ソイツを一言で示せといわれたなら、カァ子は迷わずこう言うだろう。

 犬――――と。

 ニコニコ笑う顔が目の前にある。
 白い瞳以外は真っ黒の、カラスの姿をしたカァ子の前に。
 昼食終わりの食卓で寛ぐ瑪瑙は、笑う顔の向かいで、新しい薬の調合を考えていた。
 こういう時の彼女は、何を言っても「んー」だの「あー」だの返すため、まともな話が出来ない。
 それは出会ってから変わらない事なので、構わないのだが。
『ちょっとアンタ』
 カァ子からすると少し低い、大概の人では野太いと思う声が、しまりのない顔で笑い続ける孔雀へ向けられた。
 何の因果か瑪瑙の夫となるべく、カァ子と彼女が住まうこの家にやってきた彼は、今朝、一先ずの同居を許され、居つくことになった。
 年頃の娘――もちろん、カァ子にとっては、齢300の自身のことである――の住まいに、男が同居するのは危険だが、孔雀の目当てはあくまで瑪瑙。
 だからこそ、腹が空いたとぼやいた彼女のため、孔雀は朝食や昼食を甲斐甲斐しく作ったくらいにして。
 男尊女卑とまではいかないにせよ、男は外、女は家で働くというのが一般常識。
 そんな世間から外れた彼の行動は、偏に、早く瑪瑙から夫として扱われたいがためだ。
 ……本当は、世のコトワリに則った、夫婦の儀式を終えているとも知らずに。
 疑り深い瑪瑙が自分でその事を話すまで、黙っているつもりのカァ子。
 そちらの方が面白そうという野次馬根性もあるが、何より利という種柄、コレを忌み嫌う理の者である孔雀に、加担するのが嫌だった。
 だが、今のこの状況は一体どういうわけだろう。
『孔雀、アンタさ、瑪瑙の夫になりたいんでしょ? それなのに、あたしに媚びへつらう顔見せてどうすんの。イイ? あたしは利だよ、利! アンタら理の者が嫌う――』
「うん。でも稀人とは仲が良いでしょ? 何より、カァ子さんは瑪瑙の同居人だし」
 食卓に顎を乗せ、喉でも鳴らしそうなほど上機嫌の孔雀は、うっとりカァ子を見つめていた。
 なんでも、同居するに当たり、外堀から瑪瑙の陥落を目指すそうで。
 馬鹿正直にそう宣言した男は、女と見紛う美貌を和ませては、カァ子に言う。
「えっとね、昨日……じゃなかった、一昨日は御免ね、カァ子さん。利ってだけで煩くして」
 瑪瑙お手製の睡眠薬を投与された孔雀は、丸一日、ぐーすか眠ってしまったため、日付の認識が甘い
 なので、一昨日のことなぞすっかり忘れていたカァ子は、羽先で気まずそうに目の下を掻いた。
『いや、別にイイさ。利と理の者のいがみ合いは長いし……それよりも!』
「も?」
 こてっと食卓に頬をつけて傾ぐ孔雀。
 大の男がやる動作としては大いに間違っているが、薄暗い中では女にしか見えないという彼だと、妙に可愛らしく見えた。
 宣言する夫の立場上、良いか悪いかは別として。
『なんだい、カァ子さん、て。確かにあたしゃ、カァ子って名だが、アンタにさん付けされんのは違和感あるよ』
「なんで?」
『だってアンタ、あたしより年上なんだろ?』
 大きく人間として区切られる種には、カァ子の「利」と孔雀の「理の者」、そして瑪瑙が属する「稀人」がある。
 外来種の稀人にはない能力を有す、残りのニ種は、自身の内から他人の情報を引っ張り出せるのだが、その範囲は自身が生れてから今日までに限られていた。
 そしてカァ子は御齢300。
 その年数分の、言うなれば名簿が、彼女の内側にはあるのだ。
 しかし、肝心の孔雀の名は、300年という月日を持ってしても見当たらず。
 詰まる所、孔雀の齢は300より上だと示されたに等しい。
 若く見られるのは、乙女として悦ばしいのかもしれないが、やたらと女々しいコレより年下なのは、妙に屈辱的だった。
 能力の高さも、年齢に比例するから、なおの事。
『あたしの中に名がないなんて、アンタ、一体何歳だよ?』
 年功序列だからと敬う気すら失くす相手に、多少苛立った質問を投げつけるカァ子。
「俺の齢? えっと?」
 言って、身を起こした孔雀は、ライラックピンクの瞳を上方へ向け、両手の指を広げた。
「んーと、いち、にぃ、さん、しぃ、ごぉ、ろく、しち、はち、きゅう、じゅう…………? あれ?」
『……どした?』
 まさか指折り数えるとは思わなかったカァ子は、頭の悪そうな様子に辟易しつつ尋ね。
「…………何歳だったっけ、俺?」
『……アンタ…………自分の齢も満足に数えられないのかい?』
 予想以上の駄目な出来に、黒い立派な嘴が危うく食卓を刺すところだった。
 気を取り直すように首を振れば、長い金髪を傾がせた孔雀が、人差し指を口元に当てて眉を寄せた。
「んー……? 駄目だ。全然思い出せないや。ずっと宮(きゅう)に住んでいたから、時間間隔狂っているみたい」
『きゅう……?』
「そう。あそこってさ、場所によって四季変わるから、何年って数えにくくて」
『……って、ちょいと待て!! きゅうって、あの宮のことかい!?』
「へ? あの? うん、たぶん。……宮って他にあるの?」
『じょっ』
(冗談じゃない! あんなモン、他に在って堪るか!)
 言いたい言葉をぐっと呑み込んだカァ子は、黒い羽の下で青くなった。
 次いで、瑪瑙を振り返る。
 黒い三つ編みを背に垂らし、右の白く爛れた皮膚と左の可愛らしい顔で、紙面と睨めっこする黒い目の少女。
(アンタ、なんてモン拾ってきたんだよ)
 白い目でそれだけ念じるように訴えれば、新しい薬の調合案が固まったのか、満足げに息を吐き出した瑪瑙が気づいた。
「……どうしたの、カァ子さん?」
『いや……とんでもない掘り出し物拾ったもんだと思ってね。しかもゴツイ曰くつきの』
「……え? それって、この人のこと?」
 びしっと無遠慮に孔雀へ指を差す瑪瑙。
 これに対し、頭に花を咲かせた面持ちの孔雀が、急に不機嫌となった。
「瑪瑙……この人じゃなくて、孔雀。カァ子さんのことは名前呼びなのに、俺だけこの人呼ばわりは嫌だ」
 ふくれっ面は差された指を抓み、身を乗り出してはそこへ口付けた。
 己の頭上で展開されるイチャつきにカァ子が半眼を示せば、真っ赤になった瑪瑙が指を回収する。
「わ、分かった。ええと、孔雀さん! だから――」
「違う! 孔雀、って呼び捨てにしてよ。さん付けじゃ、カァ子さんを俺がさん付けするみたいに、他人行儀に聞こえるから!」
『……そういうことかい、カァ子さんって』
 腑に落ちない点は多々あるが、とりあえず何故さん付けで呼ばれているのかを知り、カァ子は疲労感満載の溜息をついた。

* * *

 余程、瑪瑙からのさん付けが気に喰わない様子の孔雀。
 怒り肩のまま、椅子へ腰掛ける彼女の両手首を掴んでは言う。
「りぴぃとあふたみぃ、孔雀!」
「な、何? その……呪文?」
「しゃらっぷ! 黙らっしゃい! 孔雀、孔雀、孔雀!!」
 ほとんど駄々を捏ねる子どもである。
 扱いに困る行動に、愛想笑いを浮かべて瑪瑙は宥めの言葉を口にする。
「お、落ち着いてよ、孔雀――ひゃむっ!?」
 さん、と続く言葉は、唐突に押し付けられた孔雀の唇によって塞がれてしまった。
 不安定な姿勢で強行された口付けは、椅子の足を半分浮かせ。
「……ふ。うん……やっぱり、良いよ、瑪瑙。さん付けでも。その代わり、今みたいに止めるから、俺」
「んなっ、横暴っひゃ!?」
 放された宣言に噛み付けば、ぺろりと右の頬を舐められた。
 両手首が捕まったままでは満足に抗議も出来ず、涙が瑪瑙の目に浮かぶ。
 途端、孔雀が青褪めた。
「わっ、御免、瑪瑙。い、痛かった?」
 といっても、彼の謝罪は解放した手首に限られるらしい。
 これらを擦りつつ、なおも睨めば、孔雀の手が伸ばされた。
 ぺしっと叩く瑪瑙。
 そこへ、カァ子が食卓から瑪瑙の頭の上に降り立った。
「……カァ子さん、お、重い」
『まっ、失礼しちゃう……けど、瑪瑙、ちょいとお聞きな』
「あー!! カァ子さんだけずるい! 俺も瑪瑙に――――ふぎゅっ」
 両手を広げて迫る孔雀の顔面に、瑪瑙の黒い靴が埋まった。
「あうあう」言いつつ転がる男を下に、瑪瑙は目線だけを辛うじて見える、頭上の嘴に寄せる。
『あたし、アンタに宮の話、したよね?』
「きゅう?……ああ、あの、理の人の中でも特に力の強い人たちが住んでるところよね。確か、龍の一族だったっけ? カァ子さんは利の鴉の一族だけど、利にもいるよね、龍の一族って。あっちは御屋(みや)に済んでるって話で」
『まあね……どっちにしろ、力は尋常じゃないけど。……で、言いたいこと、分かる?』
「?」
 いつもより低い野太い声に小首を傾げつつ、復活してはこちらへ抱きつこうとする孔雀の顔を靴裏で迎えた。
 腕を組んで考えたなら、頭の重さが食卓へと飛び降り、追った瑪瑙はそちらを見る。
 足は孔雀を押さえたままで。
 器用な暴力風景に、カァ子は憂いの瞳を瑪瑙へと向けた。
『だからさ。ソイツ、稀人と同じ姿してるけど、正体、龍じゃないかと』
「……へ? 龍って、あのひょろひょろ〜とした?」
 驚きのまま孔雀を見やった瑪瑙は、踏む足に捩じりを加え始めた。
 「瑪瑙〜」と手を伸ばす孔雀の、辛うじて見える口元がにやけているため、こういう扱いでも嬉しいらしい。
 趣味に興じる際なら、この反応も愉しめるが、元よりソッチの気はない瑪瑙。
 気持ち悪そうに顔を歪めつつも、止めた途端、何されるか分からないため、足の出迎えは終わりを迎えられない。
 たとえ、相手の正体が、理の人や利の中で最強を頂く龍の一族であろうとも――――
「っ!? ええ!!?」
「瑪瑙っ!!」
 遅れてやってきた理解に瑪瑙の足が下ろされ、孔雀が飛びかかった。
 けれど瑪瑙は、抱きつかれようとも、頬ずりされようとも、頬や額に口付けを受けようとも、カァ子から目を逸らさず。
「ほ、本当? カァ子さん? だって、龍の一族って、あんまりにも力が強いから、同じ種の前にも姿現さないはずじゃない。それなのに、よりにもよって稀人の里に降りてくるなんて……」
 つと、瑪瑙の顔が孔雀を向いた。
 至近にあっても、その顔が喜びを見せても、怯まず驚くだけの瑪瑙に対し、孔雀は唇を寄せ出した。
 ようやく反応を取り戻した瑪瑙は、その顔を両側からがっしり押さえ込む。
「靴跡のついた顔なんて嫌」
 自分でつけた自分の靴跡を本気で嫌がる瑪瑙に対し、孔雀は文句を言わずにはっとした表情になった。
「あ、御免」
 上物の、金刺繍入りの黒い袖で、自身の顔をゴシゴシ一生懸命拭う。
 と思えば腰の辺りから手鏡を出した孔雀、頬に手を当てては、色んな角度から顔をチェック。
 その間、瑪瑙はまたカァ子へ視線を戻す。
「……間違いじゃないの?」
『いや、あたしに聞かれてもねぇ……ソイツの言ったことだしさ?』
 改めて聞かれると自信がなくなったらしい。
 羽先で嘴を掻くカァ子は、孔雀を見てしきりに首を傾げた。
 つられてもう一度孔雀の方を向いた瑪瑙は、いきなり首に腕を回され軽く呻く。
「な、なに?」
「瑪瑙……俺、綺麗になったかな?」
「…………」
 瞬間、殴りたい衝動に駆られた。
 こちとら、自分の不注意とはいえ、右半分の顔を失って久しいのに、元よりお綺麗な顔したお前が何を言う。
 黒目を半眼に、口をへの字に曲げる。
 すると孔雀はショックを受けた風体で、手鏡に自分の顔を映す。
「ま、まだ駄目かな? 変? 汚れてる? 俺、汚いかな?」
「…………ああ、そういうこと」
 焦る孔雀の様子に、靴跡のやり取りを思い出した瑪瑙。
 龍の一族云々で頭が一杯だったため、咄嗟に口付けを回避した記憶が霞んでいた。
 かといって、まさか良しとは言えない。
 されるのが嫌、という話ではなく、他の眼があるところでされるのが恥ずかしいのである。
 たとえ、孔雀のじゃれつきと動物のソレを、同じモノだと認識していようが。
 それに……あまり気を許して、裏切られては溜まらない。
(……そう思う時点で、結構気を許してるような気がするけど)
 知らず知らず溜息をつけば、ビクッと反応する孔雀。
 大慌てで自分の肌を痛めるのも構わず顔を拭う。
 うっすら目の端に浮かんだ涙は、何かを恐れているように見えた。
 何を?
 瑪瑙に嫌われることを……?
(馬鹿馬鹿しい)
 思いつつも、段々と擦られて赤くなる頬を目にし、くすりと笑った。
「瑪瑙……?」
 動きを止めた孔雀へ手を伸べ、先程彼がしたように腕を首へ回した。
 信じられない面持ちで固まった孔雀は、抵抗せず瑪瑙と額を合わせた。
「質問、しても良いかな、孔雀」
「! うん! いいよ! 瑪瑙が知りたいことなら、全部答えるから!」
 一瞬にして明るさを取り戻した孔雀の眼が、黒い瞳を貪るように見つめた。
 瑪瑙はなんとなくイタイ気分を味わう。
 しかしこの姿勢で目を伏せれば、孔雀が何をしでかすか分からないので、臆しつつも視線を交わす。
「貴方、宮にいたの?」
「うん」
「じゃあ、龍の一族」
「ううん、違うよ?」
「へ?…………違うの?」
「うん。宮には住んでたけど、俺は龍の一族じゃない」
「そ、そうなんだ……」
「うん」
 ちょっぴりほっとする瑪瑙。
 宮に住まうということは、それでもかなりの能力を有する存在であることに変わりはないが、身じろぎ一つで町を破壊出来るという、逸話持ちの一族ではないらしい。
 肩の荷が下りた気持ちになったなら、こつんと額が鳴った。
 見やれば、まだ腕を回したままの孔雀の顔がそこにある。
「瑪瑙……この姿勢は君からなんだから、君からしてくれるんだよね」
「…………え?」
 何を、とは問わずとも分かるが、この姿勢を取った瑪瑙の思惑は、偏に孔雀へまともな返答をさせるためだった。
 元より理の人、黙らせて話を理解させるには、一番良い方法と思ったのである。
 しかし、とんだ裏目に出てしまった様子。
「だってほら、瑪瑙からしてくれたの、事故みたいなモノだったでしょう? だからちゃんと欲しいなって」
「ほ、欲しいって……わ、私と貴方はまだそんな――」
「うん。でも、ここまで来て逃げられるのは嫌だな。俺は瑪瑙の質問に答えたんだし。ご褒美、頂戴?」
 常時、人の顔を見るだけで幸せそうな孔雀の、優勢を示す悪戯っぽい表情。
 ぞくりと粟立つほどの色っぽさが、唇の先にあるのを改めて感じ、瑪瑙の頬が真っ赤に染まった。
 上擦った声で、彼女が呼ぶのは。
「か、カァ子さん!」
『……どうしてこの場面であたしが呼ばれるのかね? 往生際が悪いよ、瑪瑙。さっさと、ぶちゅうっとイっちまえ!』
「じゃなくて! あっち、向いてて!」
 責任とまではいかなくとも、この体勢を強いたのは己。
 仕方なしと心で繰り返せば、カァ子が呆気に取られた様子で瑪瑙を見る。
『ああ、そういうこと。……イイじゃないの、別に。減るもんじゃなしに』
 次いで、白い目がにやにや笑って瑪瑙をからかった。
 赤いままの瑪瑙は、目で孔雀を牽制しつつ、悲鳴のような声で叫ぶ。
「減る! 確実に減るの! 精神が削り取られちゃうから、こっち見ないで!」
『……ああ、はいはい。見なけりゃいいんだろ? 全く、数多の野郎の屍を踏みつけてきたくせして、初心なんだから』
「人聞きの悪いこと言わないでよ。誰も殺してなんかないわ」
『死んだ方がマシな目には合わせてるだろう?』
「う……」
「瑪瑙?」
 カァ子が背を向け、応酬が止まれば、見計らった孔雀が催促する。
 逃れられない絶体絶命の状況を思い、涙がちょっぴり浮かぶ。
 ――と。
「あ、瑪瑙。その顔、とってもイイ……瑪瑙がくれるなら、痛みでも何でも貰うけど、嫌われない程度に苛めるのもありかな?」
「なっ……き、嫌いになるわよ?」
「ふふふ……やだな、瑪瑙。それってさ、前提に好きが入るんだよ?」
「! あ、貴方なんて――」
 かぁーっと熱くなる頭に合わせ、瑪瑙は一段と声を大にして言った。
 気合をいれるため。
「大っ嫌いよ!」
 裏腹に。
 続く。
 軽い音。

 後に残されたのは、若いねぇと背中で笑うカァ子、短い褒美に過剰な悦びを見出す孔雀。
 そして。
 真っ赤な顔で涙目になりつつ、椅子へぐったり腰掛ける、瑪瑙の姿。

 

 


UP 2009/3/18 かなぶん

修正 2018/4/18

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