妖精の章 四十一

  

 意気揚々と歩いていた足取りは既に重く、それにも増して圧し掛かる荷物に肩が外れそうな気分を味わう。
 黙々と、脇目も振らずに歩いて来た憶えはないのだが、気づけば獣道。
 やけに静かな山の中、自分の呼吸音だけが煩く響いていた。
 もう少しで山小屋、もしくは町の灯りくらい見えたって良いはずなのに。
 袖を捲くって薄闇を掻い潜り、時計を確認すれば夕暮れ時。
 見上げる木々は影絵のように黒く、背後に控える空は薄桃と濃い紫のグラデーション。
 なんともミステリアスな様相である。
 登頂には至らずとも何度か挑戦してきた山、しかも通ったのは特別危険でもない人通りのあるコース。
 数多の山を登ってきた自分にしては、かなり甘やかした選択をしたはずなのだが。
「お、お腹減った……」
 うっかり山小屋でカレーでも、なんて考えていたのが間違いかしら。
 携帯食は未だ健在。
 だがもし、現在の自分の状況が遭難だったなら、細々食い繋いでいくしかない。
 我慢が出来なくなる寸前の、すこし前くらいで食そう。
 そんな風に思っていれば耳に痛い静寂を遠ざける、人の話し声が聞こえてきた。
 登山初日。
 助かったと思い、声のする方をひたすら目指す。
 脇目も振らず一心に。
 なればこそ彼女は気づかなかった。
 この話し声の一団が山にいなければ、とっくの昔に彼女の命は無数の蛾によって食い尽くされていた事に。

 けれども草むらに生息する小さな個体を一つも視認しなかった彼女に、気づくべき陰惨な未来など何処にも在りはしない。

*  *  *

「今日はこの先の広場で野宿しよう」とワーズが言った矢先、黒いマニキュアの指した草むらがガサガサ音を立てて揺れた。
 「ひぃっ」と元気良く声を上げたのはそこから近い竹平だけ。
 後は皆、得体の知れない遠くの草むらより、内に溜まった疲労感への反応を優先させていた。
 やがて暗がりの空の下、黒ずむ草むらの中から現れたのは――
「おや。皆々様方お揃いで。想像よりも遅いくらいでしたな?」
「ひ、鳥、さん……?」
 草むらに半分身体を埋めるようにして現れた目深帽の少女。
 山でも変わらぬ軽装に思わず泉が振り向けば、人狼たちの前を歩いていたはずの少女の姿は勿論の事、傍にいた鳥人の少年の姿も消え失せていた。
 いつの間に――そう首を傾げかけたなら、察した様子の緋鳥が先に言葉を発した。
「夏山でしたからな。霧を抜けて程なくあの軟弱者めがへばりまして。朝の内に先回りし、今の今まで待機しておりました。この先、小川が近くにあるためか涼しく、崖も近いせいか風の通りもまた良好。休むには最適かと存知まする」
 これまで無口だった反動のように、水を得た魚の如く生き生きと語る緋鳥。
 他の口が開くのを遮り「ささっ、こちらへどうぞ」と草むらを先行しては、合成獣の案内を疎んじる店主が、へらりとした笑みの中に毒々しい気配を漂わせ始める。
 かといって反対する素振りも見せずに黒一色が草むらへ入ったなら、渋々恐々竹平が後に続いた。
 となれば騒山初心者の泉は従うのみ。
 腕に抱いたままの猫に草が掛からぬよう注意を払って進むと、夜とは違う影に染まった緑の隙間から眩い光が零れてきた。
 葉と葉の擦れる音の煩さを掻い潜り、何処彼処に葉っぱを付け、ようやく草むらを出た泉はその先で、近づく度増していた光源の姿を目にした。
 草むらに囲まれた開けた場所で、幾度も爆ぜながら煌々と照る中央の焚き火。
 少しばかり離れたところで伏す人影は。
「……やあ、皆…………お、疲れ、様………………道中、大丈夫、だった、か、な……………………」
「フェイ・シェン! この馬鹿! 無理に起きようとするな! 身体に障ってしまうだろうが!」
 自分の方こそ大丈夫かと問い掛けたくなるほど、ぐったりとしたフェイが身を起こそうとしたなら、緋鳥が声を荒げて制止を促す。
 生まれたての小鹿宜しく、覚束ない腕が自身の身体を支えようとすれば、それよりも先に着いた緋鳥がフェイの肩を優しく抱き取った。
 己の欲望に忠実である緋鳥しか見た事がなかった泉、茫然と立ち竦んだその横からニアを背負ったエンが彼らの下へ駆けていく。
 隣に誰もいなくなり泉の足が自然、広場の入り口に佇むワーズと竹平のところまで移動すると、後ろからぞろぞろ続く者たちも焚き火には寄らず、泉たちとは逆の草むらの境で立ったまま。
 最後に現れたシウォンが泉の隣に落ち着けば、何となく女を侍らせた状態の彼を見上げたこげ茶の瞳は、次いでフェイへと視点を変える。
 が、しかし。
 ――え?
 すぐさま強い視線を感じた泉、驚いて今一度シウォンの顔を見やったなら。
「っ!」
 シウォンに侍る女が人狼姿へと変貌を遂げていた。
 どうにか声を出さずに済んだとはいえ、相も変わらず人間に似た容姿から一瞬で変化する獣面に、漏れそうだった悲鳴をごっくんと飲み込む。
 最初の頃から見ればだいぶマシになったとはいえ、こびりついた人狼への恐怖はそう簡単に拭い去れるものではない。
 それが男であった場合は特に。
 ……あれ? シウォンさんは変わっていない?
 と、ここで泉はシウォンの姿が人間に似たままである事に気づいた。
 焚き火に照らし出された美貌はいつもより艶めき、作り出された陰影は静かな憂いを落とす。
 恋愛感情はないにしても目を惹く横顔に見惚れた泉は、その口元から漂う煙の存在を知ると、慌てて鼻と口を手で覆った。
 そ、そうだったそうだった。あの煙、人狼だったら本性を抑えて、人間が吸った場合は喫煙者の思い通りになっちゃうのよね。
 完全に忘れていた訳ではないが、愛煙家のエンがあまりにも近くでスパスパ吸っていたため、油断していたのは確かである。
 泉の愛人を自称している割に、彼女が彼女らしくある事を望むエンとは違い、シウォンは再三、自分を想うよう強要して来た節があった。
 ゆえに心持ち身体半分シウォンから離れた泉は、改めてフェイの方へと視線を戻した。
 途端。
 ! なっ、あ、あれはっっ!!?
 ある事を目撃したこげ茶の瞳が大きく開かれ、そして――

*  *  *

 注射一本と安静を言いつけて終わりを迎えたフェイの診察。
 その間、エンから降ろされたニアは、人狼特有の驚異的な回復力により復活を遂げていた。
 すっくと立ち上がっては肩を回し、倒れた神童の姿を遠巻きに眺める連中を冷ややかに見つめる。
 ニアが大きく動いても、同族の視線は神童に釘付けられたまま。
 怖いなら、来なければ良かったのに。
 綾音泉を父・シウォンが追うと決めた時、ニアはてっきり、共に行くのは自分と、ついでに司楼くらいだろうと考えていた。
 だというのにここまで大人数になってしまったのは、怯える同族の中に在って、どこも見ていない目で神童を映し続ける司楼のせい。
 何を思ってか、騒山へ行く事を群れ全体に知らしめたせいだった。
 全く……やり辛いったらありゃしない。
 胸内で司楼に毒づいたニアは、視線の先をシウォンに変えるなり柳眉を顰めた。
 あの女……また私のパパに近づいて。どういうつもりなのかしら?
 綾音泉がどういう相手なのか詳しく探るため、こうして行動を共にしているものの、それだけに彼女の動きは解せなかった。
 他の男へ目を向けながら、シウォンの傍に居続けられる神経を疑う。
 とはいえニアが今優先すべきは別の事柄。
 フェイの安全がエンより保障されれば、鳥人の逆恨みを怖れ留まっていた同族が動き始める。
 これを視界に入れつつ、ニアも泉の下へ戻りかけ。
「ニア」
「はいっ! 如何致しまして、パパ!?」
「ぎゃっ!?」
 シウォンの呼びかけを耳にしたニアは、瞬時にそちらへ身体ごと移動し、ついでに愛しのパパにへばりついていた女を体当たりで引き剥がした。
 “糸”を使わずともそこらの人狼に引けを取らないニアに対し、地に伏した女は憎たらしいと睨みつけてくるが慣れたもの。
 一々反応していたらきりがないと女を無視したニアは、それよりも最優先事項であるシウォンに向かい、恋する乙女の格好でキラキラした深緑の目を瞬かせた。
 喫煙中であるため人間に似た容姿となっているシウォンの口角が、ひくくっと引き攣るのを認めながら。
「……あー何だ。“糸”を張れ」
「あ、はい。畏まりまして」
 特に何かを期待していた訳ではないが、用件の意外性の無さに少しだけつまらなさが滲んだ。
 右の耳飾りに指を当て、そこから視認出来る状態の“糸”を短く引いたニアは続け様、“糸”を持つ右手を上下に一回大きく振ると、宙で湾曲したところを狙い今度は無造作に横へ払う。
 最中、本来の不可視の細さまで解した“糸”を少しずつ離していく。
 勢いに乗って草むらへ向かう“糸”の先に障害物があれば、最初に離した一本を取った左手で進路を調節する。
 “糸”の存在に気づかない者にとっては、微風が触れた程度で認識される事だろう。
 誰もそれが、ニアの調節なしでは、自身の身体を切り刻むとは思ってもみないに違いない。
 “糸”の動きを追えるのは、パパとラン・ホングス、何故か着いて来た二の楼の天青宮、緋鳥に猫、それから…………司楼。
 周囲に“糸”を張りながら、つい癖で他者の実力を測るニア。
 幼少の頃ならまだしも、今では“糸”を知覚出来る者が多数存在すると知っているため、“糸”を張る場合には観察を怠らないようにしていた。
 爪よりも牙よりも使い慣れた“糸”だからこそ、その存在を知る相手は強敵に為り得る、と。
 ……その中に司楼がいるのは気に食わないけどね。
 心の中だけで呟き、獣面の奥歯をぎりりと鳴らす。
 今現在彼女が使っている“糸”は、彼女が改良を重ね続けた代物ではなく、芥屋の二階に住むという奇妙な人間が作ったモノだった。
 無論、半ば軟禁生活を送っていたニアにその人間との面識はない。
 それが何故“糸”を入手するに至ったのかといえば、先程からニアが敵視している司楼から渡されたのである。
 ――ある事への謝罪の意を込めて。
 いつ何時思い出しても腸の煮えくり返る記憶に呑まれかけたニアは、はっと我に返ると頭を振って邪念を払い、その間にも動き続けていた“糸”の流れを把握した。
 許す許さないで言ったら、絶対許しはしないわ。でも、それと有能かどうかは別だもの。
 この“糸”にしても、司楼自身の実力にしても。
 だからこそ怒り狂うニアに対して、司楼はプレゼントという暴挙に出られたとも言える。
 感情に任せて見誤る事を良しとせず、使えるモノは使う――そんなニアを知っているから。
 ……って、余計に腹立つ話よね、それ。
 考えれば考えるほど戻る苛立ちを消すべく、再び“糸”へ意識を集中させたニアは、概ね周囲を覆ったところで、右耳から伸びる“糸”の根元を削ぎ落とした。
 無駄な跳ねは左手で修正し、枝葉を落とさぬよう巡らせる。
 こうして出来上がった“糸”の壁だが、その目的は索敵に限られており殺傷能力は皆無である。
 しかしてシウォンの望みはそれで充分果たされるだろう。
 何せ物理的にこちらを襲撃して勝てる相手なぞ、この騒山にはいないのだ。
 索敵とて、あれば良い程度。
 そもそも人狼の中でもずば抜けて能力の高いシウォンには、この索敵さえ最初から不要のはず――なのだが。
 泉がいなければ、ね。パパったら泉に意識集中し過ぎていて、だいぶ感覚鈍っているみたいだし。
 もしもその相手が自分だったなら、こんなに嬉しい事はないのに。
 虚しい妄想を働かせては夢見心地にシウォンを見上げ、どんな相手であろうとも臆しない父の怯む姿を前に、ニアは溜息混じりの言葉を発した。
「張り終わりましたわ」
「ああ」
 労いもなく頷くだけのシウォンを視界に納め、だからと追い縋る事なく彼から離れる。
 最優先が終われば、優先へ。
 後ろ髪を引かれる思いを振り払い、同族たちより少し離れた木の下で一人座る泉のところへ向かう。
 他の芥屋関係者は、店主と赤い髪の少年は焚き火の近くで、先程まで泉に抱えられていた猫は彼女から少し離れた場所で座っていた。
 猫の視線の先を見るに人狼たちを牽制しているらしい。
 以前、泉が同族の男たちに襲われたという話は聞いていたが、目溢しのように通された自分にちょっぴり複雑な気分を味わった。
 女であっても人狼、警戒ぐらいしてくれて良いモノを、これでは取るに足らないと言われている気分に陥ってしまう。
 実際、猫にとってはそうなのだとしても、もう少し気に掛けて欲しかった。
 ただ単に泉と親しげだったから見逃されただけなのかもしれないが、それはそれで恋の好敵手を自称するニアには凹む話である。
 ちなみに芥屋連中と共に行動していたラン・ホングスは、そんな猫の近くでそら恐ろしい外見に似合わない、膝を抱えた姿を披露していた。
 シウォンが恋慕の情を知ってからというもの、宿敵と定めた彼へ向ける眼が幾分緩んだせいで、群れの女たちに狙われる頻度が高くなったらしい。
 その動きを防ぐ意味であんなところにいるのだろうが、猫より女の方が怖い輩がシウォンを差し置いて人狼最強である事に、何だか遣る瀬無い気分を味わってしまう。
 これを払拭するべく視線を前にだけ固定したニアは、泉の前まで辿り着くと立ち止まり。
「……泉?」
 先程とは何かが違うその表情に片膝をついた。
 ニアの動きを追うこげ茶の瞳があるため、意識はしっかりしていると分かるのだが。
 焚き火の光に照らされているからではないだろう、妙に紅潮した頬、潤んだ瞳がニアの心をひやりとさせた。
 人狼の自分ですら具合の悪くなった登山、人間の泉では更に苦だった、という可能性もある。
 こんなところで泉に倒れられでもしたら、最悪死にでもしたのなら――
 ぱ、パパに殺される……!
 しかも形振り構わず、物のついでに一発で屠られるに違いない。
 若い身空、死ぬのは勿論嫌だが、そこまで仕様もない殺され方は御免だ。
 ここはあの医者の出番よね!
 思うが早いか身を翻しかけたニア。
 けれどもそれより先に泉の両手が彼女の顔に向かって伸ばされていく。
 次いできゅっと抓まれたのは、三角の両耳。
「い、泉?」
 頭でもやられてしまったのだろうか?
 理解に苦しむ行動へニアが困惑を投げかければ、うっとり泉の目が細められた。
「ぴくって動いた……か、可愛い…………」
「は、はい?」
 耳を触られたら誰だってこうなる――そう思ったニアは人間の場合は違うのだと考え直した。
 とはいえ、ふにふにされ続けるのは擽ったい。
「あ、あのね、泉」
 それとなく手を外させるべく試み、上質な黒の毛並みに覆われた白い爪を立てぬよう、泉の腕に手の平を押し当てる。
 夜になって冷えた肌の感触に上着を勧めた方が良いと思えば、耳から離れた手が今度はニアの手の甲に覆い被さった。
 くるりと返されては、広げられた手の平を踏んでいく泉の指。
「ぷにぷに……肉球…………」
 指圧?
 一瞬そんな言葉が過ぎるが、泉が重点的に押すのは指の腹と指の付け根にある、少し肉が盛り上がった毛の無い部分。
 耳とは違って擽ったくはないものの、どうせ押すならもうちょっと強めで他の部分もお願いしたいところである。
「??????」
 いまいち泉のやりたい事が分からないニアは、疑問符を浮かべながら小首を傾げた。
 すると手に向けられていた泉の目がふいにこちらを見つめ、蕩けそうなほどの微笑み浮かべ出した。
 途端、人間相手に癪ではあるが、ニアの胸に去来する嫌な予感。
 逃げなければ、と思う反面、何故人狼が人間に背を向けねばならないのか、という思いが交錯する。
 結局どちらも選択出来ずに留まったなら、今になって恍惚の表情だったのだと分かる顔つきで泉が言った。
「ニアさん……ニアさんはどうしてそんなに小さくなってるの?」
「え? ち、小さいって……ああ、これ?」
 いきなりの質問には戸惑えど、これまでの反応よりは分かりやすいと自分の身体へ視線を落とす。
 人間に似た姿の時よりも全てが小さくなっている、未熟なその姿へ。
「それは私がまだ大人じゃないから。子どもでも20年くらい生きてたら本性も完全に出て来るんだけど」
 ニアと同い年である司楼の人狼姿は違う。
 加齢の条件を知る司楼は人間に似た姿とほぼ同じ背丈で変化するのだが、子どもであるニアはそれよりも頭一つ分小さくなってしまう。
 種の性質へケチをつけても仕方ないものの、人間に似た姿でも司楼に勝てぬ身長差の開きに、実はコンプレックスを抱いているというのは秘密だ。
 だが泉にとってニアの秘密なぞはどうでも良い事なのだろう。
 質問して来た割に「ふ〜ん」と分かっているのかいないのか、判別が難しい返答をした泉は続けて別の問いをしてきた。
「ニアさんはどうしてそんなに毛並みが良いの?」
「それはまあ、手入れをしているから、かしら? 好きな人のために綺麗でいたいっていう女心は私にだって――」
「ニアさんはどうしてそんなに目が綺麗なの?」
「ぁう? い、いきなり質問が変わったわね……まあいいけど。私の目が綺麗ってそれは……何故かしら? そもそも綺麗なんてあんまり言われた事な――」
「ニアさんはどうしてそんなに可愛らしいの?」
「……また違う質問? それに可愛らしいのって訊かれても答えられる訳ないじゃない。悪い気はしないけど」
「じゃあ私が代わりに答えますね」
「へ? 答えるって訊いてきたの貴方じゃ」
 矢継ぎ早、被せ被せの質問攻めに混乱するニアへ、にへらと締まりのない顔で笑った泉。
 生死や女としての危機感とはまた別の、得体の知れない恐怖がニアの背を駆け巡れば、そこから退く前に泉に取られたままの手がぐいっと引き寄せられた。
「わぎゃっ!?」
 バランスを崩して泉の方へ倒れ込めば、すっぽり腕の中に納まってしまう身体。
 慌てて泉の肩を押して離れようとしても体格差のある身、傷つけてはいけない人間相手にまさか本気で暴れられず、軽いパニック状態に陥ったニアへ楽しそうな囁きが訪れる。
「ニアさんが可愛いのは、ですね。それは勿論……私に可愛がられるためですよ」
「っ!!?」
 耳朶を震わせる柔らかな音色。
 同性にときめいた事など一度もないニアをして、その声は腰が砕けそうなほど甘く響いてきた。
 ずっと聴き続けていたいと願いつつも、これ以上聴けば気がふれてしまいそうなほどに。
 正に魔性の旋律。
 しかして一言で抗う力を奪われてしまったニアは、「わんこゲット〜」と妙な言葉を口にし頬を摺り寄せてくる泉から逃れられず。
 た、只の人間じゃなかったっけ? 何て声出すのよ、コイツ。しかもこの体温がまた……
 手を置いたままの泉の肩へ顎を乗せたニアは、心地良い温さに囚われ深緑の眼を細めた。
 その間にも泉の手はニアの頭を撫で回し、顔はふさふさの首元に埋まり――

 「おい!」と鋭く呼ぶ誰かの声にも耳を貸さず、小さいせいか狼よりも犬に近いニアに夢中になっていた泉。
 ニアが大人しいのを良い事に、好き勝手愛でようと暴走し続ける。

 ――かに見えたのだが。

「ぷはっ、やっと出られた! いやー、人が居て助か――――え、なに、このコスプレ軍団? こんな山の中で何して……?」
 背後の草むらから登山者スタイルの人物が何の前触れもなく現れたなら、目を真ん丸に見開いて一切の動きを止めた。

 

 


UP 2010/6/8 かなぶん

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