妖精の章 五十八

 

 さて、この状況をいかに打破しようか。
 そんな泉の悩みは、吹雪を避けるための洞窟に入った途端に解消された。
「っと、とと……」
 抱えられた格好から、下ろすというには些か投げやりに地面へ落とされ、尻もちをつかぬようバランスを取る。その間に、泉をここまで運んできたシウォンは、洞窟の奥へとスタスタ歩いて行ってしまう。
(ええと……)
 思っていたよりも簡単に得られた自由に惑い、洞窟の外と内を交互に見やる。だが、抱えられていた分、より一層感じる肌寒さに身震いした泉は、髪や服に残る雪を払いつつ、慌ててシウォンの後に続いた。
「……とりあえず、その背負っているヤツを漁っちゃどうだ? 言うのも癪だが、奴のこと、防寒具の一つでもあるだろう」
 泉がついて来たためではないだろうが、彼女が追い付く手前で助言が投げられる。少しばかり呆気に取られ、狼の後頭部を見つめていたなら、肩越しに鮮やかな緑がこちらへ向けられた。条件反射で緊張が走れば、これを嗤うようにシウォンの口の端が持ち上がる。
「それとも、俺が直に温めてやろうか?」
「え…………………………んりょ、して、おきます」
「なんだ、その妙な間は」
 うっかり空けてしまった泉の間に、何かを感じたシウォンが怪訝な顔をする。乗じて黒衣を纏う青黒い体躯が僅かに退いた。これにより自然と対峙する形となった泉は愛想笑いを浮かべ、シウォンはため息を一つ吐くと近くの岩壁を背に腰を下ろした。
 追求を断念した様子に、泉は内心ほっとする。
 まさか言えまい。
 空いた間の中で「え、いいんですか?」と喜びに目が輝きかけたとは。
 大方、そんな発想に至ったのは、彼の娘であるニアの姿が、人狼姿のシウォンと重なってしまったせいだろう。可愛いわんこ、とニアを弄り倒したしっぺ返しが、こんなところで現れるとは思ってもみなかった。加え、雪の中を彷徨ったせいなのか、詳しい仕組みは分からないが、現在のシウォンの青黒く艶めく毛並みはいつも以上にふっわふわもっこもこの冬毛仕様。確実に温かく、上質な手触りを想像したなら、一時くらい迷っても仕方ない――と、自らに弁明した泉は、シウォンの行動を習うように自身も岩壁へリュックを下ろした。
(しっかりしなさい、泉。相手は列記とした男性で、ただ撫でたり抱きついたりできる動物じゃないんだから)
 必死に飲み込んだ言葉の陰で思わず浮かんでしまった、シウォンの頭を撫でたり、抱きついたりする自分の姿。遅ればせながら生じる羞恥に頬をうっすら染めた泉は、これを誤魔化すようにリュックの中身を漁った。
 すると、シウォンの言った通り、すぐさま防寒具らしきモノが手に触れた。人間好きの店主の用意周到ぶりは、人間以外の者の方が熟知しているらしい。
(ワーズさんが知ったら、きっと、すっごい顔で嫌がるんだろうな)
 ついついくすりと笑いながら、滑らかな布とその内側の柔らかい綿の感触を撫でつける。素材からしてコートか何かだろうが、このリュックに収まるところを鑑みるに、そこまで長いモノではないだろう。それでも、今より十分温まるはずだ。
 そんな思いでソレを掴み、リュックのふちにもう片方の手をかけて取り出す。現れた白い布と雪の結晶を模したボタンに目を奪われた、矢先。
「ぬお!?」
 大体このくらい、と目安をつけていた長さを、悠々越して出てきたコートに、思わず変な声が出てしまった。これまで静かだった分、自分でも余計に煩く感じる声に慌て、シウォンの方を窺えば、じろりと睨み付けられて喉に短い悲鳴が貼りつく。けれども一瞬のこと。続けざまに大仰な息をついたシウォンは、フンと鼻を鳴らして緑の双眸を他方へ向けた。
 どこまでも色気のねぇ声あげやがって。
 何故だろうか、シウォンの仕草にそんな幻聴を聞いた気がした泉は、取り繕うように長いコートへ視線を戻すと、急いでこれを羽織った。
 モコモコした裏地の心地良さに惹かれ、手早く褐色の髪を纏めてはフードまで被る。上半身はぴったりと、それ以降は膝下まで動きにくくない範囲で身に添う、雪の結晶のあしらいが可愛らしい純白のコート。これも十中八九、ワーズの手作りなのだろうと感嘆半分、呆れ半分に眺めた泉は、リュックへと今一度視線を移した。この長さが収まるとは到底思えないサイズのリュックは、だというのに、まだ何かが入っている体で膨らんでいた。
(……考えたら、負けるのよ、きっと)
 何に負けるのか、ということすら、考えたら負けなのだ。
 とにもかくにも、泉はリュックの容量から意識を逸らすと、シウォンが背中を預ける壁と同じ壁を背にして腰を下ろした。もちろん、シウォンからは離れた位置で、ついでにリュックを自身の右側、シウォンのいる方向へおいて、ようやく安堵の息をついた。
「信用ないねえ」
「うっ」
 途端にかけられた苦笑交じりの低音。意図がバレていると知り、強張らせた顔でそちらを見る。しかし、シウォンの目は前に向けられたままで、こちらの反応には気づいているだろうに、それ以上の動きを見せてこない。
(き、気まずい……)
 ただじっと、何もない洞窟の空を眺めるシウォンに、泉は居心地の悪さから膝を抱え、そこへ顔の下半分を埋めた。こうして静かにしていれば、聞こえてくる音は外の吹雪の音と、二人分の呼吸音だけ。
 余計、気まずかった。
(え、えと、最後にシウォンさんと喋ったのって、いつだったかしら? 昨日の夜――うわ)
 何とかしてこの場を打開しようと思い出した光景は、下着姿の自分に近寄るシウォンの図。更に気まずいそれから逃れるべく、面と向かって話した時は、と思い起こす泉。その場面は思いのほか早く描けたのだが。
(……そう、だった。シウォンさんとちゃんと話したのは、あの時が最後で)
 触らないで、と伸ばされた手を強く払った、あの時。
 今になって思えば、何故あそこまで強い拒絶を示したのか、想像することしかできない。それでも払った事実と空虚感は覚えており、泉は知らず額までを抱えた膝に埋めていく。
(たぶん、シウォンさんが私を好きだって話を聞いたから……それなのに私が慌てる様子を楽しんでいるって感じたから、混乱したんだわ――あの時、みたいに)
 シウォンと対峙して現れた感情は、以前、元居た場所で感じたことがあった。それも、高い頻度で幾度となく。けれども、表に吐き出せる場所はどこにもなかった。友にも、いや、友であればこそ、聞かせるには忍びない感情だ。それをあんな風にはっきりと、言葉にしたのは初めてで――
(……初めて? ううん、初めてのはずよ? だって私は、あの場所では、誰にも、何も、言わないように、気を、付けて……)
 顔を上げ、何かを思い出すようにこげ茶の目が遠くを見つめる。だが、眉を寄せたところで答えは生じず、代わりに別のことに気づいては目をぱちくり。左側、遠くなった洞窟の出入り口の吹雪を見ては、続け様に右方向にいるシウォンへと視線を向けた。
「……何だ?」
 泉の目がまじまじと自分を見つめていることには気付いていただろうに、しばらく沈黙していたシウォンは、しかし、根負けしたように低く唸る声で問うてきた。
 対する泉は、そこまで自分が彼を見つめていたことなど露知らず、怪訝な表情を浮かべる。
「いえ。どうして見えるのかと思いまして」
「何が?」
「シウォンさんが」
「はあ?――って、まさかお前、どこかで目を!?」
「わわっ!?」
 泉の返答に呆気に取られたのも束の間、焦った様子で近づいて来るシウォン。急な動きに対応しきれない身体を閉じ込めるように腕を回した彼は、その手でもって泉の後ろから、掬い上げるように彼女の顎を上向かせる。そうして真剣な眼差しで泉の目をあらゆる方向から見ては、安堵の息を一つついた。
「驚かせやがって。何ともねぇじゃねえか」
「は、はあ……す、すみません」
(何ともないって格好じゃない気がするんですけど)
 こつんと額を合わせ、ほっとしたように閉ざされる緑色の双眸。頬をくすぐる乳白色の爪も泉の無事を喜ぶようで、未だにシウォンの行動の意図が掴めない泉は、どうしたものかと目を白黒させる。
「あ、あの、シウォンさん」
「……悪い」
 近いです、と続く言葉を待たずに、抱き取る形から解放される。意外にもすんなり離れた熱には小さく息をつけたものの、リュックを挟んだすぐそばに座り直されては、絶妙な居心地の悪さがある。
 かといって、もっと離れて下さい、などとも言えない泉は、浮いた身体を元の位置に戻すと、平静を装って言った。
「その、今って夜ですよね? それなのに明かりもない中で、どうしてシウォンさんが、というか周りが見えるのかなと思いまして」
 ちらりと見たシウォンの姿は、夜になると瞬時に変わる人狼姿。ならば、今現在の時刻は夜なのだろう。変動は場所だけでなく時間まで動かす、という話は聞いていなかったが、ワーズの説明不足は今に始まったことではない。ともかく、夜でなお且つ吹雪という悪天候の中では、本来、こんな風に相手の姿かたちを捉えることは出来ないはずだ。
 さすがに、一息に言い切った娘の頬が、ほんのり赤いことまで分かる明るさではないが。
 人狼姿であっても、時に犬と見紛うことがあろうとも、美丈夫には違いないシウォンを間近に感じて、何とも思わないというのは、年頃の娘である泉に出来る芸当ではなかった。出来ることと言えば、そんな心中を気付かれないように装うことだけ。
 幸いにして泉の努力を知らぬ様子のシウォンは、呆れたようにため息をついた。
「見えるってのは、そういう意味か。そんなもん、あんだけ雪が降っていりゃ、当然だろう」
「へ? 雪?」
 思わぬ返答を受け、自然と遠い出入り口へ泉の目が向けられた。
 言われてみれば、こちらよりも吹雪いているあちらの方が明るい。
「もしかして……雪自体が光っているんですか?」
 そんな馬鹿な。
 おとぎ話のような、奇人街には実に似つかわしくない発想を呟いたなら、てっきり子ども染みた話と鼻で笑われると思っていた返答は、更なる呆れを持って意外なことを言う。
「雪だからな。光らなくてどうする」
「…………」
 子どもの頃、窓から覗いた夜の雪景色が、街灯や民家の明かり、月明かりを反射して周囲を明るく見せていたことはあったが。そんな子どもの時分とて、雪自体が光を放つなどと思ったことは一度としてなかった。たとえ思ったとしても、そういう光景があったら綺麗だな、くらいの幻想だ。
 それを、この、奇人街で知らぬ者のいない艶福家の美丈夫が、常識だという――破壊力。
 笑いを通り越して、いっそ虚しい。
 以前にワーズから聞かされた魔法の話もそうだが、一気に夢が壊された気分に陥る。
 奇人街という場所と、生々しい逸話の数々を持つ彼らの為せる業に、泉は束の間状況を忘れて遠くを見つめてしまうのであった。

 

 


UP 2018/2/22 かなぶん

 

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