幽鬼の章 四十九

 

 嫌だと泣き叫ぶ声が聞こえる。
 心のままに嘆く、耳障りな幼い声が。
 あの時の語る声音には、いつもの厳しさはなかった。
 ただ淡々と、告げられる事実。
 それゆえ伝わる真実に、幼い声は引き裂かれるような痛みを感じて喘ぐ。
 緩められたのは、老い深き手に、丸めた背を擦られた時。
 徐々に嗚咽が収まり、ついと上げた眼前には、申し訳なさそうに微笑む皺の顔。
 もしかしたら、本当に謝罪を口にしていたのかもしれない。
 判別できないのはきっと、いつもはとても厳しい人だったから。
 自分にも、他人にも。
 もちろん、血を分けた者にさえ。

「――――」

 重々しくも柔らかな音色。
 気品と厳格を兼ね備えた相貌が、強く在りなさいと繰り返し告げる。
 目に見えるものが全てではない。
 形あるものなぞ、終ぞ滅びるのだから。
 あなたは彼らのようになってはいけない。
 繰り返し、繰り返し。

 時は流れ、四季は巡り。
 天は様を変え、地は色褪せて。
 臨終のその時まで、彼女は未だ幼い姿へ言い聞かせる。

 自ら探せ。
 自ら作れ。
 自ら掴め。

 存在足らしめる処を。

 勝手に結び。
 勝手に連れ。
 勝手に捨て。

 ――存在を否定した者に依る事なく。あるいは彼らを利用して――

 骨の髄まで啜っておやり。
 赦しは私が。
 罪と言うなら私が罰を被ろう。

 それがアレの――親たる私の責。

 壮絶に嗤い、転じ、柔らかく撫でる。
 最期の刻、彼女はぽつり、願った。

 ごめんなさい。祈っている。あなたが居場所を見つけられるように。

 ずっと――――


 薄く開いた視界の先で、芥屋の自室天井が歪んで見えた。
 これを受け、泉は最初、泣いているのだと思った。
 頭はぐわんぐわんと音を立てて痛むし、気持ち悪さが身体中を巡っている。
 ――何より夢見が悪かったから。
 けれど、ひんやりとした感触が額に落とされ、その大きさと心地良さに自然と涙が溜まったなら、泣いた歪みではないと気づく。
 では? と考える間もなく、目を瞑ればぼたっと流れる雫。
 瞼の温度で熱に浮かされている己を知る。
 その身が柔らかな布団に包まれていることも、同時に。
 あやすように返された手の甲が、額をそっと撫でて離れていく。
「ワー……ズ、さん?」
 惜しむように手の主を呼べば、ひょっこり現れる、
「お姉ちゃん……!」
 泣き腫らした子どもの顔。
 廊下と違って陽の入る部屋は、日中に明かりを必要としない。それが今、子どもの光にも似た髪を輝かせているということは、時刻が子どもの目の色と同じ夜であることを示していた。
(夜……? 私、いつから眠っていたんだろう? それに……)
 ぼたぼたと涙を流し続ける子ども。頬に貼られた白い絆創膏がふやけるのも厭わず、ただ一心に泉を見つめる姿に違和感を抱く。
 恥も外聞もなく、何故こんなにも泣いているのか――そう思い、直後に、その感覚こそ違うのだと気づく。
 大人びていたのだ、それまでの子どもの表情や仕草は。
 痛々しいまでに、甘えの一切を取り除き、肩肘を張る――いつかの自分のように。
 同時に、自分は何故この子どもを知っているのか、と眉を寄せた。
 すると黒いマニュキアの手が子どもの頭を鷲掴み、泉の視界から追い出した。
「シイ、邪魔」
 名を聞き、それは意識を失う直前、助けたかった名だと思い出す。視界からは消えてしまったが、無事と思しき姿に猫が頼みを聞いてくれた、と徐々に取り戻される記憶。熱のある身では、再度視界に入れることもままならず、安堵の息だけをそっと吐いた。
 そんな泉を余所に、
「うおっ、何するのですかワーズの人」
 きゃいきゃい非難を口にするシイだが、一応・人間であるはずの彼の手から逃れられなかったらしく、終いには「ふぎゃっ」と悲鳴を上げた。
 目の前で銃口を突きつける展開にならなかっただけマシだが、容赦ない。
 思わず眉根が寄ったなら、にゅっと白い指が泉の鼻へ向けられた。
「見ろ。お前があんまりうるさいもんだから、泉嬢の眉間に皺が寄っちゃっただろ? 泉嬢が心配してるだろうと思ったから、お前の入室を赦してやったってのに。人間以外、大っ嫌いなワーズ・メイク・ワーズがさ!」
「……ワーズさん」
「あ、御免ね、泉嬢。煩かったよね」
 名を呼べば現われる、へらりと笑う顔。大人げないですよ、と続くはずだった言葉は、思いのほか柔らかな眼差しを受けて、飲み込んでしまった。
 いや、柔らかいというよりも、もっと複雑で、切なくなるような――
 その正体を求めて、億劫な左手を持ち上げ、突きつけられたままの指を除ける。
「ダメだよ、動いちゃ」
 けれど、あっさり取られては、探究心ごと布団に戻されてしまう。
 大人しく従うしかないぼんやり眼に映る、自らのこめかみに銃を突きつける姿。
 異常だが、最近では日常になってしまった光景。
「熱も下がってないし、まだ寝てて? 用があるならボクに言ってよ。気兼ねなく、ね?」
 気遣う口振りだが、どう聞いても気兼ねなく構えるのを喜んでいるとしか思えない。
 銃同様、いつも通りの言動に、いつも通りのへらへらした笑い顔。
 先ほどの眼差しは、熱が見せた幻だったのか。
 それならそれで構わない。
「じゃあ……お水が、飲みたいです」
 思考を放棄し、ワーズの言葉に甘えて願望を口にする。
「うん、分かった。――シイ、持って来い」
「ええっ!? 何故シイが? ワーズの人のお家なのですから、ワーズの人が持って来たら良いじゃないですか。お姉ちゃんはシイが看ていますから」
「黙れ」
 ぴしゃりと言った顔はへらへら泉の方を向いていて、それが不自然な具合で斜めに傾いている。銃口を向けているのだと察しては、また眉根を寄せて皺を作った。
「ワーズさん……」
 窘めるように呼んだなら、へらり顔は更にへらりへらりと揺れ笑う。
「ほらほら、泉嬢が催促してるんだから、応えるのが筋ってものだろう? 何せ、お前のせいで泉嬢は酷い怪我をしてしまったんだ。責任持てよ」
「むぅ。分かりました。お姉ちゃんのためなら一肌脱ぎます」
 言ってぱたぱた駆ける軽い音と、静かに閉まる扉の音が聞こえてくる。
 シイが出ていったのを感じつつ、熱で重い瞼をこじ開けながらワーズを睨む。
「責任……て、シイちゃんのせいじゃ……ないです。私が勝手に」
「そだね」
 笑ったまま、肯定するワーズ。
 少しだけ見開かれたこげ茶の揺らめきに、細まった混沌の奥が歪んで見えた。
「今はね、泉嬢。全部ナシにして? 他のコト全部。もっと自分を労わってあげて?」
 軽く頭を叩かれても、撫でられたような感触しか残らない。
「そんな風に自分勝手にしたってさ、誰も君を蔑ろにしない。だって君はボクのモノなんだから。他はどうであっても、ボクは君を助けるよ?」
 相手がワーズじゃなければ勘違いしてしまいそうな発言だ。
 実際、それが分かっていても、泉の熱に別の要因をもたらしてきて危うい。
「…………はい」
 微かに頷いて熱い瞼を閉じる。
 程なく、空気が動くのを感じた。
 泉は眠りに溶けそうな闇を払い、薄く目を開けると、遠退くコートの端を掴んだ。
「ぅおっと?」
 大袈裟なくらいバランスを崩したワーズがこちらを向く。
 そこにあるのは変わらぬ赤い口の笑み。
「ワーズさん、ありがとうございました。それと、ゴメンナサイ」
 もしも、礼と謝罪の意を問われたのなら、泉は返事に窮していただろう。
 理由は幾らでも思いつくのに、真実、コレという理由が出てこないのだから。
 けれど。
「………………」
 ワーズは問うことなく、代わりに泉の眉間へ指を添えた。
 軽く上下に動かし、苦笑の体でふにゃりと笑う。
「泉嬢、お休み? 余計なことは考えないで。今は治すことだけに専念……してもダメだけど、力抜いて眠って?」
 余計とは何のことだろう?
 問いも考えもしたかったが、熱の巡りで脈打つ頭をくしゃりと撫でられて、促されるように眠りに落ちていく。
 完全に寝入る直前、甲高い声とけたけた嘲る声を聞き、急に煩わしくなった頭の異物を撥ね退けた。
「うるさぁいっ!! 眠いのぉ、黙れぇー……」
 それが最後の力であったのか、泉の意識はそこで途切れた。

 

 


UP 2008/06/17 かなぶん

修正 2021/05/05

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