ても屋敷内の構造をよく知らない里璃は左に進むと、ヒトの世に送られる時間まで戻らない「夜」から、そちらには外へ通じる扉があると推測していた。 そこから知人――今宵、閨を共にする女の下へ向かうのだと。 で、あるなら追って良いものかどうか。 困惑した里璃、答えを探してキョロキョロ辺りを見渡した。 一体どれだけの長さがあるのか、先の見えない左右の廊下を巡れど目的の姿は在らず。 ううううう……いつもだったらトヒテがいるはずなんだけど。 脳裏に浮かぶ、キツく巻かれたツインテールの漆黒の髪を持つ、シックなメイド服姿の絶世の美少女。 徹底した無表情と相まって死角にいきなり居ても可笑しくない絡繰り仕掛けの彼女は、数え切れないくらい同じ姿を屋敷内に置いているくせに廊下には一人も控えておらず。 「どうした、リリ」 「サトリです。よ、「夜」……トヒテは?」 段々心細くなってきたところへ今まで背を向けていた主の声が掛かり、縋るように里璃はそちらを見やった。 すると一瞬、虚を衝かれたように固まった「夜」、思い直した素振りで頷いた。 「ああ。そういえばまだ何も話していなかったな。ともあれ、ここで話すのも難だ。私について来るが良い。この先にはトヒテもいるゆえ」 「あ、はい」 なんだ、一人で屋敷を歩けって言うわけじゃなかったんだ。 些かほっとした面持ちとなり、顎で「来い」と示された里璃は駆ける勢いで「夜」の元まで近寄り。 「……リリよ」 「いや、だからサトリですって――ひぇっ!?」 にこにこ笑顔まで浮べたなら待っていた青白い手が顎下を掬い上げた。 自然と身体まで「夜」へ寄り添えば、驚く里璃とは対照的に白い仮面の眉間が不機嫌そうに盛り上がる。 「共に在るのが主だけでは不服か?」 「はぇ? ふ、不服、って何のお話で」 「リリ……お前は私の従者だ。ならば私だけを慕えば良かろうに」 「え、えっと? さ、サトリなんですけど」 「無意識か? 随分とトヒテに懐いておるようだが」 「えっとえっと、せ、責められる謂れがよく分からないんですけど、トヒテは色々教えてくれててお世話にもなっていて」 「……ほぉ?」 な、なんか、すっごく怖いんですけど? しかも嵌め込まれた黒い双眸と合わされる首が辛かった。 突然、機嫌が悪くなったと思しき「夜」の、その原因に検討もつかない里璃は喘ぎそうになる喉を堪え必死で言い繕う。 機嫌を直して貰うと共に首を解放して貰うために。 「それにその、いつも私は反対方向に連れていって貰うので「夜」がそちらに向かわれるという事は、トヒテも居ないし私一人であっちに行かなきゃ行けないのかなって思って……こ、怖かったんです!」 羞恥を堪えて本音を言えば手を離した「夜」が不可解だと唸る。 「怖い? 我が屋敷が、か? 終までお前の安住の地となる屋敷をお前は恐れているというのか?」 不意に得た解放から喉を押さえて咳を一つ。 ちょっぴり恨みがましい気持ちで里璃は「夜」を見上げ。 「だ、だって、何か出そうじゃないですか。幽霊とか、お化けとか!」 「……ふむ? その括りでは、私もお前に恐れられる分類に入りそうだが。それ以前にこちらに生きる輩は大概がその類だろう?」 「そ、それはそうかもしれませんけど、でも違うんです! 雰囲気が駄目なんです! 何か出そうっていう、そういう不安を抱かせる雰囲気が!」 「雰囲気……しかし、我が屋敷には私の許可なく侵入出来る者なぞおらぬ。なればこそ、恐れたところで危険も然程なかろうて」 落ち着けと言わんばかりに肩へ乗っけられる手。 「夜」にとっては安心させるための言だったのだろうが、ある事に気づき、里璃はさっと顔を青褪めさせた。 「さ、然程? ちょ、待ってください、「夜」! 何ですかその、含むところが多分にありそう言葉は!?」 「ふむ? 気に入らんか? しかし、こればかりは保障しかねる。私も万能ではないゆえ虫一匹通さぬとは断言出来ん」 「む、虫? なんだ虫の話――」 「とはいえ、今のお前では太刀打ちするのも難しい相手だろう。死ぬ事はなくとも瀕死の一歩手前くらいは追いつめられるやも知れん」 「いぃっ!? む、虫の話じゃないんですか!?」 「ああ、虫の話だ」 「そ、それなのに瀕死って……ど、毒か何かがある?」 「いいや。ごく一般的な虫の話だ」 「ごっ」 里璃と「夜」の間に流れる、虫という単語に対する認識の違い。 双方、これを知ることなく数秒が経てば。 「っ!」 い、今、後ろで妙な音がしなかった!? 耳に届いた微かな物音へ里璃が小さく震えた。 次いで「夜」を見やって幻聴を疑うでもなく、恐る恐るといった具合で振り返り。 「ひぃっ!?」 「……リリ?」 その先に今までいなかった白い顔を認めた里璃。 驚きの余り、勢い余って主へ抱きつくと涙目になった顔を胸に埋めた。 「ご、御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい!!」 「落ち着け、リリ。よく見てみろ」 「やっ! 嫌です! 無茶な事言わないで下さい、「夜」ぅ〜」 縋りついたまま顔を上げた里璃は涙で歪みまくった視界の中、呆れているであろう白い仮面を見つめた。 許しなく触れても不問に帰すと言った手前、無碍には出来ないのだろう、宥めるように抱き締められ里璃は更に礼服へ皺を刻み。 「リリ? アレは虫ではないぞ?」 む、虫だから怖いんじゃありません! 言葉で応える代わりにふるふる首を振る。 断固として見ない意思表示を受け小さな溜息が「夜」から零れた。 「まあ聞け。アレは――トヒテだぞ?」 「ど、どひで……?」 ぐずる鼻を啜りつつ促されてようやく振り向いた里璃は、瞬き数度で涙を落とした。 歪んだ視界がクリアになっていけば「夜」の言う通り、白い顔を認めた場所には見慣れた美少女の無表情がある。 「ほ、本当だ、トヒテだぁ」 正体が分かりほっとした矢先、またもぼたぼた零れ落ちる涙。 『里璃様……御気分が優れないのですか?』 言いつつ近づくトヒテは白いハンカチを取り出すと流れる涙を静かに拭き取った。 涙が引っ込み多少赤くなった目元からハンカチが取り除かれれば、人前でみっともなく泣いた気恥ずかしさが今頃になって感じられた。 誤魔化すように「ありがとう」とトヒテへ告げる。 と。 「……時に、リリよ。いつまでしがみついているつもりだ?」 「あっ! す、すみません……!」 里璃が落ち着いたのを見計らったタイミングで頭上から静かに問われ慌てて身体を離した。 幾ら触れる許しを得たからと言っても感情のままに主へと抱きつき、あまつ、しがみついてしまった事は従者にあるまじき行為。 羞恥を吹き飛ばして緊張から身を硬くした里璃は「夜」を見上げた。 怒られる。 そう思い。 けれど当の「夜」は弱り顔なのか、黒い双眸の上を少しばかりハの字に歪め。 「リリ。言うては何だが……お前、少し痩せた方が良いのではないか? もしくはもう少し筋力を付けねば。従者を務めるに辺り、それでは何かと苦労するぞ?」 「…………………………え」 必死に抱きついたのが悪かったのか。 予想だにしなかった言葉を受け里璃の頭が理解を拒否する。 その間にも言い置いた「夜」は背を向けて先を行き。 痩せた方がって……わ、私、そんなに太ってる? 自慢ではないが、今まで誰かに「太った?」と言われた憶えはなかった。 無論、「痩せたら?」と言われた事もない。 だからと完全な痩せ型でもない里璃は茫然のていで、服の上から自分の腹を抓んだ。 男に間違われる事があっても、正真正銘女である里理の感性は、ふくよかな女を美人とするいつぞやの時代とは異なり現代で磨かれたモノ。 なので、そのショックたるや、今を生きる一般女性となんら変わらず。 否、それ以上であろうか。 自分だけを慕えと主は告げていたが、彼が思う以上に里璃は「夜」を慕っている。 敬愛、とまでは行かないものの、恥も外聞もなくしがみ付けるぐらいには。 だというのに、そんな「夜」から痩せるよう勧められては、いかに男と間違われていると知っていようとも傷つかない心はなかった。 冷ややかな美貌とは裏腹に繊細な里璃は、じわりと込み上げてくる感情を堪え切れず。 またも泣き出す一歩手前。 機械的な声が里璃の名を呼んだ。 『里璃様、危機一髪でしたわね』 「へ?」 振り返れば一度は怯えた白い顔がフローライトの瞳をぱちくり瞬かせ。 『御気付きには為られていませんでしたの? 何を持って御前が痩せろ、などと仰っていらしたのか』 「な、何を……?」 現在進行形で傷ついている箇所を責められ、半ば引っくり返った声が出た。 トヒテはこれを気にするでもなく小さく首を振った。 『御存知――ですか、里璃様? 女性(にょしょう)が肉を付けるのは何も腹部だけではございませんの。それに付け加えさせて頂くなら、腹部に肉が付いていなくともその部分がふくよかであれば、バランスの関係で全体的にぽっちゃり、もしくは厳つく見えてしまうものなのです』 お得意の回りくどい説明を受け、涙を引っ込めた里璃は眉を寄せる。 それでも気にしないトヒテは何やら頷くと、一つ溜めの沈黙を作り上げて後、物言わぬ里璃の疑問に答えを示した。 『つまり、御前が痩せろと仰いました原因は里璃様の着痩せされる御胸に在るのです』 「む、胸ぇ?」 フローライトの瞳に晒され思わず胸を押さえた里璃。 が、近くに「夜」がいると思ったなら慌ててそこから両手を外し、視線を一旦追うべき主へ向けた。 知らぬ内、近くも遠くもない位置まで歩みを進める、未だ向けられたままの背がそこにあり。 ほっとしつつも遅れては難だと少しばかり早足となった里璃は、一緒に移動を始めたトヒテへ先を促すよう目配せをする。 これに頷いたトヒテ、歩調は決して崩さず「夜」には届かぬ声音で続けた。 『御忘れに為られては困りますが里璃様の胸囲は本来、その程度の御召し物で紛れるような代物ではございません。驚異の胸囲、とでも申しましょうか』 セクハラ紛いの親父ギャクを飛ばされても完全スルーを決め込み。 「……で?」 『ですから見た目はどうあれ質感は豊満でございましょう?』 「……で?」 『ですからそのような御胸の里璃様に抱きつかれて、御前が何も感じないはずはございません』 「…………」 どきっぱり告げられても返せる言葉は里理になかった。 それでも「夜」が変に感じたであろう事は察しが付けられ。 『しかし、御前は里璃様を殿方と思われております。たとえ御胸の感触をしかと感じられていようとも殿方には豊かな房はございませぬゆえ』 「ってことはその、胸に肉が付くくらい、私が太っている――と?」 『はい』 どこまで「夜」は人の性別を勘違いしたままでいるつもりだろう? 遣る瀬無い気分を味わいつつ、けれどはたと気づいて里璃は問う。 「あれ? でもさ、それって今更じゃない? 抱擁自体は結構な頻度でされている気がするんだけど」 言って思い出されるここ毎日の「夜」の行動。 元々そういうクセがあるのか、それとも里璃が女と知っての無意識の行動なのか、一日最低一回は「夜」の腕の中に包まれている。 挨拶にしては親密に、親密というには軽く。 このスキンシップを経て、何故、今になってそんな事を言うのかと考えたなら、やはり答えは増量となるはずだった。 良いかどうかは別として。 しかしトヒテは首を振る。 『確かに抱擁は為さっていらっしゃいますがその実、ああまで御身体を密着された事はなかったはず』 トヒテの指摘を受け里璃は目をぱちくり。 前方、近づく「夜」の背を見つめ思い当たる節を認めて「ああ」と小さく頷いた。 その通りかもしれない。 抱擁といっても「夜」から伸ばされるのは腕ばかり。 たとえ包み込むような姿勢であったとしても拳一個分、里璃には逃げられる空間が用意されていた。 きっと、抱き締めはしても身に添わせたりはしたくなかったのだろう。 里璃を完全に男と思っているのなら。 段々、女である事に自信がなくなってくる。 げっそりした表情が里理に浮かび、すると間髪入れず追従するトヒテが言った。 『危のうございました。御前がしっかと里璃様を殿方と認識されていなければ、先程の接触で即・女性バレ、即・ベッドインでしたわ』 「う……そ、そうだね。そうだったよ」 忘れてはいないものの、男呼ばわりに萎れて薄くなっていた危機感がトヒテにより色を増して里璃に圧し掛かる。 「夜」の勘違いは肩を落とすどころか、諸手を挙げて喜ぶべき事柄だった。 何せ「夜」は極度に色を好むのだ。 しかも相手の性別が女でさえあれば、年齢・容姿、関係なしの無節操。 バレればトヒテの乱れた言葉通り、貞操の危機も何のその、色んなモノをすっ飛ばした経験値だけが積み重なっていく事だろう。 「夜」が女の下へ通う原因となった契約とて里璃相手では何の枷にもならない。 相手の意思を尊重する――そんな条件が契約の名の下「夜」を縛り付けていても、主の意思を尊重したいと思う従者には全く持って意味がないのだから。 従者になった翌日の出来事をうっかり思い出した里璃は顔を赤らめるどころか、真っ青にさせて身を抱いた。 寝惚け眼だったとはいえ「夜」の御業、その片鱗が肌を過ぎり。 「き、気をつけよう、本当に……ま、まだまだやりたい事は一杯あるんだから」 『はい。それが良策かと。でなければ殿方認識であっても特別扱いの里璃様、場合によってはヒトとして過ごせる時すら無に帰してしまうでしょう』 淡々とした忠告は有り難いどころか余計なプレッシャーを里璃の、主に胃へと注ぎ込む。 重たい気分にみぞおちを押さえ顔を顰めた里璃は、「何をしている?」とようやく振り返った主へ小さく頭を振った。 |
2009/9/24 かなぶん
修正 2009/11/10
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