妖精の章 五十四

 

 泉が暗い考えに落ち込む時、ワーズなり猫なりがそれを止めるように動くことが、これまでにも度々あった。絶妙なタイミングを振り返れば、何故? と思うようなものばかりだが、知らぬ内に共有していたという泉と猫、猫とワーズの間の感覚のせいと分かった今では、奇妙な話ではあるが有り難く思う面もあった。――あったが。
(ない。これは、ない)
 脱衣所での一件に頭を重くさせながらも、何もないように振る舞い、案じるであろう猫の目を避けるように、膝にしたその頭を撫で続けていた泉。そこへ、「お待たせ」というワーズの声がかかったなら、やはり今の状態を隠すような笑みを携えてそちらを向き――即座に仮面の剥がれ落ちた顔を引きつらせた。
「ワーズさん……なんで、そんな」
「ん? どうかしたかい、泉嬢?」
 へらりと笑う、病的ではない白い面の中のいつもの血色の笑み。
 右のこめかみへ押し当てた銃口を支えに、傾ぐシルクハットもいつも通り。
 泉より上背のある身体を包む黒い帯締めの衣は、騒山を登るに辺り取り出し口が広いという理由で選ばれたもので、いつものコートとは違うものの、形状に変化はない。
 だが、そんなパーツは問題ではなかった。
 問題なのはそんなパーツ含むワーズの全身から、大量の湯気が立っている点。
(……む、蒸し風呂?)
 思い返しても温泉のあった場所には、脱衣所と洗い場、露天風呂以外は何もなかったはず。どうしてこうなっているのかさっぱり解らない泉が、剥いた目をいつの間にか離れていた史歩へ向けるが、温泉作りに貢献したという剣士もワーズの状態に引き気味だった。
 そんな中で唯一、ワーズの状態を「うっわ、ホッカホカ」と面白そうに見るだけの美津子が、笑いながら彼へ問うた。
「お兄さんお兄さん、すっごい湯気だけど、なんでこうなってんの?」
「ああ、コレかい? 最初は人狼汁に浸かるなんて御免だと思って、後で入ろうと思ったんだけど、よくよく考えてみたら、それって人狼如きにこのワーズ・メイク・ワーズが譲ってやったみたいでしょ? そう思ったら段々腹が立ってきて、とりあえず整備されていないとこで浸かってみたんだけど、それはそれでゴミ畜生どもに気を遣った風で、嫌で嫌で堪らなくなってきてさ。なら、あの露天風呂の源泉に入ってやろうと思ったんだけど」
「けど?」
「源泉のある洞窟に入ったところで、もっかい考えてみたらさ、あそこにはシン殿いるじゃない? それどころかあの場所自体、人間が汗水流して作り上げたものだと思っちゃったら、穢すわけにはいかないからさ」
「それで?」
「それでその場で延々悩んでいたら、もうシン殿上がった頃合いかなと思って、ここに戻ってきたんだ。まだ上がってないみたいで良かったけど」
「はあ、なるほど……?」
 経緯の半分に渡って、ワーズがどれほど人間以外を嫌っているのか聞かされた美津子が、最終的に呆気に取られた顔をする。
「ええと、それってつまり」
 それまでの相槌を引き継ぐように声を発した泉は、湯気に見切れる混沌の瞳が向けられる合間でワーズの話を整理し、少しずつ薄くなっていく湯気の出自を予想した。
「源泉のある洞窟で、蒸されちゃったってことですか?」
「うん。そだよ」
「へぇ……」
 間髪入れずに頷いたワーズに対し、泉の愛想笑いが引き攣った。
 秋の山に入ったとはいえ、まだ昼の時分。着込んでいればそこまで温度差はなく、脱衣所の出来事の直前、温泉から上がったばかりの身体から立った湯気は、今目の前にいるワーズほど上がってはいなかったはずだ。
 それなのに、この量。
(どれだけ熱いところにいたんだろう、この人。……言ったところで一応、人間じゃない部分で大丈夫、とか返されるのがオチだろうけど)
 決して短くない付き合い。言いたいことは色々あるが、真正面からぶつかってもヘラヘラのらりくらりと交わされるのは分かり切ったこと。
 これ以上突っ込んでも仕方がない、とため息をつきかけた泉は、けれどもふと気になって一点だけ改めて聞いてみた。
「あの、ワーズさん。穢すわけにはって、どういう意味ですか?」
 ワーズの話をそのままなぞれば、整備されていない湯に浸かったはずだ。それなのにその言い草では、まるでワーズ自身が穢れているという話になるのでは?
 釈然としない思いに駆られて眉根を寄せたなら、へらりとした白い面が何でもないことのように告げた。
「うん? だってほら、いくら一回浸かっているとはいえ、整備されていないとこならともかく、着衣のまま土足で源泉に入っちゃねえ?」
(…………)
 一時思考停止。
 泉が黙れば史歩か美津子か、誰かが言葉を継ぐかと思いきや、ワーズを知って間もない美津子はその前から目を点にしており、ワーズと長く交流している史歩は慣れた様子でため息一つ。
 再び泉が言葉を発したのは、やはりワーズほど湯気の立っていない男たちが脱衣所から出てきた頃だった。
「つまり……そのまま入ったんですか、お湯に。服を着たまま、履いたまま」
「んー……あれ、最初っからそう言ってなかったっけ? どうせ道中乾くと思って濡れたまま来て――あ、そっか。蒸されて乾いちゃってたら判らないか」
「……はあー」
 これは一本取られたっ!、とは言わないまでも、それに近い調子でへらへら納得するワーズに、泉はただただ深いため息をついた。

* * *

 戻ってきた竹平がワーズに上がったことを知らせれば、彼はただ別のところで入ったと答えるのみ。これに茶色の目が疑惑に満ち満ちた視線を向けるのを見た泉、以前そんな竹平と共に風呂に入らないとごねるワーズを剥こうとした経歴持ちの彼女は、今回はワーズの言う通りだとその肩を持った。その際、少しばかり疲れた様子だったのが効いたのだろう。竹平はそれ以上ワーズを追求せず、「お、おう。そうか……」と相槌を返すに留めてくれた。
 そんなこんなで温泉休憩を経て再び歩き出した、史歩を加えた芥屋メンバー。+αの緋鳥とフェイは、丁度フェイの体調が回復したこともあり、ワーズの嫌そうな笑みもどこ吹く風でその後ろに続く。更に後ろでは当然のようについてくる人狼一派。史歩との遭遇により男の数が半分ほど減ったが、泉の意識は数の変わらない女たちの方へ向けられていた。
(……ニアさん、こっちに来ないんだ。……ううん、今はありがたいけれど)
 歩き始めてからというもの、先頭を行く黒衣だけを追い続ける泉は、温泉で着替えた朱色の服の上で軽く拳を作った。
 脱衣所で襲ってきたのは瞳の色から人狼と断定できる。可能性の範囲には、未だ目を見たことのない緋鳥もいるが、泉の首を押さえつけて放たれた声の距離は、彼女の背丈で行うには無理があった。
(そういう意味ではニアさんも、私と同じくらいの背丈だから違うと判る。判ってはいるけど……)
 一度でも疑った負い目と、それでも襲ってきた相手がニアと同族であることと。
 きっと今、親しげに話しかけられたなら、ぎこちない接し方しかできなかっただろう。だからこそありがたいと思い――同時に、泉が襲われていたからこそこちらに来ない、という構図が出来上がってもいた。ニアが泉の近くに来る来ないは、その時々によって違っていたというのに。
「面倒くさいったら……」
「にゃ?」
 思わず呟いてしまった自分への評価に、少し先の坂を上がっていた猫が、何事かと立ち止まって振り返る。泉と奇妙な繋がりを持ち、彼女の心情を読み取ったような行動も見られる猫だが、それが発揮される場面は大抵決まっていた。
 泉が真に己を失い、他をも投げ出そうとする時――
 それ以外では、今のように泉の言葉へ伺うような金の瞳を向けてくる猫に、ふっと表情を綻ばせる。脱衣所の件で、だいぶ追い詰められている自分を感じていたが、猫のこの様子を見るに、思っているほど酷い状態ではないらしい。
 何でもないと首を振り、「ありがとう」と小さく礼を言ったなら、泉を離れて再び前を行く小さい影の獣。追って舞い上がる黒い靄に、泉が沈む思考を切り替えようと、もう一度首を振る――と。
「……楽しそうだな、綾音」
「っ、し、史歩さん……」
 首筋に当たるものは何もない。しかし、地の底から響いてくるような怒気が、刃の形を取って押し当てられる幻覚に、緩みかけた泉の意識が無駄に引き締まった。
 彼女の存在を忘れていたわけではない。証拠に、いつもであればこちらを振り返った猫へ手を伸ばすところを、見送るに留めたのだ。
 だというのに、この様子。
(そ、そういえば、お湯に浸かっている時から史歩さん、機嫌悪かったんだっけ)
 脱衣所でのことばかりに気を取られていたせいで、割と衝撃だったはずの史歩のアレやコレやをすっかり失念していた。元々沸点が低い史歩の怒りに、わざわざ大量の油を注いでしまったかと青くなる。
 それでも、そういう史歩の殺気からも度々守ってくれた猫が背を向けたままであることに、ほんの少し勇気を貰った泉は、ぎこちない笑みを精一杯貼り付けて史歩の方を向いた。
「た、楽しいというか、ほ、ほら、奇人街だとこういう紅葉ってないから、その、な、懐かしいなー……なんて」
 対史歩用に、咄嗟に思いついた感想を述べる。正直、秋山の紅葉に郷愁を覚える気持ちは本物だが、今はそれよりも何よりも、史歩の気を自分と猫から逸らすことが先決だ。
 けれども当の史歩は泉の焦りなど眼中にないのか、「そうか」と短く返事をすると、隣まで来て歩みを揃えてくる。
(どうしよう。き、気まずい)
 猫を前にして、史歩と並んで歩く。
 何の拷問だろうか。
 せっかく汗を流したというのに、緊張から来る冷や汗が泉の背中を流れていく。
(どうしたのかしら、史歩さん。いつもだったらこんな風に一緒に歩くなんてことないのに)
 猫相手の恋敵として、幾度となく洒落にならない白刃を向けてきた剣士。それが隣に来て以来、何も喋らず、前だけを見て黙々歩いているのを見るにつけ、段々と状況に慣れてきた泉はふと思った。
(そういえば、史歩さんとこんな風に並んで歩くのは初めてかも)
 長い、というには足りないが、互いに面識を持ってからそれなりに時間の経った間柄。望むと望まざるとに関わらず、奇人街に来てから色々あった泉だが、こうして史歩と共に行動するのは初めてだった。
(奇人街のこと、たくさん教えて貰っていたけれど、いつも私が訪ねるか、史歩さんが訪ねるかだったものね。そう思うと、なんだか新鮮)
「ん? 何だ?」
 うっかり自分の考えに没頭してしまったらしい。知らぬ間に史歩をじーっと見ていたことに、彼女の声で気づいた泉。一瞬、忘れていた恐怖が再燃するものの、紛らわすように指で頬を掻いては、考えていたことをそのまま口にした。
「いえ、珍しいなと思って」
「何が?」
「史歩さんとこうして並んで歩くって、新鮮だなと」
「ああ、言われてみればそうかもな。大概はお前、猫と一緒だから」
「は……あはははは」
 しまった。地雷を踏み抜いてしまったか。
 じろりと刃のように鋭い黒の眼光に射抜かれ、無意識に愛想笑いが引きつり、丁度上げた足が止まりかける。それでもなんとか史歩から離れようとする足を鼓舞して前へ下ろしたなら、何故か口を笑みに象った史歩が言った。
「まあ、それでも? 懐かしいというお前の気持ち、解らんでもない。私が最後に見た故郷の季節も、丁度秋の頃だったからな」
「…………」
 思わぬ話の流れに泉の目が丸くなる。
 最後に見た故郷というのは、奇人街に来る前のことなのか、それとも奇人街へ訪れるより前の話なのか。促すつもりはなかったものの、らしくない史歩の様子に沈黙を返せば、遠くを見つめるようにしていた目が、何かを振り切るように伏せられた。
「だからと言って、囚われてはいけないな。ここは騒山。気を緩めてはいけない。何かに気取られ、思い悩むこともな」
(史歩さんクラスで気を緩めてはいけないって……)
 言葉の通り、挑むような視線を前へ向ける史歩に、泉の顔がさっと青くなる。
 なんともなしに思い出されるのは、騒山へ行くと告げた時、シイが言っていた「心中」という単語。ついでに登山途中で見聞きした蛾や各山にいる主、今回の目的・影解妖の正体である妖精などが思い起こされたのなら、改めて自分のいる場所の危うさに気づかされた。
(どうして今頃――って、そこは考えるまでもないか。たぶん、自分で思っている以上に奇人街に慣れちゃっているんだ、私)
 たとえば隣で歩く剣士には何度も殺気を向けられ、実際に斬りつけられてもいる。猫や他の助けが望めないタイミングで遭ったなら、泉の命はとうの昔に消えていただろう。だというのに恐れながらも話せているのは、傍に猫がいる安心感だけではないはずだ。
(というか史歩さんの場合、猫が近くにいる方が危ないんだけど。……でも、私以上に奇人街に馴染んでいる史歩さんが、わざわざ気を緩めてはいけないって言うんだから、ここは奇人街以上に危険……なのよね)
 蛾の在り様や妖精の気配に戦慄しながらも、和気藹々とここまで来てしまったせいか、いまいち実感に乏しい。それでも史歩の様子に釣られて表情を引き締めかけた泉。途端に茶々を入れるような思考が己の内から振って湧いてきた。
「……なのに、温泉であんなことになるなんて。史歩さん、だいぶ緩んでいたのかしら?」
 気を引き締めていたら、結果が違ったかどうかは分からない。だが、少なくともいつもの史歩ならば、人狼の男たちが脱衣所から浴場へ出る前に気づけたはずだ。そうすれば、彼女が不特定多数に裸体を晒すことも、蜘蛛の子を散らすように逃げた彼らの全裸を、泉が直視することもなかったのではないか。
 あくまで過程の話ながら、うっかり見てしまったものを思い出しかけた泉は、頭を思いっきり振ることで不穏な記憶を遠くへ飛ばした。
 そうして再び登山に集中しようと前を見据えたなら、突然襲い来る横からの冷気に身体がビクリと震えた。言い知れぬ緊張感を伴うソレは、今までにも何度か体験している。列を乱す歩みにはならないよう、なんとか歩を進めたものの、どんどん強まる命の危機の気配が隣――史歩を見ないで行こうとすることを許さない。
(あ、あれ? もしかして、さっきの考え、口に出していた……?)
「綾音……」
「は、はい」
 あえて見ないようにしていたのがバレたというよりも、いい加減気づけとばかりにかけられた声。うっかり上擦った返事をしてしまったが、史歩はそこから泉の思惑を汲み取らず、それどころか今までで一番柔らかく聞こえる優しい声音で言う。
「いいことを教えてやろう。あの温泉はな、山の主の熱で温められているせいか、騒山の生き物は近づきたがらないんだ。だから、この山の中で唯一の安全地帯とも言える。肝心の主も行動範囲が決まっているからな」
「そ、そうなんですか」
(今になって温泉って、やっぱり口に出していたんだ……)
 にっこりと、史歩の内面を知らなければ、それはそれは美しい微笑みが怖い。どうしたって生返事になる泉を無視する史歩は、表情と声はどこまでもにこやかに続けた。
「だから、そうないことだが、もしもこの山で遭難したなら温かい場所を探すといいぞ?」
 そーなんですか、などと意図せず頷いてしまったなら、さしもの猫も守る間なく斬られそうな笑顔に、泉はコクコク頷いた。
 これを見ても史歩は表情を一切変えず、気配だけを一層冷たくして告げた。
「そうそう、それとな、綾音? あの温泉で見聞きさせてしまったことは、確かに私の不手際ではあるが、忘れた方が身のためだぞ?」
「見聞きって……あ、史歩さんの――」
「綾音。言った傍から忠告を破る奴の耳と舌は、ない方が世の為だと私は思うんだが、お前はどうだ? 耳を削ぎ落とされても、舌を切り落とされても仕方ないよなぁ? なあ?」
「…………」
 ぽんっ、と軽く肩に置かれた手が重い。頷くこと以外を許さないソレに歯向かう気のない泉が頷けば、ようやく笑顔を解いた史歩の真顔に、初めて安堵の息が出た。

 

 


UP 2017/11/02 かなぶん

 

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