妖精の章 十三
ひとり言にしては朗々と語られる言葉の羅列。
泉が属する種を卑下する内容に思い起こされるのは、奇人街と地下の洞穴の境で会った、腕だけの存在。
あの時、行動を共にしていた人狼は、腕とその大本である彼は別物だと言っていたが。
「……ラオ、さん」
聞き続けることも出来ず、物置の空間から奇人街へと降りた泉は、少しばかり離れたところから彼の名を呼んだ。
するとぴたり、語りが止み。
「おおっ! その声は………………泉ちゃん、じゃな?」
「はい、そうです」
一転、柔和な声を掛けられ、泉の肩がほっと息をつく。
自然に生えた草木が見当たらない奇人街。
その中で、唯一、地に根を張りそびえ立つ老木、ラオ・ヤンシー。
意思を持つこの木は、無数の根を操れる割に身体の向きを変えることが出来ないらしく、丁度、背中を向けた状態で、その巨体の影を泉に落としていた。
完全には払拭されない恐怖から、恐々歩み寄る泉。
ここに来るのは三回目だが、前の二回は碌に辺りを見渡せる状況ではなかった。
このため、迷路作りの奇人街にあって、だだっ広い場所の中央に生える木が、立ち並ぶ周囲の家々からそっぽを向かれていると初めて知った。
存在を認めようとしない様に、眺める泉の歩みが段々と遅くなっていく。
と、そんな彼女の横を黒い姿が、ふらふらしつつ乱暴な足取りで過ぎていった。
腕は離したものの、ずっと隣に居た影響か、泉は慌ててワーズの後を追い。
「わ、ワーズさん」
挨拶もなしに、もしくは挨拶代わりとでもいうように、ラオの背に黒い靴が埋められた。
酷薄な笑みを浮かべ、苛々した態度を隠さず、連続して脆い幹を足蹴にするワーズ。
到底止められる雰囲気ではない。
おろおろする泉は、とりあえず、お礼を言ってクッキーを渡すことを優先し。
「…………あれ?」
見つめた先に、クッキーを入れた手提げ鞄がないのに気づいた。
思わず周囲をくるりと見渡し。
薄桃の裾が静止の後を追い、元に戻ろうと動けば、頭にがんっという空想の衝撃音が響いた。
「まさか……落ちた拍子に?」
来た路を辿るように思い返せば、ワーズが腕を振るより前、物置に入ってからなかったとの結論に至る。
落ちる落ちないで、ぎゃーぎゃー騒いでいたため、確かにあった重みをすっかり忘れていたらしい。
「そ、そんな……」
自分の間抜けさに、遅ればせながら気付き、脱力仕掛ける泉。
けれど、それならそれで、足蹴にし続けるワーズを止めねばなるまい。
嫌がる彼を連れてきて、挨拶するはずの相手には暴力の土産を押し付けて。
普段ならば、項垂れるだけのところを、寝不足の情緒不安定さが涙を呼んだ。
暇はないと目を擦りつつ、ワーズの下へ駆け寄り。
「どわっ!?」
眼前、いきなり何かが声を上げて落ちてきた。
一拍後れで、はらり、泉の前髪が数本、宙を舞う。
瞬き数度、突然の物音を追う視界には、ぴたりと動きを止めたワーズの姿。
下方、正体を知ったなら、泉の喉が「ひっ」と鳴った。
そこにいたのは、薄青の着流しを纏う灰色の体躯、凶悪な面構えの金の双眸を持つ人狼。
地を睨みつけて鼻面に皺を寄せ、鋭く剥かれた歯の内から、呻き声を上げている。
物々しい容姿とは裏腹に、若いその声は、射抜く視線を泉に送るなり、はっとした様子で彼女の名を呼んだ。
「あ、泉さ――ぎゃっ」
短い悲鳴は黒い靴に、容赦なく顔面を踏まれたせい。
呆気に取られた泉は、顔を上げる前に白い布を被せられ、小さなパニックに陥った。
「わ、ワーズさん、何を?」
相手は知れていても、塞がれた視界に意味なくバタバタ手足が動き。
「泉嬢………………………………………………………………………………胸」
「胸?――――ぅきゃあっ!?」
指摘されて落とした薄暗い世界に、無残に裂かれた胸元を見て取り、泉は両腕で胸を隠しては、しゃがみ込んで小さくなった。
* * *
依然、ラオの背後でしゃがんだままの泉は、白布から顔だけ出した状態で、黙々と針仕事を進めるワーズへ問う。
「ワーズさん……見ました、よね?」
別段、答えが欲しかったわけではないが、確かめずにはいられなかった。
縫ってあげるとワーズに促され、渡した上着。
その下の、同じように裂かれたシャツから伝わる地肌の感触。
幸い、下着は表面がほつれた程度で済んだが、見られて嬉しいと思うたちではない。
じーっと見つめたなら、手を止めたワーズは綺麗にへらりと笑った。
「不可抗力だよ」
「っ!? ひ、否定なしですか?」
ぼっと顔を染めた泉は、今頃になって、否定かぼかすかして欲しかった自分に気付いた。
そんな二人へ、老木から茶々が入る。
「ほっほっほっ、若いってのはいいのぉ」
「黙れ耄碌ジジイ」
打って変わり、剣呑な表情を余すことなく浮かべたワーズ、射殺す混沌を投げつけた後で、泉に対しては苦笑をし。
「仕方ないよ。胸って部分的に指摘しちゃったし。前の時みたいに、着替えてきたらって言ってないでしょ? それなのに、何を、なんてぼかすの、わざとらしいじゃない?」
「確かに、そうかもしれませんけど…………え?」
何かに思い当たり、落ちかけた泉の視線がワーズを見た。
引き攣る脳裏に過ぎったのは、服のまま奇人街の海に潜ったというワーズに近寄り、濡れて透けてしまった寝間着。
下は兎も角、上は外して寝る泉、ワーズからの指摘を受け着替えてのち、今と同じく問うたのだが、その際はたっぷり沈黙を置いてから「何を」と告げられており。
あの時は諦めてしまった羞恥が、おぼろげな返答を受けて、泉の顔を更に朱に染めた。
これを知ってか、休めていた手を再び動かしたワーズは言った。
「良かったね、泉嬢。胸まで痩せなくて。あの時のまんま、綺麗な形と手頃な大きさだったよ」
「きっ、かっ、てっ、おっ!?」
惜しげもなく下される評価に、泉は満足な単語も紡げない。
益々身を縮ませた泉は、別の話題を持ってそうな相手に視線を移し、急に熱が冷めていくのを感じた。
「ランさん…………大丈夫、ですか?」
泉が声を掛けた服裂きの犯人は、少し離れた先でこちらを背にしてガタガタ震えていた。
ワーズに踏みつけられたダメージは浅いものの、落ちた拍子に泉の服を裂いてしまったことが恐ろしいらしい。
――ちなみに何故、上からランが落ちてきたのかといえば。
例によって人狼女の熱烈なお誘いから逃げるべく、ラオの枝葉に身を潜めていたところ、ワーズがラオを足蹴にした衝撃で、バランスを崩してしまったからだそうで。
ランにとってのラオという存在は隠れ場所でしかないらしく、落ちる際に枝を折り葉を散しても、彼への謝罪はなかった。
反して、泉には復活してから平伏、服の惨状を知っては、恐ろしい顔を更に恐ろしく歪めて、歯の根も噛み合わない程震える始末。
涙を誘う経緯とあまりの怯えように、怒りよりも心配が先立つ泉へ、涙を浮かべたランは、ちらりとこちらを見、頭を抱えて首を振った。
「み、見てない! 見ていませんから、俺は! そ、そんな恐ろしいことっ! ど、どどどどどどどどうしよう!? ま、猫に殺され……いや、もしもあの人にバレたら!」
「いっそ、殺された方がマシかもねぇ」
「う、うわあああああああっ!!」
のんびりとしたワーズの言葉に、半狂乱となるラン。
ワーズに見られたことへ赤面した事実はこの際捨て、泉は落ち着かせるように笑んで言う。
「だ、大丈夫ですよ。服が裂けたくらいですから。そんなことくらいで猫がランさんをどうこうって、あり得ませんて。難でしたら、猫に言って――」
「はい、泉嬢。出来たよ」
「……あ、ありがとうございます」
ランとの会話そっちのけで渡された上着を受け取った泉は、白い布の下で器用に着付け、布をワーズへ返す。
応急処置の縫い目を確認し、再度、何かしらランへの慰めはないかしらと頭を巡らせる。
と、ワーズが手を差し出した。
碌に見もせず受け取ると、若干の重量に身体が揺れた。
持ち上げてこれを確認した泉は、目を真ん丸くしてワーズを見やった。
「あれ?……この鞄、ワーズさんが持っていて下さったんですか?」
言いつつ、妙な違和感を覚える。
物置を歩いていた時、ワーズの左腕には泉の手がしっかり付いていた。
右手には、いつも通り銃を携えていて、手提げ鞄をぶら下げていた記憶はない。
見落としていたのだろうか。
首を傾げて眉を寄せ、自分の発言に悩めば、手提げ鞄を差し出した当人も似た格好を取る。
「泉嬢、覚えてない? 物置とゴミ箱直行のポケット」
「あ、はい。憶えてますけど……」
どういう原理なのか、ワーズの黒いコートのポケットは、左右それぞれ、別の場所に通じている。
実際、ポケットに収まりきらないコートを、取り出す場面に居合わせたのだから、疑う余地もなし。
ワーズ曰く、ポケット口の幅より大きいモノは出し入れ出来ないのが欠点らしいが、手渡された袋は、クッキーが入っている分その幅を上回っていた。
何より、彼が現在着ている黒い衣には、ポケットとなりそうな箇所が見当たらなかった。
じろじろ、無遠慮に自分を凝視する泉をどう思ったのか、ワーズは銃で頭を叩きつつ、懐へと手を入れた。
「この服のココに、それがあるんだよ。ただし、物置しか利用できないんだ。勿論、手を入れちゃ危険だからね、泉嬢」
「ぅえっ!? なっ、誰もそんなところに手を入れたりしませんよ!」
慌てて視線を逸らし、だから手提げ鞄も出せたのかと、思考を別方向に持っていく。
けれど、一度上がった熱はそう簡単に冷めてくれないらしく、戸惑えば重みのある鞄が揺れた。
本来の目的を思い出した泉は、これ幸いとクッキーを一つ手に取り、ラオ――ではなく、視界に入ったランの下へ。
「あ、あのラ」
「――泉嬢」
静かに名を呼ばれ、ぎくりと泉の足が止まった。
羞恥から逃げに走ったことがバレたのかと振り向けば、凄みのある笑顔を浮かべ、ワーズが親指でくいっと老木を指す仕草。
その際、親指が首の辺りを滑らかに過ぎったことは、決して泉の気のせいではないだろう。
一刻も早くラオの下から去りたいようだ。
気圧された泉は、ランとラオを交互に見比べる無駄な動き。
のち、ワーズの指示通り、ラオの正面へと回り込んだ。
* * *
「よっ、泉ちゃん」
老木に埋め込まれた老爺の姿が見えれば、すかさず枝の手が上げられた。
つられて手を上げかけた泉だったが、気安い態度を改め、会釈を一つ。
「どうも、こんばんは…………あ?」
顔を上げ、間近でラオを視認した泉の目が丸くなった。
これに気づいた様子のないラオは、皺のようなこぶで潰れた目を和ませ顎を擦る。
「今夜はどうしたんじゃ? ワーズも一緒じゃし、追われているわけでもあるまい」
しみじみ語るラオの後ろから、「けっ」と毒づくワーズの声。
けれど泉は惚けた表情のまま、手提げ鞄からクッキーの入った袋を取り出し、ラオへと差し出した。
「あの、コレ、クッキーなんですけど……遅ればせながらご挨拶に」
「ほうほう。いや、これは有り難い話じゃな。では、遠慮なく」
ひょいと抓まれる袋。
合わせ、軽くなった手の平の形が指差しに変わった。
「……ええと、ラオさん?」
「ほ? なんじゃ、泉ちゃん」
「その…………どうしたんですか、お腹……の辺り」
ラオの全身が木に埋もれているため、表現しづらいことこの上ないが、顔や手の位置で、大体検討をつけて指した部位を問う。
すると泉の問い掛けに、しばし首を傾げたラオは、おもむろに下を向き。
「ああ。前に言ったじゃろ? 猫が爪を研ぎに来ると」
「はい、毎日って。でも……毎日?」
まじまじと見つめる泉の視界に映るのは、ごっそり抉り取られた木の内部。
驚異の再生力を持つとラオ自身が前に言っていた通り、ゆっくり元通りの形になってきているが。
どう前向きに捉えても、爪研ぎの範疇には納まらない。
呆気に取られるばかりの泉に対し、ラオはあくまで朗らかに笑う。
「ほっほっほっ。やんちゃじゃろう?」
「やんちゃ……」
「研がれると、こう、切ない気分にはなるが、日参は嬉しいもんでのう。われは楽しみにしとるんじゃよ」
「……そうですか」
研ぐ……削ぎ落とされるの間違いでは?
口には出来ない言葉を呑み込んだ泉は、頬を引き攣らせて愛想笑った。
到底、ついていけない感覚である。
否、ラオにしか朗らかに語れないだろう。
他の者であれば、語る前に確実に死んでいる。
ところどころショックを隠しきれない泉は、次に掛けるべき言葉も見当たらず、かといってこの場面で立ち去るタイミングも分からず。
「泉嬢、もう行くよ」
「あ、はい!」
半ば苛立ったワーズの声に反応しては、ラオに断りを入れ、そそくさと立ち去ろうとし。
「……ラオさん、さっきのお話って、前に言っていた奇人街を作ったのは人間っていう?」
「おう? ああ、そうじゃよ。正確には、色んなところの人間じゃ。なればこそ、奇人街のごった煮感も分かるってもんじゃろ?」
「ごった煮……言い得て妙だわ」
ラオの言葉を受け、納得する泉。
感心し、頷いたなら、急に腕をぐっと引っ張られた。
「泉嬢。早く行こう。回るところは、まだまだたくさんあるんだから」
「ぅあ、は、はい」
見上げた先に、不機嫌極まりない表情のワーズを捉え、泉の身が竦んだ。
そこへ、間髪入れず。
「おう。ワーズ、女人は丁重に扱わんと」
「うるさい。耄碌ジジイは黙ってろ」
歯を軋ませ、ラオを睨みつけたワーズは、有無を言わさずそのまま泉を引き摺っていく。
体勢を立て直しつつ後に続く泉は、シウォンの言う通り、あの腕と彼は別の存在なのだと、ラオの言葉に安堵した。
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