妖精の章 四十

 

 前方からの襲撃を顔面に受けた泉。
 坂道だった事も相まって、豪快に上がった片足が仰け反る身体を更に後方へと倒していく。
 そんな泉へ向けられるのは、黒で埋め尽くされた視界の後ろから届く、「ひっ」という大勢が息を呑む音。
 隣のニアでさえ短く「きゃっ」と悲鳴を上げたなら、その正体に行き当たった泉、今にも転げ落ちそうだった身体をどうにか前倒して戻し。
「ど……りゃっ!」
 未だに視界を覆う黒い物体を引っ掴むと、足を降ろした反動を用いて一気にべりっと剥がした。
 果たして眼前、現れたその姿は――
「にー」
「……猫、一体どこから?」
 靄の体毛を散らしながら金の眼を細めて笑う猫へ、その背を掴んだまま問うてみる。
 昨日、哀愁を帯びた背中を見せつつ去っていった小さな獣は、今朝もこれまでの道中でも姿を見せる事はなかったはずである。
 だというのに、今ここに居るのは何故か。
 先回り? と考えた泉だったが、そうであれば最初から共に来ただろうと思い直す。
 自由を好む猫が、わざわざ先の行動を制限するような真似はしないと踏んで。
 果たして泉のその考えは正しく、答えたのは彼女の前を歩いていた黒衣の店主。
「ここからだよ」
 半身を逸らしては、自身の懐を小さく引っ張った。
「へ? ここからって――――ワーズさんの服の中?」
 猫のサイズは伸縮自在、虎サイズにもなれれば泉の袖に隠れられるほど小さくもなれる。
 であるならば、袖よりも大きいワーズの懐に入っていても何ら不思議はない――訳がない。
「みー」
 泉の意見を真っ向から否定する、嫌そうな鳴き声が猫から上がった。
 仲が悪いのとはまた違うのだろうが、ワーズが猫を「食べちゃいたいくらい愛してる」と宣言している以上、捕食者の懐に隠れる獲物なぞいはしまい。
 ワーズが真実、猫の捕食者足り得るかは別としても。
 抗議を受けて店主からそちらを見やれば、半眼の金色が泉を迎えた。
「ええと、ご、御免ね?」
「なぅ」
 軽く手を挙げ謝ったなら、「分かればよろしい」とばかりに頷いた猫が、背中を抓む手から逃れて地に降り立つ。
 次いでふるふる身体を震わせては、舞い散る靄を尻尾で一払い。
「猫は芥屋の物置を通って来たんだよ。ボクの服は物置と繋がっているからさ」
「ああ、なるほど」
「ちなみに最初から来なかったのは、拗ねてたからで」
「みゃっ!」
 へらりとしたワーズの言を遮るように、短く鋭く鳴く猫。
 一瞬きょとんとした泉は昨日のやり取りをもう一度思い出し、頬を掻いては足元の黒い身体をひょいと持ち上げた。
 背中を支えるようにして腕に抱いたなら、バツが悪そうに猫の顔がそっぽを向く。
 かといって身体を預けている分には機嫌も悪くないのだろう。
 取り成すべく首筋を掬い撫でれば、ゴロゴロと喉を鳴らして泉の手を前足で掴む。
 ふにっとした肉球の感触を受け、先程までの暗い気持ちが解れてゆくのを感じた。
 タイミングから察するに、泉と不可思議な繋がりを持つ猫は、彼女に渦巻いていた不穏な考えを止めに来てくれたのかもしれない。

 お陰で。

 そう、よね。曲がりなりにもシウォンさんは使う気はなかったって言っていたんだし。自分の考えだけで凝り固まってしまったら駄目よね。

 ――から始まり。

 まあ、多少……いや結構……ううんだいぶ、強引な思考の人だけど。使わなくても勝手に人の気持ちを決めちゃう人だけど。

 ――これまでの経緯を走馬灯のように思い浮かべ。

 …………………………うん、駄目だわ。どの道、シウォンさんと二人きりは危険過ぎる。
 今までだって、他の人が居たから無事だった場面が大半だったもの。
 悪感情は最初ほどないけど、気を許したら最後って思わなくちゃ。

 ――最終的にシウォン=危険人物という図式が改めて完成した。


 そしてそれと同時に、泉はワーズへの想いを頑なに拒む自身の気持ちにも思い当たる。
 恋腐魚の効力を消したいと願う、本当の理由。
 幾ら否定したところでワーズさんに好意を抱いているのは確かだわ。でもそれが何かのせいになるのが嫌なんだ。
 自分の想いや見てきたその人の姿が、故意に捻じ曲げられるのは苦しい。
 自分に対しても、相手に対しても、不誠実極まりない事だから。
「感謝、しなくちゃね?」
「みぃ?」
 その点に関しては、思い至らせてくれたシウォンに。
 もしかしたら彼も、同じような想いがあって後悔を口にしたのかもしれない。
 ――危険の認識に変わりはないけれども。
 猫を甘やかすようにして撫で続けたなら、前方のワーズが歩みを再開し出す。
 これを追って止めていた足を踏み出せば、慌てて隣に並んだニアがおずおずと泉の腕の中の猫を見やった。
「昨日は貴方の膝の上で大人しくしていたから、あんまり実感沸かなかったけど……改めて見るとやっぱ凄いわね、泉。人魚って言うより猛獣使いじゃない?」
「もっ、もうじゅう……」
 人魚=魔性の女呼ばわりは未だに、否、これからも慣れる事はないだろうが、今現在の猫の姿に似つかわしくない表現も、素直に頷けるものではなかった。
 ニアもその点は承知しているのか、猫に視線を落とした泉に「いや、猫は勿論だけど」と言いつつ、視線をひょいと流して後ろを示した。
「奇人街最強の獣を掌握しているからとはいえ、人狼が人間を怖れる日が来るなんてね。しかも私と大差ない齢だし。しかもしかも、パパまで手懐けちゃって」
「て、手懐けって……ニアさん、そういう表現はちょっと」
 自身の種でもあるはずの人狼を「猛獣」に加えたニアは、泉の反論へ少しばかり唇を尖らせた。
 かといってそれは、反論に対しての反論のためではなく。
「……うーん、あのさ泉。さっきから気になってたんだけど」
「はい?」
「敬語は、まあ、いいとしても」
「?」
「私は呼び捨てなのに、貴方がさん付けで呼ぶのって、何か違和感ある」
「え、と。じゃ、じゃあ、ニア…………………………さん」
 ニアの訂正に照れつつも応えようとし、結局照れに負けて逃げに走った泉。
 ニアはこれを不服として断固争う姿勢で叫んだ。
「くぁっ! 足すな、足すんじゃない! 乳まで揉んだ仲なのにっ!」
「そこ全然関係ないじゃないですか! というか私は被害者ですよ!? もうっ、あなたなんかニアさんで充分です!」
「酷いっ! じゃあ私も呼んでやるわ、泉さん!……うわ〜ん、何か気持ち悪いぃ。これじゃあラン・ホングスと同じ口調じゃない! 酷い、酷いよ泉さぁん! ラン・ホングスなんて惨すぎるぅ〜」
「……どういう話の流れで貶されてんだ、俺?」
 顔を覆うニアに泉が毒気を抜かれた面持ちとなれば、後方のランから形容し難い貧相な呟きが零れ出た。

*  *  *

 ニアが落ち着きを取り戻しても、先を行く足は止まらず前を目指して進み、泉の聴覚が捉える音も、乗じて一行が起こす動きに限られていく。
 うだる暑さと無音の夏山に程なく嫌気が差して来たなら、重みも熱もあまり感じられない、どちらかと言えば触れている方が快適な猫を抱いた泉の頭が、きょろきょろ左右を向いた。
「な、んか、あった? 泉……さん?」
 未だに呼び捨てなかった事への反発があるのか、言いにくそうに「さん」を付け足したニア。
 対する泉は気にもせず、小さく頷いた。
「ええ、まあ。……さっきの、ええと、蛾? でしたっけ。どこにもいない、なーっと思い、まして」
「ああ、アレね。それは、まあ、そうじゃない? 何せ、猫がいるんだもの。幽鬼より強くて、幽鬼より見境ない相手、野生動物なら、まず避けて通るわ」
「な、なるほど……」
 言いつつ、泉はもう一度辺りを見渡した。
 さっきより静かだなとは思ったけど、そういう事なのかしら?
 となれば、それから今現在の音を引いた音の数が、先程まで居た蛾の数と言う事になる。
 うっ……ちょっと、ううん、だいぶ嫌かも。
 思った端からぞぞぞと這い上がる悪寒。
 一個体では可愛らしくとも、猟奇的な捕食シーンを同族を用いてやってのけた種である。
 うじゃうじゃ蠢く蛾の集団が頭を占拠してきたなら、泉は首を振ってこれを払った。
 そうして気を取り直すように前を睨んだ泉は、黒と水色の背中を通り越した空の色を見て、はたと思い出した事柄に表情を固まらせた。
「そうだわ。蛾の事、ばかり、怖がって、しまった、けど、夜になったら、幽鬼が――」
「出ないわよ」
 条件反射のように否定がなされた。
 あまりの早さに驚き、暮れ始めた空からニアへと視線を移せば、虚ろな目で前だけを見る口が疲労感たっぷりに開かれる。
「幽鬼が、騒山に、いられるのは、あの場所だけ、だから」
「え……と、どうして」
「ど・う・し・て・も・よっ! 理由なんて、どうだって、いいでしょ? 来ないったら、来ないんだから――って、ああもうっ! いつまで歩かせるつもりよっ!!」
 勝手に答えたニアが、いきなりキレ始める。
 ぐしゃぐしゃと頭を掻き乱したかと思えば、自分の頬の肉を手の平で押さえて下に引っ張り出した。
 美しくも愛らしい、絶妙な美貌が台無しである。
 けれどもニア自身は構う事なく、その顔のまま首を横に小さく振り始めた。
「あー、もー、いやー、だめー……インドア派なのに、インドア派なのに、どうして私、こんな山の中で、ひぃひぃ言ってんの? もーやだー、お家帰りたいぃー」
「に、ニアさん……」
 壊れた?
 怒りの次の泣き言に泉は戸惑い、助けを求めるように前方、黒い背中を見た――が、すぐに目を逸らした。
 駄目だわ。この状況でワーズさん頼ったら、絶対あの人、碌な事言わない。
 寧ろ悪化する。
 早々に頼る相手を後方へ求めた泉は、途端にばっちり合ってしまった緑の眼をそれとなく外す。
 そのせいで視界の隅、若干足取りが止まったのは錯覚として処理し、次に見つけたのはニアとの関係がいまいち分からない司楼。
 しかして彼は泉の視線に気づくなり首を振り、これを咎めるような上司の手に頭を鷲掴みにされてしまった。
 後ろに仰け反る微笑ましい光景から、次に泉が急いで視線を移したのはラン――を飛ばしたエン。
 何も出来ないのは確かだが、本当にスルーされるとは思わず項垂れる冴えない男を余所に、意気揚々とやって来た包帯男はニアを追い越しその前へ。
 くるりと振り向き、何もないところで転んだとは思えない足運びで後ろ向きに山を登るエンは、煙管から煙をぷかり漂わせて後、ニアの手をゆっくり頬から剥がして、自身の包帯の手をそこへ押し当てた。
 ぴょこぴょこ、煙管が上下に振られる事、数回。
「んー……ちょっと熱っぽいかな? 歩き通しで疲れちゃったんだね、きっと。人間だったら危険だけど人狼だし、少し休めば元通りになるよ。でも……なんだったら私がおぶろうか?」
「結構、よ」
 エンの手を頬に張り付かせたニアが唇を尖らせた。
 だがそれは、おぶられる事自体が恥ずかしいなどという話ではないようで。
「齢は、重ねていても、私より、生きている、時間、短い奴に、おぶられる、なんて。せめて、20年、くらい、生きてから、言って、頂戴!」
「…………」
 長く生きた者としてのプライドか、はたまた負担になりたくないという優しさか、もしくは両方か。
 見た目は我が侭なお嬢様が色濃いニアだが、人に頼るのを良しとしない性格のようだ。
 ここに至るまでも、泉のように誰かへ縋ったりせずに、隣で歩き続けていた。
 そういうところもシウォンに似ていると思えば、困ったようなエンの包帯面が泉に向けられた。
 ニアから得られなかった了承を代わりに求める視線。
 包帯越しでは目など見えないが、確かに感じたエンの意を汲み取り、泉は思った。
 頼るのが嫌だって言われると難しいところだけど。……でもそういうのって、いざっていう時大変よね。私も奇人街に来る前は誰にも頼らないって気を張っていたけれど。手助けしてくれる人がいるなら、助けて貰った方が良いもの。
 いつしか自然に誰かに頼ろうと思えるようになったのは、奇人街という街のせいか、ワーズというお節介な変人のせいか。
 何もかもべったり頼りっぱなしは自分を駄目にしていく一方だが、一人きりで生きていけると助けを突っぱねる事もまた、自分を駄目にしていく原因に繋がる。
 どう足掻いてみたところで人を知る人は、人の枠組みから離れては生きていけないものだから。
 ……まあ、ニアさんは人狼なんですけどね。
 苦笑を零して口の端を上げた泉は、視界の端をひらひら掠める黒衣の男をそれとなく捉え、突っぱねるならワーズを真似して無理矢理介入すれば良い、とエンに向かって小さく頷いてみせた。
 これにより解決の糸口を見つけた医者は、ぱぁっと明るい雰囲気を撒き散らすと前を向き、有無を言わさずニアの身体を掬い上げるようにして一気におぶる。
「ちょっ!? 何勝手におぶってんのよ! いいって言ってんでしょ! 放しなさい、私って結構重いんだからっ!」
 抱えられた足は動かさず、ぽかぽかエンの背中を叩くニア。
 手加減はしているのだろうが、それにしても力のない叩き方に、だいぶ疲弊していたのだと知れた。
 そんなニアに対し、エンは「スイが良いって言ったから」とは決して言わず。
「うん、重いね」
「ぐっ」
 普通、そこは重くても「そんなことない」と言うべきだろうに、容赦ないエンの感想を受けてニアの抵抗が宙で固まった。
 泉も流石にショックを受け、エンにおぶられるような機会は作らないでおこうと固く決意する。
 けれども当の医者は少女二人のビミョーな乙女心なんぞを慮る気配すらなく、ニアの身体を弾ませバランスを整えては、煙を下に向けて吐き出した。
「でもね、気絶しちゃうともっと重くなっちゃうんだよ。意識がある内は、相手の方も自分でバランスを取ってくれるからおぶりやすいの。それに私は医者だから、患者がどれだけ嫌だって言っても、しなきゃいけない事はするんだ。たとえば、薬が苦いっていうならあまり苦くならないよう努力はするけど、それでも駄目なら逆に物凄く苦い薬作って最終的には無理矢理口をこじ開けて舌の上に置いて味わって貰ってね、大人しく飲んでくれるなら次はマシな薬出しますよーって」
「うっ」
「たとえば、注射が怖いって言うなら少しでも恐怖を取り除けるよう努力はするけど、どうしたって怖いって言うなら逆に物凄く痛い場所に一回刺しちゃって、次はこれよりマシなところがあるんですよーってオススメするし」
「ううっ」
 煙管をぴょこぴょこ上下にフリフリ、乗ってきたのか「たとえば」を連発するエン。
 恐怖という程ではないが、地味に嫌な話を背中で聞かされるニアは徐々に抵抗力を失い、最後には「わ、分かったから。もう言わないで」とギブアップを宣言した。
 こうした彼らのやり取りを隣で聞く羽目になった泉は思う。
 腕の中で眠る猫を優しげに見つめながら。

 ……医者としてのエン先生には、なるべく逆らわない方が良いわね、と。

 

 


UP 2010/5/24 かなぶん

修正 2010/9/24

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