妖精の章 十九

 

 宛が外れた、とでもいうべきか。
 シウォンと対峙したランは、己を完膚なきまでに叩き潰してから泉を追うと踏んでいたため、幾らか冷静を取り戻した彼の頂点が、せこいフェイントを仕掛けてくるとは思いも寄らなかった。
 荒く息つく肩を収め、本気を匂わせる先制の一打は重く、次いで襲い来る蹴りに両腕を咄嗟に備え。
 けれど、防御を優先する余り、作ってしまった死角の下、勢いよく踏み込んだ足の音に気付けば、横を流れる青黒い体躯。
 刹那、交わされた金と緑の瞳は、一方に驚愕を、もう一方に優勢を浮べてみせる。
 解せば伝わる、お前の命なぞ後で幾らでも屠れる、という意。
 事実、取られた背に慄く間もなく振り向けど、追うべき人狼の脚力は、廊下の曲がり角を機敏に折れていった。

 茫然と立ち尽くす事、幾許か。

 はっと我に返ったランは、自身が残った理由を思い出し、去ったシウォンを追いかけるべく、大きく一歩、駆け出し――かけ。
「役立たず」
「だっ!」
 思いっきり頭に衝撃を受けたなら、大きく取った幅の分だけ、足が力強く床を踏みしめた。
 仰け反り、何すんだと言葉を携え振り向けば、更に顔面を黒い靴底に捉えられる。
 お陰で言葉は発せられず、代わりに小さい呻きが、牙の間から拉げた音を奏でた。
 すぐさま開けた視界では、へらりとした呑気な血色の笑みが、柄も悪くぺっと唾を吐いた。
「全く。つれて来たのは間違いだったな。大して足止めにも為らないなんて」
 確かにその通り。
 ワーズの指摘にランはぐっと詰まったが、だからといって、頭と顔を蹴られる理由にはならないだろう。
 一回目ならまだしも、狙った二回目は人を馬鹿にしている。
 これをそのまま告げようと向かい合えば、鼻先に鈍い銀の銃口が押し当てられた。
 またも声を奪われたランに対し、ワーズは小首を傾げて応戦する。
「反論するな、ラン・ホングス。お前は一体、何を考えてシウォンと対峙していた? 幾らアレが強いと言ったって、マグレでもお前は一度、勝ったはずだろう? それでなくとも、最初の一撃は兎も角、ボクの二度目の蹴り程度、人狼のお前が避けられないのは可笑しい。丈夫さは差し置いても、ボクの攻撃なんて、真正面から当たるはずないんだから。忌々しい事に」
 最後に盛大な舌打ちが鳴らされた。
 気圧され、退いた鼻面を押さえたランは、合わせて下がる銃口に、金の瞳を気まずく逸らす。
 ワーズの言う通り、ランの意識は半分、別方向に傾いていた。
 シウォンが寝そべっていた、今は店主が背にする寝台の上に。
 けれどそれは、易く語れるような代物ではない。
 特に、人間相手でも機微を解そうとしないワーズには、告げたところで鼻で笑われるのがオチ。
 歯噛みしつつも、同時にランは己の体たらくにぞっとした思いを抱く。
 今回は泉という追うべき対象がシウォンにいたから、無事で済んだようなものだった。
 彼女がいなければ。
 シウォンがそこまで彼女に執着していなければ――
 ランの命は今頃、当に尽き果てていた。
「っ」
 途端、襲い来る恐怖に大きく仰け反る。
 胸に手を当てては、心音を震えとして確かめ、荒い呼吸が喉を這い出てきた。
 死ぬところだったと今更ながらに身に憶え、霞み掛けた眼前で、へらり顔が自身の頭を小突いて傾ぐ。
 ワーズの指摘がなければ、この戦慄を知らずにいた事実を察し、ランの眼が大きく開かれた。
 まるで、ランのためを思って投げかけたような言葉。
 これを見、ワーズはへっと鼻で笑った。
「泉嬢のため、だからね。あの子はまだ、お前にクッキーを渡していないから、逃げる最中に殺されちゃ堪んない」
「クッキー、俺の分もあるんだ……」
 そういえば、何回か泉に呼び止められた事を思い出す。
 大概が、手提げ鞄に手を掛けていた場面であり、ワーズの言葉は真実と分かるが、その都度彼女の手を止めたのは、眼前のこの男。
 行動の不思議に首を傾げたなら、もう一つ、可笑しな事に気付いて眉根を寄せた。
 人を見下す凄惨な笑みのような顔つきをしながら、ランはワーズへ問う。
「……逃げる最中に殺され、って?」
 すると、こつこつ、銃で頭を小突く男は肩を竦めて言った。
「やれやれ。お前は察しが悪いねぇ。それとも学習能力がないって言った方が正しいか。ボク一人なら、逃げる必要もないんだけどさ」
 芝居がかった溜息を吐き、銃がするり、後方へ向けられる。
 自然な動きにつられて目を追わせたランは、示された意を知って、身体を逆方向へと傾け始めた。
 ワーズも同じく駆ける手前の動作を作り。
 沈めた身体を強調するように、赤いマニキュアの白い手が、黒いシルクハットを軽く下へと押し付けた。
「泉嬢もシウォンもいない今、お前に遠慮する奴なんて、アレらの中にいるとでも?」
「……思わないっ」
 言葉を切り捨て、駆け出すラン。続くワーズ。
 後方、ワーズが銃口を向けていた先では、シウォンの気配が完全に失せるのを待っていたらしい、多数の姿が躍り出る。
「「「「「ホングス様! お待ちになって!!」」」」」
「「ラン・ホングス、その首、寄越せ!!」」
 割合にして、十:一。
 ランへ伸ばされる人狼女の手と嬌声は、最強の座を狙う男たちより遥かに多く強く。
「あーあ。これじゃあのんびりと“道”に行く暇もないねぇ。前からも、だもん。そもそも、ランを同行させたのが間違いか。折角、臨時として扱ってやってもこれじゃあねぇ」
「しみじみ語るな! 俺は臨時従業員になった覚えなんかない! 大体、臨時だっていうなら、手当てか何か出すのが普通だろうが!」
「うわっ、人狼なんかに普通なんて言葉を語られちゃったよ。イヤだなぁ、傷つくよ。第一さ、臨時じゃないっていうなら、手当てって話も最初からないってことじゃない? 図々しいにも程があるよねぇ」
「……お前」
 飄々としたワーズの言い分に、ランは文句を抱えた口を後方へと流しかけ。
 ふらふら走る黒衣の背後に追う姿を認めては、前へ向き直る。
 と、今度はそちらから待ち伏せ、襲い来る姿を受け、文句の代わりに情けない音が、厳しい面構えの喉を鳴らした。

*  *  *

 引き摺り込まれた路地裏奥で、泉は相手の顔を確認する前に鼻を潰された。
「ぶべっ」
 年頃の娘が上げるにしては、色気もへったくれもない声が、押し付けられた何かに埋まり、くぐもった音となる。
 強く打ったせいでツンとする鼻の奥に、くしゃみが喚起された。
 これは危険だと埋もれた場所から離れるべく動く。
 が、頭と背を押さえつけられては、上手く行かず。
 しかも鼻を擽る毛の感触に、どう足掻いてもむず痒くなるだけ。
 かくして鼻の主張は受け入れられ、泉は固定された身体の下、「ふ、ふ、ふ」と妙な声を上げる。
 そんな泉の様子に気づくはずもない、引き摺り込んだ相手は、陶酔を含んだ溜息混じりに頭上で問う。
「泉……どこへ行こうと」
「ふぇっくしゅっ!!――――あぅ、し、シウォンしゃん……?」
「…………………………相変わらず、イイ根性してやがる」
 くしゃみの着地点が、振り切ったはずの人狼と知ったなら、反動で顔を上げた泉の目がぱちくりと瞬いた。
 煙管を吐き捨てたため、人狼姿に戻ったシウォンの胸板。
 艶めく青黒い毛並みに、点々と浮く不恰好な汚れはそのままに、泉の目線まで屈んだ彼は、黒い服のどこぞから取り出した布を彼女に宛がった。
「ほれ。これで鼻をかめ」
「……ぁい」
 乳白色の爪に鼻を抓まれ、逃げられない状況から泉は仕方なく鼻をかんだ。
 ワーズにも以前、同じ事をされた覚えはあったが、あの時のような恥ずかしさは不思議とあまり感じない。
 何故だろうと考えた泉、咄嗟に出た答えは、鼻の下を綺麗に拭くシウォンへ。
「シウォンさんて、世話好きのお父さんみたいですね」
「っ……よ、よりにもよって…………」
 一回り年が離れているせいかも知れないが、面倒見の良い父親像を見た泉に対し、当のシウォンは項垂れてしまった。
 泉個人としては、褒めたつもりだったため、意外な反応に目を丸くする。
 世話好きって禁句だったのかしら?
 尻尾云々で疑り深くなった胸に、“お父さんみたい”が項垂れる原因という考えはない。
 それでも、肌触りの良い布を当てて拭くシウォンに首を傾げたなら、泉の視線に気付いた人狼の目が若干下がり。
「……小娘」
「はい?」
 拭き終わって下ろされる手に合わせ、綺麗になった鼻の下に触れた泉は、シウォンがじーっと見つめる先を知って、身を小さくした。
 脱げば破れた先に下着がすぐ見える、応急処置としてワーズに縫って貰った胸元。
 指摘されなければ気付かない縫い目なのだが、シウォンは目ざとく見つけてしまったらしい。
 シウォンさんて、小姑タイプ……?
 じりっと僅かに後退した泉、それとなく、胸を腕で隠した。
 これを咎めるように、じろりと睨みつける緑の双眸。
 ひっと喉が引き攣れば、剣呑な声が問う。
「どいつだ? この、面白味の欠片もねぇ縫い目はワーズに違いないが……破れた形状は人狼の爪によるモノ。……誰がやりやがった?」
 なんて的確な推理。
 ゆえに、うっかりでもランの名を挙げられない泉は、空気を丸ごと呑み込んだような沈黙を保つ。
 転じ、シウォンは目を細め、鋭さを欠く口調で続けた。
「しかも――この芳香。裂かれたのは、上着だけじゃねぇだろ? 中も……血は、出ていないようだが」
 今にも滴りそうな涎を絡ませた、心此処に在らずの良からぬ声。
 怯える箇所を別に感じた泉は、そんなシウォンへ、思ったままの言葉をぶつけてみた。
「し、シウォンさん? 何だか……言い方が変質者っぽいです」
「へ、変質者……?」
 すぐさま反応した耳が、萎れ倒れた。
 ショックが大きかったのだろうか、シウォンは服を裂いた相手をそれ以上探らず、逆に泉から目を逸らしては、地面を右往左往見つめる。
 傍からも丸分かりな動揺に、泉が言い過ぎたのかしら? と頬を掻いたなら、布を持った手持ち無沙汰の手が、シウォンの方へと無意識に動いた。
 回収されそうな布に慌てた泉、コレをがしっと掴んで引き止めた。
「あ、待って下さい。洗ってお返ししますから」
「グゥ……こんな状況じゃなけりゃ」
 ぶつくさ文句を言うシウォンに首を傾げつつも、醜態と言っていい証拠品を貰い受ける。
 ポケットにこれを仕舞い、改めてシウォンを見やった泉は、うっと呻いて引き攣った笑いを浮かべた。
 何も、首を一振り、復活したていの、自分を見つめる鮮やかな緑の双眸が、熱に潤んでいたせいではない。
 「泉……」と仕切り直しに呼ぶ、ねっとりとした甘く響く低音のせいでもなかった。
 偏に、泉を優先したせいで、乾きつつある白い跡を、シウォンの胸に見たためである。
「し、シウォンさん。すみません。それ、拭いた方が良いと思うので、どこかから水を貰っても?」
「…………そうだな。これではゆっくり話も出来ん」
 指を差されてそちらを見たシウォンは、もう一度泉を見、何とも言えない溜息をついた。

*  *  *

 一の楼を飛び出しはしたものの、未だ虎狼公社の中にいる二人。
 全力疾走中のランの背後で、ぽつりとワーズが零した。
「……そーいやさ」
「なんっ、だっ!?」
 千切っては投げの要領で、男女問わず、襲撃してくる相手を投げ飛ばすランは、呑気な声に半ば苛立った応じをぶつける。
 人によっては、ランの恐ろしい顔と相まって、悲鳴と涙を出したくなる場面だが、そういう感情に疎い店主は、へらへら笑ったまま。
「泉嬢、どこにいるんだろうね?」
「どこって…………………………はあっ!?」
 障害物を払い除けての事とはいえ、人狼のランと同じ速度で走る割に、息も切らさぬ世間話然の語り口。
 振るった腕の一撃で吹っ飛んだ相手が、他を巻き添えにしたのを端に、ランの顔がワーズへと向けられた。
 その際、ステップを踏み、死角から襲おうとした相手を見もせず、くるりと一回転、蹴りつけた足裏に引っ掛けて地に叩き伏せ、後ろ向きになった身体を前に戻す最中で、飛び出してきた相手の胸を思わず衝いてしまう。
「うえっ!!? ご、御免! 死なないでおいて!」
 黒い爪にべっとり着いてしまった血に対し、おざなりの謝罪を口にする。
 ワーズからちらり、そちらを見やれば、地面に伏した爪の犠牲者が、ランの方へ手を伸ばしていた。
 人狼嫌いではあっても同じ種に属するため、恨み言を口にする相手の怪我が、致命傷にはならないと察する。
 ほっと内心で胸を撫で下ろし、改めてワーズを見たなら、小さく眉根を寄せる笑い顔があった。
「同族嫌いのくせに。そんなに齢は取りたくない?」
「うるさいな。そうだよ、取りたくないよ。あの人に勝ってから、最強の肩書きが欲しいってだけで、青春どころか二十代のほとんど、あっという間に終わっちゃったんだから」
「挑んできた相手を直に殺すって条件だっけ? そのせいで今じゃ、半殺しの熟達者」
「はいはい、そうですとも! 全く、向かってくる奴全員、本気で沈められたらどれだけ楽か……」
 ぶつくさ口の中で呟く言葉は、常日頃のランしか知らない者が聞けば目を剥く内容だが、紛れもない本音である。
 自身では物騒を吐いていると思っていない人狼は、感傷をあっさり捨てて、ワーズに問うた。
「それより、ワーズ。お前、泉さんと落ち合う場所を決めていたんじゃないのかよ?」
「んー……よくよく考えたらさ、泉嬢って、“道”の使い方、詳しく知らなかったかも」
「おい?」
「もしかしたらあの子、“道”と通ずる扉自体が、記憶にないといけないって思ってたりして。……いや、絶対そうだな、これは。目ぼしい場所に行きたいって思えば良いって、教え忘れてた……」
 困った困ったと笑う男に対し、ランは眉間に皺を寄せて、半ば肩を落として言った。
「……どうするんだよ。シウォンの探知能力だったら、もう、泉さんを見つけても良い頃合だぞ?」
「んー。せめて史歩嬢が近くに居てくれたら良いんだけどねぇ。彼女も芥屋の周辺だから、“道”少ないし、望み薄かな?」
 言葉で焦っていると言う割に、どこまでも呑気な語りが続く。
 段々と半眼になるランを見たワーズは、心外だとばかりに肩を竦めてみせた。
「シウォンをあっさり通したお前に、文句を言われる筋合いはないけど。ま、大丈夫でしょ。何せ泉嬢は今、地上にいるんだからさ。シウォンもそう簡単には手出し出来ないって」

*  *  *

 綾音泉という少女は、基本、一度懐に収めてしまった相手への警戒心が薄い。
 このため、散々注意を促されたシウォンが、目の前で自分を熱心に見つめていようとも我関せず。
「良かったですね。近くに虎狼公社の方が居て。水だけじゃなくて布まで貰えました」
「……ああ」
 にこにこ無防備に笑う頬へ、乳白色の爪が伸ばされても、不審に思う心はなく。
 ピチャリ、桶の中に水音を落とし、絞ったタオルを緩める。
 先に少しだけ水を付けては、コレをシウォンに付けてしまった汚れへと宛がった。
 現在、彼女たちがいるのは、街の喧騒から少し離れた水路の近く。
 壁に寄せられた木箱へ、丁度良いからとシウォンを座らせた泉は、自らの恥を文字通り自分で拭おうと、緩く着物を羽織った青黒い上半身に向き合っていた。
 背を壁にくっつけ、両足を外へ開いたシウォンへ寄り添うように。
 空いている手を艶やかな毛並みに埋め、汚れだけを見つめる泉は、毛の流れを崩さぬよう、注意を払って布を動かす。
「うわ……結構ぱりぱり…………は、恥ずかしいなぁ」
 今の彼女の頭にあるのは、シウォンというより、動物に付けてしまった汚れを取る感覚だった。
 声に出した羞恥とて自身の所業に対するものであり、こんなモノを相手に付けてしまった後悔は、思いの外、薄い。
 汚れを落とし、見えなくなったところで、手酌を用い、まだ濡れていない箇所へ水を染み込ませる。
 これを数度繰り返し、完全に汚れが取れたと思ったなら、桶の中に布を放り、手持ちのハンカチで水気を拭き取った。
 最後に手櫛で毛並みを整えつつ、ハンカチを仕舞う。
 凄い……なんて良い触り心地なの。
「一体、どんなブリーダーが……あ」
 つい呟き、そこでようやく思い出した、今の状況。
 奇人街の喧騒を耳にしつつも、視界に入れていたのは艶めく毛並みだけ。
 触感さえ、よく手入れをされた動物の地肌に等しく。
 泉の脳内ではすっかり、大型犬を相手にしている図が完成していたため、今更ながらにシウォンを意識しては、撫でる手を止めて固まってしまう。
 遅れて、シウォンの隻腕が、いつの間にやら腰に回されている感触が泉へと届けられる。
 ぜ、絶体絶命……?
 あまりに無防備だった己を呪いがてら、汚れを拭っている最中、一言も発さなかったシウォンへ、勝手な非難を胸内でぶつけてみた。
 どうして、何も喋ってくれなかったんですか?
 そのせいで、すっかり勘違いしてしまったじゃないですか。
 ――――犬と。
「……うっ。言えない。特に最後は絶対、言っちゃ駄目」
 シウォンの胸板についた手を見つめながら、泉は小さく首を振った。
 と、そんな泉を宥めるように、腰へ回された腕が、彼女の身体をシウォンの胸へと押し付けた。
 隻腕の肘を腰に宛がい、泉の右肩を乳白色の爪でそっと抱きながら。
「何が、言えない? 俺の事なんだろう? 聞かせておくれ、泉……」
 うっとり半分、ねっとり半分。
 ぞくりと悪寒めいた肌の粟立ちを感じさせる不可思議な低音が、背筋を伸ばした泉の耳の下を撫で付けた。
 これに震えで反応した泉は、恐る恐る、強張った顔をシウォンへと向け。
「ひゃぅんっ!?」
 途端、首筋から頬にかけ、ぺろりと舐められては、眦に涙を溜めた泉、潤んだ瞳でシウォンを見つめた。
 長い舌を仕舞った彼は喉を鳴らし、泉以上に濡れ澱んだ双眸で、座った目線より少し上にいる彼女を見つめ返す。
「ふ……ククククククク。ああ、イイ気分だ、泉。お前をこの腕に抱き、お前から触れられ、声を聞き、瞳に見つめられ、そして味わえる。夢でさえ叶わなかった事が今、現実に……」
 味って!?
 静かに近づくシウォンの鼻先。
 独白の言葉に慄いた泉は、ぎゅっと目を瞑り、上擦る声で言った。
「ひぃいっ! 食べられる、殺される、死んじゃう!! わ、私なんて美味しくないです、シウォンさんのお口には合いません!!!」
「…………は?」
 ぴぃぴぃ喚く内容に、若干耳を伏せたシウォンが困惑を浮べても、視界を閉ざした泉は知る由もなく。
「きっとお腹壊しちゃいますよ!? いえ、絶対壊れます! いいえ、壊します!! 私、基本的に幽霊とか信じていませんけど、食べられたら絶対祟って――」
「……何を言っているんだ、泉?」
「やぇ? な、何って…………だってシウォンさん、私の事、食べるつもりなんでしょう?」
 口付ける位置で、黒く濡れた鼻を擽る呼気が問う。
 震えるこげ茶の瞳は、けれど、シウォンに寄り添うたまま、逃げる素振りすらなく。
 早い鼓動を聞く手の平はあっても、極度の緊張状態に陥った泉は感知出来ず、知らぬ内に艶やかな毛並みを微かに撫でており。
「っ」
 ふいにシウォンの鼻先が逸れた。
 行動の意味を理解しかね、伺うように泉が首を傾げたなら、人狼なればこそ、より一層鮮やかな緑の眼光がちらりと彼女を捉えた。
「お前は…………誘っているのか?」
「へ?」
 責める言い草に、何の話だろうかと丸くなる泉の目。
 向き直ったシウォンは、柔らかな笑みを瞳に携えて言った。
「望むところだ。喰ってやるさ、泉。余すことなく、お前のすべ」
「ぃ、嫌っ」
 否定して欲しいところを肯定され、自分の身体とシウォンとに挟まれた両手を忘れた泉は、大きく振りかぶった頭をシウォンの鼻面に叩きつけた。
 が、相手は人狼である。
「だっ!!?」
「でっ」
 人間にない丈夫さの煽りを喰らい、打ち付けた分だけ己に返ってくる鈍痛。
 これを抱えた泉は、シウォンから逃れもせず、逆に彼の肩に頭を預けて低く呻いた。
 唐突な攻撃を受けたシウォンも、語りの最中であったためか、軽く舌を噛んでしまったらしい。
 泉の身体はしっかり内に留めつつも、顔を横に背けては舌を出し、痛みを逃がしていた。
 それぞれの痛みが過ぎるまで数秒。
 先に引いたのはシウォンの方だが、顔つきは増して傷つき、ともすれば憤怒とも取れる程、歯を剥き出していた。
「嫌……か? ここまで来て、ここまで傍に居て。何故、お前はそこまで俺を拒む? 好きと言ってくれたあの言葉は、嘘、だったのか?」
「くぅううううう…………………………は、はい? 好き?」
 響く痛みに顔を顰めつ、シウォンを見やった泉は、至近の牙に上がりかけた悲鳴を呑み込み。
「好きって……ああ。はい、好きですよ、知人として。私の事、食べ物扱いしないでくださったら」
 半ば自棄気味に言葉を投げつければ、今度はシウォンの方が、何かを丸呑みにした顔つきとなった。
「ち、知人……!? いや、それ以前に、食べるってのはそっちか? 確かに…………お前の血肉はそそるものがあるな。なるほど? そっちの喰うでもありか……」
「ひっ!?」
 じたばたじたばた。
 急に、にたりと恐ろしい笑みを浮かべたシウォンに対し、一気に青褪めた泉は手足をばたつかせて逃走を試みた。
 しかし、いかに隻腕と言えども人狼の男、それも大勢の群れを今なお率いる頂点相手に、人間の小娘が適うはずもない。
 耳朶に生唾を呑む音が届けば、恐怖に歯の根が合わなくなり、がちがちと異様な響きが口内に伝わる。
 最中、シウォンを見た泉は、その目の中にからかう光を認め、ぐっと奥歯を噛み締めた。
 まるで、怯える様子を愉しんでいる風体。
 このままでは悦ばせるだけだと察した泉、どうせ逃げられないのなら、と動きの一切を取り止めて、笑う緑の瞳を睨みつけた。
 自身でも怖いとは思えない表情を実感しつつ、忌々しげにシウォンへ吐き捨てる。
「そ、そんなに私を怯えさせて愉しいですか!? 馬鹿にして……無視して!」
 上擦る声の覇気のなさを補うように、ぐっと握り締めた左の拳。
 対するシウォンは肩を竦ませ、溜息混じりの苦笑で泉に応じた。
 抗議などしても、無駄。
 聞く耳もないと暗に示されて。
 生じるのは、途方もない無力感。
 ネエ、私ハココニ居ナイノ?
 貴方ノ――貴方ガタノ中ニ私ハ……
「ぐっ……こ、のぉ!」
 瞬間的に熱くなる頭。
 反し、冷え切った身体が、強くシウォンを押した。
「なっ!?」
 本来、小娘の細腕で屈強な人狼を突き飛ばせるはずはないのだが、腕を突き出した泉はシウォンの腕からあっさりと逃れた。
 思いも寄らぬ行動を受け、驚くシウォンに対し、頭に血が昇ったままの泉は気付く由もなく。
 はっとして、追い伸ばされるシウォンの腕。
 泉はこれを左手で鋭く撥ね退けた。
 更に驚愕から見開かれるシウォンの目を睨みつけ、腹に力を込めて言った。
「触らないで! 私の自由を奪うというのなら最初から、見ないで聞かないで認めないで! 話しかけないでよ、言われなくたって私はっ!」
「い、ずみ? どう、したんだ、お前……?」
 不安定な言葉の積み重ねに再度、シウォンの手が伸ばされるが、これを嫌う泉は後退り己の身を抱いた。
 眼前の人狼ではない、別のモノを瞳に映しながら。
「……お願い、します。何も望まない、何もいらない、今更、期待なんてしない。だからこれ以上、私に……っ」
 ――関ワラナイデ。
 言葉に出来なかった独白が喉に詰まる。
 顔を覆えば、茫然としたシウォンが一歩、泉へと歩み寄り。
 乳白色の爪が、視界を塞いだ泉の頬へ伸ばされたなら。
「くっ…………この、感覚は」
 切羽詰ったシウォンの声を頭に聞き、泉はゆるゆると顔を上げた。
 触れるか触れないかの位置にある止まったままの爪に、攻撃の意思を感じずとも怯えて一つ下がる。
 と。
「……猫?」
 シウォンの背後に虎サイズの影の獣を見つけ、その名を呟いた。
 応えるように細まる金の眼。
 動かないシウォンを鑑みるに、猫が何かをして彼を止めてくれたのだと察し。
 けれど。
「っ」
 それにすら恐れをなした泉は、また一歩、彼らから距離を置く。

 

 


UP 2009/6/17 かなぶん

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