花ノ言霊 2

 

 どこをどう走ったかなぞ、憶えていない。

 ただ闇雲に、出口だけを求めていた。

 森の外にさえ出られたなら、誰かに助けて貰えると思って。

 反面、ずっと逃げ続けていられたらと思う。

 彼女は知っているのだろうか。

 肖像画に欲の片鱗をぶつける姿を。

 自分はどうすれば良いのだろう?

 仮に助けられたとしても、待ち受けるモノは変わらない。

 彼女や追ってくる男たちを退いても、不穏な誕生日は三日後に控えている。

 例えばこれを誰かに訴えたとしても、母は自分の顔に泥を塗った挙句、足を引っ張ったミリアを許さないだろう。

 完全に一人で生きていくには未だ幼く、誰かの手を取りながら暮らす方法が浮かんでも、それは訴えを起す要因とさして変わらぬやり方。

 待ち受ける未来の暗さは、駆ける森の闇と相まって、ミリアの心を削り取っていく。

 いい案が一つも浮かばない中、逃げるだけの動物と成り果てたミリアに、いつまで経っても出口に辿り着かない、本来はそこまで広くない森を認識する術は在らず。

 目の前の獲物しか映らない捕食者と化した男たちや彼女にとっても、それは同じ事で。

 

 

 

 

 

 気づけば辿り着く、闇を掻き消す煌びやかな街並み。

 突如として現れた、眼を焼く光景に、ミリアは疲弊しきった心を全て奪われた。

 逃げていた意味、事実さえ忘れ、足を止めては惚けて。

 追いついた嗤い声が、乱暴な手でミリアを捕まえても、悠々と追いついた彼女の笑みが近づいても、惚けた心は戻らず。

 エメラルドの瞳は、見たことのない街並みだけを映していた。

 ここは……何処?

 誰も言わない問いを一人で繰り返し。

 答えのように、誰かが言う。

「おっ! いーもん見っけ!」

 場違いに明るい声を聞き、ミリアを囲んでいた一団が剣呑に眼を細め、そちらを睨みつけた。

 けれど、その表情はすぐさま一変する。

 異形の影を、知らぬ間に入り込んでいた路地裏の先に見て。

 一つだけなら、獣面の仮装と侮っただろうが、自分たちより勝る上背と体格が幾つもあっては、さしもの彼らも恐怖だけしか感じえず。

 誰かが逃げれば後を追って皆が逃げ。

 ぼんやりと表情を失くしたミリアだけがその場に残れば、異形の一人に捕らえられた。

 残る異形たちは、逃げた彼らを追い。

「あーあ。ひでぇ奴らだねぇ? お前さん、お仲間に置いていかれちまったよ? 可哀相になぁ?」

 ミリアの顎を掬い、視線を合わせた獣面は、いたぶるようにそう言う。

 だが、元より仲間と思っていない彼らに置いていかれても、ミリアに騒ぐ心は在らず。

「……ちっ。コイツは外れか」

 乏しい反応しか得られない事に腹を立てた異形は、荷物のようにミリアを抱え上げ、コンテナ然の箱の中へ、乱暴に彼女の身体を放り込んだ。

 

 

 程なく、逃げた者たちが同じようにコンテナへ入れられると、奇妙な浮遊感が訪れる。

 泣き声と呻きで埋め尽くされたコンテナにあって、ミリアは一人冷静に、これは昇降機か何かで下ろされているのだと分析し。

 地面が揺れて、地に着いたと知ったなら、閉められていた扉が開き、上よりも一層眩い光の洪水に迎えられた。

 一人ずつ出るように指示され、大人しく従ったのはミリアと男が三人。

 泣き叫んで拒否する声、コレを罵倒し力ずくで出そうとする音を後ろに、他の者とは違い、拘束一つ受けずに歩くミリアは、自分の仮説を立証すべく、ちらりと後ろを見やった。

 果たして、そこにあったのは、天へ続く巨大な昇降機と、終わりの見えない岩壁。

 否、最初に見た街並みとは違う空から、ここは地下なのだと、下ろされた感覚を元にミリアは結論付けた。

 異世界――そんな言葉が過ぎる。

 空想のお話の中でしか在り得ない場所だが、被り物にしては質感のある獣面の男たちや、広大な地下世界を前にして、他に説明出来る要因はない。

 こういう事を頭から信じない学者であれば、もっともらしい理論でも組み立てるのだろうが、現実を前にしては無意味な所業である。

 それよりも、帰る方法やそれまで暮らしていく方法を考えるのが、もっとも建設的な話だとミリアは思った。

 次いで、そんな事を冷ややかに思える自分を不思議に感じた。

 どちらにしても絶望的な状況だったから、こうも冷静――冷酷でいられるのかもしれない。

 コンテナから引きずり出された傷だらけの男女を、視線を前へ戻す端で捉えつつ、ミリアは促されるままに歩みを続けた。

 

 勿論この状況下では、帰る方法や暮らしていく方法を、自分で考える自由はないと知りながら。

 

 辿り着いたのは、夜空然の上を前にして真に滑稽ながら、青空市と言った具合の、粗末な檻と舞台しかない広場。

 開けられた檻へ全員を収容した異形は、もうすぐここで競りがあると、言葉の通じない家畜にでも言うように、無関心な声を響かせる。

 他の反応は様々であったが、ミリアは終ぞ、従順を崩さず。

 反対に、最期まで抗い、喚き散らしていた彼女は、発狂寸前にまで陥った挙句、余興として弄り殺された。

 檻越し、眼前の行いは、他の商品たちへの見せしめだったが、ぬるりとしたものが頬を打っても、ミリアの心は静寂を保ったまま。

 自分たち以上の狂気に晒され、剪定された男たちは、仲間の無事より自分の安穏だけを祈り、片隅で震え続けていた。

 彼らのその後など、先に檻から出たミリアには知る由もないし、冷静な頭であっても、知りたいとは思わなかった。

 

 ただその日、泣きも喚きもしなかったミリアは、一番の安値で買われたと、運ばれる最中で知らされた。

 

 

 

 人身売買という言葉をミリアは知っていた。

 結末の凄惨さもぼんやりと、実感など伴わない形で。

 それでもミリアは従順な態度を崩さず、ともすれば、いっそ壊れてしまいたい思いに駆られた。

 どこであっても、自分が生き抜く道はソレしかないのならば。

 けれど、てっきりそういう相手でもさせられると思っていたのに、ミリアを買った獣面の男は、入浴と着替えを彼女へ命じた。

 かといって自分の手で行おうとはせず、ミリアと同性の小間使いを呼んでは、仕事を言いつけて出て行く始末。

 半ば呆気に取られていれば、小間使いはミリアへ語りかけるでもなく、変わり者だと彼を評した。

 そうして本の中でしか見たことのない、豪勢な衣服を着せられたミリアを眺めた彼は、愛でるでもなく、用は済んだとばかりに、また扉の向こうへ。

「あの……」

 混乱から声を掛けても、彼はミリアを肩越しに、退屈そうに見やっては言う。

「あとは好きにするがいい」

 異形の身にはそぐわない、滑らかな低音。

 彼が去ってから、ミリアは愚鈍な頭の回転を急きたて、現状を把握しようと努力を重ねた。

 ――大した効果は得られなかったけれども。

 こうして、自分を買った男との最初の日は、ミリアの予想を大きく裏切って終わりを迎え。

 次の日も、また次の日も。

 日が過ぎる度、新しい服や装飾に着替えさせられ、彼が来ては眺めて終わる。

 そんな日々が続いていく。

 危惧していた三日後の誕生日も、当然の事ながら祝う者もなく、淡々と過ぎ去り。

 獣面の男との邂逅を重ねる中で、ミリアは自分の立ち位置を察した。

 まるで着せ替え人形――

 事実、そうだった。

 

 

 

 ある日、珍しくミリアを伴い屋敷を渡った彼が、彼女を促し通した部屋。

 ミリアはそこで、同じように着飾られた、人型の異形たちを目の当たりにする。

 今の今まで談笑していたと思われる彼らは、彼が入ってくるなり、曲の終わりを迎えたオルゴールの人形が如く動きを止めた。

 ただし、その場を動かず喋らないだけで、他の動作は許されているらしい。

 瞬きや腕を下ろす等の動作はちらほらあり、部屋に響く衣擦れと静かな息遣いはミリアの凡庸な耳にも届いていた。

 そしてとある一角、不自然に開いた場所へ誘導されたミリアは、初めて彼の姿を真正面から見つめることとなる。

 ゆったりとした黒の衣服はミリアが着ている物と違い、どこか異国の民族衣装を思わせた。

 白に近い灰色の長い鼻面に、ちょこんと乗っかったフレームのない眼鏡は、獣の顔であるにも関わらずインテリめいていて、考える素振りで顎に添えた鋭い黒の爪さえ、理知的に見せている。

 尖った耳のシルエットから怜悧な双眸を想像していたのに、交わす視線はどこまでも穏やかなブラウン。

「ふむ。やはり髪はこちらへ流す方が良いかも知れん」

 そっと伸ばされた手は、毛皮に包まれていようと男のもので、ミリアは一瞬ぴくりと動じてしまった。

 今まで、何も感じなかった心が、ここに来て初めて揺らぎ。

 すると呼応するかのように彼の手も止まり、元の位置まで戻っていく。

「あ……」

 機嫌を損ねてしまった。

 そう察しても、僅かに感情を取り戻したミリアは、己の変化に戸惑うばかり。

 おまけに溜息をつかれては、戸惑いも放り捨てて萎縮してしまった。

「す、すみません」

「……何故、謝る?」

 俯いた頭へ向けられた声は、酷く穏やかな調子で返答を求める。

「だって私……買われたのに……」

 そんな言葉が自分の口から自然に漏れても、嫌悪する暇は与えられず。

「そうだな……では、帰るか?」

「へ?」

 妙な言い草に驚いて顔を上げれば、彼は首を傾けて苦笑のてい。

「おかしな娘だな? ただ驚くだけか? 前に似たようなことを告げた娘は、すぐさま本当かと尋ねてきたぞ?」

「……それで……帰してあげたんですか?」

「ああ。しかしあの娘、しばらくしてまた競りに掛けられていたな。凝りもせず競り落としたが……翌日には死んでいた」

「え?」

「帰した後、何があったかは知らんが、容易に死ねない状況まで陥っていたようだ。解剖した奴が言うには、生きていたのが不思議なくらい酷いあり様だったらしい」

「…………」

 そんな風に言われて帰りたいと思う者などいるだろうか。

 いるかもしれないが、それはミリアではない。

 取り戻しつつある感情を持て余し、青褪め押し黙ったミリアをどう思ったのか、彼は考えるように「ふむ」と唸ると、彼女を最初の部屋へ戻した。

 

 

 

 それからはまた、着せ替え人形の日々。

 ただ一つ、変わったことといえば、彼がミリアへ話しかけるようになったこと。

 最初は頷いているだけのミリアだっただが、その都度質問をされては、会話を望まれているのだと知った。

 知ったところで話題など一つもなく、やはり頷き、応えられる範囲で答え――

 その中で得たのは、この街が奇人街という街で、話す言葉は通じても表す文字が違うこと、種族が多岐に渡ること、地下のこの場所は人狼という彼と同じ種が支配するところで、彼は五指に入る地位にあること。

 弱肉強食が一般常識と聞かされ、ミリアはふいに、彼女のことを思い浮べた。

 舞台上、逃げ惑う彼女を追う異形たち。

 裂かれる皮膚。

 飛び散る血。

 砕かれる骨。

 食まれる肉――

 絶命する時、彼女はわざわざ格子越しにミリアを見つめ、半分失くした唇で言う。

 「助けて」と。

 手を伸ばし地べたに突っ伏し死んだ目は、瞳孔を開いてなおも、ミリアを暗闇に浮かべ。

 会話を重ねる内、彼女の姿を思い出せば、ミリアは吐き気を催すようになっていた。

 

 そして、その日もミリアは、彼との話の合間で彼女の最期を脳裏に映し。

 そしてとうとう表面に、感じた気分の悪さを曝け出してしまう。

 

 荒れ狂う思いのまま、しゃがもうとすれば、彼に腕を取られて顎を上げさせられた。

 宥めもしない穏やかな目なれど、触れる爪は異形らの中にあって彼女の腹を裂き。

 初めて恐怖を感じて一歩引いたなら、容易く腕が裂けた。

 痛みに呻けば、彼は淡々と告げる。

 ミリアが一体何に反応しているのか、よく知っている口振りで。

「聞くがいい、我を失した娘よ。私もだ。私も喰らったことがあるのだよ――人間を」

「!」

 低い声は安らげるほどに優しく、けれど紡ぐ言葉はどこまでも不快。

 完全に取り戻された感情は、裂かれる痛みも流れる血も忘れ、ただ、扉に向かって手を伸ばした。

 しかし、重いその扉は開かれず。

 混乱に振り返った先では、彼がミリアを見据えながら、爪についた血を舐め取る姿。

 更に恐怖を感じ、扉を叩きに叩き、いつしか手が血塗れになったのにも気付かず、無駄と知っていて爪を立てては剥がしてゆき。

 失せた感情への理解が唐突に為された。

 

 生きたかった訳ではない。

 死にたかった訳でもない。

 ただ、逃げたかったのだと知る。

 

 生存本能などという大それたものではなく、ただ、起こる事象、全てのことから。

 

 けれどつかつか近づく足音を聞いては、涙を凍りつかせて振り返り、伸ばされた爪を見て喉が裂けそうな悲鳴が上がった。

 息継ぎも忘れたソレは、やがてミリアの意識を朦朧とさせ、ぼやける視界に黒を映す。

 諾々と流れる血を包み込む温もり。

 もたらされる息苦しいほど安らげる穏やかな香りは、死を予感させた。

 

 

 

 

 

 ばちっと目が覚めたのは、何故だろう。

 なんだか酷い夢を見ていた気分で、紅の天井を睨む。

 掛かる金の長い髪が邪魔だと持ち上げた腕。

 瞬間、激痛が走った。

「ぅっ」

 顔を顰めれば、長い間忘れていた筋肉が動き出して、これはこれで痛かった。

 何をしても苦痛を強いられる状況を思い、溜息をつき腕を労わりながら横になって――

「……ぇ」

 至近の胸板に思考が停止する。

 恐る恐る顔を上げれば、これまた至近に見知らぬ男の、気持ち良さそうな寝顔があった。

 しかも、どこからどう見ても、人間の――

 最近異形の姿しか目にしていないせいか、凄く珍しくも懐かしい容姿の男に対し、警戒も忘れてミリアは痛む手を寄せた。

 するとここで気づく、手当てされた包帯の腕。

 引きつる痺れは爪にも及び、背筋をざわざわさせた。

 それでもミリアは男の頬に触れてみる。

 包帯のおかげで感触はさっぱり分からないが、質感がある。

 夢でないのは確か。

 現実を認め、次いでミリアは男をまじまじと眺めた。

 静かに閉じられた目元には泣きボクロがあり、顎のラインはほっそりしていた。

 顔に掛かる白に近い灰の髪は中途半端な長さで、一箇所クセを認めては、いつもは一つに纏めているのだろうと推測する。

 他にこれといった特徴もない男は、だからこそ整った顔立ちなのかもしれないとミリアは考え、そんな考えに至った自分に戸惑った。

 ここにきて、突然羞恥が舞い戻ってきた。

 無防備に触れてしまったが、よくよく思い起こせばここは広くともベッドの上。

 ミリアの格好はいつ着替えたのか薄手のワンピースで、目の前の男は……上半身裸。

 尤も、見える範囲が腹筋あたりというだけで、同じ布に覆われた下がどうなっているか、確認する義理もなければ度胸もない。

 とにかく離れるのが先決だと、もぞもぞ痛む腕を叱咤して退けば、男が薄く目を開けた。

「……む」

「…………ぁ?」

 旦那様?

 己を買った彼への問いかけは、干からびた喉に阻まれたが、穏やかなブラウンの色彩は、紛れもなく人狼の彼にあったもの。

 でも、目の前にいるのは人間――

 悩めるミリア。

 大体、彼は着飾って眺めるのが好きな変人だ。

 こんな風に一緒に眠るような方ではない――はず。

 そう納得させても、ブラウンからは逸らさず、再度退けば、目の前の男が薄く笑った。

「どこへ行く? 私はまだ眠いのだが」

 言いつつ、男の胸が近づく。

 否、抱き寄せられていた。

 男の腕が動いた気配はないから、元々抱き締める格好で寝ていたらしい。

 自然、頭を胸に寄せる形となって、真っ赤になったミリアは緊張から身動きがとれず。

 じっとしていれば髪が梳かれた。

「くくく……そう硬くなるな。何もせん。お前ももう少し眠るといい。眠れないなら……さて……どうしたものか……」

 心地良いリズムに段々瞼が重くなってしまい、見上げれば優しげな微笑とかち合った。

「ふむ……眠れるらしいな。良いことだ」

 そういう男も眠そうで、ミリアの頭を抱え込むようにして顔を髪に埋めた。

 しばらくすると頭上に響く寝息。

 つられるようにずるずる流され、ミリアは腕の痛みを忘れて眠りに入る。

 

 


2009/7/30 かなぶん

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