人魚の章 七

 

 ――それを見た時、珍しい、と思った。
 街の構造上、遠回りしなければ行けない芥屋向かい。そこに居を構える神代史歩は、鍛錬の合間に水を求め、ふと見た窓の外に少しばかり目を見開いた。
 雨に煙る街の中、優美に咲く朱の大輪。
 もしもここが史歩の元いた場所であったのなら、珍しくもなんともない光景だろう。今はもう遠い記憶だが、雨降りにおいてはもっと多くの彩りがあった。
 しかし、史歩がいるのは紛れもない、奇人街。
 彼の地にあった絡みつく湿度は、際限なく雨を呑む乾いた大地には存在せず、汗を拭いた後に肌を撫でる風にも、心地よさしか感じられない。
「……から傘とは珍しい。いや、酔狂というべきか?」
 歩みに合わせて上下する朱色の傘をしげしげ眺めながら、史歩は呟いた。
 一応は奇人街にも傘は存在している。ただ、使う者を見ることはほとんどない。それは奇人街の住人が、濡れる前に駆け抜ける移動法を選ぶせいだ。体力バカも甚だしい話だが、確かにそんな動きで傘など差そうものなら、道具の一生は一瞬で終わるだろう。
 視線は傘に釘つけ、湯のみに汲んだ水をすする。
 と、またしても史歩の目が大きく開かれた。
 奇人街の住人も億劫にさせる雨の中、邪魔になるだけの傘を差した者が、わざわざ立ち寄った先は、芥屋。店先の箱の脇に畳んだ傘を置き、薄暗い店内に白服の後ろ姿が消えるまでを認めては、再びの呟きが史歩から漏れる。
「ますます、酔狂な」
 芥屋の食材は、ただでさえ美味いモノが溢れている奇人街の中でも、群を抜いて美味。反面、店主が人間以外には碌でもない応対しかしないため、普段でも来店する住人は稀だ。
 今は従業員がいるから、店主のみの時より客足は多いだろうが、あの店主が人間を働かせっぱなしにすることはないため、接客で店主に当たる確率は五分五分。こんな雨の日に、半ば博打染みた買い物を好む者はいないだろう。
 では、人間のような姿形の後ろ姿から、奇人街にいる数少ない人間が買い物に来た――と言うのも、あり得ないと史歩は断ずる。
 人間好きを豪語するワーズだが、不気味な容姿と言動から、一応、同族らしい人間からはとことん敬遠されていた。仮に客として現われようものなら、彼が嬉々として取り出す食材は、大抵の場合、その人間が共に暮らす住人の種と同じモノになる。友人・恋人と多岐に渡る関係性を考慮せずとも、親しい相手と同種のブツをありがたがる者などいない。
 そうして嫌悪も露わに離れていく人間たちを前にしても、店主はへらへら笑い続けるのだから、余計、人間を取り扱っていないにも関わらず、人間の客層は遠退いていくばかり。
 難儀な奴と思わないでもないが、だからといって、一人暮らしでどんな種族の肉でも気兼ねなく物色する史歩へ、何でもタダ同然に勧めるのはいただけない。なにせ芥屋は猫のモノ。まともな金額を支払わなければ、猫に嫌われてしまうかもしれないのだ。
「はあ……猫。私の想いは、いつお前に届くのか」
 うな垂れため息を零したところで、独り身の部屋から返る声はない。
 やるせない想いを抱えた史歩が顔を上げたなら、いつの間にか戻っていた朱い傘が、芥屋から出て行く場面にかち合った。
 何かを抱えているらしい肩部分は傘に隠れて見えないが、先程は史歩と同じ人肌であった袖口から黒い毛並みが覗くのを見て取り、やはり人間ではなく、夜に獣の姿を取る人狼と知れた。
 つられるように空を見上げれば、薄まってきた曇り空の色が黒くなりつつある。
 夜と一口に言っても、昼との境は人狼それぞれの感覚で決まるらしい。さすがに陽が落ち切れば、自力で人間に似た姿を維持できる者はいないが、陽の光が弱まっている程度なら、好きな時間に変化できるという。ただし、一度人狼本来の姿になると、朝日が昇るまで姿はそのままだが。
 酔狂な奴だが、この短時間で食材を手に入れたということは、運良く泉が接客をしたのだろう。
 良かったな、と大して気もなく祝福し、また鍛錬に戻ろうと顔を背け、
「…………いや、ちょっと待て?」
 違和感にもう一度視線を戻せば、絶妙のタイミングで荷物を抱えなおす仕草。
 瞬間、朱の影から覗く、縛られた両手と結わえられた褐色の髪。
「まさか、綾音……?」
 そして、それを抱える鋭い緑の眼光。
 雨で霞もうが、はっきり分かる悦に入った様子。
「それに……シウォン? いやいや、待て待て。待つんだ私。結論を急くものではないぞ?」
 自分の眼で見たものが信じられず、くるりと窓に背を向けて考え込む史歩。
 彼女の知っているシウォン・フーリという人狼は、相当な自信家。
 わざわざ雨の日に出歩き、あまつさえ自分になびかなかった従業員を拘束してまで連れ去る面倒を起こすはずがない。従業員が女で許容範囲内の年齢・体格なら、ワーズの嫌がらせに誘うが、史歩のように興味を持たなかった女は、珍獣扱いで終わるはずだ。
 珍獣呼ばわりは腹立たしいが、仕方ないとも思う。
 それほど、シウォンの誘いに惹かれない女は珍しい。
 では、別人か?
 しかし、それはあり得ない。
 拘束を受けていたあの荷物が泉であるなら、芥屋から盗みを働いたことになる。
 自分の意思で出て行った訳でもない従業員は、確実に芥屋の――引いては猫の支配下。
 つまりは猫の懐から毛を一本抜いたに等しい暴挙だ。
 ――あの影の揺らめきが一本単位で抜けるかどうかは別として。
 奇人街の住人なら誰しもが恐れ慄く猫相手に、そんな死に急ぐ行動を起せる者はいない。
 神出鬼没の猫を探知し、回避できる能力を持つシウォンならともかく。
「ならばあれは、綾音ではない……?」
 芥屋から丸々一体買い取った、という考えも過ぎるが、シウォン程の実力者なら自分の獲物は自分で狩るだろう。
 とどのつまりは、分からない。
「……考えても埒が明かん。直に確認するしかあるまい」
 面倒だが、この状態で鍛錬を再開しても身が入らないだろう。
 万が一、あれが綾音でシウォンだとしたら、四の五の言っている暇などないのだ。
 念のため、得物を手にして雨の中を一気に駆け抜ける史歩。
 芥屋に辿りつくなり、
「店主!」
 呼びつ駆け込んだ先の黒一色は、いつものへらり顔を歪ませており、その足元には脱ぎ捨てたような黒コートがあった。
 万が一が事実だったと察した史歩は、己の不甲斐なさを悔やむ。

 程なくして、芥屋から店主を連れ出す彼女の姿が、雨脚遠退く夜を駆け抜けていった。

* * *

 具沢山スープの肉団子は美味しかった。
 確かに美味しかったけれど、それが植木鉢に生えてた人間然の腕と知って、果たして平然としていられるものであろうか。しかも、知らされた後に気絶してしまい、しっかり消化された後で吐き気を覚えても、腹には食を求める主張しかない有り様。
 それを今度は目の前で実演されて、ショックを受けないわけがない。しかも、あんな風に扱うなど。……子どもの生死がかかっていても、人間ではないという理由だけで、あっさり見捨てる人とは知っていたけれど。

 本当……退屈しない。
 良くも悪くも。

 天秤にかけたなら悪い方へ間違いなく傾くだろう。
 そんなことを思いつつ、目を開ける前に深くため息を零す。
 すると閉じた瞼の向こう側で影が作られ、微かに感じていた光が失われてしまった。
 次いで尋ねる声音。
「起きたか?」
「…………ワーズさん」
 ――ではない。
 あの人の声は不鮮明で耳障りで、けれどとても安らげる、不思議な音。しかして今、甘い吐息と共に身を震わせる声音は、包み込むように低く、苛むように優しい、知らない音。
 ゆえに恐る恐る目を開けば、光源を背にしたシルエットを視認し、こげ茶の瞳が揺れに揺れた。状況を理解する前に訪れた恐怖が映すのは、白く鋭い歯の陣列と、獣の頭を持つ白い衣に包まれた逞しい男の体躯。
「ワーズ、だと? よりにもよって、この俺をアレと間違えるのか、小娘」
「じ、人狼…………ひっ!」
 短い悲鳴を上げ、覆い被さる影から上へ逃げるべく身を捩り、手足をばたつかせた。が、掻けども掻けども満足に動けず、理由を求めて己の手を見やったなら、両手首が結ばれているのを知る。
 柔らかい布を用いた同じ拘束を足にも感じ、混乱から動きが停滞すると撫ぜられる頬。
 爪と思しき硬質に痛みはないが、触れる圧は柔らかくも冷たい。
「奴の次は、人狼か。間違ってはいねぇが……ちぃとばかり違うな。おい、小娘」
「いやっ!」
「おっと!」
 手を伸ばされ、反射で振り払えば、目の前の人狼は慌てたように頬の爪を引っ込めた。次いで素早く泉の両手の拘束を取ると、頭の上に押しつける。
「危ないぜ、小娘。人間の肌なんざ、すっぱり切っちまう爪だからな?」
 言って翳した爪の色は、背後の光を受けて艶めく青黒い毛並みに眩い、染み一つない乳白色。かといって、拘束された手から伝わるその感触は、ある日に泉の首を這い、絶望させたモノと同様、もしくは勝る鋭さがあった。
 もがき、逃れたいのに、意に反する身体は刃の感触を恐れて震えるのみ。
 抵抗一つ、させてくれそうにない。
 このまま何も出来ず、逃れたはずのあの夜の続きを強要されるのか。
 弱味なぞ見せたくもないのに勝手に涙が溢れてきた。
「……ぐっ……ひっ……ぅうう……」
 せめて嗚咽だけは漏らすまいと唇を噛み締めても、噛み合わない歯は、ちっぽけな自尊心すら打ち砕いて声を上げさせる。
 そんな泉をせせら笑う声が頭上からおりてくる――と思いきや、
「どうした、小娘? 拘束がキツかったか? それとも暗所恐怖症か?」
 酷く困惑した声が上からもたらされた。
 どうしたもこうしたも、原因は全てこの人狼にあるのだが、分かっていないらしい。
 奇人街の男というのは、どいつもこいつもデリカシーがないと思いながら、泉は泣くことを止めず、それどころか閉ざしていた口を開けた。
 へらりと笑う赤い口で「太い」と散々言って退けた黒一色の男を浮べ、そこから勇気ではなく憎悪を引っ張り出して、
「何なんですか!? どうしたって私が聞きたいくらいです! ここはどこです? あなたは誰なんです!? 私をどうするつもりですか!?」
「……元気、だな」
 ほっとしたような声を聞いて、もう一度、今度はしっかり相手を睨んで言おうとしたなら、頬の皮膚が爪に撫でられた。甲で撫でられたのだろうが、硬質な感覚は泉の身を萎縮させるのに充分で、空気のような悲鳴が喉の奥から漏れてしまった。
 すると不可解にも人狼は、泉の身を労わるように抱き締め、髪を撫でた。
 ぷちんと音がして、頭が軽くなったのを受け、いつの間にか髪を結ばれていたと知る。
 ワーズは泉の髪は下ろした方が良いというから、たぶん、この人狼が結んだのだろう。
 鋭い爪を持ちながらずいぶん器用だ。
 けれど感心している暇はない。
 抱き締められたお陰では決してないが、爪の重みは失せたのだ。
 頭上に押し付けられていた両手の指を絡ませ、一気に人狼の頭に叩きつけた。
 ――が。
「いだっ!?」
 格闘経験は皆無だが、自分なりに良い具合の威力が出せると思った拳は、振った力をそのまま泉の腕へ伝えた。
「……小娘。何がしたいんだ、お前は?」
 解いた両手の痛みにじんわり涙が浮かべば、それこそ何がしたいのかさっぱり分からない人狼が、頭を掻きながら上半身を起こす。
 どうやら打撃は一応効いていたらしい。
 痒みを引き起こすくらいには。
「…………石頭」
 ぼそり口を尖らせては横に吐き出し、キッともう一度人狼を睨みつけた。
 震える喉だが、すぐ様殺傷される危険がないと仮定して、気力を掻き集めて言った。
「あ、あなたが答えないからでしょう? わ、私、芥屋にいたはずなのに、ここは誰であなたはどうで私をどこしようと――」
「待て待て待て。とりあえず、お前の混乱っぷりは分かった。きっちり説明してやるから、まずは深呼吸しろ」
 まるで幼子に言い聞かせるが如く、横に移動しては泉の腹をぽんぽん叩く人狼。
 掛かる重みもなくなり自由を得た泉だが、人間外の力は思い起しても到底敵うものではなく、加え自分は非力な少女で相手は逞しい身体つきの男。
 しかも手足には緩そうな割に、どれほど捩っても解けない拘束を受けている身の上。
 たとえ相手が人間であったとしても逃げるのは至難だろう。
 ヘタに抵抗して相手の気を逆なでするのは良くない。
 いや、この人狼が、そういう抵抗を好む嗜虐体質の変質者だったら、更に危険である。なにせ相手は、怯え逃げようとした泉を捕らえ、耳障りな嘲笑浴びせた、あの人狼と同じ種。
ここはひとまず大人しく、言われた通り深呼吸を――。
「よし。良い子だ」
 数度繰り返せば、柔らかく褒める言葉と共に、前髪を優しく撫でられた。
(……もしかして、失敗? 思い通りになるのが好きとか!?)
 結論づければ顔が色を失い始め、人狼が身を起こしたのを見ては、身体がびくっと反応してしまった。
 しかして人狼はそれを横目で捉えていただろうに何も言わず、ため息とも欠伸とも取れるか細い息を吐いて、髪を掻きあげるように頭を掻いた。その仕草一つ一つが妙に色めいていて、恐怖心とは別に、泉の身をぞくりと震わせる。
「さて。ではまず、何から知りたい? 答えろというが、お前の質問は矢継ぎ早で、一体どれから答えたものか全く検討が付かん。んん?」
 告げた声音は温かな笑みを感じさせ、恐ろしいことに泉の緊張をあっさり解してしまった。
 これを知ってか知らずか、伸ばされる爪。
 だが、あれほど恐れた硬い感触が頬に触れても、乾いた涙跡を辿っても、魅入られたかのように人狼の目を見つめる泉は身じろぐことなく、
「…………もしかして……あなた、あの、シウォン……さん?」
 呼べば、天窓と思しき箇所から届く柔らかな月明かりの下、人の姿の時よりも鮮やかな緑の双眸がくるりと一層輝いた。
「そうだ。……だが小娘、お前、人狼の昼と夜の姿の見分けもつかねぇのか? 店番やるなら理解しとけよ、そのくらい」
「そ、そんなこと言われても……」
 からかうような肯定に抗議しつつ、きちんと人狼の姿を見たなら、青黒い体毛や白い衣服は昨日の昼間に見た、美丈夫の髪色と服に似ていると気づく。
 ついでに思い返される、毒だとか、自分に溺れさせて腹掻っ捌くとか、碌でもない安心の全くできない曰くたち。
 そうなるとじりっと身を捩ってしまうのは仕方ないこと。
 けれど、酷く動きづらい地面に身体が沈んでしまい、慌てて両手を用いて身を起こす。
 余裕はなくとも仰向けより開けた視界、色とりどりのクッションの山の上にいるのだと知った。
 しかも薄暗い明りにも鈍い反射しか返さない一部の色合いは、染み付いた錆色だ。
 奇人街の夜にしては静かな室内、寝るのに快適そうなクッションの柔らかさ、そして、その和みをぶち壊す、おどろおどろしい血痕。
「こ、ここって……」
「ほう? 察しの良い。その様子では俺のコトも聞いているようだな。ああ、そうだ。お前が想像した通り、ここは俺の寝床の一つであり、食事場の一つでもある。ここで大半の従業員は処理したな。面白そうなのはまた違う場所に持っていったが……どうした、小娘。顔色が嫌に悪いじゃねぇか」
 声には優しさを含ませつつ、青褪め固まった泉を満足そうに眺めるシウォン。

 思考乱れる眼前で、乳白色の爪が月明かりの下、泉へ伸ばされ――――

 

 


UP 2008/7/30 かなぶん

加筆・修正 2020/07/30

 

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