花ノ言霊 3

 

 夢を見た。

 

 それは幼き頃赴いた、母方の親族の集い。

 上流階級である事を何よりも誇りとする、金髪碧眼の一族の中で、話し込む母から離れたミリアは、地味な色彩の彼を見つけた。

 黒みがかった短い茶髪と深く透き通る蒼い瞳。

 彼女自身、母の血を色濃く継いでか、柔らかい金の髪と碧色の携えていたため、使用人たちと変わらぬ彼の容姿に不思議な思いを抱く。

 何せ彼と来たら、似た色彩の使用人たちとは違い、正装をしているのに、親族の輪の中に入らず、かといってその場から立ち去る事もなく、ただじっとホールの様子を眺めているのだ。

 まるで、幽霊か何かのように。

 そう思えば、ミリアの中に湧き上がったのは、恐怖ではなく、親近感。

 いつも不在の母に、口を開けば文句しか言わない父。

 連れ歩く今でさえ、近くにミリアがいない事を父母は共に気づかず。

「ねえ、なにをしているの?」

 気づけば彼に話しかけていた。

 すると彼は、初めてミリアに気づいた様子で眉を上げ、転じて柔らかく微笑んで言う。

「うん。彼女を見ていたんだよ」

「かのじょ?」

 す……と彼が手で示したのは、給仕に勤しむ使用人の女。

 齢は彼と同じくらいの若さだが、動きは他の使用人より群を抜いて機敏だった。

 と、丁度彼女が通り掛かった時、酔っ払った目の若い親族の男が、その身体へ不躾に触れようと動いた。

「あ」

 声を上げたのはミリアだが、視界の隅で彼の身体もビクッと動き。

 けれど、使用人の女は、男がそれと気づかぬぐらい自然な動作で、不穏なその手をあっさり避けた。

 ほっと胸を撫で下ろしたミリアは、ついで彼を見上げて笑いかけ――彼の悔しそうな顔と男を睨みつける暗い光に怯えた。

 これに気づいた彼は、呆れた様子で溜息を吐き、苦笑いを浮べて頭を掻いた。

「おじさん……あのひとのコトがスキなの? ケッコンするの?」

 まだ若い彼に向かっておじさん呼ばわりもないが、彼は別段気にした様子もなく頷いた。

「うん、まあ…………けど、結婚はまだ無理かな。彼女も私を好きだと言ってくれるけど、身分を気にしているから。今は説得の段階で」

「……おじさんってカイショーナシなの?」

「……え? ど、どこでそんな言葉を覚えたのかな、お嬢さん?」

「かあさまが」

「……へぇ」

 何とも言えない顔つきが彼に浮かんでも、ミリアは構わずに続けた。

「あのね、カイショーナシはきらわれちゃうのよ? とうさまみたいに。チャンスはモノにできなきゃダメなの。かあさまはね、それでしっぱいしたんだって。むかし、ほんとうにスキなヒトがいたけど、ケッコンできるタイミングをみあやまったって。だから、とうさまとケッコンするしかなくて……だから、だからねおじさん。おじさんはやさしそうだから、ちゃんとスキなヒトとケッコンしなくちゃダメなんだよ? そうじゃなきゃ、わたし、イヤなの。わたし……わたしは――」

「ミリアはどこだ」

 その時、ミリアの耳に、彼女の不在を知っていきり立つ父の声が届いた。

 瞬間、言いかけた言葉は忘れてしまったけれど、慌てて戻りかけたミリアは「ミリア……て、君の事かな?」と顔を上げた彼へ告げる。

「おじさん、おねがいがあるの。おじさんはスキなヒトとケッコンして、うまれてくるコをたいせつにして? しっぱいしないで。いっぱいいっぱい、あいしてあげて?」

 会ったばかりの彼へ、小さな子どもが言う台詞ではなかったけれど、何かを感じ取ってくれたのか、彼は哀しそうに笑って頷いてくれた。

 後にミリアは、暗い色彩の彼が、真実、自分の叔父に当たる人だと知り、併せて使用人の彼女と駆け落ちしたという噂を耳にする。

 元々、親族に似つかない容姿から厭われていたようで、母は事ある毎に彼を恥だと罵ったが、ミリアだけは約束を守ってくれたのだと、密かに二人を祝福していた。

 と同時に起こる胸の痛みは、今まで誰も彼女にくれなかった、穏やかな眼差しを向けてくれた人だったから。

 たぶん、彼は、ミリアの初恋で――

 

 

 

 

 

 次に目を覚ました時、ミリアはぼーっとした頭で起き上がった。

 ぐるりと辺りを見渡せば、テーブルを挟んだ二脚のソファの片方に男が座っており。

 ――飲むか?

 問われ、喉を押さえたミリアは、そこがとても渇いているように感じた。

 寝惚け眼のまま頷けば、男は向かいのソファを勧める。

 のろのろと広い布の上を膝立ちで這いずり、揺れる視界をどうにか進んで、その場所に座る。

 寝起きの悪さに辟易しつつ、低いテーブルを飾るような杯を掴み。

「っ!」

「ああ、悪い」

 尋常ならざる痛みがミリアの意識を完全に覚醒させる直前、杯の方から唇に触れてきた。

 緩い傾斜を滑る液体を感じて、渇いた喉が勝手に招く。

 水ではないとろりとした舌触りは甘く、仄かな桃の香りが痛みの波を和らげた。

「あまりがっつくな。また痛むぞ?」

 からかう穏やかな声音を受けて、気づけば包帯の手が杯へ伸びていたのを知る。

 慌てて引っ込めてもやってくる苦痛に眉を顰めれば、潤いを与えてくれた杯が下がった。

 もう少し飲みたかった。

 恨めしげな気分で正面をエメラルドの輝きで睨みつけ――

 見知らぬ姿をきちんと認識しては、わたわた忙しなく動き、次いで包帯巻きの手が、痛みの主張を再開、ミリアはこれまでの経緯を鮮明に思い出した。

「〜〜〜〜〜〜っ」

 声にならない悲鳴を上げ、意味なく両手を天に捧げて俯いたなら、くつくつ笑う声が響く。

 瞬時に沸騰する頭。

 改めて睨みつけたミリアは、穏やかなブラウンに迎えられて眉を寄せた。

「…………旦那……様?」

 潤った喉が茫然とした声音を用い、着替えを手伝う者の言葉で、自然と身についてしまった呼称を口にする。

 けれど白に近い灰の髪を後ろでひと括りにした男は肯定せず、代わりに「ふむ」と唸った。

 奇妙な沈黙が流れ、ミリアは自分の失態に気づいた。

 ブラウンの瞳が似ていたからとはいえ、目の前の男は人間で、ミリアの思う旦那様は本物の獣の顔を持つ。

 骨格からして繋がりがないではないか。

 咄嗟に訂正を入れようとするミリアだったが、この場合、どちらに謝るべきか悩む。

 同族たる見ず知らずの男か、人狼というケダモノの顔を持つ旦那様か。

 しかして答えは呆気なく内からもたらされ、ミリアは心の中で旦那様に謝った。

 意識が飛ぶ前、怖い目にあったとはいえ、こうして生きていることを踏まえれば、最初から殺めるつもりはなかったのだろう。

 単なる気まぐれだったかもしれないが、手当てまでされている。

 それに旦那様は着替えたミリアを眺めはしても、不躾に触れたりはしなかった。

 反して目の前の男は初対面にも関わらず、人を抱き枕にして寝たりなんだりと……

 ここではたとミリアは気づいた。

 どうしてだろう、自分は無意識に旦那様を擁護している。

 あの、人間では決してない方を。

 

 ……人間ではないからかもしれない。

 

 そう思い直す。

 今では父と呼ぶことさえ躊躇われる男と、それを慕う彼女が連れてきた彼ら。

 旦那様と比較するに値しない人間たち。

 そして――じっとこちらを見つめる男。

「……何か?」

 敵愾心を剥き出しにして問う。

 よく考えてみれば、現状はかなり危険だ。

 見知らぬ男に、屋敷と同じ造りながら見たことのない内装の部屋。

 まだテーブルを挟んだ対峙だから良いものの、これを失ってしまったなら――

 不快な思いに駆られ、一層警戒を強めるミリアだったが、男が動いたのを受けては、情けなくも肩がビクンッと跳ねてしまう。

 気づいた男は不思議そうな顔で、伸ばした先にある、自分の杯を手に取った。

 過剰な反応をしてしまったと、ミリアの頬が羞恥に染まれば、男は興味深そうに笑った。

「上々だ。やはり我は失うべきではないな。ふむ……彼の真似をしてみたが、どうもしっくりこなかった。私の性には合わなかったのだろう。礼を言うぞ、娘」

 一方的に意味の分からぬ話をし、悦に入った様子で、杯をミリアへ掲げて煽る男。

 テーブル上には、ミリアが飲まされた杯とは別に、水差しのような容器が一つだけ置いてあり、男が煽った中身は酒ではないと知れた。

 尤も、酒を嗜む年齢ではなかったため、これが酒だと言われれば頷くしかない。

「ふむ。どうした?」

 黙って飲みっぷりを見ていたのが気になったらしく、男は好奇心をミリアへ余すことなく寄せてきた。

 ともすれば好色に受け取れそうな眼差しだが、ミリアは特に嫌悪を抱くこともなく返し、それでも眉音は思いっきり寄せて尋ねた。

「……お酒? 私に、飲ませたのは……」

「ほう? 気になるのはそこか。安心するがいい。酒ではない。しかし、本当におかしな娘だな? くくっ、そう怖い顔をするな。折角の美しい見目、笑めば良かろうに」

「貴方相手にどうして笑わなきゃならないの? それに気になることは他にもあるわ。大体、ここはどこよ。私は旦那様に買われたモノなのに、何故見ず知らずの貴方と二人っきりでいるの?」

 二人っきりを心底嫌そうに言ったミリア。

 けれど、水差しの中身を杯へ注ぐ男が反応したのは別の言葉だった。

「旦那様、か……では尋ねるが、二人きりだったとして、それが旦那様であったならお前はどうする?」

「どうもしないわ。だって旦那様は紳士だもの」

 その時、杯にまた口をつけていた男から、ごふっという音が泡と共に吹かれた。

「くっ……し、紳士? また随分面白い冗談を」

「冗談じゃないわ。本気よ」

 顎に滴った雫へは嫌な顔をしたくせに、ミリアの評価へは必死で笑いを堪える風体で、何故か腹が立つ。

 どうしてこの男に己の評価を、引いては旦那様を笑われねばならないのか。

「本気? どうかしている。お前のいう旦那様とやらは、その包帯をもたらした輩だぞ?」

「これは……旦那様のせいじゃないわ。私が自分で裂いてしまったんですもの」

「ふむ。いやしかし、そうなった原因はその旦那様の不用意な発言が元であろう」

「違うわ……旦那様には旦那様のお考えがあったのよ。だって、だから私――」

 感情が戻ったのよ。

 ふいに生じた言葉は音にならず、ミリアの中にコトリと納まった。

 そうか、だからかと勝手に納得しては、男の視線を感じて慌てて言う。

「こうやって、初対面の貴方に腹を立てられるのだわ」

「腹を立てる? またおかしなことを。私とは初対面なのだろう?」

「だからこそ、よ。初対面だというのに、軽々しく人を抱き枕にしたり、痛がっているのを笑ったり……何より旦那様を侮辱したりして」

 感情のまま言葉を吐き出す。

 曲がりなりにも資産家の親の手前、社交辞令が常となり上手く出せなかった地の部分。

 飾り立てたネコを取っ払い、清々しい思いで紡がれた一つ一つの言葉は、抑圧された感情を解放へと導いた旦那様を思って。

 謳うように相手の非を責めたなら、男は頭痛を堪えるように眉を顰め、額に手を当てた。

「……娘よ、少し落ち着け。お前、何か勘違いしていないか? 旦那様とやらはお前に擁護されるような者ではないぞ? 第一、人間を――お前の同族を喰うような輩だ。庇い立てする必要など――」

「じゃあ、旦那様を貶めるようなことを言わないで。それにここは弱肉強食が常識なんでしょう? 食べられてしまった人には悪いけど、私には関係ないわ。自分が人間だからって、全ての同族を思うなんて無理よ。人間全部が全部、良い人ってわけでもないし」

 誰を筆頭にしてそう思うかなど、話す必要もないけれど。

 自然と浮かんでしまった顔たちを内で払えば、男は酷く打ちひしがれたように頭を抱えた。

「娘よ……確かにここはそういうところだが……何故割り切れる? 自分が喰われるとは思わんのか?」

 静かな声音はどこか責めるような困惑に彩られていて。

「勿論、思うわ。だって旦那様は人を食べたことがあるんだもの。自分がそう扱われない自信なんて、私は持ち合わせていないわ」

 至極当然のことを口にしたなら、男の顔が上がった。

 そこに浮かぶ表情は酷く不満げ。

「お前……さっきと言っていることが違うぞ? 今まで人を持ち上げておいて、いきなり叩き落すのか?」

 妙な言い草だが、ミリアは肩を竦めるのみ。

「あら、違わないわよ? 貴方がさっき言っていたのは、同族を食べた者を信用できるか否か、でしょ? でも次の話は自分が食べられる可能性の有無だもの。答えが違って当然じゃない」

「それを……望んだとでもいうのか。手当てまでしてやったのに」

「だからそれとこれとは話が別。手当てしたからって、旦那様が私を食べない、ううん、殺さない理由にはならないでしょ?」

「……いや、なる」

「……何故?」

「簡単な話だ。お前のいう旦那様は、お前を気に入っている」

 いつの間にか交わされるブラウンとエメラルドの視線。

 どこか達観した穏やかさは失せて、代わりに切迫した光が男の目に宿り――

 しかし、ミリアはふっと息を零して首を振った。

「だとしても、やっぱり話は別よ。今はそうだとしても、後でどうなるか分からないじゃない? 飽きたらぽいってことも出来るもの。私は旦那様に買われた旦那様のモノなんだから」

「そんなっ……そんなことは……いや、違う……違うぞ!」

 突然叫んで立ち上がる男は、豹変ぶりに驚くミリアの方へ、わざわざテーブルを迂回してやってきた。

 跨げば早いのに。

 そう思いつつ、不躾な手が肩を押さえても、それが頬に触れても、ミリアは変に律儀な男を眺めるに留め。

「娘、聞くがいい。確かにお前は買われた身だが、望めば元の場所へ帰すつもりだ。それは同時に、モノ扱いしていない証拠となるだろう? お前の心身はお前のモノだ。だからこそ私はお前に話かけていたのだ」

「私?」

 ということは、彼は旦那様なのだろうか?

 そんなまさか。

 余程興奮しているのか、自分の心情を旦那様に重ねる男は、ミリアの疑問符に頷いてみせた。

「ああそうだ。長らく人を買っては飾り立ててみたが、お前のように口を聞いた者なぞ、前に話した帰れずじまいの娘くらい。しかもアレとて促さねば何一つ口にせなんだ」

「話……してみたかった?」

「ああ……我ら人狼には得てして口より先に手の出る連中が多い。だというのに群れが……理解者が必要だ。他は良い。本性に忠実だからな。しかし、混血たる私は本性に染まり切れない。その代わり、群れに身を置けない孤独感だけは他の人狼よりもずっと強い」

 言いつつ、男はミリアの身体を己が胸に押し付けた。

 それが腕を慮っていたせいか、ミリアは別段不快に思うことなく、男の腕の中で彼を見上げた。

「どうして、人を買って飾ろうと?」

「ある方の影響だ。昔、一度だけ彼の気まぐれで屋敷に招待されたことがある。その時見た人形然の者たちがあまりに美しくてな……何より、彼の言葉へ一々相槌を打つ奴らが好ましくみえた。だが、所詮は見よう見真似。元よりあの場は、私が真に求めるモノではなかったのかも知れん」

 すっと男の手がミリアの頬へ伸ばされた。

 途端、彼の腕にはありながらも、ミリアの身体が跳ねる。

 フラッシュバックする光景は、夕焼けの下、肖像に這わされる不可解な太く短い指。

 掠める声音はよく知っていて、全く知らない男の喘ぎ。

 そして、すすり泣き悲鳴を奏でる同い年の嬌声――

「ふむ。すまんな」

 何の感慨もなく、ミリアの身体を解放した男は、頭を軽く叩くように撫でて戻る。

 やはりテーブルを跨ぐ無作法はせず、ソファに浅く座り、思い出したかのように「ああ」と身を捻った。

 ごそごそ動く様をぼんやり眺めていたミリアだったが、身を乗り出した男が再度こちらへ手を伸ばす姿を見て震えた。

 けれど得体の知れない恐怖から、そこから退くこともできず、ただただエメラルドを揺らめかせ。

「……私?」

 頬を撫でる柔らかな布。

 触れる度、濡れた感触が加えられた。

「うん? 我を取り戻したはずだが……鈍いのか? それともこれは涎か?」

「だ、誰が……目から涎流す人なんてっ」

「いるぞ。別の種……といっても我らのような暮らしをする者ではないがな。有体に言えば食材の中に」

 知らず流していた涙を拭い取られても、ミリアは男の話に顔を顰めるのみで、男の方はそれ以上語らず。

「……すみません」

「…………何故謝る?」

「だって……旦那様、なんでしょ?」

 半信半疑ながら聞くと男は不快そうに眉根を寄せた。

 この反応にミリアはやはり間違ってしまったのかと恥ずかしく思う一方、では結局、この男は何のだろうと訝しむ。

 が。

「旦那様などと呼ぶよう言った憶えはないが……………………タナム・リィシンだ、娘」

「ということは、やっぱり旦那様?」

 名乗ったタナムに対し、ミリアは首を傾げて問う。

 すると何故かタナムは項垂れ、溜息まで吐き出した。

「名を教えてもそれか……」

「で、でも、旦那様は人狼って、あの犬みたいな」

「イヌ?……なんだ、それは?」

 不思議そうな顔が上がり、ミリアはきょとんとした顔つきでこれを迎えた。

「犬、いないんですか?」

「ふむ?……さて、分からんな。もしかするとお前の言うイヌと、同じ形状をしたモノがあるかもしれんが……それはさておき、言ってなかったか? 人狼という種は昼間、人の形を取るのだと」

「うそぉ……」

 言って無遠慮にじろじろタナムの姿を眺めるミリア。

 覗く胸板の厚さは人のモノだが、衣服は旦那様が愛用している物と同種の黒。

 すでに穏やかな眼差しに戻ったブラウンの前には、ちょこんとフレームのない眼鏡が存在しており。

「本当に、旦那様なの………………ですか?」

 しつこいとは思っても確認せずにはいられない。

 異形は見慣れようとも、これがこうまで変化するとは受け入れられず。

 しかも彼の言葉をそのままなぞれば、夜は夜でいつもの獣の顔に変わるというのだ。

 なんて無茶な話、デタラメも良いところ、というのがミリアの率直な感想でもあり。

「そう呼べと言った憶えも、敬語を使えと言った憶えもないが……まあそうだな」

 対するタナムは感想を跳ね除けて頷き、完全に呆れては深くソファへ腰掛けた。

 天を仰いで充分息を吐き出し――後。

「それで娘、お前の…………何をしている?」

 怪訝な声を頭上に受け、ミリアは痛む腕も構わず床に手をつく。

「も、申し訳ありませんでした!」

「……何がだ?」

「だ、旦那様とは露知らず、無礼なことばかり言ってしまって!」

 ぐりっと頭も床に押し付けたミリアが行っているのは、土下座。

 ミリアのいた場所ではあまり馴染みのなかった行為だが、花瓶を割って怒られていた屋敷の者に習えば、必死さだけは伝わる気がした。

 あの時は同時に「殺さないで」と繰り返し叫んでいたようで、けれどミリアの謝罪にその要求は含まれていなかった。

 殺されるなら殺されるで構わない。

 それでも謝るのは、申し訳ない気持ちゆえに。

 ――あと、ちょっぴり浮かんだ羞恥から。

 感情に流されるまま相対したことが、何故か酷く恥ずかしかった。

 あまり人に見せたくない面だったからかもしれない。

 特にこの、旦那様には。

「…………」

 無言の靴音が響く。

 微動だにせず床と睨めっこを続けるミリアは、先のない未来よりも、後悔を引きずって顔を上げられない。

 靴音がぴたり、止んでも。

 すぐそばでしゃがみ込む気配を感じたなら、続いて手をぱしっと叩かれた。

「〜〜〜〜っ! な、何を為さるんですか!?」

 叩かれた衝撃自体は軽くとも、爪が剥がれ、獣の爪に裂かれた激痛は、ミリアの身を容易く起こした。

 その先にあったブラウンは、満足そうに鼻を鳴らす。

「旦那様は紳士なのだろう? では、怪我の身を無碍に扱う私は、旦那様と呼ばれる資格がないわけだ」

「だ、旦那様……?」

「ふむ。これでも紳士らしいな? ならば」

 穏やかさの中に悪戯っぽい光を宿し、タナムの手がミリアの頬に添えられた。

 しかし、今度は震えも泣きもせず、慈しんで撫でる動きに甘んじるミリア。

 指の腹が下唇をなぞり、そのまま口へ差し込まれても惚けたように尋ねた。

「ひゃんにゃはま?」

「……やれやれ」

 心底呆れた溜息が形の良い唇から零れ、意味もなくミリアの顔が赤らむ。

 これを見たのか見なかったのか、タナムはもう一本ある親指をミリアの口に入れ――

 横に引っ張ってみせた。

「い、いひゃひ! らりふるろ!?」

「…………ふむ。困った。これでは何を言っているのか分からんな?」

 全く困っていない口振りでそう言うと、親指を引き抜くタナム。

 解放を得たミリアは頬に痛む手を当て、恨みがましい視線を彼へと向けた。

「な、何がしたいの、貴方は!」

「そう、それだ」

「へ?」

 ぴっと差す指がミリアの顎を持ち上げ、興味深そうな笑みが至近にやってきた。

 瞬間的に真っ赤に染まる顔。

 上がる熱を冷ますため、男として見るのだから変に反応するのだ、これは旦那様で人ではないのだ、そう思い込もうとする。

 しかし、意に反して思い込めば思い込むほど、顔の熱は上がり、心臓の音が耳まで響く。

 タナムの方はといえば、そんなミリアなどお構いなしに語りを続けた。

「娘よ。良いかな?」

「はい、どうぞ!」

 反射で応えた自分に対し、何が? と内心でつっ込むが、巡る熱はすぐさま考える力を奪っていく。

 なかなかの良い返事だったにも関わらず、タナムは露骨に眉を顰めて首を傾げた。

「困った娘だ。褒めた途端逆戻りとは。……まあ良い。それより娘よ、お前の名は?」

「み、ミリア・ローディアです」

「ふむ……では一つ尋ねよう、ミリア」

「はいっ!」

「……元気は結構だが、耳に痛い。もう少し声のトーンを下げろ」

「はいっ!!」

「………………………………………………まあ良い……で、だ。お前、帰りたくはないか?元いた場所へ」

「…………」

 まるで促すような口振りにミリアは惚けた。

「勿論、見返りなぞ要求はせん。言っただろう、お前の意思は尊重されると」

 言われても、その辺は特に気にしていなかったので、先に問われた答えを探す。

 と同時にミリアの首が振られた。

 考えるより先に出た答えは――

「帰りたくない?」

 横に振られていた首が、タナムの言葉を受けて縦に変わった。

 

 


2009/9/11 かなぶん

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