自殺―― そう聞いても、彼女の心はなんら騒がず。 ただ、選択肢がなくなってしまったと思うのみ。
それは十年前を初めとして続く、一つの語り。
花ノ言霊 1
その日、肝試しを最初に計画したのはミリア・ローディアだった。 別段、暑い日が続いていたからという理由ではなかったが、級友に誘いをかければ、女ばかり三人が同意を示す。 内二人は純粋に。 残る一人は、肝試しに隠された思惑を知って。 仲の良いグループという立場から少人数で募集を仕掛け、肝試しに適した夜の時間帯を指定、その特徴から二人一組での行動を提案する―― 彼女にとって、そこに隠されたミリアの考えを見抜く事は、造作もなかっただろう。 「でも……あんまり遅くなったらあなたのお父様、怒らないかしら? 門限、六時まででしょう?」 反面、ふんわりとしたくすんだ色の長い金髪を揺らし、暗い緑の瞳の表面に戸惑いを載せた彼女は、小首を傾げて問うてきた。 他の二人がこの門限に驚けば、ミリアは交わしてから一度も逸らさぬ眼のまま、宣戦布告のように彼女へ答えた。 「いいの。秘密にしていくから」 今まで、ミリアからは誰にも教えた事のない門限。 それを破ってまで計画したのは、それを知っている彼女と、二人だけで話す必要があったから。 だからミリアは、わざわざ門限を口にした彼女の、納得したという笑みに併せて微笑む。
場所の指定は後日、彼女から為された。
当初は近所にある、曰くつきの屋敷に行こうという話だったのだが。 「ちょっとだけ、ドキドキ感を楽しめれば良いんじゃない?」 という彼女の言葉もあり、あっさりと、人通りは少ないものの、迷うほど広くない森に変更となる。 これが同い年の少年であったなら、面白味に欠けるとでも言われそうだが、本気の冒険をするつもりのない彼女たちにとっては、十分な目的。 何よりミリアにとっては、邪魔さえなければ、場所など問題ではないのだから、反対する理由もなし。 この時は、そう、思っていた。
けれど、肝試し当日。 厳しい父の眼を掻い潜り、森へと訪れたミリアを待っていたのは、彼女と予定になかった男が四人。 近所でもあまりいい噂のない連中の、にやつく顔を前にして、嫌な予感を膨らませるミリアは、上擦る舌で他の二人はどうしたのかと尋ねた。 すると彼女はあっさりと答える。 「ああ、時間、間違えちゃったんじゃない? コイツ等? 暇そうにしてたから、連れて来ちゃった」 分かりやすい嘘。 彼女の性格は知り尽くしていたから、他の二人へは偽りの時刻を告げたと推測する。 だからこそ、彼女の狙いも計り知れて、無意識に一歩退けば、男同士、女同士の組み分けで行こうと提案された。 最初に男、次に自分たち、最後に彼ら―― 背筋を通る悪寒は拭いきれなかったが、この機会を逃せば、彼女と二人きりで話す事は難しくなる。 特に、真っ当な人間の耳に入れたくない話なら、尚の事。
ミリアの警戒を余所に、一組目が出発する。 ふざけ混じりにきゃーきゃー喚く声が遠退けば、次にミリアたちの番。 固まる表情を感じながら、ちらりと巡らせた視界に映るのは、順番を待つ彼らのにやつく顔。 値踏みする視線に自分が晒されていると思えば、慌てて視線を戻し、同じよう笑みを浮かべた彼女を伴って、ミリアは森の中へと足を踏み入れた。 まだ夕日の明るさが尾を引く時刻だが、進むにつれて、森は暗さを増していく。 そんな中で「きゃあっ」とわざとらしく悲鳴を上げた彼女は、よろけた身体を支えるように、ミリアの腕へ己の腕を絡ませてきた。 煩わしく思って見やれば、上目遣いの嬉そうな顔がそこにあり。 途端、脳裏に過ぎる姿。
あれは、肝試しを計画する一週間前の事。
帰りが遅くなると前もって伝えておきながら、予定より早く帰れるようになったミリア。 けれど、彼女は寄り道一つせず、真っ直ぐ家路に着いていた。 理由は偏に、父が休みで家に居るため。 父親が好きだから、とか、仲が特別良いから、とか、そういうわけではない。 早く帰って、早く顔を合わせたところで、ミリアが何か失敗をしていない限り、父は彼女に対して無関心を貫く。 「ただいま」と告げても、こちらを一瞥して横柄に「ああ」というだけだ。 逆に、何も言わなければ。 それは父へ、ミリアを叩く口実を与える事になる。 親に向かって挨拶の一つも出来ないのか、と。 資産家だった母の婿養子は、いつも権力に怯え、反して幼いミリアに厳しかった。 特に、母の雇った家政婦がいない時は、些細な事でよく叩かれた。 服の上からでは分からない位置、かといって、長く跡が残らない力加減で。 このため、世間体を気にする忙しい母は、慢性的に行われている父の折檻を知らず、悪化を恐れるミリアは、家政婦にさえ父の所業を告げられず。 なればこそ、家政婦が来ない今日は、特に気をつけねばならなかった。 何が父の気に触れるか分からないゆえに。 家に着き、まずミリアがしたことといえば、迂闊に呼び鈴を鳴らす事ではなく、鞄から鍵を取り出す事。 家政婦がいるなら、呼び鈴を鳴らすところだが、父しか居ない今、それをするのは非常に危険だった。 鍵一つ自分で開けずに親を呼ぶのかと、嫌味混じりに小突かれるのは、目に見えていたから。 だからミリアは、そっと鍵を開け、中に入っては、静かに鍵を掛ける。 わざわざ帰宅を報せるような真似はしない。 門限までに、ミリアが家にいる事を父が知れば良いのだ。 もしも父が寝ていた場合、起されただのと言いがかりをつけてくるのは分かっている。 家にいても、心休まらない自分を感じれば、ミリアの口元に自嘲が浮かんだ。
そして丁度その時、あの音はミリアの耳に届いた。
ふいに、するりと離れる腕を知り、現実に意識を戻したミリアは、こちらを向いて嗤う彼女へ問う。 「どうして?」 端的なその疑問符の意は聞き返されず、「いい事、教えて上げる」との言葉に迎えられた。 「名前、呼ばれたわ。切なくて胸が苦しくなっちゃった……でもね、すっごくおかしいの。だってね、あなたの名前だったんですもの。彼が呼んだのは」 「!」 身を這う気持ち悪さ。 彼女が何を指してそう告げたのか、分かる自分が疎ましかった。
あの日、ミリアの耳に届いた音は、啜り泣きのようでもあった。
音源に視線を巡らせれば、居間の扉が半開きになっている。 神経質な父にしては珍しい事。 何より、まだ日も高いというのに、カーテンを閉め切って作られた扉向こうの闇は、ミリアの好奇心を擽った。 家政婦がいないなら、啜り泣きの主は父ということになる。 父の泣き姿になど興味はなかったが、カーテンを閉め切ってまで啜り泣かねばならない理由には興味があった。 この時、ミリアの好奇心は、折檻の恐怖を少しばかり上回り。 結果、彼女にその姿を目撃させてしまう。 暗がりの中、熱を孕む異様な臭気に眉を顰めて口元を覆う。 それでも気づかれぬよう、姿勢を低くして覗き込めば、軋む音がソファから聞こえて来た。 勝手知ったる自分の家、ミリアは暗くとも迷いなく、そちらを見やり。 最初、ミリアにはソレが何なのか、さっぱり分からなかった。 輪郭だけなら、うずたかく積み上げられたクッションの中で、何かが蠢いているように見えたのだが。 しばらく凝視すると、その中の一対の光が、闇に慣れたミリアの目に飛び込んできた。 「!」 瞬間、心臓を絞めつけられる痛みを感じ、頭から冷水を浴びせられたような感覚がミリアを支配していく。 彼女と視線を交わしてしまった暗い緑の光も、似た思いだったのだろう。 仰け反らせた格好を維持したまま、ミリアを見つめ続け。 だがしかし、ミリアに気づかない上の蠢きにより、光はそちらへと向けられ隠れてしまう。 残されたミリアに出来る事といえば、何も見なかったと自分に言い聞かせ、全てが終わるまでの間、父が門限を気にする直前まで、自身の部屋に身を潜める事だけ。
それが、ミリアが肝試しを計画するに至った経緯。 その時までミリアは、父の折檻は全て、反動だと思っていた。 婿養子の立場から母を思い通りに出来ないことへの、苛立ちから来るものだと。 酷く歪んではいたが、満たされない母への愛ゆえに、自分は叩かれているのだと思い――。 けれど、暗がりを見つめる傍観者へ立場を転じては、見えてくるその本性。 他者を己の下に置く事で、自身の優位を知らしめる、愉悦に満ちた顔つき。 それはミリアを躾と称して叩いた時にも酷似しており。 父は確かに歪んでいた。 ただし、満たされぬ愛ゆえではなく。 母という君臨者がいるために満たされぬ、支配欲のために。
なればこそ、走る怖気がミリアにはあった。
彼女には秘密にしてゆくと言ったが、親は親。 意を決し、肝試しへ出かける旨を告げようと思った矢先、一階の応接間が薄く開いている事に気づいた。 不思議に思いながらも、扉を閉めるため近づけば、そこから覗く視線にギクリと身体を強張らせる。 一瞬過ぎったのは、暗がりのソファで相対した暗い緑の瞳。 しかしてそこにいたのは、ミリアのよく知る緑の双眸。 かといって、ミリアの強張りを氷解させるには至らず。
差し込む朱の陽光が妖しく照らす応接間。 丁度、陽に当たらない壁に飾られていた、ミリアの肖像画。
モデルとなった憶えはあった。 手配したのは母。 サプライズも何もない、誕生日のプレゼントとして。 これを知った時、自分の肖像画が誕生日プレゼントなんて、とミリアは陰で苦笑したものだが、上流家庭出の母に言わせれば、淑女たるもの、一枚くらいは持つべき、だそうで。 何でも、当時の己を知るのに適しているとか何とか。 母の説教染みた講演を流しつつ、ミリアは暗い笑みを内で落としていた。 もしも肖像画が出来たとしても、それは決して、本当の自分ではない。 親の体裁を取り繕うために、自然と身についた社交性を表に貼り付けただけの姿なぞ、本当の自分であってたまるか。 そして飾られたその肖像画は、まさにミリアが思った通りの出来栄え。 ウェーブがかった長い金髪に、睫毛の陰に憂いを秘めた、優しげなエメラルドの双眸。 柔らかな肌の曲線は暗い背景に溶けるほど幻想的で、緩やかな下弦を描く薄紅の唇は穏やかな笑みを浮かべている。 色彩は正確。 なれど描かれているのは、画家の目に映った、故意に歪められし社交の虚像。
現実にはいない、空想のミリア・ローディア。
肖像画の出来栄えを目にして、ミリアは自分の姿でありながら眼を奪われ、同時に落胆する。 物語の中の姫君のような美しさが示唆するものは、ミリアが現実に生きていないという証。 加え、この肖像画がここにあるという事は、依頼主である母は出来栄えに満足しているらしい。 儚げな印象だけが色濃い、現実のミリアとは程遠いこの肖像画を。 受け入れて貰えそうにない本当の自分を哂ったミリアは、転じて、奇妙な感覚を抱く。 あの肖像画は、母からミリアへの誕生日プレゼント。 それがここにあるということは、母はとっくに目を通しており、次に開かれるのは三日後の誕生日であるはず。 なのに何故、母もいないこの部屋に、ミリアも知らない内に、こうして飾られているのだろうか? もしや、肝試しを口実に使った事への何者かからの警告――とまで思い、薄ら寒い思いを抱けば…… それより遥かにおぞましい光景が、エメラルドの瞳を揺らした。
薄く開けられた扉から覗く絵に、無骨な手が伸びる。 普段、叩くばかりのその手は、打って変わり、肖像画の中の彼女を不躾に撫で回す。 今し方、自分とは違うと酷評したくせに、ミリアはなぞられた部分に怖気を感じて身を抱き。 何が……起こっているの?…………何を、したいの、貴方は――? 問うべき相手はそこにいるのに、発せられる声もなく、肖像画を見つめることしか出来ないミリアは、次いでの行為に戦慄を憶えた。
舐めるような、口付け。 肖像画を相手にしているとは思えないソレは、薄紅の唇をしっとり湿らせて。 「ミリア……今年の誕生日プレゼント、しっかり受け取っておくれ」 熱を孕んだ、舌なめずり。
今まで、一度たりとてプレゼントをしてくれた事のない、叩く手の平しか与えてくれなかった者のその言葉、その行動。 容易く理解出来る意味は、理解したくない、自分を標的とした想いを、肖像画に移しており。
乾いた笑いが彼女の口から発せられた。 何も告げず、応接間から離れて真っ直ぐここへ向かった時同様、弾かれたように、いつの間にか俯いていた顔を上げたミリアは、歪な笑みを彼女に見た。 泣く一歩手前に似た、その笑みで。 「良かったわね。あなたずっと言ってたものね。仕事で忙しい母、厳しい父、愛されてるのかしら、望まれてるのかしら、って! しっかり愛されてたわ、望まれてたわ。でもそれは娘としてじゃなくて――私と同じ」 がさっと草の擦れる音と共に現れる、四人の男。 彼女を後ろへ控えさせ、ミリアを逃さぬよう囲う。 助けを求めて彼女の方を見たなら、額を抑えて煩わしそうに嘆いた。 「もっと笑える話、聞かせてあげるわ。あのね、私、あの人のことが好きなの。あの、どこまでも卑屈なくせに、人を見下すのが大好きな、歪んだあの人が――あなたのお父様が。始まりなんて野暮なことは聞かないで頂戴。でも、そうすると邪魔なの、あなたが。だから、ね。私のために犠牲になって? 親友なら――」 それが合図となって伸ばされた腕。 掴まれた袖を払えば服が破れ、誰かが下卑た口笛を鳴らし、彼女が嗤う。 「私のお友達とも仲良くなってよ。大丈夫、大人しくしてたら優しくしてくれるわ。尤も、私はあの人しか知らないから、保障できないけどね」 髪を掴まれ回される腕。 咄嗟に歯を立て噛めば、皮膚を突き破って生温い鉄錆が広がった。 振り払われ、怒号を聞きながら、夢中で逃げる。 追ってくる気配はいずれも嗤い。 重なる彼女の声は優雅な動きで近づいて――
2009/7/30 かなぶん Copyright(c) 2009-2017 kanabun All Rights Reserved. |