妖精の章 三十三

 

 二度と目覚めないのでは、とまで思うようなランの容態。
 あんな目に合ったにも関わらず泉は段々と心配になってきたのだが、そんな彼女を余所に、彼は注射を打たれてから物の数分で再び起き上がると――

 乾物が置いてある店の棚からロープを拝借、輪を作ると爽やかに「じゃ」と言って背を向けた。

 これを慌てて追いかけたのは、乱れた髪を整えた泉。
 タックルする勢いで腰に抱きついては、あまり効果は得られないと知りつつも、足に力を入れてランの身体を自分の方へ引っ張った。
 案の定、全くよろめかないランだが留める泉の動きに足を止めた。
「ら、ランさん!? そのロープ、何に使うつもりですか!?」
「は、ははははははははは……はあ。大丈夫ですって、金はちゃんと払いますから」
 乾いた笑いを浮かべ懐を漁るラン。
 心外な受け取り方に泉は首を振った。
「そ、そういう意味で止めたわけじゃありません! というか、芥屋は食材店なのでロープの取り扱いはしていません、それは店の備品、非売品です!!」
「そこを何とか」
「駄目です!!」
「んー、いいよ、別に。売っても」
「ワーズさん!?」
 兎に角ロープを手放して貰おうと必死な姿を嘲笑うように、芥屋の店主はへらりと笑う。
 非難を込めて振り返る泉と違い、幾らかほっとした表情を浮かべたランは、布製の財布から紙幣を何枚か取り出す。
「えっと、幾らだ?」
「一億三千万」
 さらりと告げられた金額にランと泉が凍った。
 奇人街の貨幣価値は泉が元居た場所と違って大雑把だが、数字は概ね彼女の感覚に合致している。
 踏まえたところで、悪徳商人でもまず言わない単位だろう。
 口に出しても冗談か、もしくは単位を覚えたての子どもくらいのもの。
 そんな金額を言ってのけたワーズは大人であり、尚且つ、人間以外には優しくないため、嫌でも本気だと分かる。
 続き、店番用に設けられている板に腰掛けたエンが、煙管を横に避けた口元へ人差し指を当てて言う。
「それって、前後賞合わせて三億?」
「おや、藪のくせに良い事言うねぇ。うん、そっちの方が良さそうだ。商品購入前に勝手に形を変えた分を上乗せして三億――いや、五億で手を打とう」
「ちょ、ちょっと待て!? 幾ら何でもそんな大金! だ、大体、勝手にって、買うんだから問題は――」
「大有りだ。じゃあ何か? 買う前に食材喰っても金払えば良いって? 商売舐めてないか、ラン。それは盗みの類、猫のご飯になっても仕様がない話さ。飲食店みたいな後払いの店をたとえに用いようと、こっちは使う前に払うのが前提。そんなに余所様が良いならそっち行け。――とはいえ、此処から出てまともな買い物が出来れば、の話だけどね? 大人気の最強様?」
 にたり笑うワーズ。
 無茶な要求に言葉を詰まらせたランは、反論を探すように金の瞳を忙しなく動かした。
 凶悪な面構えの挙動不審な様子はちょっぴり泉の心を怯ませたが、そっとランから身体を離した彼女はそれと気づかれぬ内に、ワーズと向かい合う青い着物の後ろへ移動しその背を押した。
 引き止めた時とは違い、よろめくように二、三歩進む足。
 黒々とした爪のはみ出た草履が、店の土間に不思議な足跡をつけていく。
「な、何なんだよ、ワーズ。人間以外を嫌うお前ならこの縄、タダでくれる場面じゃないのか? この縄の形状を見れば、俺が何しようとしているのか分かるはずだろう? なのに……。俺は、俺が許せないってのに!」
「えっ? ランさん、何をしていたのか記憶あるんですか?」
 悲痛なランの叫びに対し、今更ながら泉は問うた。
 あまりに呑気な声へがくっと肩を落としたランは、恨みがましい目付きで泉を振り返った。
 泉が自分の後ろで背中を押している事には、さして不審も抱かず。
「泉さん……妙な話の折り方しないでくださいよ」
「ええと、す、すみません。……でも、さっきのランさん、前に酔っ払った時と雰囲気が似ていたから、てっきり記憶がないのだと」
「……なら、この縄の説明は? 泉さん、止めてたじゃないですか」
「いえそれはその、状況を見てと言いましょうか。矛盾があるかもしれませんけど、ランさんが何をしたいのかは分かりましたから」
「よーするに、分かりやすいくせに分かりにくいお前が悪いんだ」
「どんな理屈だ……」
 なっていないまとめでランの意識を再び自分に向けさせたワーズは、椅子の横に刺したままの鉈を引き抜くと、こちらに背を向けた状態でこれを仕舞いつつ。
「ま、何にせよ、だ。ボクはお前の望む事を叶えてやる気は更々ない。それがどんな結末を迎えるものであっても、ね。嫌がるお前になら、無償でも構わなかったんだけどねぇ」
「……っの野郎」
 ちらりと覗かせた横顔には赤い笑みがにんまり張り付いていた。
 流し目を思わせる混沌の瞳が表すのは、明らかな嘲笑。
 一方、迎えるランは歯を剥きながらも縄を鮮魚箱の上に置く。
 もう持ち去る真似はしないと分かる行動に安堵しながらも、泉はすかさず縄を己の方に抱き寄せた。
「まあ? 泉嬢に迷惑かけたからって死んで詫びる根性は買ってやってもいい。だから少し、良い情報をお前にやろうか」
 言ってくるりと反転したワーズは椅子の背の上に腰と左手を掛け、にやにや笑いながら頭を銃で小突いた。
「たとえばその縄。持ち寄ったところで、お前の丈夫な首を絞めるには至らない。お前の体重を支えられる柱もそうそうないだろう? 高い所から飛び降りる、なんて荒業もあるけど、人狼の中でも特出した身体能力を持つお前じゃ、たとえ虎狼公社の天井から落ちても骨折程度、逆に下敷きで何人かは死ぬよね。ボクとしてはその中に人間がいないのを祈るばかりだけれど」
 どこまでも人間贔屓の店主は縄を抱える泉を一瞥すると、やれやれと言った具合で首を振った。
 縄を取った事に関してなのか、それとも想像の下敷きで潰れた人間に対してなのか。
 判別できない行動に咎める思いを抱けずにいれば、ランへと視線を戻したワーズは銃を用いて更に身体を傾かせた。
「ちなみに泉嬢に手を出しかけたって事で猫に殺される案も無理だねぇ。アイツは基本、泉嬢が哀しんだり苦しんだりする事を嫌うからさ。お前自身にどんな殺意を抱いていても、泉嬢が望んだりお前を見捨てない限り実行はしない」
「そ、それはそれで……」
 言いよどむランの身体が僅かにたじろいだ。
 無理もないだろう。
 意味するところは、直接手を掛けないまでも、奇人街最強の猫の殺意の的になるということなのだから。
 ワーズはそんなランを、珍しくも憐れむような目で見つめた。
「さてさて、しかししかし。だからといって、お前に死ぬ機会がないわけじゃない。とっても気が利くボクはお前にそんな妙案を授けてやろう」
「気が利く」と口にした黒衣の店主を“どこがっ!?”という満場一致の思いが凝視する。
 一身に視線を集めた店主は、くすり、艶さえ滲む物腰で微笑むと、手を差し伸べるが如く銃を持つ右手をランへ向けた。
「ラン・ホングス。シウォン・フーリと戦え。で、死ね。ワーズ・メイク・ワーズ個人としては、相打ちだとなお宜しいけど、ね。まあ尤も、対峙する前に自由奪われた挙句、死んだ方がマシレベルの惨たらしい目に合わされるだろうけど」
「は? どうしてあの人がそんな」
「お前……あれだけ泉嬢に密着しといて、ただでさえその子関連に過敏な奴がスルーするとでも?」
「げっ!!?」
 呆れ果てた面持ちで眉根を寄せるワーズに、今気づいたと言わんばかりに仰け反るラン。
 件の泉は何となく目線を下に落とした。
「良かったねぇ、ラン? この場に司楼がいなくて。いたら変に律儀なアレの事、他の奴なら命を惜しんで報告しない事まで、シウォンに言うだろうからさ? んー、ボクとしてはそっちの方が良かったかもねぇ」
 ワーズはしみじみ感慨深げに首を振ると、闇色の髪の向こうで柳眉を片方上げてみせた。
「まあ何にせよ、だ。死ぬ事を止めるつもりはないけれど、そんな事よりも先に、お前にはやるべき事があるはずだろう?」
「そんな事……だと? 人の命を何だと」
「捨て駒」
 ざっくりばっさり言い捨てたワーズ。
 絶句する泉とランに対し、話を聞いているだけだったエンが「はいっ!」と元気良く挙手した。
「ラン・ホングス。謝って?」
「…………は?」
 誰に当てられる事もなく自ら立ち上がって小首を傾げるエンへ、ランが惚けた顔をした。
「謝れって……お前に?」
「違う違う。それに私はお礼を言う方。ラン・ホングス、ありがとう。マッサージ、とっても気持ち良かったです!」
「うっ……」
 ぺこっと頭を下げる医者に対し若干怯むラン。
 金の眼が右往左往に動いたなら、それが見える位置にまでそっと移動していた泉はふと思い出す。
 エン先生のマッサージ前に舌打ちしていたけど……あれってもしかして?
 泉を警戒させないため穏便に邪魔者を排除した――その後の展開まで思い起こせば、そういう事なのだろう。
 気まずそう……と早くも他人事の域に達した泉。
 ランの標的だった自分を忘れて憐れむ目を彼へ注いだなら、視界の端で包帯の指がこちらを差してきた。
 一瞬、惚けて動きを止めると、遅れてランの視線が自分に向けられるのを感じた。
「ラン・ホングスが謝るべきはスイ――泉・綾音に対して。全部憶えているなら、彼女がどれくらい危機一髪だったか分かるだろ?」
「あ……」
 エンに指摘され、またしても今気づいたという顔をするラン。
 多少大袈裟に聞こえるエンの言い草に泉が大丈夫だと手を振るより早く、土間に膝と手をついたランの頭が擦り付けられた。
 完全な土下座姿を目にし若干泉が引いたなら、それすら掻き消す勢いと大きさでランが叫ぶ。
「泉さんっっ! これだけ遅れてから言うのも難だけど、本っっっ当にっ、すみませんでした!!」
「え、えと、ランさん?」
「言葉で謝罪したところで取り返しの付かない事、斯くなる上は死んでお詫びを――」
「ちょ、ちょっと待って下さい! 取り返しの付かないって未遂でしょう!? 大体、死ぬってそんな謝罪されても私、困ります!」
 思いつめた口振りに駆け寄っては、屈んでも大きな肩に手を置く泉。
 瞬間、ビクッと揺れたランは恐る恐るといった様子で顔を上げた。
 睨みつけているつもりはなくともそう見えてしまう金の目に、少しだけ微笑みを引き攣らせた泉は、それでも何とか声だけは震えさせずに首を振った。
「気にしないで――とは言えませんけど、悪気があったわけじゃありませんし」
「……許して、下さるんですか?」
「許すも何も、その、ランさんが全面的に悪い訳では――って、ワーズさん?」
 感動の面持ちで肩に置かれた泉の手を黒い爪が触れる直前、彼女の身体はいつの間にか背後まで来ていた店主の方へ、無造作に引かれていく。
 惚けた顔でへらりと笑う白い面を見上げれば、遅れて届く「ちっ」という舌打ち。
 黒い胸に頭がついたと同時にランへと視線を戻せば、ぬったりした動きで厳つい人狼の身体が起き上がった。
「ラン、さん?」
 先程と似た気配をランに感じた泉は、それでも彼の名を呼んだ。
「泉さん……」
 呼ばれた彼は気まずそうな表情を浮かべると、しくしく泣くように両手で顔を覆い隠した。
「癪だけど、助かったよワーズ」
「お前に礼を言われる筋合いはないし、言われても気持ち悪いだけ。それでも礼がしたいなら今すぐここからいなくなれ」
「分かってる……俺だって、そうしたい。だけど……この店から出て、また誰かに誘いなんか掛けられたらさ。絶対俺、泉さん襲うぜ? 知ってんだろ、ワーズ。猫が来たところで俺を殺せねぇなら、止める手立ては皆無だってよォ?」
 伏せ覆われた手の中から発せられる、くぐもった声。
 段々と可笑しくなる言葉遣いに比例し、指の隙間から泉を捕らえた金の眼がにたぁと嗤った。
 一気に駆け抜ける怖気を体感した泉はワーズに身を寄せるが、似た状況で憤ったシウォンと違い、ランの陰湿な笑みは張り付いたまま。
 全身をねっとり舐め回す視線すらもシウォンのような想いは在らず、泉という物体を値踏みしているに過ぎない。
 まるで別人と対峙しているような錯覚に陥る泉だが、ワーズは変わらぬ調子で面倒臭そうに溜息を吐いた。
「やれやれ。何がどうなってそうなるのやら。訊きたきゃないが原因は何だ、ラン。こういうのは今回が初めてじゃないとはいえ、いつもなら抑え切れていただろうに」
「原因? んなもん、てめぇに明かせるかよ。ったく、奇人街でも最高品質を誇る食材店が聞いて呆れるぜ。影解妖すら置いてないとはな。つっかえねぇ……」
 グルグル唸る喉に併せ、ランの眼が苦渋に閉じた。
 鋭い歯を剥き出しにしては鼻面を深い皺が彩る。
 辛そうなその様子に泉はおずおず声を掛けた。
「ランさん、大丈夫ですか?」
「ああ? いいや、全くもって駄目だな。……おい、ワーズ。そのガキの口、塞いどけ。さっきは寝起きだったからしがみ付かれても平気だったが……正直、これ以上の接触は拙い」
「……言う事を聞くのは腹立つけど、まあ今回ばかりは仕方ないか」
「むぎゅっ!?」
 頭痛を堪えるようなランの訴えを珍しく聞き入れたワーズが、何の声掛けもなく泉の口を塞いだ。
 唐突な事に暴れかける泉だったが、じろりとこちらを睨むランの眼を見ては静かに手を降ろした。
「うーん。この場合、どうすれば良いものかねぇ?」
「はいはーい。影解妖を採ってくれば良いと思いまーす!」
 獰猛な獣然のランを前に呑気を貫くワーズが悩めば、一人元気なエンが幼さを感じさせる低い声で提案する。
「採って……って簡単に言うな、この藪、食材に関しちゃド素人が。影解妖の採取は恋腐魚に次ぐ面倒臭さなんだぞ?」
「むぅ。それくらい、私だって知っているさ。でも店主、言ってたじゃないか。ラン・ホングスが酔ってもいないのにこんな状態になるのは珍しい、って。それなら治めるためにはどうしたって影解妖が必要になるだろ? じゃなきゃ、スイが危ないもの」
「スイ? そういえばお前、さっきから泉嬢の事をそう呼んでるな?」
「うん! 泉・綾音のあだ名だよ。泉と似ている奇人街の字から取って」
「あ、そ」
 自分から話を振ったくせに、エンの答えをどうでも良さそうに聞くワーズ。
 それが自分の名前に関わる事だと思えば、泉はちょっぴり悲しい気分に陥ってしまう。
 彼の腕の中で若干項垂れ気味になった泉をどう思ったのか、加えてエンが口元で煙管をくるりと回して言った。
「そうそう、それにね。影解妖、スイも食べてみたいんだって」
「……そうなのかい、泉嬢?」
 たぶん、エンなりに工夫を凝らしたつもりなのだろう。
 恋腐魚の効果の有無を知りたい事を、ワーズにだけは知られたくない泉を慮っての。
 けれど尋ねるワーズの低い声には、かなりの不満が入り交じっていた。
 大好きな人間の要望を人間以外から聞かされる屈辱。
 しかもその部門が自分の職に関連していると来た日には、さしもの人間好きも文句の一つでも言いたいのかもしれない。
 実際には何も言わず、訝しげな視線だけで真意を問うてきただけだが。
 かといって口は塞がれたまま、ランの視線があっては満足に動く事も出来ない。
 そもそも、ここで「はい」と答えてしまったら、とても危険な目に合いそうな気がしてならなかった。
 ワーズの口振りでは現在、奇人街に影解妖なる食材はないため、十中八九、どこかへ行く事になるだろう。
 外出か……でも、このままだったらあんまり変わらなさそうよね、外も内も。
 一夜にして犯罪の全てが揃うと言われる奇人街。
 場所柄、用もないのに好き好んで出かけて行くのは最弱の人間という種、愚の骨頂だが、この状態のランを放っておいて良い事なぞありはしまい。
 影解妖以外の方法で打開するにはランを殺すか、泉が犠牲になるしかないのだから。
 見殺しも犠牲もご遠慮申し上げたい泉は、たっぷり間を置いてから小さく首を縦に振った。

 

 


UP 2009/12/30 かなぶん

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