常夜ノ刻 8
馬たちの介抱をトヒテに任せた「夜」は、里璃を厩舎の奥にある扉へと誘った。 真向かいの錆びついた鉄の扉とは違い、馬が通りやすいように造られた木の扉は、軽い音ともに開かれ、続くのは馬一頭が通れる幅の石造りの廊下。 程なく視認できた突き当りの扉は、厩舎にあったのと同じ木造。 そして――
「ひっ…………で、では、今日はこの辺で失礼を」 「私がそれを許すと思うておるのか、リリよ」 「サトリですけど……いえ全然」 「うむ。至極正しい判断だ」 即行で回れ右をした里理に対し言葉だけでこれを制した「夜」は、従者が追ってくるのを疑わない歩幅で先を行く。 「夜」を振り返り、背後の厩舎を見ては、また振り返り。 「はあ」 仰々しい溜息を吐いた里璃、身体をきっちり扉の外へ向けては一歩踏み出した。 そう――外。 地下を思わせる石の廊下が同じ階にあったはずなのだが、里璃が踏みしめた坂の下には剥き出しの地面を突き破る、青々とした草が生えていた。 草……この区域って夜の時間帯しかないはずなのに、生えているんだ。 極力、自分が外にいる事から意識を逸らす。 認識したら最後だと、周りを見ないよう勤めながら下だけを見て歩く。 最中、無意識に右腕を擦ったならば、いきなり伸びてきた青白い手に、擦る手ごと腕を握られてしまう。 「よ、「夜」!?」 弾かれたように顔を上げれば、「夜」より高い位置にいても目線一つ上の場所で、呆れた面持ちの仮面が黒い眼の上をハの字に歪ませる。 「リリ。此処にはもう、何も無い。一度味わった苦しみを恐れる気持ちは生きる上で必要だろう。しかし、囚われてはならん。そうして己が為せる事を狭めては、な」 「……はい」 言いたい事は分かる。 確かに「夜」が握り締める腕にはもう、夜という時間を恐れるよう「塊」が仕向けた御印はない。 頭では、分かっている。 それでも意識を失ったあの時の恐怖は、今も里璃の記憶に残っており。 静かな吐息が「夜」から為されれば、叱られたていでぎゅっと目を瞑った。 「仕方がない、か。そうさな。ではまず、腕からこの手を除けよ」 「……え?」 静かに言われて目を開けば、変わらぬハの字の顔つきで「夜」は言う。 「それとも、お前はそれすら出来んのか?」 「い、いえ」 ゆっくり首を振ったなら、併せて開放される手と腕。 無理矢理引き剥がすのではなく、里璃が自分で行うよう促す姿勢に、少しだけ胸が熱くなった。 きっと「夜」は、このまま待つつもりなんだ。 私が本当の意味で「塊」の御印から逃れられるまで。 「夜」と出会うまで全く知らず、気づきもしなかった御印という存在。 なれど、里璃の行動をいつしか支配していた、忌まわしき枷。 瞬間、滾る憎悪は歯を噛み締める事で断ち切り、その分の思いを右腕の解放に費やす。 「塊」を憎むくらいなら、「夜」の指示に従おう。 「夜」だけを一心に刻もう。 そうする事で、己の中から「塊」を消し去る。 忘れる、という意味では決してない。 ただ、抗うだけだ。 夜を嫌うよう「塊」が仕向けたというのなら、里璃自身の手で夜を取り戻す。 それだけの事、だから。 あっさり――とは行かないまでも、右腕から遠退く左手。 支えなければいけないという強迫観念が現れたなら、左手に力を込めて拳を作る。 「っはあ……」 傍から見た所要時間なぞ、たかがしれていよう。 しかれども、葛藤の名残は疲労となって里璃の肺を押し潰し、絶え絶えの息を上げさせた。 伴い、滲む脂汗に喉がごくりと鳴る。 「さて。ここで一つ、お前にまじないをやろう。もう二度と「塊」の御印なんぞに惑わされぬように」 里璃の動きを見届けた「夜」は前置くと、青白い手を包帯巻きの首へと翳した。 触る真似はせず、なぞる素振りで上下する指先。 「……分かるか、リリよ。お前の身体にはすでに私しかいない。契約を交わしたのも私、ヒトの姿を変質させたのも私、与えた魔力も刻んだ紋様も全ては私が為した事。今此処にこうして存在するお前はこの時この場、この「夜」の下に在るのだ。――私が死に、お前が死ぬまで、我らは永久に共に在り続ける」 一息に言ってのける「夜」。 対する里璃は。 ……な、何だかまるで、口説かれているみたいだ。 里璃の事を男だと思っている「夜」だが、熱弁する内容や身体を内側から振るわせる低音は、愛の告白と勘違いしてしまいそうなほど深みのある甘さ。 すっかり当てられ、腰から崩れ落ちてしまいそうな身体に、里璃は出来うる限りの力を込めた。 けれど完全には自分を誤魔化せず、朱に染む頬は潤む黒茶の瞳を「夜」の黒い眼に映してしまう。 しばし見つめ合う二人。 流れる風は夜気を孕んでいるものの、絡む視線を振り解ける冷たさは在らず。 最初に動いたのは「夜」の方だった。 手を降ろしてはくるりと里璃に背を向け、コホンと咳払いを一つ。 「まあ、なんだ。要するに、だ。頼るならば我が刻印がある、という事だ。消えた御印を押さえるくらいなら其処に触れるがよかろう」 些か早口の「夜」は目を丸くする里璃を見る事なく、小さく項垂れる。 「……あまり「夜」を恐れてくれるな、リリよ。主という立場上、慣れろ、とは言えぬが、必要以上に怯えられるのもまた、何というか、こう……寂しいモノがあるぞ」 「「夜」……」 この方は本当に……どういう方なのだろう? 今日一日で、色んな「夜」の姿を見てきた気がする。 最初の頃は、上に立つ者の威厳や傲慢さしかなかったはずなのに、今は手を伸ばせば簡単に届くほど、近いところに背中がある。 だけど――と誰に言われるでもなく里璃は思う。 だけど、この背はまやかしだ。 触れようと手を伸ばしたところで届きはしまい。 掴めるのは「夜」が支配するこの区域、常夜の虚空だけ。 それはまるで仰げば見える星月のように近く、そしてどこまでも遠い存在。 ――なれど。 「……わぁ」 「リリ?」 心情そのままに空を仰いだ里璃は、恐れていた夜の光景を目の当たりにし、感嘆の声を上げた。 訝しむ「夜」の声さえ聞こえず、目の前に広がる夜空に魅入られた。 記憶の中にある最後の夜空、それよりも更に鮮烈に黒を浸食する仄暗い光たち。 美しいと評すよりも、不気味と表すに相応しい色彩へ里璃は瞳を瞬かせ。 唐突に、その視線を「夜」へと戻した。 呼びかけに応じなかった従者が気に喰わなかったのか、振り向きあからさまな不機嫌顔をする「夜」へ、里璃の首がゆっくり頷いた。 触ればヒリヒリ痛む包帯越しの首を撫でつつ。 「恐れない、とは言いません。ですが、好き、には為れそうです」 これもまた、告白のようだと里璃は思った。 しかも「夜」のように具体的には語れない、とても幼稚な告白だと。 「……そうか」 だが、「夜」にとってはそれで良かったらしい。 どちらに転んでも仮面、崩れる相好はないが、雰囲気に隠し切れない明るさが灯っていた。 支配する「夜」の影響を受けてか、吹く風もどこか穏やかに里璃の頬を撫でていく。 「では、行くぞ」 「はい」 気だるげな声が前を行く。 付き従う里璃は「夜」を見つめて歩き出した。
「夜」曰く、こちら側の植物に必要な物は、他の生物同様魔力であるという。 ゆえに陽を望めない常夜の区域でも、青々とした葉を生い茂らせる事が出来るのだ。 とはいえ、植物の在り方は魔力を糧とする神秘的な話とは裏腹に、ヒトの世とあまり違いはない。 例外はあるにせよ、どれも一様に上を目指し、茎や葉を伸ばし、花を咲かせて、実を宿し、種を為す。 手を加えれば毒にも薬にもなる、ヒトの世と変わらない色彩は食す事さえ可能だという。 だからこそ、「夜」から「我が庭園は美しかろう?」と問われた里璃は、素直に「はい」と頷いた。 普通に、綺麗だ…… それは頭をトンカチで殴られたような衝撃だった。 ヒト為らざる主、その屋敷の敷地内に、ここまで普通の風景が広がっていようとは。 勿論、頷いた通りの美しさではあるが、しかし。 手入れの行き届いた生垣に、星月の光を受けて淡く揺らめく花の数々。 隙間なく綺麗に敷きつめられた白に近い灰の石の道、一定の高さを保ち生い茂る芝生。 バラに似た花が絡むアーチと月の下にひっそり佇む東屋。 絶え間なく水を舞い上がらせる噴水、そこから延びる水路、辿り着く池。 どれ一つ取ってみても、「夜」によってコロコロ変わる屋敷内とは違い、ヒトの世にあっても可笑しくないものばかり。 はっきり言ってしまえば、それこそが変だという話なのだが。 ともあれ、従者から好評を博した「夜」はご満悦の様子で、案内に進んでいた足をくるりと反転させた。 「うむ。では、戻るぞ」 「……へ? では、今日はもう?」 いつまで経っても夜の時間帯では分かり辛いが、もう帰る時間になっていたのかと目を丸くする里璃。 対して「夜」は嵌め込まれた瞳を若干吊り上げた。 「何を言う。本題はこれからだ」 「あ、そうなんですか」 なんとなくほっとした。 こうして夜の外を歩けるようになったとはいえ、夜中の一人だけの部屋に帰されるのは少しだけ怖かった。 寂しい、と言った方が正しいかもしれない。 「夜」やトヒテ、立場はどうあれ彼らと共に過ごす時間は楽しいから。 けれど里璃はここではたと気づいた。 「…………本題?」 そういえば厩舎を最初に訪れた時、馬車がどうのと言っていたような…… 夜の外出ばかりに気を取られていた里璃は、向かい合う主人の白い仮面を見上げた。 「そう、本題だ。そろそろ馬車の用意も出来た事であろう。行くぞ、リリ」 「いや、サトリなんですけど」 さっさと来た道を進む「夜」に、名の訂正を行いながらもついていく。 突拍子のない「夜」の行動なれば、庭園の散策も気まぐれ程度と思っていたため、目的がある事に失礼ながらかなり驚いていた。 広い庭園も見渡す眼がないと距離が短く感じられるらしい。 歩いて来た時間よりも早く厩舎へ続く坂道まで辿り着いたなら、「夜」の言う通り二頭の馬と黒塗りの馬車がそこに在った。 「夜」の姿にビクッと身体を震わせた馬たちは、その後ろに里璃の姿を見つけて「キュッキュッキュッ」と安堵したかのように鳴き始める。 『あらまあ。里璃様、大人気ですのね。馬たちが憧憬の意を示しておりますわ』 「トヒテ」 時代錯誤も良いところの、異形の馬が引いても見劣りしない馬車の威容に気圧され、馬たちの傍にいたトヒテに気づかなかった里璃は、機械的ながらものんびりした声音の下へ駆け寄った。 迎える無表情は「夜」と里璃の両方に頭を下げる。 『準備は整っております』 「準備……って、出かける? でも、トヒテってこの屋敷から出られないんじゃ?」 『はい。ですが、馬のお世話や馬車の準備はワタクシの御仕事ですので』 「そっか……」 敷地外に出られない身へ、酷な事を言ってしまったと後悔する里璃だが、答えるトヒテはどこか誇らしげに言い切った。 それでも居辛い思いの里璃は、いつの間にか鳴き止んだ馬を一瞥してトヒテへ問う。 「ところで、さっき言ってた憧憬って? トヒテにはこの子たちの言葉が分かるの?」 『はい。言葉というより、思い、とでも申しましょうか。ワタクシも魔力を動力にする形代でございますれば、魔力を持つ者の意思は獣であろうとなかろうと、ある程度読み取れます』 動力が魔力であっても、形代であるトヒテに呼ぶ名の制約はない。 このため里璃では口に出来なかった“獣”をそのまま言葉に使ったトヒテは、音もなく静かに身を引くと頭を垂れて告げる。 『では御前、里璃様。御気をつけて行ってらっしゃいませ。御無事の御帰還、心より御祈り申し上げます』 「うむ」 「え? あ!……うん」 唐突なトヒテの挨拶に戸惑った里璃、馬車へ乗り込む「夜」の顔を見ては小さく声を上げた。 トヒテの挨拶、急いでいるように感じられたけど、原因は「夜」だったんだ。 恐らく、自分を蔑ろにして従者と形代とが、親しげに話しているのが気に喰わなかったのだろう。 不機嫌そうに歪んだ白い仮面が何よりの証拠である。 男の色香みたいなモノを変質者然の格好に纏わせながら、どこか子どもっぽい「夜」を知り、里璃の頬が不自然に歪む。 笑いを一歩手前で止めた従者は、主に続いて乗り込もうとし。 「……あ、れ? こ、こっちなのかな?」 御者のいない御者台を捉えたなら、そちらへと足を向ける。 ――が、しかし。 「……リリ。何処へ行くつもりだ。お前は我が傍らに居れ」 「は、はい」 絡みつく艶やかな低音に肌がざわりと粟立った。 思わず赤くなる顔をぺちぺち叩いて平常へと戻し、開けられたままの馬車に乗り込む。 と同時に引かれる手首。 「いっ!?」 倒れた先には「夜」の黒い胸があり、バタンッという音に振り返ったなら、扉向こうのトヒテが会釈し後ろへ下がっていく。 慌てて身を起こすべく動こうとするが、青白い手が彼女の頭を強引に黒い腿へと押し付けてしまった。 完全な膝枕状態に固まったなら、猫を撫でる仕草で里璃の頭を撫でた「夜」が、逆の手で宙を軽く払った。 程なく動き出す馬車。 低い視界で見る覗き窓に御者の姿は依然として見当たらず、里璃の眉が怪訝に寄れば、下にしていた頬を「夜」の手が掬い上げた。 強要された仰向けにもめげず眉を寄せ続けたなら、窓枠に肘を置いた「夜」は里璃の頬を撫でながら言う。 「ヒトの世と違い、馬との意思の疎通はそう難しい事ではない。ゆえにあやつらは馬車を引く馬であると同時に御者でもある」 問わなかった事への答えが与えられ、里璃の中で素朴な疑問が首をもたげた。 「え……っと。それならどうして御者台が?」 「……………………………………………………気分転換、という言葉を知っているか?」 それだけが全てではないように思えたが、たぶん、聞いてはいけない事だったのだろうと里璃は口を噤む。 かといって、現在進行中の膝枕態勢には言いたい事があり。 「あの「夜」? この態勢って」 「気にするな。ただの手慰みだ」 「…………」 かなり無理のある命令に、「夜」の妖しい手付きを感じながらも、里璃は極力気にしないよう目を閉じた。 滑らかな頬に少しだけ朱を混じらせながら―― |
2010/2/11 かなぶん
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