常夜ノ刻 9
里璃は乗り物酔いをするたちではなかったが、馬車にはかなり揺れるというイメージがあった。 しかし、二頭の異形の馬が轢くこの馬車において、揺れの度合いは想像以上に少ない。 ともすれば、眠りを誘う揺り籠のように身体を柔らかく包み込んでくれる。 加えて彼女は今現在、主人である「夜」から膝枕を与えられながら、慈しむ手で頬を撫でられているのだ。 上質な深紅の椅子や窓に滲むランプの明かりがなくとも、寝入るには充分の材料が揃っていた。 心身共に満たされる安息の暗がりを得、今までこれを怖れていた里璃は、閉じていた瞳を開く事なくうとうとし始め――。
「…………う?」 唐突に覚醒へと流れた頭は一瞬、自分がどこにいるのかを忘れさせた。 このため、ゆっくり目を開いた里璃は黒い天井に眉を顰め、端に映る白い仮面を認めたなら、訝しんでいた表情を改めて飛び起きた。 否、起きようとした。 けれどもその前に撫でるのを止めていた「夜」の腕が、里璃の肩をその場に押し留める。 「到着までもう少し掛かる。まだ眠っておれ」 「いえ、そういうわけには。従者がいつまでも主人の膝の上なんて」 「構わん」 いや、私が構うんですけれども…… 散々享受した後で難だが、今更ながらに居心地の悪さを感じた里璃は、きっぱり跳ね除ける「夜」に心の中で小さく反抗した。 もしもこれを表に出したとしても、「夜」は「気にするな」とにべもなく振り払うだろう。 だからとこのままでいる気はないので、窓の外を見ては思い立った言葉を告げた。 「ですが、私、町は初めてで。見たいんです。――「夜」が治めている区域を」 「む。……そうか」 短い返事の後、渋々といった様子で腕が離される。 ゆっくり身体を起こした里璃は「夜」に礼を述べると、右の座席に腰掛ける彼とは逆の窓へ、へばりつくようにして顔を寄せた。 温まっていた部分が座席一つ半の空間を真ん中に作った身体を非難するように、急に冷えていくが気にするほどではなかった。 それよりも里璃の心を捉えるモノがあったがために。 「うわ……すごい。映画のセットみたいだ」 主の自由を奪う行為に後ろめたさを感じ、その場しのぎで作った理由に、里璃は感嘆の声を上げた。 心地良い眠りに入る前、窓を流れていたのはランプの光が淡く照らしていた、木の陰を映す森だった。 それが今や、石畳の道や煉瓦造りの家など、西洋もしくはファンタジー世界に迷い込んだと錯覚してしまいそうな景観を眼前に広げている。 「……でも、人通りはあんまりないな」 家々から零れる暖色の光や動く影がちらほら見えるため、無人ではないと分かるが、出歩いている者はほとんどいない。 時折姿を見つけても、歩行者は外套で身体をすっぽり覆っており、馬車にしてもすれ違う前の道で折れて行ってしまう。 黒茶の瞳が輝いたのは最初だけ。 あとは寂しい街並みに自然と口が閉じてゆく。 「つまらんか」 「え!?」 ぼんやり眺めるだけとなった頭が、掛けられた言葉に驚き振り向いた。 自分の態度が「夜」に不快を招いてしまった、と後悔したのも束の間、里璃と同じように反対側の窓を眺めていた主は、頬杖を付きつつ彼女以上につまらない表情をしていた。 白い仮面と嵌め込まれた黒い瞳に変化はないものの。 滲む気配に陰鬱を混ぜた「夜」は気だるげに溜息をつき、ちらりと里璃の姿を黒い双眸の端に映す。 「答えずともよい。私自身がそう思っておるのだから」 「……はあ」 フォローも断言もいらないと言う「夜」に対し、何の言葉も用意していなかった里璃は惚けた声で頷いた。 「夜」は視線を再び窓の外へ向けると、肌を粟立たせるような深みのある低音で愚痴り始める。 「他の区域ならば、夜はもう少し華やぐ時間帯であるはずなのだがな。我が区域の者たち、特に市井は必要以上の灯りを求めぬ。慎ましやかに暮らす事を悪しく言うつもりはないが、老いも若きも大人しくてつまらん。もっとこう、例えば「夕」や「宵」(よい)のように毒々しく着飾れば面白味もあるというに」 女は無条件で褒めちぎる「夜」から毒々しいと評された、話にはよく出てくる「夕」。 もしかするとそれすら褒め言葉なのかもしれないが、なればこそ先走る想像の色彩を頭を振って除いた里璃は、自分の意識を逸らすように初めて聞く人物の名を問うた。 「……「宵」?」 「ああ。「夕」の姉だ。無論、私と閨を共にした事もある」 ……どの辺りを指して“無論”なんだろう。 ささやかな疑問が生じたものの、突いては藪蛇だと沈黙を保つ。 と、ここで「夜」がさも良い事を思いついた素振りで、頬杖をついたまま里璃を見やった。 「そうだな。一度お前にも会わせてやろう。あれらと居ると退屈だけはせんぞ」 結構です、ご遠慮申し上げます、って言えたらな…… 「あ、ありがとうございます」 本心はひた隠し、引き攣った愛想笑いで小さく頭を下げた。 そんな従者の様子に満足したのか、窓へと視線を戻した主は先程より幾分明るい雰囲気を纏っていた。 これを横目に留めつつ、窓に頬を寄せた里璃は「夜」に聞こえないくらいの音量で溜息をつく。 退屈“だけ”はしないって……裏を返せば気の休まる相手ではないって事じゃない? いつの日か来る顔合わせの時を思えば、今から胃の痛みを感じてしまう。 でなくとも、トヒテを形代と嘲る相手。 どんよりした暗雲を胸に抱え、里璃は今一度吐息を零して、窓を一時白く染め上げた。
こちら側には「夜」が治める区域以外にも、数多の区域が存在する。 しかしその在り様は領地や国といった規模ではなく、丸まる星一つ分に相当するという。 かといって、区域の大きさはそれぞれ治める者の魔力に比例しており、中でも「夜」の区域はケタ違いに大きいそうな。 ちなみにこの区域、統治者の好む空間で構成されているくせに、サイズ変更は頑として受け付けないらしい。 その昔、管理が面倒だからと縮小を計った者がいたのだが、いざ削るという時になって区域共々消失してしまった。 詳しいところは分かっていないが、どうやら区域の広がりは統治者の魔力を保管するための器らしく、無闇に縮小するとその分統治者に圧が掛けられるようだ。 「夜」の区域の景観を大きく分けると、「夜」の屋敷から少し距離を置きつつも比較的近しい町と、雄大な大自然、その中に点在する「夜」の眷属の屋敷の三つ。 内、里璃が今いる町は区域唯一の町であり、魔力の弱い、けれどもその分技術面において秀でている者たちが暮らしている場所だという。 ヒトの世で表すならば「夜」が先程述べた通り、町の住民は市井――こちら側での庶民に当たる。 そんな彼らが「夜」の眷属よりも「夜」の屋敷に近い位置にいる理由は、魔力が絶対のこちら側において、存在できる場所が其処しかなかったためだ。 区域の統治者の中には弱者を虐げて喜ぶ者もいるが、生憎と「夜」にそんな趣味はない。 ゆえに町の住民は「夜」の庇護を求めて、一箇所に身を寄せ合って生活しており。
だからと全面的に「夜」の訪問を歓迎しているかといえば――そうでもない。
里璃たちを乗せた馬車が止まったのは、町外れにぽつんと佇む古びた家。 先に降りた里璃は「夜」の降車を待つ間、家の外観を一通り眺めていた。 煉瓦造りより石造りと表した方が正しい家の入り口に扉はなく、暖簾に似た布が室内の様子を隠すのみ。 少し高い位置に在る窓にもガラスや格子は張られていないが、こちらは換気を求めているだけのようで、里璃の頭も入らないほどの小さな造りとなっている。 更に視線を上へ向ければ二階建ての屋根の煙突から、煙が上がっているのが見えた。 しかし漂う匂いに食物の香りは在らず、適度に保たれた気温に暖炉の火は無用。 ならばこの煙、何のために上がっているのかといえば、入り口の上部に掲げられた看板が全てを物語っていた。 「武器屋「工繕」(こうぜん)…………武器屋? 武器屋ってあの、RPGとかそういうのに出てくる?」 誰に問うでもなく一人ごつ里璃。 こちら側の知識を叩き込んでも、書けはしないが読める不思議な文字。 看板に書かれている、日常生活では聞き慣れない職種にしばし茫然としてしまう。 そもそも魔法という得体の知れない力が物を言うこちら側において、物理的にしか作用しなさそうな武器がどんな意味を持つのだろう? トヒテや書物によって、ある程度こちら側の常識を叩き込まれた里璃だが、それはあくまで従者として日常生活を過ごすために必要とされるモノ。 元より、教鞭を取った相手が非戦闘員であるならば、武器に関する知識なぞ最初からあるはずもなし。 従って、里璃は答えを求めるように主を振り返り。 「夜」はそんな従者の様子を気に留める素振りも見せず、彼女を通り越しては入り口へと進んでいく。 来客を知ってか、はたまた区域の統治者である「夜」が通るためか、独りでに除ける暖簾の動きを見た里璃は、はっと我に返ると黒い背中を追うようにして暖簾をくぐった。 ――と。 「げげっ!? もう来やがったんですか!?」 真っ暗な室内で「夜」越しに響く野太い声。 その姿は長身の「夜」の陰で分からないが、若干掠れ気味の声の持ち主は間違いなく男だ。 口振りからして、里璃が連れて来られた理由は男にありそうだが、女との色を好む反面、対象とならない男を蔑ろにする「夜」にしては珍しい事。 自然、里璃の足が止まったなら、背後の暖簾が再び入り口を覆い、乗じて室内の至る所に設けられた窪みの中のランプが明かりを灯し始めた。 否、これらのランプは最初から同じ光を放っているという。 家の中に入って来るのが客であれ強盗であれ、自分と同じ容姿とは限らないこちら側では、まず相手の正体を知る事が先決となる。 理由は様々なれど、正真正銘の客が家人の天敵で即座に逃げなければ命の保障はない、というのが多いらしい。 ――とはいえ、そこまで運が悪いのも珍しい話なので、万が一の保険感覚なのだろう。 このため、特に不特定多数の客が出入りする店には必ず、出入り口に目くらましの魔法が備え付けられており、客として認められぬ限り、煌々と照るランプの光を知覚する事は出来ないそうな。 そんなランプに照らされた室内は、ここまで照らす必要があるのかと思うほど狭い。 天井にしても、「夜」が背伸びをすれば簡単に頭がついてしまうほど低く、武器屋という看板を掲げているくせに、外観同様石造りの内装には、それらしき影はどこにも見当たらなかった。 果たして「夜」はここに、どんな用事があって里璃を連れて来たのか。 全く検討もつかない事柄に眉根を寄せれば、里理からは見えない人物に向かって「夜」が気だるそうに言った。 「注文の品は?」 「……はあ。勿論、出来ていますがね。あんなもん、領主様が持ったところで」 「出せ」 「…………へい」 男の話に傾ける耳はないとでも言うように、端的に自分の用件を告げる「夜」。 対し、不満たらたらの声を上げた男は、返事の割に素早い動きで奥へと引っ込んでいく。 と思えば似たような音を立てて「夜」の眼前に戻ったようで。 「領主様御所望のブツはこちらに――」 「私がつける訳なかろう。つけるのはアレだ」 急がせた労を気遣うでもなく半身を逸らした「夜」は、顎でしゃくって里璃を指した。 「夜」からのぞんざいな扱いに驚きはしなかったものの、別の衝撃によって里璃の目が真ん丸く見開かれた。 「お?……ヒト? しかも……男? 領主様の連れだっていうのに?」 「…………」 間違った性別を間違ったまま口にした男は、「夜」から視線を外すと里璃の下へとやってきた。 そうして身体一つ開けた距離で立ち止まっては、目一杯胸を逸らして里璃を見上げる。 ど、ドワーフだ…… 男の視線を受け、里璃が真っ先に思い浮べたのは、ファンタジー物によく出てくるずんぐりむっくりとした体型の幻想生物だった。 ボサボサした髪と区別がつかないほど蓄えられた臙脂の髭に潰れた丸い鼻、どんぐりに似た空色の瞳。 使い古され色褪せた服に丈夫そうな厚い皮の手袋、爪先がくるりと曲がっている靴。 背丈は里璃の半分ほどだが、滲み出る雰囲気は里璃の倍以上生きているような貫禄があった。 「よお、別嬪さん。お前さんがこの指輪の正式な持ち主かい?」 「べ、別嬪……というか指輪って?」 初対面の感想を呼称に使われ戸惑う里璃は、腹の前に突き出された手の平の上を見ては「夜」へと視線を移す。 すると「夜」、こちらへ踵を返すなり、ドワーフの後ろから苦もなく指輪をひょいっと取り上げた。 背の低い彼に対する、明らかな嫌がらせだろう。 現に「夜」の影に覆われたドワーフは、不機嫌極まりない表情を浮かべている。 しかも「夜」は自分と里璃の間には誰もいない前提の下、間にしっかりいるドワーフの睨みつける視線の上で、彼女に手を差し伸べた。 「手を出せ」 「えっと……」 主の命に恐る恐る手を持ち上げた里璃だが、伸べるには至らず「夜」の手とドワーフを目だけで行ったりきたり。 この様子に面食らう顔つきとなったドワーフは、やれやれと首を振り、里璃の迷いを解消するように肩を竦めては苦笑した。 頭上のやり取りを許す仕草にほっと息をついた里璃は、それでもやはりおずおずと「夜」の手に己の手を重ねた。 けれども命じた「夜」は不満そうに、白い仮面の眉の辺りを隆起させる。 「指輪と言えばヒトの世では、右ではなく左ではないのか?」 「えっ!? いや、それは……いえそれよりも、もしかして「夜」がつけるんですか?」 「私以外の誰がお前に指輪を嵌めさせるというのだ?」 「……あれ? この前は確か、結婚は自由とか何とか」 重ねた手を「夜」の指示通り左に変えた里璃、思い起こすのは従者になった翌日、「夜」から言われた言葉である。 結婚したり子を為したりなど、性別を騙っている里理に出来ようはずもないが、確かに彼はそんな話をしていた。 ということはつまり左手薬指は昨今すっかり定着した、結婚指輪を嵌める場所として空けておくのだろう。 主から賜る指輪、将来結婚する運びになっても、そう易々と外すわけにはいかないのだから。 では、一体どの指に嵌めるのか。 ストレートに訊ねてみた。 「ち、ちなみにどの指に?」 「無論、薬指だ」 「…………」 即答されれば、返せるのは沈黙のみ。 それでも硬直した頬がひくっと引き攣ったなら、薬指の先に指輪を宛がった「夜」が首を傾げた。 「何だ? 不服か?」 「……いえ、不服っていうか、その、「夜」は結婚指輪ってご存知ですか?」 「ああ。ヒトの世の風習の一つであろう? 左手の薬指に互いの所有を主張するため、似た造りの指輪をするという」 「所有って……」 露骨な言い草に里璃の身体が仰け反りかけ、意に介さない「夜」は黒い瞳を手元に落とした。 「お前が何を考えているのかは知らんが案ずる事はない。所有されるのはお前だけだ。それに今では虫除けだけではなく、装飾のために身につけるとも聞くぞ?」 「……その説明のどこに安心を見出せと?」 装飾だけならまだしも、所有や虫除けの意味まで込められていそうな説明に、ボソッと思わず本音が口をつく。 幸いな事に、これへ耳を貸さなかった「夜」は、半眼の里璃を認める事なく指輪を嵌めさせた。 同時に解放された手を胸に寄せた里璃。 銀の抱き合わせ腕に光るルビー、それも話で聞くピジョン・ブラッドを髣髴とさせる深い真紅。 左手の薬指を彩るその指輪へ、最初に思った事といえば。 ……しないけど、換金したら幾らぐらいになるのかな? いや、しないけどさ。 里璃の趣味とは若干違う柔らかなデザイン。 ついつい下世話な方向に心を奪われたなら、何を勘違いしたのか「夜」が満足そうに頷いた。 「気に入ったようだな。中石はラトナラジュを模した我が魔力の結晶だ。合成石とでもいうのか。まあ、ヒトの世で換金しても天然石と区別はつかんだろうが」 「うっ」 「? どうした、リリよ」 「さ、サトリです……」 まるで心の中を読まれたタイミングで出てきた換金話に、訂正する名前がそっぽを向いた。 これにひとしきり首を傾げた、他意なく告げただけの「夜」は、「そうか?」と不思議そうに問うた後で、気を取り直すように小さく頷いた。 「まあ良い。兎に角、この指輪は今日からお前のモノ。だからとただ身を飾るだけのモノではないぞ? これはな――」 「りょ、領主様!?」 ドワーフを無視した状態で、「夜」が指輪の詳細を語ろうとしたなら、その背後で何かの落ちる音と共に声が上がった。 か細い悲鳴のようにも聞こえた可憐な声音は、確かに女のモノであり。 「「繕」(せん)か……」 ぴたりと語りを止めた「夜」は、背後の女と思しき名を口にすると、それまでの自分を忘れた風体で身を翻し。 「あ、あの、領主様、ほ、本日はお日柄も――――んんっ」 狭い室内と高い背の主に阻まれて、女がどんな容姿をしているのかは分からない里璃だったが、倒れ込むようにして少しだけ屈められた「夜」の背と、続く貪る音で状況を把握。 「ぐっ……領主様め、またしてもっ! せめて、せめて父親のいないところでやってくれっっ」 頭上の影が取り払われても悔しそうに顔を逸らすドワーフの言を聞き、とりあえず女の正体が彼の娘だと知った里璃は。 「……またこのパターンか」 「夜」に命じられ友人の間宮恵を引き合わせた時の事を思い出し、深々と溜息を吐き出した。 |
2010/3/14 かなぶん
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