妖精の章 五十五

 

 秋山に来ようとも、落ちる葉が視界の端を舞おうとも、やはり騒山に音はない。
 いつまで経っても慣れない感覚に知らずため息が漏れたなら、温泉を出発してからほどなく、周りを木々に囲われた開けた場所に出た。騒山を登ってからというもの、何度も似たような場所を休憩に使っているが、史歩曰く、これらもかつて奇人街に迷い込んだ人間が作り上げたものらしい。史歩の話を聞く分には、決して登山向きとは言い難い騒山なれど、奇人街にない魅力は尽きないらしい。
 うっかり温泉でテンションを上げてしまった泉としても、その後の顛末はどうあれ、そんな人間たちの気持ちは分からないでもない。
(それに、だからこそこうして休める訳だし。有り難く思わなくちゃ)
 ともすれば、危険を顧みない過去の人間たちへ、白い目を向けてしまいそうな自身を律し、切り開かれた空を見上げる。紅葉に囲まれた空には幾つか雲が見えるものの、晴天と言って良い景色は清々しい。休憩がてらの昼食を終えた今なら、このまま寝てしまえそうだ。
 騒山の特性上、実際寝たら最期になってしまいそうな気もするが。
「やれやれ、フラれちった」
 心地よさに目を閉じながらも不穏な想像をぼんやり浮かべれば、美津子の声がやってきた。視線をそちらへ向けたなら、言葉の割に楽しそうな様子で泉の傍に腰を下ろす。
 何ともなしに彼女の背後を見やれば、少し離れたところで気軽に話し合うランと竹平の姿があり、その奥にはまたしても倒れたフェイと診察するエン、口をへの字に曲げた緋鳥がいる。ワーズは丁度、泉と竹平の中間にある幹に背中を預けて座っており、その向かいでは人狼たちが思い思いに寛いでいる。猫はと言えば、どこにも属さない意思表示のように、広場の中央に陣取り丸くなっていた。
 そうして泉が再び美津子へと視線を戻したなら、小石でも敷いたのか、億劫そうに上げた尻を払う姿がある。
「フラれ……って、竹平さん、ですか?」
 今一度、美津子の言葉をなぞった泉は、疑わしそうに眉を寄せた。
 こうして共にしていると忘れがちになってしまうが、一応、竹平は芸能人。しかも美人と来た日には、好意を持っても不思議ではない。実際、元々惚れっぽい人魚が竹平にたくさん釣れたせいで、散々な目にもあっているのだから、彼の魅力について今更議論する必要もないだろう。
 だが、相手が椎名美津子という女性になると、事情が違ってくるのではないか、と短い付き合いながらも思ってしまった泉。
 どう見積もっても冗談としか取れなかったがために、表情にもそれを多分に乗せて表したなら、やはり傷つく様子もなく美津子は簡単に頷いた。
「そうそう、竹平君。彼はどうやら男の友情に生きていくらしい。まあ、ストレスは少ないに越したことはないからねえ。とはいえ、一部の方々には需要ありそうですけれども」
「?」
 何の話だろうか。
 美津子の話の展開についていけず、不思議そうに見たなら似たようなきょとんとした表情に迎えられた。しばし見詰め合えば、取り直すようにひらひら手を振った美津子が、今気づいたような顔で、近くの木に立ったまま寄りかかる史歩へ声をかける。
「ねえねえ、そこの剣士のお嬢さんや。何故に君はそこで立っているのかね。せっかくの休憩時間なのだから、ここに座ってみないかい?」
「ちょっ、美津子さん!?」
 はぐらかされたような話の変え方にはもやもやしたものの、いきなりの史歩への提案には、それらを一気に吹き飛ばす効力があった。ぺしぺしと自分の隣を叩いてみせる美津子に、泉があたふた史歩の方を見ながら行き場のない手踊りを披露する。
 そんな二人に柳眉を片方上げた史歩だが、ふっと息を一つ吐いては、首を振った。
「悪いが、すぐに動ける方が気楽でな。それと、美津子と言ったか。お前がどこまでここの説明を、あのちゃらんぽらんから聞いているかは知らんが、お前の齢がいくつだろうと、私はそれ以上の時を生きている。……若輩扱いは好かん」
「おっと。それは失敬」
 史歩が「ちゃらんぽらん」とワーズに向けた目でジロリと睨めば、ぱっと両手を上げる美津子。仕草はどこまでも道化染みていたが、史歩はそれ以上突っ込むことなく、フンと鼻を一つ鳴らしては視線を前へ投げた。
「……なんてーか、見た目の割に迫力あるわね、彼女。こう見えても美津子ちゃん、色々人馴れしているはずなんだけど、気後れしちゃうわ。……お風呂の時の可愛い感じも、この分だと突かない方が正解かね」
 終始悪ノリ傾向の美津子だが、馴れているという言葉の通り、人との付き合い方は心得ているらしい。対し、そんな彼女よりも史歩を知っているくせに、温泉での出来事を無意識とはいえ史歩の前で口にしてしまった泉は、小さく「そうですね」と相槌を打ちつつ、視線だけは僅かに逸らす。
 そんな泉を疑問に思わないのか、それとも分かっていて何も言わないのか、美津子はうんうん頷くと、ぐるりと周囲を見渡した。
「にしても、人間じゃないっていう人たちはともかく、泉ちゃんと竹平君って凄いわよねえ」
「へ? 何がですか?」
 唐突にしみじみ言われ、こげ茶の目が丸くなる。美津子の突拍子のなさは経験済みだが、その彼女をして凄いと言われる意味が分からない。
「いやさ。だって、泉ちゃんと竹平君って、私と同じところから来た人じゃない? けど、私と違って登山経験豊富って訳でもないでしょ?」
「それは、まあ……小さい頃は近くの山に登ったりもしましたけど、今は学校の行事で行くくらいですね」
 質問の意図が分からず、戸惑いながら答える泉。これにしたり顔でうんうん頷いた美津子は、一転して真面目な顔で言う。
「そうよねえ? でもさ、それならやっぱり凄いじゃない?」
「はあ、ですから何が」
「そんな経験豊富って訳でもなく、登山慣れもしていないのに、割と歩き詰めているにも関わらず、大して疲れていないってところがさ」
「……言われてみれば」
 ようやく理解した美津子の発言の意味。しかし、今度はそれ自体が不思議となって泉に困惑をもたらせば、答えはあっさり他方からやってきた。
「別に不思議でも何でもないよ。幽鬼の肉を食ったんだから」
「え?」
 呆気に取られて声のした方を見れば、ふらふらした足取りのワーズが、頭を銃口で叩きながら近づいてくる。そうして泉たちの傍で立ち止まり、銃を持つ右手をだらりと下げては、頭を左に傾げて困ったような笑みで泉を見た。
「っていうか、前に説明していなかったっけ、ボク」
「前に? 幽鬼の……って、栄養価が高いとか何とか……?」
 不出来な生徒を見るようなワーズの目に耐え兼ね、幽鬼関連の記憶を急いで探る。程なく浮かんできたのは、初めて幽鬼と遭遇し、散々な目に遭って後の食事風景。それすら散々だったと正確に思い返してしまったなら、うっかり視界に入れてしまったワーズの口元から慌てて目を逸らした。
 色々と、本当に色々と、その後もワーズの奇行や奇人街の騒ぎに巻き込まれたせいで、すっかり抜け落ちていたが、一度だけワーズと交わしてしまった口づけ――というには色気のないシチュエーションだったが。ともかく、恋腐魚(リゥフゥニ)の効果に惑わされていた時でさえ回避され続けていたその場面が、今になって掘り起こされたなら、泉の頬が自然と赤くなっていく。
 対して、当時よろしくそんな泉の調子に全く気付いていないワーズは、俯く泉へ疑問を投げかけることもなく、言葉で頷いてみせた。
「そうそう。だから傷の治りも早かったでしょ? それと同じで、幽鬼は身体的な疲労によく効くんだよ。スエ博士もそのことを知った一時期、寝ずに研究できるって喜んで食べてたねえ。まあ、最終的には味に飽きて、不眠不休で没頭できたのは一ヶ月が限度だったんだけど」
「それは……逆に大丈夫なの?」
「さあ? 身体的には問題なかったと思うよ? ただ、研究し過ぎちゃってちょっとだけ変わった行動が増えた気もするけど、気のせい止まりだったし」
「そうなんだ。食べ物のせい、いや、お陰なのね。私ゃてっきり、キジンガイ? とかいう場所のせいで変質してしまったんじゃないかって心配しちゃった」
「さすがに場所だけでそんなことにはならないよ。それに、そんな変化があるって分かっていたら、人間好きのワーズ・メイク・ワーズは人間を帰すことに尽力していたよ? せっかくの人間が、人間以外になるなんて許せないからね」
「ほうほう」
「…………」
 地面を見つめる泉の視界外で、ワーズと美津子のそんなやり取りが聞こえてくる。いつも通りのワーズの様子に、安堵と少しばかりのモヤモヤ感を抱いた泉は、しかしスエの話題には口の端をひくくっと引きつらせた。
(あれでも人間だから、スエさんが何をしても気にしないワーズさんなのに、わざわざちょっと変わっているって言うなんて……)
 想像するだに恐ろしい。
 フォローするように付け足された「気のせい止まり」ですら何の気休めにもならない。
 泉が一人戦々恐々としている合間にも、美津子が「ところでスエ博士ってどなた?」と尋ね、ワーズが「人間で博士をしている人だよ」と説明になっていない説明をする。これに「ふーん?」と曖昧に頷く美津子の声が、更なる答えを求めてこちらへ向けられた気もするが、世の中には知らなくて良いものもある。たとえ美津子が歴戦の勇者だろうとも、奇奇怪怪の権化なぞ、紹介したところで一利もあるまい。
(というか、スエさんに関わったら大体碌な目に遭わないような)
 初の幽鬼襲撃に際し、結果的に数体の幽鬼の只中に放置された泉然り、受け取ってしまったパンツのせいで、色んな意味で危うい目に遭わされた竹平然り。
 さすがに本人のいないところで彼の紹介をしても、何か障りが起こるわけではないだろうが、美津子の視線を顔の横に痛いほど感じながらも、泉は口を噤む。
(いや、ほら、昨日のワーズさんの話じゃ、美津子さん、早く帰れるみたいだし? もしかしたらスエさんと遭う機会もないかもしれないじゃないですか。それならやっぱり、あの人のことは何も知らない方が、これからの人生、平穏無事に過ごせる気がするんです)
 誰宛にもならない言い訳を心の中で続けること数秒。
「……で? 休憩は終了か?」
 史歩の声が聞こえてきたなら、美津子の顔がそちらへ向けられ、無言の追求から逃れられた気分の泉は、小さく息をつくと自身も剣士の方へ顔を上げた。
 合間にちらりとワーズの方を盗み見る。
(そっか。タイミング良く会話に入ってきたからあんまり違和感なかったけど、ワーズさん、さっきまであっちに座っていたんだもんね)
 人間好きを豪語するワーズだが、特に用もなく人間の会話に割り込むことはあまりない。それがこちらに移動してきたからには、そういうことなのだろうと泉が腰を上げかけたなら、ワーズが再びシルクハットを銃で小突き始めた。
「んー……そのつもりではあったんだけど。どうしようかねえ?」
「何がですか?」
 へらりと笑う血のように赤い口はそのままに、闇色の髪に紛れた眉が軽く寄る。下からだとよく見える表情の変化に、首を傾げた泉が近寄るのに合わせ、異変を感じ取ったらしい竹平とランがこちらへ近寄ってきた。
「目的地まではもうすぐ、なんだけど……ああ、やっぱり。たぶん、ダメだな、これは」
「あの、ですから何が?」
 意識しなければそれと気付かない端正な白い面を空に向け、混沌の瞳が遠くを見つめる。それだけで急に心細くなった泉が黒い袖を掴むと、これをやんわり引きはがしたワーズが面倒くさそうに言った。
「……変動が来る」
「へ――」
「変動!?」
 泉が言い終わるよりも早く、日中は冴えない青年姿になるランが、金色の瞳を丸くして叫んだ。途端に煩わしそうな笑みがワーズに浮かぶが、怯むことなく混乱した様子でランが尋ねる。
「変動って、なんでお前にそんなことが分かるんだよ?」
 未だかつて見たことのない疑わしい眼差しに、つられた泉がワーズを凝視すれば、ランには盛大な舌打ちが、泉には安心させるようないつものへらりとした笑みが向けられた。
「お前如きにお前って呼ばれるのは甚だ不愉快だけど……ま、ワーズ・メイク・ワーズは騒山生まれだからね。少しくらいは分かるんだ」
「初耳だな」
 軽い調子でワーズが肩を竦めれば、木から離れた史歩が近づきながら感想を口にする。
「ほほう。ではここは店主様の生まれ故郷! おお、なんと――」
「感動とかするなよ? ボクはここが嫌いなんだから」
 いつの間に近づいていたのか、泉の死角から緋鳥が感嘆の声を挙げかけ、ワーズがこれを禁じた。見ればフェイに肩を貸す姿があり、そのせいでいつもより棘のある声なのかとワーズへ視線を移せば、笑みのない不鮮明な表情が浮かんでいた。
 無表情とは違う、けれど、何と特定できない顔つき。
 複雑なそれに泉の眉根が自然と寄り――直後にぐらりと足元が脈打った。
「わわっ!?」
 泉が慌ててワーズの腕を掴む。
「な、なに、今の……?」
 辺りを見渡せば他も似たような感覚に襲われたのだろう、思い思いの反応を見せていた。地面を見る者、空を見上げる者、周囲へ視線を送る者――
「地震……では、ない感じね」
 美津子の断定的な感想にワーズを見上げれば、白い手がぽふっと泉の頭に置かれた。かといって続く言葉はこちらへは向けられず、美津子へ頷きを返す。
「うん。変動の予兆だね。といっても、割とすぐこの後に来るから、役に立たないけど」
「なるほど。何にせよ、休憩中で良かったってことね。一ヶ所に集まって、変動ってのが終わるのを待てばいいんでしょ?」
 動作は変わらぬ陽気さを保つ美津子だが、その声は心なし硬い。
 彼女が同行するようになってから、ここまで元いた場所と異なる現象がなかったせいだろうか。それとも、登山家としての経験が、未知との遭遇に自然と心構えをさせているのか。
 どちらにせよ、好奇心に満ちていた黒い瞳は静かな光を湛えており、泉もつられたようにごくっと喉を鳴らした。
(すぐ……って、ワーズさんは言っていたけど、一体いつ――)
 待つとなれば体感では長く感じられるものだ。意図せず集まる形になった芥屋メンバーから、泉の目が人狼たちの方へと向けられた、矢先。
 泉の耳に、音が、届く。

 

 ざりっ……、――と。

 

 


UP 2017/11/22 かなぶん

 

目次 

Copyright(c) 2014-2017 kanabun All Rights Reserved.

inserted by FC2 system