人魚の章 六

 

 しとしとと瓦を打つ雨音。
「はあ……」
 怪我をしていた時にも一度だけ訪れた、奇人街においては珍しい雨を見ながら、泉はやるせないため息を零した。
 別に、雨のせいではない。
 昼前に例の如くノックなしで現われ、飯を催促する店主のせい、は多少あるが。
 話は昨日、シイが現れたことに端を発する。


 シイの顔を見た途端、ワーズが吐いた「太いの気にしてたよね」という暴言は、続け様にある解決策を提示した。
「ちょっと荒療治になるけど、昼の奇人街で歩くのはどう? あの陽を浴び続けてると色々消費されるから、体重なんてすぐ戻るよ? どうせなら早い方が良いよね? じゃ、明日からってことで」
 珍しく真面目に語るのは結構だが、デリケートな悩みを人前でベラベラ喋るのは止めて欲しい。ショックから一言も発せずにいると、これを了承と受け取ったのか、勝手に話が進んでいく。
「で、シイ? 言った通り、泉嬢が太いの気にしてるから、要因のお前が手伝え。ランをつけてやる」
「はぇ!? な、なんで俺が? だ、大体、泉、だっけ? 彼女、別に太ってなんか――」
 世辞でもなく、本気で言って貰えたことに、少しだけ気持ちが浮上しかけるが、
「いやいや。見た目には分かりにくいけど、確実に太っちゃってるよ。女の人って、体重の微々たる変化も許さないからねぇ」
 容赦なく突き刺さる、「太い」という単語。
 項垂れる泉と同じように眉を寄せたランが首を捻る。
「見た目で分からない、微々たる変化? そんなこと、なんでお前に分かるんだよ?」
「ん? そりゃあ、一日に何回も抱いてれば分かるさ」
「「はあ!?」」
 異口同音にワーズへ叫び、顔を見合わせては正気を疑うように指を差され、言葉にならずブンブン手と首を振った。ジェスチャーだけで、半信半疑ながら納得してくれたことにほっとしたのも束の間、絶対意味が分からないと思っていたシイが、ぽっと赤らめた顔を逸らした。
 まさかと焦り、言い繕おうと言葉を探したなら、
「泉嬢は嫌がったけどさ、足、怪我してるのに階段上り下りって大変だろ?」
 元凶の言葉にシイはなるほどと頷き、愕然とした面持ちのこちらを認めては、えへへと愛らしい笑顔を浮べた。つられて笑いはしたものの、どう頑張っても引きつった笑いにしかならない。シイの方もそんな泉の愛想笑いを気まずく思ったようで、顔をワーズの方へ向けた。
「わ、ワーズの人! お姉ちゃんが……その、あの、気にしているのは分かりましたけれど、何故それがシイのせいなのですか?」
 素直に体重と言わない優しさが、ありがたくも辛い。
 加え、四人もいて語ることが泉個人の体重話。
 しかもその内二人は男。
 何の嫌がらせか、それとも罰か。
 段々泣きたくなってきたなら、ワーズがシイに対し、へらりと嗤う。
「へぇ? 忘れたのか。いい度胸してるな? 泉嬢が怪我した原因、誰にあったのか忘れたって?」
「う? ソレとコレと何の関係があるのですか?」
 首を傾げつつも、痛いところを突かれたように一歩退くシイ。
「さあ? 少しは自分で考えろよ」
「ちょ、ちょっとワーズさん! 原因って、あれは――」
 幽鬼からこの子ども救うため猫を探し、その際負った右腕と左足の怪我。
 今ではすっかり治った怪我だが、元々泉が勝手にやった結果であって、シイが責められる謂れはない。
 第一、体重の原因を挙げるなら、ワーズこそ適任だろう。
 なにせ、いらないと言っても体力が付くからと飯を多量に用意し、動こうとしても怪我を理由に押さえつけて、碌な運動もさせてくれなかったのだ。一時など、フォアグラのため、エサを流し込まれるガチョウを己に重ねたほど。
 けれど、そんな泉の声は誰も拾わず、一人納得したシイが小さな胸を叩いた。
「はい。分かりました。お姉ちゃんのため、シイは痩せるお手伝いをさせていただきます!」
「ま、当然だね。で、ラン? もちろん、お前も行けよ?」
「な、何でだよ?」
「だってさぁ、シウォン、来ちゃっただろう? ちび死人一匹じゃ、適当に隅っこに転がされて、泉嬢もバラされちゃうし」
「バラ……」
 すっかり確定という話しっぷりに唖然とすれば、渋りに渋った顔のランが泉を見た。
 上下と往復する視線が恐ろしくて身を捩ったなら、慌てて謝罪がやってくる。
「ああっ、御免! 変な意味はないんだけど……。なんだってあの人……君にそこまでの魅力があるとも思えないんだけど」
「…………」
 人狼から魅力があるなど言われては鳥肌モノだが、ないと断言されればそれなりに腹が立つ。先程から散々「太い」と言われていたため、それ自体はワーズの言であるにも関わらず、増した不快を余すことなく乗っけてランを睨んだ。
 途端、ランは冴えない顔を情けなく歪ませて手を振った。
「いや、御免! その、だって――――わ、分かった。俺も同行するよ。それで良いんだろ?」
 助けを求めるようにワーズへ告げ、泉へのフォローを投げ捨てた姿が憎たらしい。
 そんなランに対し、ワーズは待ってましたとばかりに、赤い口をぱっくり開けて笑い、銃口をこめかみに押し当てては傾いだ。
「分かればいいんだ。分かれば。にしてもお前、泉嬢に魅力がないなんて酷い暴言だねぇ。この子は充分魅力的じゃないか」
「……ワーズさん」
 思わず感動し、ときめいてしまったなら、
「人間ってだけで充分、魅力的だよ? 太いの気にしてようがいまいが」
「…………」
 一言多い野郎どもを前にして、何故今ここに頼れる猫がいないのだろうと、泉は物騒な願いを浮べ――――

 ――だ、大丈夫ですよ? お姉ちゃんはお姉ちゃん個人で魅力的だと、シイは思います!

 と、後でフォローしてくれたシイだが、それは泉にこっそりとであって、デリカシーの欠片もない男たちは知る由もない。


 そんな昨日に耽り、窓の外を眺める泉。
 好き勝手言われて腹は立ったものの、だからこそ絶対痩せてやると、密かに闘志を燃やして、迎えた今日。昼の奇人街を歩く予定は、この雨のせいで呆気なく中止となっていた。
 それを朝一で泉に告げたのも、発案者であるワーズ。
 陽と違って害はない雨ゆえに「色々消費」する効果が望めない、というのが理由らしい。
 まあ、雨の日に目的地もなく歩き回るのは、泉も好むところではない。
 とはいえ、連絡手段のない奇人街、シイやランへどう知らせれば良いのか尋ねれば、ワーズはへらり笑い、珍しい雨の日に、わざわざ出歩く物好きはいないと断言した。その後で「もし来たとしても追っ払うだけだよ」と心底楽しそうに嗤う当たり、人間以外への嫌いっぷりがよく分かる。
「…………シイちゃん、今頃何しているのかなぁ」
 止みそうにない雨に、家がないという子どもを思い浮かべる。シイ自身はそのことを全く苦としていない様子だったが、せめて雨をしのぐ手伝いくらいはしたかった。もしも今日、シイが訪れたなら、ワーズに頼み込んでみよう――とまで考え、それはきっと簡単に叶うのだと思い至る泉。
 なにせ彼の店主は、人間以外を嫌う反面、人間には甘いのだ。泉がシイの雨宿りを提案すれば、かなり渋りつつも了承してくれるだろう。
(ワーズさんは人間を優先するから。だから、体重のことも、私のため……。雨で中止なのも私の――人間のため)
 昨日のやり取りで荒んでいた心が、雨音に幾分和らぐ。
 振り返れば、あれ以来、つっけんどんな態度をワーズに取ってきた泉。先程の昼食にしても、食後の茶にしても、短い会話すら碌に応じなかった。――その一部内容に「雨天中止で残念だねぇ」と体重ネタが含まれていたせいもあるが。
 苛立ちは未だ燻るものの、やり過ぎだったと反省する。
 無愛想を謝りたいと、きっかけを探って雨に煙る街へ視線を投じた。
 だが、途端に泉の身体はピシッと音を立てて固まってしまう。
 珍しい奇人街の雨。
 なればこそ、わざわざ出歩く輩はあまりいないはず、なのに。
 場所にしてクァンの店前。茶店造りの軒下には、昔時代劇で観たものに似た、赤い布が敷かれた椅子――の上に、折り重なる二つの影。妖しく蠢くソレは、降りしきる雨があるから隠さなくて良いのだと言わんばかりに、着衣と思しき布を椅子の周りに散らす。
 目の前で起こっているコトが信じられず、見たくもないのに凝視したまま動けない泉。
 これを動かしたのは、重なる影の下で、こちらに気づき、艶めく唇を動かし手招く姿。
 読唇術なぞ使えないのに、耳元で囁かれたが如く、色のある声が視界に響いた。
 ――あなたも、混じる?
 次の瞬間にはガバッと上半身を仰け反らせ、勢いのままに走り出す。
 こけつまろびつ部屋を出、一階に降りれば、つい先程まで怒りの矛先であった相手が、不思議そうな混沌を向けてきた。
「泉嬢? 耳まで真っ赤だけど、どうしたの?」
「い…………え、な、なんでもありません。ちょっと……自分の明日を見失ってしまって」
「ふぅん?」
 さして追求してこないワーズにほっとしつつも、泉は気まずい思いから視線を逸らした。謝りたいとは思っているものの、当の本人は昨日からの泉の接し方をどうとも思っていないようで、それが増して居心地を悪くさせた。
 かといって、窓の外がアレでは部屋に戻る気にもなれない。
 ソファには少年が横たわったままだし、食卓の椅子も落ち着くには不適切。
 なにせ一度座ってしまえば、食卓の名に恥じぬ量の菓子や飲み物が、ワーズの手によって並べられてしまうのだ。
 彼曰く、食卓を前にして何も出ないなどあってはならない、ということらしい。
 気まずい中で出される美味そうな菓子類など、何の拷問か。
 迷いに迷って店の外へ目を向ける。
 そこから見える範囲にあの情景はなく、耳に届くのも窓や壁、地面を打つ雨音のみ。
 今の泉の居場所としては申し分ない店の静けさに、ふらりと身を寄せる。
 店番と同じように踏み板へ腰掛けようと、まずは足を下ろすべく重心を前へ――
 けれど叶わず、ぐっと後ろに引かれる身体。
 そのまま倒れることはなく、背中に人肌というには低い体温が伝わった。
「ちょっと動かないでね、泉嬢」
 褐色のクセ毛を揺らす声音は、耳までくすぐってくる。
 現状を把握できず固まってしまった泉の身には、朝焼けを模した色彩の服ではなく、裾に優美な蝶の刺繍が施された、濃紺の服が被せられている。着用した覚えのないそれは、肩に回された黒い腕が押さえ、腹に回されたもう一本が固定し、身体の線を極力出すよう勤めていた。
「んー、丈は良さそうだね。腰位置も変わりないし」
「わ、ワーズさん?」
「ん? ああ、御免、泉嬢。ちょっと肩、押さえててくれる?」
 言われた通り押さえれば両腕は離れたものの、折り曲げた泉の腕と服の袖を合わせる手は未だ後ろから伸びており、泉の緊張は全く解消されない。
「んー……もの凄く癪だけどさ、あの変態みたいに見ただけでサイズって分かんないから」
「さ、サイズ……」
 浮かんだ赤毛の中年は、見ただけで正確且つ詳細なサイズを読み取る、確かに変態染みた特技を持っているが、そう言うワーズの今の所業もかなり危ないと泉は思う。思うだけで、拒む素振りすらない自分も、それ以上に危険だと感じつつ。
 窓の外で赤らめた頬が、それ以上の紅に染まれば、やっとワーズが離れた。
「泉嬢、ちょっとこっち向いて?」
 涼しくなった背中に力が抜け、気を取り直すように服を重ねた格好で振り向く。
 その先で、何故かしゃがんでいる黒コート。
 一往復、泉というより濃紺の服を眺めて後、勢い良く裾がめくられた。
「ひゃっ」
「ん?」
 腰下までスリットの入った服だが、泉が着ているわけではない。
 めくられた裾から出てくるのも、足ではなく同色の布である。
 無論、泉も分かってはいるものの、どうにも落ち着かない。
 対するワーズは不思議そうな顔でしばらく泉を見つめた後、裾を持ち上げたままスリットを眺めて首を捻った。
「うーん……これ、やっぱり下に布でも入れようかな。一応、いつも通りズボン履くの前提だけど、煽られるケダモノなんてザラだし……」
「はあ……」
 裾から手を離し、「よっ」と声を出して立ち上がったワーズ。
 へらり笑いかけられた泉は、つられたような愛想笑いと共に、濃紺の服を返す。
 その過程で、部屋から降りてきた際、同じ服を手にしたワーズの姿を思い出した。
(……本当に手製だったんだ)
 頻度は下がったものの、度々手渡される服。自分の手製と言うワーズだったが、一針縫う姿さえ、これまで見たことはなかった。
 それもこれも、ソファの少年が目覚めるのを待って、居間に長くいるため……。
 不意に湧き起る嫌な予感。
 意識的に逸らしてきた分を取り戻すように、再度顔が火照り出す。
 目覚めた時、芥屋のソファで寝かされていた泉。
 少年への対応からもしやとは想像していたが、泉の時もほとんどの時間――?
「ワーズさん」
 とうとう我慢しきれず、質問しようと顔を上げれば、銃口を己の頭に宛がう姿。
 慣れとは恐ろしいもので、今にも世を儚んでしまいそうな格好へは、別段思うことなく、それよりも珍しい困惑だけの表情に、質問を呑み込んで問う。
「どうかしました?」
「んー……もしかして泉嬢、退屈?」
「え……と……?」
 脈絡のない問いかけに対し戸惑う泉。
 確かに、これといってやることはない。奇人街での散歩は中止、踏み板へ座るついでで店番しようとも、ワーズの言を借りれば雨の日の来客はほとんどないはずだ。
 だからといって、退屈、とは芥屋に来て一度も思った憶えがないことに気づかされる。
 ――泉が元いた場所は、毎日が惰性であり、息が詰まるほど退屈だったというのに。
 自分は奇人街での生活を、いや、ワーズとの生活を楽しんでいる?
 芥屋の店主から提供された居場所は、退屈を感じさせないほど居心地が良かったのだろうか。
 答えはすぐさま、内から生じた。
 いや、違うだろ。
 照れか羞恥か、持った熱は泉の記憶を若干美化させていたようだ。
 疑いを持って冷静さを取り戻せば、退屈云々思える余裕がなかっただけの話、との訴えが身の内からなされた。
 自らを人間と名乗りながら、必ず”一応”と付け加えるワーズの行動は、泉の理解や予測を遥かに超えたところに存在している。対処しようにも、回避すら出来ない状況が常。例えば、ノックなしに自室を開けてきたり、何の声かけもなく、服を合わせる名目でいきなり後ろから抱きしめてくる等、羅列すればきりがない。
 警戒を緩めてはならない。そんな再認識の真っ最中に、すっ……と黒コートが動いたなら、泉の目は自然とその姿を追っていく。
 程なく、店へ降りた手が精肉箱に掛かったところで、同じように触れられたことに行き当たった泉。またしても起こる嫌な予感に、今度は青筋を立てて問う。
「ワーズさん。さっき、服合わせる時どうして……だ、抱き締めるような真似をしたんですか?」
 推測が正しければ赤らむ場面ではないはずだが、それでもさっと赤らんでしまった頬を見もせず、精肉箱を開けたワーズは、中を探りながらのほほんと答えた。
「んー? ボク、目だけでサイズなんか計れないって言ったよね。だから胴回りを調べようと思ってさ。でもまだ大丈夫そうで良かった。もう少し太かったらアウトだったけど」
「…………」
 予感の的中にわなわな震える拳は、ごそごそ漁って後、「あった!」と喜ぶ混沌の瞳には入らない。その顔が精肉箱から上がったのを見て取り、堪った怒りを吐き出そうとした泉は、けれど、ずるり、精肉箱から出てきたモノに言葉を失くした。

 少し前に泉を抱き締めた手が握るのは、えぐられた傷跡を晒す、頭部のない男の指。

 茫然とする泉を余所にへらへら笑うワーズは、銃を持つ手をポケットへ入れ、サバイバルナイフを取り出した。銃共々器用にナイフを握り、口を用いて革のケースを外す。そうして持ち上げた付け根へ刃を押し当て、
「や、やめて……」
 青褪めた泉の声すら聞かず、一気に切り落とした。
 支えを失くして精肉箱へゴトリと落ちたモノには目もくれず、蓋を戻してふらふら戻ってくるワーズ。
 襲う不快さから曇りガラスに身を押し付けた泉は、次いでワーズが持ってきた空の植木鉢を見て、ずるずるへたり込んだ。
 ワーズはそんな泉に構わず、よく見える位置に鉢や指、道具の一式を揃えていく。
「退屈しのぎにさ、ほら、あの腕の育て方でもと思って。言ったよね、最初は指だけだったって。今回は代用に人狼の指を使うとして」
「…………」
 わざわざ説明を入れたのは、男の身体が人間そのものの姿をしていたからだろう。
 ワーズが笑いながら見せてきた指は、それだけでは男か女か分からぬほど細かった。
「まあ、奇人街の土に肥料少々で普通はいいんだけど」
 そう言ってワーズは植木鉢に土を入れ、肥料らしき固形物と指を柔らかな土に挿した。途端、持ち主を失ったはずの指が痙攣を始め、倒れたかと思えば滑らかな動きで土を掻き出す。
 最早目を逸らすことも出来ず、ガラス戸に縋りつくだけの泉の耳に、ワーズの声だけがへらへら届く。
「植木鉢の大きさや肥料の具合にもよるけどね。上手くやれば肩口まで育つんだ。コレは人狼が元だから、あんまり育てると凶暴になっちゃう」
 言って無造作に黒いマニキュアの手が指を引っこ抜く。
 まるで根でも張っているかのような抵抗を見せた指だが、ぶちりと嫌な音を立てた後では動く気配もない。
「でもね、泉嬢の腕は大人しかったんだよ。ただ、根付くまでに時間が掛かると思って、断面少し切って、アイツの一部で補ったらさ、ちょっと乱暴になってねぇ。泉嬢が目覚めるまで、何度叩かれたことか」
 いつも通り変わらない口調は耳に届けど、目に映るのは指を失いその部分だけ抉れた植木鉢。
「御免ねぇ?」
 不意に言われてのろのろ顔を上げれば、覗き込むような至近に真っ赤な血だまりの口。
 病的とはまた違う白い肌を彩る笑みの歪みは、口を真一文字に引き結ぶ泉へ向けて、
「泉嬢、美味しいって言ってくれたのに、代わりがなくてさ。本当にアレだけだったんだ。それとも、コレ、食べてみる?」
 唇をなぞる、指の感触。
 しかしてそれは、熱を持たず固く、精肉箱の冷たさを保っており――――

* * *

「なぁう」
 やり過ぎだと非難する声を受けて、ワーズは後ろを振り向いた。
 ワーズの部屋からするりと出てきた影纏う猫が、金の眼を細めて尻尾を振る。今まで芥屋にいなかった存在は、これまでに起きたこと全てを知っているかのようだ。
 タオルケットを抱えたワーズの身には、いつもの黒コートはなく、それでも黒一色の男は、へらり、笑おうとして歪な表情を浮かべた。
「ダメだよ。あの子の選択を捻じ曲げないためにも、さ」
 べしんっと大きく尻尾を打ち付ける猫。
「……じゃあ放っておけって? 無理だよ。ボクは……ワーズ・メイク・ワーズは、人間が大事だって、お前が一番、よく知ってるはずだろう? たとえ……いや、欠けているからこそ」
 最後は呟くように言えば、猫が軽く首を振る。
 妙に人間臭いその仕草へはいつも通り笑いかけ、ふらふら階段を下りるワーズ。
 ――だが。
「……泉嬢?」
 部屋へ戻りたくなさそうな様子から、床へ横たえた少女の姿がなくなっていた。
 気絶していることは確認していたため、すぐに動ける状態とは思えなかったのだが。
 代わりとばかりに泉へ掛けたコートだけが、彼女を横たえていた場所に広がっている。
 不可解な状況に、挙動不審な動きで辺りを見渡していたなら、
「店主!」
 よく知る怒鳴り声がワーズの耳を刺した。

 

 


UP 2008/7/28 かなぶん

加筆・修正 2020/07/19

 

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