妖精の章 六十二
人狼の群れにおいて、頂点の意思は絶対――。 それは規模に関わらず、群れに属する者にとって当然のこと。 泉を好敵手と定めたニアとて、頂点が想いを寄せる相手を害すつもりは、最初からない。 初めてシウォンの想いを知った時でさえ、自分でも驚くほどすんなり受け入れていたのだから、今更な話である。 ――それなのに。 「泉さんを殺す? 確か、君たち人狼は群れの頂点には従うものだったよね? それなのに、どうしてそんな」 ニアの言葉にすぐさま反応したのは、ニアとランのやり取りを見ていたフェイだ。 ランへのなっていないフォロー以外は、人狼同士の事と口を挟まないようにしていた彼は、知人に振り掛かる物騒な話を聞くなり、ランの陰から前のめりになって問うてきた。 「さあね。まあどうせ、人狼の自分より劣る人間の娘が、頂点――パパに気に入られたってのが、気に喰わないんでしょ」 半ば投げやりに答えてやれば、やはりランではなくフェイが重ねて問う。 「その口振りだと、相手は女性、なのかな?」 「…………」 ニアは肯定代わりの沈黙を返すと、先程から固まったままのランへ視線を移した。つられるようにしてフェイもそちらを見るが、二人から注視を受けるランに変化はない。 ランが表情を硬くさせたのは、石榴宮の名が挙がった辺りだろうか。 その心情を推し量れるほど、ニアはランのことをよく知らないが、シウォンを下した人狼最強の男の事はそれなりに聞き及んでいる。 その中でも特に石榴宮と関わりがあると言えば、虎狼公社の頂点を蹴ったという話か。 (お祖母様は群れを大切になさるから。そんな大切な群れを、理由はどうあれ蔑ろにした相手……一度くらいは何かあったのかも) 思い返すのは、頂点の意に背く者の存在を石榴宮から告げられた時。 泉に会えない反動から、手当たり次第、色んな女を漁るシウォンのせいで、今までにない忙しさを見せる一の楼、それゆえに手が空かない石榴宮は、ニアを次期石榴宮と見込んで命じた。 ――どうやら、フーリ殿の想い人の命を狙う者がいるようです。 これを踏まえて、ニア・フゥ。貴方には三つのことを頼みます。 一つ目は、我らが頂点の想い人とやらの見極めを。コレがもし、群れに仇為す者ならば監視し、害する者を助けなさい。必要ならば他の群れの仕業と細工をし、フーリ殿に気取られぬよう内密に処理しなさい。 二つ目は、害する者に見当がついても、すぐには動かぬように。正当な理由なく頂点の意に背くことは許されません。ですが、どうか見誤らないで。石榴宮たるこの身において、第一に考えるべきは群れの存続、なれどその群れを構成するのは、他ならぬ人狼一人一人。最後のその瞬間までは、信じてあげて欲しいのです。群れに裏切り者などいないと。 そして三つ目。これが一番重要です。先の二つの頼みを含めて、決して誰にも知られぬこと。特に、司楼には気を付けて。彼は我が群れに在って特別優秀な方ですが、優秀過ぎるがゆえに知れば最後、フーリ殿へそのままを伝えるでしょう。そうなれば群れは――虎狼公社は、遠からず瓦解してしまう。それだけは阻止せねば。 ――以上が石榴宮の命だが、泉が群れに仇為す者かどうかの結論は、すでに出ている。 シウォン絡みに限って言えば、彼女は有害だ。 その発言如何では、虎狼公社は頂点を失うだろう。 だが、それだけで仇と見るには、泉の傍に力が揃い過ぎていた。 目の前の人狼最強は元より、それにも勝る奇人街最強の猫、三凶の一人である神代史歩、そして、どういう訳か奇人街の中で一目置かれている、ワーズ・メイク・ワーズ。 これにシウォンを足したなら、泉の身に何か起こって、無事に済む群れはない。 有害ではあるが、群れにとっては泉に危害を加える方が仇――これが次期石榴宮としてのニアの結論だった。 (まあ、一つ目を終えたところで、この状況じゃあ二つ目は間に合うかどうか。……三つ目に至っては、すでに失敗しているし) 泉含めたシウォンの消失と、泉を害する者の所在不明。 重なった二つの事象に取り乱したニアは、何も知らない司楼の呆れ顔に、ついうっかり、これまで隠していた石榴宮とのやり取りを何もかも、罵声と共に話してしまっていた。 お陰で昨日の夜、ニアの行動を不審がる司楼から逃げ続けた苦労は、水の泡だ。 ちなみに現在、司楼共々同行している、黒い毛並みに白い隈取が目立つ天青宮は、実はニアを影ながら助けるよう石榴宮に頼まれていたそうだ。自分で頼みにしたくせに、ニアの身をとても心配していた石榴宮。だからこそニアには内緒で登山に参加していた天青宮だが、これを明かしたのは、司楼一人に留まらず、天青宮にまで喋ってしまったニアの負担を、少しでも軽くするためだという。 (お祖母様の心配性は相変わらずだし、催し物に見向きもしない天青宮が、わざわざ参加した理由も分かって、その辺はすっきりしたけど……でも、司楼に話した事実は変わらないのよね。……け、けど、司楼に言って駄目なのは、そのままパパに伝えちゃうってところだから! パパがいない今、すぐに伝えるってことは出来ないでしょう!……それに) 変動後一通り叫び倒し、その後に自分の失態に気付いたニア。だが、頭を抱えかけた直前で見た司楼の表情は、思わず後悔する時間を逃してしまうほど意外なものだった。 (無表情はいつも通りだったけど、何だったのかしら、あれ。一応、パパには秘密って了承させたけど、アレから妙に辛気臭いというか……って、今はそんなことはどうでも良くて) ズレていく一方の思考を戻すように軽く頭を振ったニアは、それにも反応しないランを再び視界に入れた。 人狼最強がシウォン配下の石榴宮を恐れる、という話は奇妙ではあるが、生粋の人狼でありながら群れに属さない時点で、ランはニアの想像を超える存在だ。何かしらの苦手意識を持っていることもあるかもしれない。 ニアが「お祖母様」と慕う石榴宮だが、提示された三つの頼みからも分かるように、彼女の中では群れとそれ以外の扱いには雲泥の差がある。分かり易い例えを上げるなら、どこぞの食材店の店主の人間贔屓と同等か、あるいはそれ以上か。 そうでなければ、仇でなければ守れと言った泉を餌にすべく、シウォンへ登山の情報を流す、などという発想には至らなかっただろう。 ニアがシウォンに提示した登山計画は、件の人物の動向を明確にするべく、石榴宮が提案したものだった。シウォンが泉を求めることを嫌う相手ならば、泉一人が行動したところで、わざわざ奇人街から動くことはない、ならば――と。 実は、件の人物については、すでに登山前から見当がついていた。 だというのに手をこまねいていたのは、それらしい動きがなかったため。 先に述べた通り、石榴宮は群れの者を「最後のその瞬間まで」信じる。 石榴宮にとって、その時までは皆、愛おしい子どもなのだ。 そしてそんな石榴宮を慕う者は少なくなく、その一人であるニアも、だからこそ入浴後の神代史歩の言い分を跳ね除けた。 しかし、次期石榴宮と期待されながらも、ニアには石榴宮ほどの思いは群れに抱けない。 もちろん群れに属する以上、ニアも虎狼公社の他の人狼同様、己が群れに誇りを持っており、大切に思っている。 けれど、それが一律に、たとえば知り合って間もなくとも、気安く話せる間柄となった泉と比して勝る、ということはない。 次期石榴宮として下した評価とは別に、ニア自身は泉のことを悪しからず思っているのだから。 (でも……もしも神代史歩と対峙した時に戻れたとしても、私は同じように神代史歩を遠ざけるわ。だってあの女が相手だもの。なおさら他人になんて任せられない) 石榴宮の命(めい)と泉の命(いのち)。 この二つの間で揺れる自身を振り切るように、今一度頭を振ったニアは、待てど暮らせど固まったままのランを見限り、たき火へ戻ろうとする。 「泉さんを殺したい奴って…………もしかして、ルアン?」 「!」 しかし、ランの口からその名が出たなら、ニアは暖色の衣を翻し、驚いた顔を彼へ向けた。 ルアン・リー。 シウォンの囲い女の一人でありながら、その意に反して泉を殺そうとしている女。 「気づいて、いたの?」 問う声に些か非難が混じっていたのは仕方がない。 ランの今の口振りでは、気づいていながら泉の危機を放置していたことになる。 ニアよりも長く泉と交流を持ちながら、ニアのように考慮すべき立場もないくせに。 勝手と分かっていながらもニアの目が剣呑に吊り上がれば、耳を伏せたランが凶悪な面構えに似合わない慌て方で両手を振った。 「いや、気づいていたっていうか!……正直、考えないようにしていたというか……」 言いつつ、徐々に下降していく視線。 ニアは追うでもなく首を傾げ続きを待つが、それよりも先にフェイが不思議そうに問う。 「ルアン・リー? 聞いたことのない人狼だけど、有名なのかな?」 場違いなソレに目を丸くしたニアは、すぐさま嫌そうな顔でフェイを睨みつけた。 「どうして、そういう話になるのよ」 「いや、ラン殿は同族嫌いと聞き及んでいたから、 それなのに個人名を出せるってことは、その、ルアン・リー? は、有名な人なのかと思って」 「そう……」 話の腰を折るような話題の振り方に、頭痛を感じるニア。 堪えるように額へ手を置いたなら、ランが弱々しく笑った。 「確かに。今でもまだ、何一つ忘れていなかったなんて、俺もどうかしているよな。……ルアンは俺の初恋の人で……あの時までは、俺の前に現れなかった人で」 「初恋の人か。それは名を覚えていても不思議ではないね。でも、あの時って?」 (この人、この様子を前にしてよく聞けるものね) ランの顔に散々怯えたニアだが、さすがにここまで苦しそうな様子を見せられては、いくら変わらぬ強面とはいえ、気遣いの言葉の一つや二つは掛けたくなるもの。 それなのにフェイときたら、掛ける言葉は自身の興味に終始しており、ランを慮る素振りは一切ない。……いや、もしかするとこの少年、ランのこの明らかな傷心っぷりに、そもそも全く気が付いていないのかもしれない。 (さっきのなってないフォローが奇跡に思えるわ。神童って弱いのが当たり前って認識だったけど、意外に神経図太いのかも) 呆れを通り越し、感心すらするフェイの有り様に認識を改めるニア。 対し、そんなニアよりもフェイと付き合いがあるだろうランは、金の目を気まずそうに逸らしつつ言った。 「ちょっとね。所用でシウォンのところへ行く羽目になった時に、偶然……たぶん、泉さんも一緒だったから、それでルアンは俺のところに来たんだと思う。……その、あんまり考えたくはなかったけど」 (……ああ。そうか。考えてみたらそうよね) ちらりと向けられた金の目。ここに来てニアは、ルアンの不穏を疑いながら何故何もしないでいたのか、その理由に察しがついた。 言葉通り、考えたくなかったのだろう。 否、一度は考えたはずだ。何故今頃になってルアンが自分の下へ来たのか。 そうして出た答えが、あんまりにもあんまりだったがために、ランは考えを止めたのだ。 初恋の人からの誘惑は、全て、シウォンへの当てつけのためだった――そんな考えを。 皮肉なことに、頂点の意に背く者としてルアン・リーの名が挙がったのは、今頃になってランの下に通うこの行動が、ニアの“糸”と直感に引っかかったため。これが平時で、なおかつルアン・リー以外の人狼であれば、ただの心変わりで片付けられたはずなのだが。 こうなって来ると、恋に生きるニアとしては同情しかない。 かといって、それこそ頂点の宿敵たるランを慰めるつもりもなく、代わりにため息を一つ。 「とにかく。そういう訳だから、慣れ合いはしないけど敵対するつもりもないの。私たちの目的はあくまで泉、だから――」 「泉さんが無事だったら、ルアンを殺す、のか?」 不意に投げられたランの問いかけに、ニアはピタリと動きを止めた。 泉を仇ではないと判じた今、最終的にはそうなるだろう。 だが、石榴宮からは最後の最後、泉が襲われるその時までは何もするなと言われている。 しかし―― 「……どう、かしら?」 はぐらかすような答えだが、それはランに向けたようでいて、ニア自身に向けられていた。 昨日の夜、ランを誘惑した身でシウォンに寄り添う姿には、無神経だと怒りを覚えたものの、改めて浮かべた女の姿に騒ぐ心は一つもない。 (そんなの……その時にならないと分からないわ) 自分でも判然としない気持ちを持て余しながら、ニアはそれ以上語らうことなく、たき火の方へ戻っていった。
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UP 2018/5/29 かなぶん
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