常夜ノ刻 4

  

 里璃が教わってきた中に、馬に関する記述はなかった。

 いや、あったにはあったのだが、馬は馬という名詞でしか教わっていなかった。

 里璃自身、すっかり失念していたのである。

 一口に馬と言えど、ヒトの世の認識とこちら側の認識には、かなりの開きがあることに。

 

 その大本となるのが、刻獣(こくじゅう)と呼ばれる存在だ。

 

 刻獣の特徴を端的に示すならば、ヒトの世でいうところの空想上の動物。

 要は火を吐いてみたり、水を瞬時に凍らせてみたり、そんな能力を刻獣は生まれながらに持ち合わせているのである。

 容姿にしても、ヒトの感覚では奇抜と感じるモノが多い。

 仮に刻獣がヒトの世に現れたなら、間違いなく化け物に分類されることだろう。

 ――が、しかし。

 この刻獣、こちら側ではヒトの世の獣と同じ扱いで分類されていた。

 これはこちら側に属する者のほとんどが、尋常ならざる力を携えているためなのだろうが、それにしても里璃にとっては困った話である。

 なにせ、大本が刻獣という聞きなれない名詞であるにも拘らず、分類された種目名はヒトの世と全く同じなのだから。

 虫は虫、馬は馬、といった具合に。

 ちなみに刻獣を獣と書き表さないのは、「獣」という名の有力者がいるからだという。

 試しに里璃が「獣」と口にしてみたのだが、「塊」同様、“傅く”しかない結果で終わっていた。

 ともあれ、そんな刻獣である彼の馬の容姿は、里璃の知る馬とはかけ離れていて当然。

 忘れていた方が悪い、と言われればぐぅの音もでないが、詐欺だと叫びたい心はあった。

 こちら側では馬だというその容姿。

 一言で表記するならば小型の恐竜が近い。

 岩と見紛う灰色のゴツゴツした皮膚、縦に長い瞳孔を持つギョロリとした目は金色。

 尻尾はしゅるりと長く、淡いピンクの舌は短い。

 どこからどう見ても肉食系の頭には鋭い牙が一つもなく、それゆえ主食は野菜だという。

 恒温動物から変温動物へ。

 これだけでも劇的な変化を遂げた馬だが、図鑑でしか見たことがない恐竜の部分は、胴体、それも背中に限られていた。

 腹側や手足にまでくると、様相はおどろおどろしいモノへと変化していく。

 まずは手。

 首の付け根付近から生えた手の形は羽の骨組みで、常時、胴体の側面に張り付いている。

 展開する事は可能で、その際には片方ずつ引っ張り出すようにして開き、収納されていた窪みは赤い膜に覆われる。

 羽の形で腕を広げる時、馬はなんとも切ない身を切り刻まれるような声で鳴くものの、彼らにしてみれば気合の雄叫びでしかないという。

 開かれた手の指は三本で、腕からは細い針金状の繊維が等間隔に数本、紙でも張ったなら皮膜にでもなりそうな位置に垂れ下がる。

 次に足。

 付け根から膝部分にかけては恐竜のままなのだが、そこから下にあるのは赤茶けた白骨。

 足首から下、地面に接する骨は、前に三本、後ろに一本。

 先端には真っ黒い鉤爪が備わっている。

 形状として近いのは猛禽の類だろうが、支えの役割をする後ろに対し、前の三本は異様に長かった。

 そして腹側。

 里璃を拘束した「夜」曰く“あばら骨”は、馬の長い首の付け根から下腹部まで、楕円を描いて左右交互に折り重なっている。

 横向きにすれば、鋭い牙で隙間なく閉じられた、巨大な口を連想とさせる造りだ。

 これが開くと、中から溢れてくるのはふわふわもこもこの白い羽毛。

 この羽毛の主目的は産んだ卵を冷やさぬよう、雌雄交互に抱くためであり――その辺の説明は今のところ必要ないため、割愛させて頂く。

 ただ、卵を上手く抱くためあばら骨の先は軽く曲がっており、尚且つ、触れるモノにストレスを与えない構造となっているので、拘束への気づきが遅れた事だけは、里璃の名誉のために記しておこう。

 彼女は決して、鈍い訳ではないのだから。

 

 なればこそ、薄暗い応接間を訪れた里璃は、暖炉に向かうばかりでこちらへ背を向けたまま座る主へ、どう話しかけたものか迷っていた。

 

 

 

 

 あの時――

 茫然とする「夜」に駆け寄った里璃は、主へ触れようとした己の手が馬の涎でべとべとになっている事に気づいた。

 慌てて引っ込めたものの、見ようによっては“嫌いな「夜」”に触れる事を拒んだとも取れ。

「嫌い……嫌い、か…………」

「よ、「夜」……?」

 ふらりと傾いだ主の後を追って、来た廊下を戻りつつその名を呼べば、白い仮面がちらりと里璃を見やった。

 交わされた視線にほっとしたのも束の間の事。

「…………湯浴みが先だな。トヒテ」

『はい』

「ぉわっ」

 形代の名を呼んだ「夜」は、音もなく現れたトヒテに里璃の湯浴みを命じると、身体をよろけさせながら階段を上がっていった。

 今度は里璃を一度も見ずに。

 「夜」の姿が消えるなり、急に心細くなった里璃はまた後を追おうとしたのだが。

『では里璃様。こちらへ』

「うわっ、ちょ、トヒテ!?」

 主の命には忠実なトヒテの有無を言わさぬ実行力に叶うはずもなく。

 

 

 そんなこんなで身体はさっぱりしたものの、気まずい思いを抱えた里璃は、刻獣に関してのおさらいと共にここまで連れて来てくれたトヒテの言葉を思い出す。

 御前が随分と苛立たれていらっしゃいます、ここは一つ、里璃様の御力で御静め下さいませ……って言われても。

 そもそもの原因は自分。

 夜という時間帯が嫌いなのだと、「夜」に向かって言ってしまったのだから。

 どうしたものかと迷う心はあれど、いつまでも扉付近で突っ立ったまま、もじもじ手だけを動かしているわけにはいかない。

 かといって「夜」の許しなく、これ以上先に進むのも気が引ける里璃。

 結局、立ち尽くしては、初めて訪れる応接間を眺めるに留めてしまう。

 外観を見た憶えはないが、内装だけでも広大と分かる「夜」の屋敷。

 里璃が知っている部屋はここと廊下続きになっている、自分に宛がわれた部屋と食堂、ライブラリー(図書館)。

 それと、変則的な方法で訪れたエントランス・ホールに、今まで誰も招かれた事がなかったという「夜」の自室。

 後者二つは、暴力的な白と清々しいまでの黒をそれぞれ基調とした部屋であったが、この応接間の形式は前者に似ていて、里璃の目を少しだけ和ませた。

 とはいえ、両親と兄一匹で暮らしているヒトの世の家より、落ち着かない造りに変わりはなく。

 ぱちり、薪の爆ぜる暖炉が扉向かいの中央に配置され、美しい幾何学織りの小さな絨毯がひっそりとその前に敷かれている。

 この脇には主の座るアンティーク調の椅子があり、右の肘掛に肘を置いて頬杖をつく姿は穏やかさが漂ってくるばかりで、苛立ちは微塵も感じられない。

 ――そっちの方が怖い、という感想は一先ず置いておくとして。

 視線を手前に引けば、丸いテーブルを挟んで二人掛けのソファが二脚、対面する形で存在していた。

 左右の壁には、背の低い棚や本棚が、主の威厳を訪れた者に知らしめるべく佇んでいる。

 天井から下がる照明に施されているのは、小さいながらも気品溢れる細工。

 灯りがついていたなら、さぞかし目を楽しませたであろう暖色を基調とする部屋は、しかし、先程から全く動かない「夜」に合わせて、妙な重圧感を里理に与えてくる。

 暖炉の明かりだけしか望めない応接間では、より一層、重苦しい空気が立ち込めており。

「あの、「夜」?」

 意を決し、ようやく声を掛ける里璃。

「湯浴み、終わりました。お待たせして申し訳ございません」

 次いで頭を下げた彼女に対し、「夜」の答えは。

「…………」

「……「夜」?」

「…………」

「…………「夜」」

「…………」

「……………………えっと」

 もしや、寝てしまったのでは?

 一向に返されないばかりか身じろぎ一つしない「夜」に、里璃は掛ける言葉を忘れて一歩近づいた。

 毛足の短いカーペットが恐る恐る踏み込んだ足音を消してゆく。

 かといって、そこはヒトには計り知れない能力を持つ「夜」である。

 何者かが近づいたところで、それが従者であろうとも気づかぬはずはない。

 深い眠りに陥ってでもいない限りは。

「…………」

 やっぱり、寝ているのかな?

 もう二、三歩、余計に進んでみても、「夜」に変化は見られなかった。

 すると里璃の心に大変都合の良い解釈が現れてくる。

 トヒテの言う通り確かに「夜」は苛立っていたけれど、湯浴みを待っている間に段々どうでもよくなってきたのでは?

 夜が嫌いと言ったところで所詮は従者の一感情、しかも相手は男なのだから、気にする必要はない、なんて。

 んでもって、なんだか眠くなってきたなぁ、寝てしまおうか、そうしようそうしよう――

「…………………………だったら、良かったな……なんて」

 幾らか楽しい想像を浮べつつ徐々に距離を縮めていった里璃は、あと一歩で「夜」の顔が見えると思った矢先、頬杖の向きを変えられてしまった。

 これはもう、起きていると考えた方が良いだろう。

 近づいてからの行動にまさか今から引くわけにもいかず、里璃はもう一度声を掛けてみた。

「あの、「夜」?……怒ってます?」

「……………………………………………………………………………………………………怒ってなどおらん」

 具体的な問いに長い沈黙を破って答えた「夜」。

 けれどその声は楽観的に見積もっても、不機嫌にしか聞こえなかった。

 続かない話に切り口を変えるべく、里璃は少し考えてから言う。

「でも、機嫌はあんまり良くないですよね?」

 考えた割に、直球。

 口にした後で、しまった! と思った里璃を余所に、「夜」は相変わらず顔を背けたまま。

「……そうでもない」

 うわ……なんて声出すんですか、「夜」。

 先程より短い沈黙でもたらされた声音は、「夜」が言った通り怒りの類ではなかった。

 不機嫌、という表現も正しくない。

 正しくないが――しかし。

「…………」

 顔を背ける「夜」から自身も顔を逸らした里璃は、込み上げてくる思いに口元を拳で押さえた。

 「夜」の内に渦巻く感情。

 正しく理解しては、微笑ましくも擽ったい思いに駆られてしまった。

 つまり「夜」は……

「怒ってもいないし、機嫌が悪いわけでもない。ただ――――拗ねていただけだ」

「……「夜」」

 肩を震わせていた従者をどう思ったのか、言いにくいであろう気持ちを吐露した「夜」は、里璃が振り向くのに合わせ、彼女を見ていた黒い双眸をまた反対側へ背けた。

 里理から見える肘掛を人差し指で叩きながら、もどかしい思いを誤魔化すように長い足を組み。

「実に愚かしい話だ。たかだか従者、それも男相手に嫌いと言われたくらいで、こうも己を保てなくなるとは。笑いたければ笑うが良い。他ならぬ私自身が自分を嘲笑いたいのだから」

「…………」

 許しを得たところで笑う気はしなかった。

 肩を震わせたとしても、その意は他に。

 おもむろに「夜」の傍で膝を折った里璃は肘掛へと右手を伸ばした。

 忙しなく動く指へ触れようとしては、不適切な動作ではないかと迷い、止まり。

 それでも「夜」の思いに答えるべく、己の手を重ねた。

「……リリ?」

 途端、訝しむ主の声が頭上より訪れる。

 組まれていた足が解かれ腰が浮きかけたなら、里璃は低い姿勢のまま、真っ直ぐ「夜」を仰いだ。

 そのままで聞いて欲しいと、黒茶の瞳に強い光を携えて。

 従者の思いを汲んだ「夜」は、被せられた里璃の手を逆の手の平で重ね取ると軽く握り、解放された右手で頬杖をついた。

 白い仮面に嵌め込まれた黒い双眸の中で赤い薪が爆ぜれば、己が胸に手を翳して里璃は告げる。

 視線は逸らさずに、目だけを少し伏せて。

「すみません、「夜」」

「何故お前が謝る? 気にせずともこれは私の失態。お前に謝られる筋合いは――」

「それでも。最初に謝らせて下さい、我が君。拙めに、その機会をお与え下さい」

 私は「夜」を侮っていたから。

 「夜」の、従者に対する思いを、簡単に終わるものだと軽く見ていたから。

「ご慈悲を」

 自分を軽く見る事で、引いては「夜」まで軽く見てしまった事を謝らせて欲しい。

 上げた目で、感情の見えない無機質な黒に訴えかける。

 秘めたる内容に許しは求めず、ただ、謝罪が許される事を望んだ。

 対し、「夜」は白い面の片眉付近を持ち上げると溜息混じりに言う。

「……好きにせよ」

「ありがとうございます」

 ほっとした里璃は仕切り直しとばかりに、もう一度。

「申し訳ありませんでした、「夜」。謝罪の機会、痛み入ります、我が君」

「……気は、済んだか?」

「はい」

「そうか」

 里璃が笑んで頷いたなら、幾分和らいだ気配が「夜」の頷きに含まれる。

 乗じ、軽く握る指を腹で撫で始めた「夜」の親指の動きに、里璃は少しだけ苦笑を零した。

 しかし、それも短い間でしかない。

 表情を改めた里璃は再び「夜」を見つめて言った。

「「夜」、聞いて頂きたい話があります」

「ほう?」

「私が……夜を嫌うようになった経緯を」

「……いいだろう」

 ピクリと動いた手の反応に、微かな拒絶を読み取った里璃は、先に進むためには必要な事とこれを無視して口を開く。

 

 


2009/12/23 かなぶん

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