妖精の章 十四

  

 無事、ラオにクッキーを渡し、ワーズに引き摺られるまま場所を移動した泉は、トボトボついてきたランを知り、今度は彼にクッキーを渡そうと思い至る。
 ――が、その前に。
「わ、ワーズさん、そろそろ腕、痛いんですけど」
「……ああ、御免」
 今初めて知ったという顔つきのワーズは、泉の腕を離し、未だ残る不機嫌を奇妙に歪めて笑った。
「痛かった?」
「いえ、大丈夫です」
 泉の言葉に嘘はないが、遅れてやってきた痺れを受け、腕を揉み解すように擦る。
 最後に手首を回し。
「そうだ、ランさん」
「はい?」
 向き直った泉の視界に飛び込む、凶悪な面構え。
 睨まれているわけではないと知っていても、どうしても恐ろしさが先立ってしまう。
 移動した場所が奇人街の夜特有の明るさから遠ざかる、薄暗い街灯の下だったせいもあるだろう。
 程よくついた陰影の相乗効果で、ランはいつも以上に生命の危険を感じる相貌になっていた。
 怯む喉の震えを感じつつ、泉はなんとか笑みを引っ張り出す。
 半歩ほど、退いてしまった足はなかったこととして。
「実は」
「そうだ、ラン。丁度良いや」
 ところが、またも被せてワーズが口を開く。
 先程は彼が毛嫌いするラオのところだったから、早く終わらせたいのだと分かったけれど。
 そういえば、どうしてワーズはあそこまでラオを嫌うのだろう?
 思い、もう一人浮かぶ、ラオの名に怒り狂った人物。
 赤い髪の中年男で、見た目は人間そのものだが、怒りに身を任せた時の感覚は別の種族を匂わせており。
 ……? 似た姿って、さっき、ラオさんのお話に出てきた――

「るぅわんちゅあーんっ! お久しぶりねぇん!」

「どわっ!!?」
 思考に浸る泉を邪魔するように、ランの長身へ背後から突撃する影。
 腰を狙ったと思しき襲撃を受け、大きく仰け反った身体は、相手を認めるなり思いっきり突き飛ばして離れた。
 対し、受身も取らず地面に転がった襲撃者は、よよよよよ……としなを作り、架空のハンカチを噛んで引き延ばす。
「ああん。どうして君はつれないんだい、マイハニー」
「だ、だだだだだ誰がぁ!? キフ・ナーレン、気色悪いこと言うな!」
 泉が頭に思い描いたせいでもあるまいが、襲撃者の正体は赤い髪の中年男・キフ。
 ランから蔑ろにされた彼は、めげる素振りも見せず、横座りのまま両手を広げ、「カモーン」と分厚い唇を泉に向かって突き出した。
 否、正確には、襲撃のどさくさに紛れ、泉の背後にそそくさ隠れたランに向けて。
 両肩に置かれた黒く鋭い爪や、振り返れば間近にある強面は心臓に悪いものの、本気で嫌がる様を無下にも出来ない。
 どうしたものかと頬を掻けば、手提げ鞄が揺れ、クッキーの存在を思い出す。
 クッキーは思いついた相手全員分を焼いており、その中にはキフも含まれていた。
 芥屋に避難しに来るランとは違い、キフは神出鬼没、且つ、去り際も大概慌ただしい。
 盛り上がる二人の間で難だが、袋を一つ手に取った泉は、熱烈ラブコール中のキフへこれを差し出した。
「あの、キフさん。こんばんは。これ、お一つどうぞ」
「ん? おお、誰かと思えば我が娘」
「えっ!? そ、そうなの、泉さん!?」
「いえ、違いますって」
 クッキーを受け取りつつ、泉の存在に今気づいたと驚くキフと、彼の言葉を真に受けてショックを示すラン。
 それでも離れる素振りのない爪に頭痛を感じたなら、視界に黒い足が現れ、袋を開けようとするキフの手を蹴りつけた。
「ぃだっ!? な、何をするんだね……おや店主、君もいたのかい」
 両手を振って見上げるキフへ、飛ばしたクッキーを手にしたワーズは、へらりと笑ったまま「けっ」と短い返事をする。
 これへ片眉を上げたキフは、次いで首を傾げて問う。
「お嬢さんと一緒ということは、何か彼女に用事があってなんだろうね……けど、人間好きの君にしちゃ、随分苛立っている様子。珍しいね?」
「ああ。泉嬢が挨拶回りしたいっていうからね。さっき、ラオのところ行ってきたんだよ。このクッキー配ってさ」
「!」
 舌打ち混じりにクッキーをキフへ投げつけるワーズに、泉の顔が強張った。
 ラオの名は以前、キフの逆鱗に触れ、泉の呼吸を奪っている。
 仕組みは分からなくとも、一度自覚した息苦しさは、自然、喉へと泉の手を宛がい。
 ――けれど。
「……そう。よく行けたねぇ。流石、人間好きを自称するだけのことはある」
「はっ。お前みたいな変態に褒められても、全く嬉しくないね。寧ろ恥だ」
「うわっ。人が褒めてあげたっていうのに。ちょっとお嬢さん、聞いた? なんて酷い子だろうね、この店主」
「……はあ」
 同意を求められても、満足に答えられず、泉は惚けた返事をした。
 てっきり前と同じ状態に追いやられると思っていただけに、肩透かしを喰らった気分で首を傾げる。
 すると、キフの青い眼が苦笑でもって泉を見つめた。
 自分に向けられたと思ったらしいランの「うえっ」という声を聞きつつ、泉はキフの視線の意を呆れと捉えた。
 困った子だと言われた気がして。
 居心地の悪さを感じていれば、戻ってきた袋を開け、キフが「あらまぁ」と笑った。
 一転したニコニコ顔でクッキーを一つ頬張り、「美味しいよ」と褒められる。
 社交辞令だろうと、そう言って貰えたことに泉はほっとし。
「いつまで引っ付いているつもりだ。冗談は顔だけにしとけ」
 刺々しい言葉と共に肩が少しばかり後ろへ仰け反った。
 合わせ、何事かと視線を背後へ向けたなら、赤いマニキュアの白い手に顔面を押さえつけられたランの姿がある。
 苦しい体勢を維持するつもりもなく、姿勢を正した泉はそのまま振り返る。
 ワーズの背を挟んだ向こう側に、尻餅をつくランを認め、数度瞬き。
「泉嬢。そろそろ、次行かない? ランもいるし、シウォンのトコで良いでしょ?」
「!!? はあ!? ちょ、ちょっと待て、ワーズ! なんであの人のトコに、俺がついていく話になってんだよ? そりゃあ、二人について行けば、彼女らから誘われる面倒は避けられるけどさ」
 小さくなる本音の部分に、だからついて来たのかと納得する。
 一度、ランと共に奇人街を歩いた事があったが、絡み付いてくる視線は在っても、実際に絡んでくる女はいなかった。
 ランさん……苦労しているのね。
 完全な虫除け扱いに害した気分もなく、逆に同情の念が強まれば。
「第一、泉さんをあの人のところに、なんて、連れて行けるわけないだろうが!」
 勢い良い立ち上がったランが、ワーズの襟を掴み、剥いた歯のまま怒鳴りつけた。
 頭に齧りつきそうな歯の陣列に怯む泉とは違い、黒い爪を躊躇いなく振り払ったワーズは、自身の頭を銃で傾がせた。
 表された意は、お前の意見なんか聞いてない、だろうか。
 飄々とした雰囲気に一瞬、ランが言葉を失った。
 再度、皺を寄せた凶悪な鼻面が口を開こうとすれば、まともに見た泉の喉が短い悲鳴を上げかけ。
「おっ――ひゃあっ!?」
 恫喝の低さに変わり、裏声の甲高い音がランの身体を大きく横に跳ばした。
 急な動きに対処しきれなかった足がステップを踏む。
 合わせ、身体の向きを変えたランは、尻を押さえつつそちらを睨みつけた。
「キフ・ナーレン! 何しやがんだ、あんた!?」
「勿論、愛しい君とのスキンシップをだね」
「……いつの間に?」
 思わず、先程まで中年がいた背後を振り返った泉は、その姿がないのを認めて、視線を前に戻す。
 埃を払う要領で尻を擦るへっぴり腰の眼前、豪奢な指輪を全指に付けた手が妖しく蠢き、赤い髪の下で分厚い唇がにたりと笑みを浮かべた。
「ふっふっふっ……なかなかイイ触り心地だった。やはり、常日頃鍛えられている子は違うねぇ。おじさん、普段は攻めだが、君相手なら受けも受け付けるよん」
「ひっ!?」
 キフの足が一歩、ランへ近づいたなら、凶悪な面構えとは裏腹に、金の目に怯えの涙が浮かぶ。
 大袈裟に仰け反ったその足で、引き剥がされた泉の背にランが舞い戻ってきた。
 完全な盾扱い。
 不満は呆気に取られるばかりの泉ではなく、ワーズの口から出てくる。
「ラン……また泉嬢に迷惑が掛かるような真似をしやがって」
 これを無視したランは、引き剥がそうとする手から逃れつつ、泉自身は何も言わないのを良い事に、情けない叫びをキフへと放った。
「寄るな、この変態! 相手だったら余所で探せ! 尻尾に触るんじゃない!」
 …………尻尾?
 聞き捨てならない台詞を受け、泉の視線が自然、ランの背後、キフに触られたと思しき箇所に寄せられた。
 ワーズとキフを警戒するランは、大きく身を捩る盾の行動に頓着する素振りすらなく。
 言われてみれば、ランの腰帯の下辺りに、それらしき膨らみがあった。
 ランが激昂しているせいか、連動して小刻みに揺れているようにも見える。
「…………」
 ランとキフ、果てはワーズまでも加えた三つ巴の言い争いを端に、蚊帳の外の泉は密かな葛藤を抱いた。
 人狼の、尻尾。
 はっきり言おう。
 とっても触ってみたかった。
 たとえランの外見がそら恐ろしくとも。
 少しゴワゴワしたきらいのある髪質を考慮すると、触り心地に補償はないけれど。
 突いたり、握ってみたりしたい……
 思う感覚は、元居た場所の犬とのじゃれ合いに近かった。
 誘惑にかられ、泉の手がピクリと動く。
 しかし、幾ら何でも、本当に実行するわけにはいかないだろう。
 種は違えど、相手は立派な成人男性。
 どう明るく考えようとも、やったら痴女もイイところ、である。
 第一――
「……触るっていっても、着物の中じゃ無理だもの」
 ぼそり、一人ごつ泉。
 本人は何気なく言ったつもりでも、こういう時に限って、聞き取る耳はあるもので。
「えっ、い、泉さん?」
 背後のランが慌てたのを知り、泉は同じように慌て、自身の口を塞いだ。
 次いで、この反応はおかしかろうと思い直し、両手をすぐさま離す。
 恐る恐る、ランの方を見やったなら、世にも恐ろしい形相が眉間と鼻面に皺を寄せていた。
 たぶん、人間時であれば、それはそれは世にも貧相な、情けなくも冴えない表情が浮かんでいたに違いない。
 どちらにせよ、泉は誤魔化し笑うしかないだろう。
「あ、あはははははははは……え、ええと、人狼にも尻尾ってあるんですね?」
 言い逃れる言葉も思いつかず、無難な問いだけをぶつける。
 と、気まずそうに、金の鋭い目が逸らされた。
 黒い爪が頬の辺りを小さく掻く仕草が付け加えられ、どうしたのだろうかと泉は首を傾げる。
 尻尾の有無を聞いただけなのに、答えを渋る理由が分からない。
「んっふふー。お嬢さんてば、大胆発言!」
「へ?」
 眉を顰める直前で、妙に浮かれたキフの声が届く。
 きょとんとした顔をそちらへ向けたなら、にやつく目で口元を覆い隠す中年と、半ば呆れた顔で笑うワーズの姿がある。
「知らないってのは怖いねぇ。若さの特権ってヤツかい? いやぁ、冒険してるわ。おじさん、ちょっと感激」
「ええと、あの……?」
 何やら身をくねらせるキフ。
 気持ち悪いくらい艶かしい動きを見つめていられず、泉の目がワーズに向けられた。
 すると、頭に銃を捩じり込みつつ、へらりとワーズは語る。
「んー、端折るとね。今の言葉は、お誘いの常套句なんだよ。今晩いかが? って」
「は!? な、なんで?」
「ほら、人狼の尻尾って脱がなきゃ見えないでしょ? それの有無を聞くってことは、遠回しに脱がせたいって意思表示。てことは……最後まで言わなくても、分かるよね?」
 肩を竦めた説明に、背後へ視線を戻した泉は、目だけで確認を取った。
 これを見たランは一層気まずそうに頷き。
「ええ、そうなんです……しかも尻尾って感情が出やすい箇所ですから、弱点みたいなもので。なので意味合いとしてなら、普通に誘うより断然、その……卑猥、と言いますか」
「ひ……」
 もじもじする、声だけ冴えない凶暴な獣面に、頬が引き攣るのを感じた。
 遅れて薄っすら羞恥に染まったなら、上目遣いだろうが射殺す輝きの金の眼が言った。
「まあ、泉さんに他意はないって知ってますし、純粋な質問として受け取るなら……はい、人狼に尻尾はあります。でも……あ、あの」
 尻すぼみする声に「そうですか」と申し訳ない気持ちで頷く。
 知らなかったとはいえ、随分凄いことを言ってしまったと泉が後悔した、矢先。
「さ、触りたいなら、お出ししますが!?」
「へ?」
 掠れて引っくり返ったランの申し出を受け、どういう流れの話なのか分からず、泉はぱちくり瞬いた。
 程なく思い出されたのは、ぼそりと呟いた言葉をランが捉えた事実。
 あの時までは差して大事と思わなかっただけに、申し出を咀嚼して呑み込んだなら、音がしそうなほど泉の顔が真っ赤に染まった。
 意を決した風体のランへ向き直り、わたわた両手を翳しては首を振る。
「い、いえっ! し、知らなかったとはいえ、変な事言って御免なさい。大丈夫です。以後、気をつけます!」
「そ……そうですか」
 気を張っていたのだろう、泉の謝罪にランの肩がすとんと落ちた。
 ……見ようによっては、がっくり項垂れたとも取れるが。
 きっと、泉に対し敬語を使うのと同じ理由で、彼女の願いを聞き届けようとしてくれたのだろう。
 奇人街最強にして、何故か泉に懐く猫の存在があるがために。
 そう考えると、以後、ランの前での発言には気をつけるべきかもしれない。
 猫への恐怖から従われるなぞ、泉が自発的にやったわけではないにせよ、カツアゲ以外の何者でもないような気がした。
 元より、そんな上下関係は願い下げである。
「あーあ。泉嬢、勿体無いことしたねぇ。上手いこと下僕が出来たかもしれないってのに」
「全くだ。一世一代の大告白、おじさんが相手を代わりたいぐらいだよ」
「キフ・ナーレン! 可笑しなこと言うな! お前になんて死んだって言うもんか!」
 泉が思考に耽る合間で、三者三様の言葉が飛び交っていく。
 しばらく泉を挟んだランとキフのやり取りが続けば、しきりに残念がっていたワーズが、盾代わりの少女へ首を傾げてみせた。
「泉嬢。本当に、そろそろ行こうか。コイツ等の乳繰り合い見ててもしょうがないし」
「!? なっ、ワーズ! 妙な言いがかりをつけるな!」
「あらランちゃん! おじさんと君との仲じゃないのんっ。つれないこと言いっこなしよ?」
「うるさい! 身をくねらせるな、気色悪い! いいよっ、もう! 行くよ、行ってやるさ、シウォンのとこでもどこへでも! このおっさんの居ないとこならな!」
 黒い爪の先端でキフを刺すように示し、ワーズへ吠えるラン。
 けれど、投げやりな口調に泉が戸惑いを見せたなら、転じ、気遣う口振りで問うた。
「ですけど……本当に大丈夫ですか、泉さん。止めるんなら今の内ですよ? 泉さんの行動を見ている限りじゃ、気軽な挨拶回りっぽいですけど、あの人のところに出向いて、無事でいられる保障はないんです」
「ええと……それって?」
 相貌の怖さを霞ませる真剣さに見入られ、泉の眉がハの字を描く。
 つられたように同じ目つきとなったランは、言い聞かせるべく先を続けた。
「正直、今の虎狼公社の状態は不気味です。少し前までは、あの人も大っぴらに荒れ狂ってましたけど、最近になってそれがぴたりと止まっているんです。嵐の前の静けさというか。周りの連中も、何がシウォンの気に触れるか分からないんで、とても大人しいし」
「あの人狼が、ですよ?」と締めくくる、自身も紛うことなき人狼のランは、嫌う自身の種の奇行へ、ぶるりと身震いをした。
「そんなところに泉さんが訪れる――はっきり言って、危険です。殺されることはないにせよ、最悪の場合、泉さんは二度と陽の目を拝めません。幽玄楼から出るどころか、シウォン以外の奴にさえ、一生会えない可能性もあります」
 淡々と語るランの声に潜む、止めた方が良いという訴え。
 ひっくるめ全て理解した泉は、しかし、解せないと眉根を寄せて返す。
「幽玄楼……て、シウォンさんの気に入ったモノしかない、っていうあの場所のことですよね?」
 今更の確認だったが、泉にとっては必要なことである。
 これへ神妙に頷いてみせたランを見、益々泉の眉間に皺が刻まれていった。
 もう一度、自分の考えに確証を得ようと、泉は兼ねてより不思議に思っていた事を問うた。
 すなわち。
「……あの、前からずっと気になっていたんですけど。皆さん、どうしてシウォンさんが私を好き、みたいな話し方をされるんですか?」

 

 


UP 2009/5/13 かなぶん

修正 2012/8/10

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