妖精の章 二十

 

 大丈夫と彼は言った。
 大丈夫。地上にさえ着けば――

 猫がなんとかしてくれる。

 しかし、彼女は怖いと思ってしまった。
 彼女を助けてくれる存在に対して。
 その、己を理解する行動が。
 彼女を喰らうと明言した人狼よりも。

 怖かった。


 猫に汲まれる、自身の意識に戦慄を覚える。
 いつもいつも、助けてくれるから。
 いつか、手放される時が怖い。
 その身の欠片を持って、人狼を撥ね退ける力を与えてくれた存在であっても。
 否、だからこそ、思う。
 これを餞別としていつの日か、別れる時が来るのだと。
 己の事は己で出来るようにと、全て教えてくれたあの人のように。

 ずっと会えない日が、いつか、来てしまう。

 嫌なのは、別れの時ではない。
 本当に嫌なのは、いないと知っていて、解かっていて。
 縋りつき、留まろうとする、その時。
 だから――


 静かに見つめる金の双眸から、泉は視線を逸らした。
 かといって、手を伸ばしたまま動かない、不自然な格好のシウォンを見つめもせず。
 夜風の冷たさを浴びながら、街灯に照らされた青白い地面を視界に入れる。
「泉……」
 小さく呼ばわる声には、ビクッと身体を震わせ、身を抱く腕に力を込めた。
 傾ぐようにまた一歩下がったなら、焦燥に駆られた低い声が言った。
「怒ったのか? 俺がからかうような真似をしたから……。違うんだ、泉。俺はお前を、そういう風に思ってなどいない。俺は、ただお前を――」
「違います」
 述べられる声音に、泉は目も合わせぬまま、静かな言葉を被せた。
 先を聞くのを拒み、両耳に手を押し当て、地を睨みつけ。
「違うんです。今のは……シウォンさんのせいじゃない。私の――私だけの問題なんです。だから……気に、しないで下さい。留めないで。気に留めて貰えるような人間じゃないから。私の、存在だけ、そこに在ると認めて下されば……嬉しいんです、それだけで。それだけで良いからっ」
 顔を上げ、物言いたげなシウォン、その背後の猫を見つめた泉は、表情を失くしたまま、乾いた瞳で続ける。
「もう誰も私に――」

「はい、ストップ」

 告げる前に届いた制止。
 銃を携えた病的ではない白い手が、泉の目を閉ざす。
 引き寄せられてよろければ、ひんやりした熱が背後に被さった。
 耳に当てていた手を覆い隠す手に重ねれば、同時に語ろうとしていた口がもう片方の手に阻まれる。
「ちょっと、黙っててね?」
 へらりとしつつも有無を言わさぬ口調が、熱の籠もった耳に当てられると、急速に泉の身体から力が抜けていく。
 体重を預ける形になっても、ふらふらした動きが常の身体は、これをしっかりと支えた。
「全く……どうもシウォンは、この子の神経を無意識に逆撫でしちゃうきらいがあるねぇ」
 冗談めいた「よしよし」とあやす言葉を掛けられ、泉から安堵の息が零れた。
「なっ!? ワーズ、てめぇにそんな事を言われる筋合いは……第一、何故、ここが?」
 対し、シウォンの声は忌々しくも悲愴に満ちた音を奏でる。
 これへ、泉ごと背後が傾いで答えた。
「んー? 何故って、当たり前でしょ? ボクは芥屋の店主で、猫は芥屋の猫なんだから。芥屋の意思は、この子が食べた猫の欠片より、強くボクたちを繋いでいるんだ」
「……ガウ」
「だから、猫が誰とドコで接触しているって、ボクには筒抜けなんだよ」
 クツクツ愉快そうに笑う男と嫌そうな声で同意を示す猫。
 シウォンから「猫の欠片……泉のあの力はそういう意味か」という納得が為されるのを聞きながら、背後のワーズに合わせて揺れるだけだった泉は、はたと気付いた。
 緩められた手の内で、小さく呟く。
「……じゃあ、もしかしてあの時」
「ん?」
 黙っている時間が終わったのか、離された手により取り戻された光の下、ワーズに向き直った泉は、黒と白のぼやけた輪郭を睨みつけた。
 その目に、先程までの乾きは在らず。
「あの時……シイちゃんが幽鬼に追いかけられていた時、本当はワーズさん、猫の居る場所、知っていたってことですか?」
 泉が問うたのは、初めて幽鬼と遭遇した際、自身を助けてくれた子どもを助けるため、猫に助力を請おうとした時の事。
 はぐれてしまっていたがために、猫を求めて右往左往する泉へ、彼の店主は芥屋へ帰る事だけを強要してきたのだ。
 当時は繋がりという、個体同士の意思の疎通が可能となる現象を知らなかったため、ワーズへは無茶を頼んだ罪悪感ばかりが起こったものだが。
 それもこれも、猫の居場所をワーズは知らない、という前提の話である。
 知っていたと知らされたなら、何故あの時、言ってくれなかったのだ、という思いだけが積み重なり。
 徐々に吊り上っていく視界の中で、へらりと笑う黒い肩が竦められた。
「んー、君って意外に執念深いねぇ。ま、いいじゃない。過ぎた事で終わった事なんだし」
 悪びれもせず告げられた真実。
 絶句した泉は、ワーズのあっけらかんとした言い草に、口をぱくぱく開閉するばかり。
 けれど、それも長くは続かず。
「あ、泉さん。良かった、無事だったんですね?」
「……ランさん」
 自分の名を呼ぶ声に、過剰な反応を示した泉は、凶悪な獣面を見て一歩下がった。
 これを知って立ち止まったランは、突然視界に入れた自分の容姿に怯えられたと思ったのか、少しだけ傷ついた表情を浮かべ、鼻先を気まずそうに掻いた。
 酷い事をしてしまった、そう思う泉だったが、謝罪も違うとも告げられずに目を逸らし。
「泉……」
「っ」
 下がった分だけ近くなったシウォンの声を聞いては、そちらを振り返って、また下がる。
 ランの比ではない、嘆き求める緑の双眸と交わし、喉に悲鳴が上がりかけた。
 名を呼ばれるのは、己の存在がちゃんと在ると知れて嬉しい。
 反面。
 名を呼ばれるのは、己を求められているようで恐ろしい。
 認識なら、群衆を形成する一個体だけで十分。
 行き交う、通り過ぎるだけの他人で。
 ただその人とて、その人の考えがあるのだと、思ってくれたなら。
 それ以上はいらない、望まない、期待もしない、したくない。
 と。
「泉嬢」
「っ――――てっ!?」
 ワーズにまで名を呼ばれて怯え、そちらをもう一度見やれば、顔面に柔らかな布がぶつけられた。
 ただし、中身には軽い固形が入っており、衝撃はそこそこある。
 感傷を一先ず中止し、顔を覆うそれを受け取ったなら、へらりとした顔が言った。
「シウォンにクッキー渡したし、ボクらも追いついた。なら、とっとと挨拶回りに戻ろうか」
「…………」
 泉が視線を落とせば、受け取ったモノの正体が、シウォンを尋ねる際にワーズが予め懐に仕舞った、手提げ袋と分かる。
 だが泉は動かず、じっとその袋を見やった。
 ワーズに止められなければ、シウォン、引いては猫に吐いたであろう言葉。
 私に関わらないで下さい――……
 感情に引っ張られる形で表出したものだが、それは泉の中に元々ある思いだった。
 本当に、自分が帰るべき居場所が見つかるまでは、通過点でしかない内は――

 誰人にも深く、関わって欲しくない。

 直前で留められたとはいえ、浮かんだ言葉を忘れる事は出来ない。
 関わるのを厭う自分を感じながら、今更挨拶回りなどして、何になる。
「……泉嬢?」
 呼ばれて、のろのろ顔を上げたなら、銃を頭に傾ぐ赤い笑みがそこに居た。
「今更挨拶回りを止めるなんて言わないよねぇ?」
「!」
 思っていた事をなぞられ、ぎくりと泉の動きが固まった。
 猫以上に近く感じた意識を恐れ、一歩退こうとすれば、その前に頭から目元にかけてをわし掴みされた。
 瞼に押し付けられた、ひんやりとした大きな手の平に慄いたなら、頭を這う指が力を込めてこれを止める。
 作られた闇の中で、へらへらした声だけが耳朶を打つ。
「何か、妙な感傷に浸っているみたいだけどさ。手遅れ、だよ? 泉嬢。他者の動向なんて、特別な能力もない人間の君に、制限をかける事は出来ない。誰も私に……続く言葉は何にせよ、君自身が誰かに関わってしまった時点で、相手はすれ違うだけの他者ではいられないんだ。良くも悪くも、ね」
 言いたいことだけ言った店主は、突き放すように泉から手を離した。
 取り戻した光によろけながら、聞く事しか出来なかった泉は、改めて黒一色の姿を視界に入れた。
「ワーズさん……」
「ん?」
 名を呼べば、応じて深まる笑み。
 確かに、手遅れだと感じられた。
 個を示す名を知り、呼び合い、交し合う言葉。
 得てして作り上げた訳ではない、自然に生まれた関係。
 自分一人否定したところで、もう遅い。
 相手がいる時点で、それはもう、双方の問題なのだから。
 仮に、相手からも否定を下されたところで、築かれた過去はなかった事に出来ない。
 それすら、今の自分を形作る要因の一つ。
 タトエ、忘レテシマッテイテモ……重ネタ想イハ、ドコカニ必ズ在ル。
 相手の中に。
 もしくは、等しく無情に過ぎゆく時の中に――。
 すとんと腑に落ちたなら、ひんやりとした熱を馴染ませるよう、抑えられていた手で額を擦る。
「……すみません。変な反応しちゃって」
 憑きモノの取れた顔で惚ける謝罪を述べれば、ワーズは一つ笑い、銃口をランへと差し向けた。
 いきなりの事にぎょっとし、情けなくも短い悲鳴を上げる人狼を泉が視界に納めると、端でワーズが首を傾げて言う。
「んじゃ、再開。まずはお待たせラン・ホングスからー」
「あ、はい」
 軽い口調に背中を押され、後退してしまった分を取り戻すように、大きく一歩踏み出す。
 ランの前で止まっては、小さく頭を下げ。
「すみません、ランさん。さっきは私――」
 言って元の位置に頭を戻した泉は、思ったより近い場所にある、お前を喰ってやると言わんばかりの相貌を受け、ついつい一歩、本気で後ずさってしまった。
「…………」
 お陰で意味を為さなくなった謝罪。
 目を逸らし、なかったことで通しては、若干落とされた厳つい肩も見なかった事とし、手提げ鞄からクッキーを取り出した。
「あ、あの、遅ればせながら、クッキーです。挨拶――」
「なっ!? どういう事だ、泉! アレは俺のためだけに焼いたのではなかったのか!?」
「「ひっ!?」」
 途端、シウォンから生じる、悲哀混じりの怒声。
 浴びせられた泉とランはそれぞれ慄くが、黒い爪はちゃっかりクッキーを失敬していた。
 軽くなった手を胸の前に持っていき、小さく握った泉は、次にシウォンの下へ小走りに向かう。
 伸ばされた乳白色の爪の近くで止まり、ランへしたように頭を下げ。
「すみません、シウォンさん。先程は失礼な真似して」
「泉…………まあ、いい。構わんさ。お前さえ、俺の傍にいりゃあ。ランに菓子を渡した事すらどうでも――く、猫! 放しやがれ!」
 途端に怒気を和らげたシウォンは、泉へは慰めるように、一転、背後の猫へは焦れたように叫ぶ。
 物理的に押さえつけられている訳でもないのに、何故だろう?
 宙から動けず、震えるだけの爪先を泉が疑問に思えば、ぽんっと両肩に白い手が置かれた。
 振り返ればワーズがクツクツ笑う。
「シウォンはねぇ。人狼の中でも危険に敏感だから、危険そのものの猫が睨むと、過剰に反応しちゃって動けなくなっちゃうんだ。ホラ、泉嬢のところにもことわざがあるでしょ? 蛇に睨まれた蛙っていう」
「そうなんですか……だから、放せって」
 感心した声を上げ、再度シウォンを見つめた泉は、歯を剥き出し鼻面に皺を寄せる姿を目にし、大きく仰け反った。
 すると当然、肩に乗っけられたままの手は、泉の前へとずり落ち、ごくごく自然にワーズが背後から彼女を抱く形となる。
 シウォンの形相に怯える泉に、そんな格好を察する余裕はなく、それどころか、抱える腕に縋りつく始末。
 となれば、一向に想いは上手く伝わらずとも、泉への恋慕に身を焦がし続ける人狼が、良い顔をするはずもなし。
「くっ……! ワーズ、てめぇ!!」
 憤怒すればした分だけ、ワーズにしがみつく泉、という悪循環の中、一人だけへらりとした店主は、見せ付けるように少女の顎を指で取り、己へと向けさせた。
 怯える瞳が徐々に羞恥へと変わるのを愉しむ風体で、憤る人狼を放って泉に囁く。
「じゃあ、行こうか。ボクらがいなくなれば、猫もシウォンを押さえておく理由がなくなるし。後で合流すれば良いでしょう? やっぱりボディーガードは、見掛け倒しの最強様より、猫の方が断然良いからさ」
 笑う赤い口は、別方向からやってくる人狼たちの非難の声を聞き流し、泉にだけ意見を求めた。
「……は、はい」
 促されるまま頷く泉。
 ワーズは頷き返すと顎から手を離しては泉の肩を抱き、恥ずかしがり俯く彼女を足早に誘導していく。
 最中、シウォンが幾度となく、泉とワーズの名を呼ぶが、店主の奇異な行動に惑わされた少女は、荒れ狂う己の熱で手一杯。
 お陰で、シウォンを振り返っては、「じゃーね」と爽やかに手を振る黒一色の男の、嫌がらせに近い行動にも、行くなと懇願する悲痛な叫びにも気を配れず。

*  *  *

 幾らか歩いて後、ワーズの腕が肩から外され、ようやく我を取り戻した泉は、ふと辺りを見渡した。
 俯き気味に歩いて来たため、今現在、自分がどこを歩いているのか分からず。
 かといって、似通った建物が続く割に、おもちゃ箱を引っくり返したような、ごちゃっとした街並みが続く路。
 緊急時以外、ほとんど外出していない泉では、元より分別がつくはずもない。
 それでも知れた事といえば、ワーズの後に続く内に、人の通りが少なくなっていく、不可思議な光景。
 店が軒を連ねる通りではないから。
 理由としては十分だが、人通りのない路は大抵、青白い街灯がぽつぽつ、辺りを寂しく照らしていた。
 だというのに、泉たちが進むこの路は、明るい暖色の街灯が、色とりどりの瓦屋根と漆喰の壁を照らしており。
「そういえばワーズさん」
「ん?……ああ」
 泉の声掛けに振り返った店主は、心得たとばかりに笑みを貼り付けて頷き。
「いつまで憑いてくるつもりだ、ラン? クッキーならもうないぞ」
 しっしっ、と手を払った。
 話の流れから、まるで自分がそう思っていたように解釈された泉はぎょっとし、その背後にいた当の人狼は情けない声を上げた。
「酷っ! た、確かに俺は、本当についてっただけみたいなもんだけど。お前が言わなけりゃ、一の楼なんて行かなくて済んだんだぞ!? 変に目を付けられる心配だって、こんなになかったはずなのに」
 愚痴るランの言葉を受け、今一度辺りに視線を巡らせた泉は、ギラギラした光を彼へ送る人狼女の姿を、少ない人通りの中から幾人も見つけた。
 どうやら、ランが泉たちから離れるのを待っている様子。
 ラオの上で身を潜めていた事やランの発言を鑑みるに、一の楼という目立つ場所に、わざわざ訪れてしまったせいらしい。
 なるほど、これではついてくるしかないだろう。
「す、すみません、ランさん。私のせいで」
 思い至った泉は頭を下げて謝罪した。
 元はといえば、ワーズよりも泉に責任がある。
 挨拶回りの首謀者は彼女なのだから。
 けれど、泉が勢い良く身体を折り曲げるなり、焦ったのはランの方だった。
「ぉわっ、あ、謝らないで下さい、泉さん」
「そ、そうですよね。謝って済む問題では」
「じゃなくて! 俺は別に、泉さんに謝って欲しいわけでは」
「それもそうですね……私の謝罪なんかで、ランさんの気が晴れるわけでも」
「いや、そういうことじゃなくてですね」
 遅れてやってきた罪悪感から暗くなる一方の泉に対し、段々途方に暮れた受け答えとなるラン。
 これへ、他人事だとばかりに肩を竦めるワーズが在れば、見咎めた人狼の目が苛立った。
 そのまま金の眼が、項垂れた己の頭に向けられても、目線が足下にある泉は気付かず。
「あの、それじゃあ泉さん、こういうのはどうでしょう。俺を芥屋まで一緒に連れてって欲しいんです。そうすれば、彼女たちも諦めるしかありませんし」
「えー。ランのくせに図々しいー」
「うっさいな! お前は黙ってろ!……ね、どうですか、泉さん」
「え、ええと……」
 冴えない柔和な懇願に、顔を上げた泉は頬を掻き掻き、ブーイングを挟んだ店主を見やった。
 なにせ自分は居候中の身。
 ランへの非は自覚していようとも、芥屋利用に関する権限はないのだ。
 しかも、嫌うラオのところまで案内して貰った手前、ワーズに頼むのも気が引けた。
 では、どうするべきか。
 考えたところで良い案が浮かばない泉は、ワーズから視線を地面へと移し。
「……泉嬢?」
「はい?」
 名を呼ばれ、きょとんとした顔を上げたなら、銃口を頭に押し付けて傾ぐ店主が、困ったように笑った。
「何度も言うけれど、ボクは人間のお願いなら、余程の事情がない限り聞くよ? シイの時だって、君の命を優先したから教えなかっただけなんだし。遠慮しないで言って御覧?――ランの願いを叶えるのはシャクだけど」
「お前……」
 決して本人を見ない嫌味に近い笑みは、泉の願いを尋ねる。
 それでも迷えば、続けて吐息混じりの苦笑が浮かび。
「泉嬢が言ったところで、ボクは無理なら無理ってはっきり断るよ? 何せ、ボクに出来るのはボクが出来る範囲の事だけなんだから。たとえば、道具を使わず、単身生身で空を飛べって言われても、出来るわきゃないように。ね? 言うだけなら、ランでも出来るんだから」
「まだ言うか……ねちねちとしつこい奴だな」
 泉を優しく諭す傍らで、悪意ある貶しをランへ向けるワーズ。
 ダメージが深くなるばかりの人狼を端に泉が思うのは、「今更」「手遅れ」と告げた店主の言。
 芥屋で目覚めた時、泉は誰かに頼る事を、弱さや甘えと考えていた。
 幽鬼に追われ逃げ惑った時、ワーズに頼ったそんな己を、弱くなったと結論づけた。
 人魚の一件が終結した朝では、頼る相手に疑問を持ち。
 挨拶回りの今とて、ワーズに、誰かに頼る現状はここに在って。
 正否の判別はつかねども、どのみち頼る事を知った自分には、この先、誰にも頼らずにゆく事は出来ないだろう。
 少なくとも、この奇人街では。
 次々巡る思考にとりあえずの折り合いをつけ、泉は自分を見つめる混沌の瞳と視線を交わした。
「それじゃあ……いい、ですか? ランさん、芥屋まで御一緒しても」
「ん、嫌」
「え……?」
「じゃ、行こうか」
「え……えええええっ!?」
 どう考えても、今の話の流れでは、ランの同行を許す場面であろう。
 呆気に取られるばかりのランを見た泉は、さっさと先へ歩みを進める黒い背中を追った。
「わ、ワーズさん、話が違うじゃないですか!」
 非難混じりに問うたなら、にへらと笑う赤い口が振り返って言う。
「やだなー、泉嬢。いいですか、って、良い訳ないじゃない。ワーズ・メイク・ワーズは人間じゃない奴と一緒なんて、嫌に決まってるんだから」
「なっ、そ、それって詐欺」
 絶句して指を差せば、ワーズの肩がおどけて竦められた。
 そのまま前に戻る顔へ何も言えず、固まってしまった泉。
 程なく、肩がぽんと叩かれた。
 ぎこちない動きでとそちらを見やれば、言いがかりをつけてきそうな柄の悪い凶悪な相貌があった。
 危うく上がりかけた悲鳴が、喉を「ひぐ」と鳴らす。
 これを聞いたか聞いてないか、判断のつかぬ苦笑を浮べたランは、泉の肩を叩いた爪で頬の辺りを掻いた。
「つまり、同行はいいってことじゃないでしょうか」
「へ?」
 泉が瞬けば、ランは申し訳なさそうに耳を伏せて言った。
「ほら、アイツ、無理なら無理って言うって。だから、たぶん」
「……ああ、なるほど」
 思い当たる節を見出し、泉はワーズのふらふらした背へ視線を戻した。
 以前、片腕を失ったシウォンに対し、猫には殺されないと告げた店主は、ほっとする泉を余所に、彼の頭へ己が銃口を突きつけていた。
 その際、止めに入った泉へ、彼はのたまう。
 猫には殺されないと言っただけ、自身が殺す事に関しては何も言っていない――そんな旨を。
 なればこそ、今のもそういう言葉遊びだったのだと知らされ、泉は安堵してワーズの後を追い。
「泉嬢って……やっぱり人魚だねぇ。それぞれに対して反応を変えるところなんて特に」
「はぃ?」
 いきなりそんな言葉を図れた泉が目を丸くすれば、ワーズは独り言のように言った。
「シウォンには焦らしで、ランには包容力で。離れてゆけない工夫の凝らし方がなんとも」
「ワーズさん……何か、人聞きの悪い事、仰っていませんか?」
 心外だと顰められる泉の眉。
 受けたワーズは応える代わりに立ち止まり、泉を振り返っては小首を傾げる。
「そういえば泉嬢、さっき、何か言いかけてたよね? 何?」
「さっき?…………あ、はい」
 問われて思い出す、ランの同行話の前に尋ねようとした事。
 ワーズに止められなければ、思い出す必要もなかったと、ちょっぴり恨みがましく彼を見つめて問う。
「あの、次はどこに行けば」
「ん? ここだけど」
「え、もう着いていたんですか――って、誰の家ですか、この白いの」
 くいっとワーズが親指で指し示したのは、色彩豊かな奇人街の街並みにあって、異様なほど白い建物。
 上や左右、向かいの瓦屋根や壁には、様々な色が揃っているというのに、反射もしない白さは不気味に映る。
 と同時に、人通りの少なさの原因が、この建物を避けて歩く住人の動きで察せられた。
 まるで近づけば喰われる、とでも言わんばかりの流れ。
 何がある――ううん、誰が住んでいるんだろう、この家……?
 困惑だけを示す泉に対し、ランが近づくのを待った風体で、ワーズはへらりと笑った。
「さて。人魚の工夫は、アレに対してはどう働くんだろうね?」
「アレって――」
「勿論、君の…………愛人?」
「え」
 からかうワーズの答えに泉の思考が一瞬停止したなら、家に負けない白さを持つ赤いマニキュアの手が、覗き穴のある扉をノックした。

 

 


UP 2009/6/24 かなぶん

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