怯える兵士を一瞥することなく、彼らが開けた扉向こうへ歩を進めた瑪瑙は、目を丸くする依頼主に出くわした。
 小瓶の詰まった箱を抱える瑪瑙へ、卓を挟んだ向かいの長椅子を勧めた依頼主は、椅子に座り直しつつ、額に浮いた汗を押さえて拭く。
「や……あ、あの、愚息は…………」
「…………」
 どうやらこの中年、瑪瑙のところへ、珊瑚が何をしに訪れていたのかを知っていたらしい。
 瑪瑙が白い眼を向ければ、あたふた慌てる依頼主。
 でっぷりとした腹と侘しい頭の、これでも典の氏族長である緑髄(りょくずい)は、しどろもどろになりつつ、つぶらな茶の瞳を瑪瑙に向けてきた。
「そ、そのですな、あの、その……孔雀殿も、紅玉とそれなりに上手く………………やって……」
 言いつつ、段々陰りを帯びてくる緑髄の顔つき。
 哀愁漂う何かしら耽る表情へ、瑪瑙はつきかけた溜息を殺す。
「依頼された品です」
 何も聞かなかった素振りで、卓に置いた箱をずいっと緑髄の前へ差し出した。
 すると一転、ぱぁっと緑髄の周囲が明るくなった。
「こ、ここここここれがっ、あのっ、噂に名高いっ!? ま、幻のぉおっ!?」
「はい。噂は兎も角、幻かどうかは知りませぬが、緑髄様が依頼された通りの代物です」
 瑪瑙御手製、発毛剤兼育毛剤。
 頬ずりする勢いを、待て、と命ぜられた犬のように固まらせ、ハァハァ荒い呼吸を繰り返す緑髄が、屋敷を壊されても瑪瑙に望んだ品がこれである。
 その昔、別の依頼主から、試しに作ってみてと言われて誕生した薬だが、複雑怪奇な調合を好む瑪瑙には、物足りない手順を経て出来たつまらない駄作。
 なので、面白味に欠けるという精神的苦痛を理由に、原材料を知れば詐欺と訴えられても仕方のない法外な値段が付けられている。
 これで少しは受注が減るかと思われたのだが、悩める御仁は少なからずいて、逆にそれくらい値が張った方が信憑性があると言われている。
 何より、緑髄が言った通り、薬の効果は噂に名高くなるくらいの本物、らしい。
 例によって、瑪瑙はこの新薬を使った憶えはないので、話を聞く限りでは、だが。
 元より、重苦しく長い黒髪の持ち主には不要の長物。
 ともあれ、予想だにしない支持を集めた薬、自分一人に注文が集中するのは面倒臭いと、過去、妥当な値段でレシピを他の薬師に売ろうとしたのだが、内容に眼を通した全員が買い取りを拒んでいた。
 試しに、馴染みの薬種店店主・黄晶にも見せたのだが、つるりとした頭をひと撫で、こんな眉唾モン誰も買わねぇ、と渋られてしまった。
 要するに、瑪瑙が提示したレシピを読んでも、誰も本物と受け取ってくれなかったのである。
 ついでに売るのを諦め、上げると言っても、ゴミが増えるだけだと拒まれた。
 真実を叫んでも無視される、世知辛い世の中である。
 思い出した過去を吐息の一つで吹き飛ばした瑪瑙は、改めて依頼主を見やった。
(……髪よりも先に、修正しなきゃ拙いところがあると思うんだけど)
 黒い右目に映るのは、メタボも裸足で逃げ出す豊かな腹。
 典の緑髄といえば、瑪瑙が生まれる前から、数多の武功で知られる佳枝の名将。
 域を一つ挟んだ、瑪瑙の住む虹蹟は幸いにもその手腕を免れたが、両隣の域は彼の現役時代、かなりの痛手を負わされたらしい。
 今は、この大陸全ての域を管理する中央の命により、佳枝も、両隣の域も表立った戦を止めているが、こんなでも元・名将は、自身の一族を中心に軍隊を編成しており、小競り合い程度なら中央を欺きつつ、こっそり行っているそうな。
 それでも一度で多数の死傷者を出す戦、こっそりもなかろうと、珊瑚の名を別の域にいながら知る瑪瑙は、見逃す中央と軍隊の感覚にはついていけないと首を振る。
 話を戻し、そんな現役時代とは程遠い体型の緑髄を、もう一度意識に収めた。
 聞くところによると、珊瑚は昔の緑髄に似ているという――ゆえに。
「…………ぶっ……」
「ぶ?……い、いかが為さいましたか、瑪瑙殿?」
「いえ……無礼とは存じますが、見つめられているばかりでは、薬も役目を全うできませぬ」
「お、おお……こ、これは申し訳ありませぬ。待ち望んだ品なれば、つい、見惚れてしまいまして」
 上手く誤魔化せたようだ。
 まさか、貴方と同じ体型となった珊瑚を浮かべ、噴出したとは言えまい。
 大きくはあるが、豊かな肉付きのせいで、短く太く見える手が箱を回収する様を見届けた瑪瑙。
 おもむろに立ち上がると、緑髄に向けて一礼をした。
「では、私はこれにて」
「は……? いやしかし、代金は」
「不要にございます。材料やその他諸々は全て緑髄様から頂戴致しましたので。何でしたら、この薬のレシピも御付けしましょう」
 言いつつ、懐から取り出した紙を卓の上に滑らせた。
「なっ、い、いや、ですが」
「レシピ内容は些か頼りないと思われましょうが、虚偽は書いておりませぬゆえ。……これも全ては、私の謝罪にございます。緑髄様の御屋敷を破壊してなお、生きていられる寛大な御心への感謝にございます」
「ぬ……うむ…………」
 屋敷破壊については、やはり思うところがある様子。
 瑪瑙の平謝りの姿勢に対し、緑髄の手がレシピを引き取った。
 これへ、瑪瑙は内心で小躍りをする。
 この薬は、知識がない分難しいところもあるが、根性さえあれば素人でも作れるくらい、本当に簡単な代物。
 名将たる緑髄が財源を得るのに、使わない手はないだろう。
 販売元が増えれば、それだけ瑪瑙の面倒も減るという話であり、言葉にした通り、レシピを渡したのは謝罪の意も含まれているが、大半は楽をしたい願望であった。
 兎にも角にも、これで話は終わり。
 さっさと帰るべく、その旨を告げた瑪瑙は踵を返し――かけ。
「待て、瑪瑙殿。この際愚息はどうでもよい、夫君は……如何されるおつもりか?」
 今までのへりくだった声とは違う、有無を言わさぬ口調。
 受けた瑪瑙はさして怯えるでもなく、歴戦の将が宿す光を真正面から見つめ返す。
「御随意に……とはいえ、緑髄様に対してではございませぬ。孔雀の、彼の思うがままに。私の夫を名乗ってはいますが、私は斯様な呼称で彼を縛るつもりはありません」
「……そうか」
 きっぱり言い切れば、何故か緑髄の肩が落ちた。
 しかも漂わせた威厳もどこへやら、大袈裟なくらい、がっくりと。
 さすがの瑪瑙も、この変化には驚きを隠せない。
「りょ、緑髄様? 如何されたので?」
 問い掛けながら脳裏に浮かぶのは、熱く抱擁と口付けを交し合う男女の姿。
 項垂れる必要など、どこにあるのだろうか?
 けれど緑髄は、瑪瑙のこの言葉を待ってましたとばかりに顔を上げては、つぶらな瞳に懇願を目一杯乗せて言う。
「この際だ……はっきり言おう。瑪瑙殿、頼む。彼を……帰るのならどうか、孔雀殿も共に連れて行って欲しい」
「……は? いやしかし、彼は紅玉様が求められて――」
「娘は説き伏せる! 嫌われても構わん! 殴ってでも諦めさせる!」
 突然、力強く卓を叩く緑髄。
 穏便ならざる言に圧倒され、若干引いた瑪瑙は、包帯で隠した右頬を掻きかき。
「え…………と、何かあったのですか?」
「何っ! 何と問われるか、瑪瑙殿!!」
 勢い余って立ち上がった緑髄は、体格に似合わない軽くも荒々しい足取りで部屋を横断すると、壁に沿って置かれていた引き出しの中から、物凄く厚い紙の束を持ってきた。
 それをそのまま、卓の上に叩きつける。
「これが何か分かるか、瑪瑙殿」
「あー……領収書?」
「そうっ! 領収書だ、瑪瑙殿! しかも全て、一日で孔雀殿が消費した食費の!」
「は…………しょ、食費?」
 目を丸くした瑪瑙、おずおず上の一枚を取っては、デカデカと書かれたその文字に眼を剥いた。
「う、牛二十頭? こっちの野菜や果物は……荷車の数になっているし…………こ、これ、本当に孔雀が?」
 驚くのも無理はない。
 瑪瑙が知っている孔雀の食事摂取量は、彼女の一食分よりかなり少ないのだ。
 試しにもう一膳食べろと、山盛りを強要した際には、涙と鼻水で美貌をべちゃべちゃにして、もう食べられないと許しを乞うてきた程だ。
 だが緑髄は、瑪瑙の疑問符を受け取るなり、眼を逆立てて領収書の束に短い指を突きつけて叫んだ。
「これが偽りなら、どれほど気が楽かっ! 孔雀殿が来てからというもの、我が家の財源は減る一方! だというのに、紅玉はまるで意に介さず、腹が減ったという彼に従い続けるわ、珊瑚に至っては元気があると抜かしおって、食い潰されると訴える私の味方もせん!」
(元気……ああ、あれはこういう意味…………)
 珊瑚から告げられた言葉を思い出した瑪瑙は、加えてある時、食事の量について孔雀が言った言葉を思い出す。
”ご飯はね、俺の場合、大半は内側から摂ってるの。心、っていうのかな、そこから“
 そしてその大半の部分を占めるのは、瑪瑙の存在だと彼は言っていた。
(…………うわぁ……拙い)
 顔には出さないが、浮き足立つ気持ちは止められない。
 元気だと、やつれていないと分かって、傍に誰か居ると知って、瑪瑙は孔雀から離れていこうと思ったのに。
 世にも恐ろしい食欲の示す意は、瑪瑙の存在の欠如が、どれだけ孔雀にとって危険かを分かりやすく表していて。
 憤慨する緑髄の手前、素直に表には出せないが。
 妙に、嬉しかった。
 このため、次に緑髄から告げられた言葉に、瑪瑙は一瞬、思考を止めてしまう。
「全く、あの者はどういう素性か。見目の麗しさに惚けていれば、こちらが身を崩すのは必定。かといって、毒を用いても事故を装っても、死ぬどころか倒れもせん」
「…………え?」
 何か今、さらりと凄い事を言われた気がする。
 眼を丸くした瑪瑙が緑髄を見やれば、彼女の視線に気づいたつぶらな瞳が、剣呑に歪んだ。
「さすがは瑪瑙殿の夫を名乗る者と言ったところか。……気づいておられましたかな? 貴方へお出しした料理の中にも、常に毒を混入させていた事を」
「…………」
 気づかなかった――わけではない。
 最初の食事時、卓に乗せられた料理からは、微量だが、確かに慣れ親しんだ香りが漂っていた。
 致死量には満たないが、何かしらの作用を引き起こす毒の香りが。
 無臭であっても、気配として感じ取られ。
 けれど、これを境にして、運ばれてくる料理には以降、緑髄が言うような毒はなかった。
 最初に運ばれてきた料理さえ、いつの間にか別の料理にすり替えられていた。
「まさか……珊瑚様が?」
 そういえば、料理を褒める際、彼は度々“僕の料理人”と言っていた。
 ただの鬱陶しい変態と思っていたが、どうやら緑髄の仕掛けた毒から守ってくれていたらしい。
 とはいえ、当の本人が別の意味で危険だったのだから、紡げる礼もなし。
 つい今し方、応え紛いの口付けに満足そうな顔をした珊瑚へ、再度唇を寄せ、舐める素振りで幻覚剤を呑ませたまでは良かったのだが、お陰で満足に食事が摂れない状況に陥ってしまった。
 現在、瑪瑙が使っていた部屋の寝台で、一人勝手に盛り上がっているだろう珊瑚を浮べれば、空腹感がこれに勝る苛立ちを呼ぶ。
 そしてその矛先は、瑪瑙を謀った緑髄へと向けられた。
 体型が変わろうとも、名将であった己を引き摺る緑髄は、そんな瑪瑙の視線を全く介さず、呆れ混じりに仰々しい溜息をついた。
「なるほど、珊瑚の奴が……アレにも困ったものだ。力をつけた途端、好き勝手な事ばかりをしおってからに。まあ、孔雀殿を害せない以上、瑪瑙殿に毒を盛っても無意味だ」
「……一体、何を為さりたかったので?」
 無意味とは即ち、緑髄の目的が、孔雀をどこか遠くへ連れて行く事にあることを意味している。
 つまり、孔雀が大食漢でもなく、瑪瑙に固執しているわけでもなければ、当初の予定通り、自分は毒を投与されていたという話でもある。
 苛立ちに不快を足して、眉を益々顰めた瑪瑙に対し、緑髄は悪びれもせず首を横に振った。
「数多なる異称を、域を越えて響かせる瑪瑙殿なれば、我が元に置きたかったのですよ。喉を焼いて声を潰し、胃腸を弱らせ体力を削ぎ、足を腐らせ人の手を必要とさせる。……習慣性もあれば、尚の事、ここから離れ難くなりますでしょう?」
 緑髄が浮べるのは、人懐こい微笑み。
 脂ぎった容姿からは想像だに出来ない、爽やかな表情に、口の端を引きつらせた瑪瑙が緩く頭を振った。
「……珊瑚様が私を専属の薬師にと仰った事、決して世迷言ではなかったのですな」
 てっきり、出て行くよう促すため、孔雀と紅玉の寄り添う姿を見せたと思っていたのだが、他は知らねど、珊瑚と緑髄は瑪瑙を留めるつもりだったらしい。
 しかし緑髄は瑪瑙の言に片眉を上げた。
「ほお? 珊瑚が貴方を? これは面白い。私はアレへ、そんな誘いを掛けるよう、命じた憶えはないのですが」
 しきりに感心を示す彼へ、今度は瑪瑙が重い前髪の裏で眉を上げた。
 先程から話を聞いていると、どうも彼には自分の子どもを侮っている節があった。
 もしくは、駒の一つとでも思っているような節が。
(……なまじ経験を積んでいるため、己に自信がある分、齢の満たない子息を軽視されるか。駒の一つになっているのは、案外、貴方かも知れませぬのに)
 声には出さず、瑪瑙はそう考える。
「ふむ……アレにも困ったものだな? 妻を五つばかり、娶っては亡くしているゆえ、現存する妻も何れ亡くすと考えているのだろうか。瑪瑙殿へアレが誘いを掛けたのも、そういった不安の為せる業でしょう」
「はあ……」
 緑髄が為そうとした事を忘れた風体で、曖昧に笑ってみせた瑪瑙は、彼の言葉に胸の中だけで息を吐き出した。
(やはり……駒か)
 不審の欠片もなく、息子の妻の死を語る緑髄へ、哀れむ視線を奥に携えた瑪瑙は、肩を僅かに下げてみせた。

 表裏合わせて薬師を営めば、自然と耳に入ってくる情報がある。
 これを全て真実とは捉えないものの、調合の合間を縫って暇つぶしに遊べば、珊瑚に関し、ある結論が瑪瑙の中で導き出されていた。
 相手が相手ゆえ、誰彼構わず、推測を口にすることはなかったが。
 死因や死に場所、その時に珊瑚がおらずとも。
 間に出来た子どもらを、珊瑚がどれだけ溺愛していようとも。
 毎回毎回、どれだけの大恋愛を経て、結ばれた二人だったとしても。
 世に纏わる婚姻の代償が彼の身に降りかからずとも。
 妻の死には珊瑚が介入している――と瑪瑙は憶測を立てていた。
 そしてこれは、他でもない珊瑚自身の“参った”という台詞で、信憑性を増していた。
 正直、よく殺されなかったものだと思う。
 冷やかし混じりの含みをもたせた瑪瑙の語りは、広まれば耳に悪く、珊瑚率いる軍の士気を削ぐ代物。
 何せ、珊瑚の歴代の妻たるや、典には劣ると言えど、どれも名のある氏族の出なのだ。
 血縁を殺された者同士が結託し、報復しにくるような事があれば、典の精鋭とて苦戦を強いられよう。
 発端が、将の家庭の事情――それも、戦場においては蔑視される、女に関しての問題なら、尚更に。
 だというのに珊瑚へ語った瑪瑙は、別段、死にたかった訳ではない。
 ただ単に、珊瑚の余裕綽々の態度を崩してみたくなったのだ。
 結果は苦笑のみで終わってしまったが。

 生かされた理由は分からなくとも、対処法を何通りも考えていた瑪瑙は、そんな珊瑚の無能っぷりを語り出した緑髄へ、慇懃な態度で礼を一つ。
「御心配なさらずとも、御子息の御戯れを真に受ける性分ではございませぬ」
「お、おお、そうか……」
 薬師としての瑪瑙は欲しいが、嫁や妾として瑪瑙を迎えたくはないのだろう。
 心底ほっとした表情を浮かべる緑髄へ、瑪瑙は下げた頭の陰で「けっ」と毒づいた。
 オプションで孔雀が付こうが付くまいが、瑪瑙の顔はやはり評判が悪いらしい。
 いつか、「いやはや、気づけば息子に出し抜かれていましたよ、はははは……はあ」と、時既に遅い感じで分かれば良いんだ、と内で悪態をつきつつ。
 表面上は、自称・夫共々毒を振舞われた恨みも出さず、頭を垂れたまま瑪瑙は緑髄へ告げた。
 これ以上、氏族連中の特異な考えに付き合う義理もないと、刺の声音に含ませて。
「では、緑髄様。私はこれにて失礼を――」

「瑪瑙っ!?」

 途中、遮るように扉を開けて入って来たのは、背景に紅玉を伴って現れた孔雀。
「孔雀……」
 久しぶりに真正面から見る彼の姿に、探す手間が省けたと瑪瑙は思う。
 併せて訪れる、胸が締め付けられる痛み。
 一瞬だけ顔を顰めた瑪瑙は、孔雀を迎えるべく笑顔を浮かべかけ、
「何故だっ!? 我を置いてゆくつもりか!?」
「……は?」
 突拍子のない言に眼を丸くしたなら、背景だった紅玉が孔雀の腕に縋った。
「ほら、孔雀様。貴方には私がおりますわ。こんな娘など放って」
 けれど孔雀は、紅玉を払いもしなければ目もくれず、
「瑪瑙のっ! 瑪瑙のお仕事のためだと思って、ずっとずっと我慢してきたのに! もお、やだっ! 耐えられない! 断りに行こうって言ったのは確かに我だけど、それは今度、勝手に依頼を受けてしまったら、君に嫌われると思ったからなのに!」
 こんなでも自分を知っている孔雀は、注文に対する瑪瑙の姿勢を忘れる危険性を考慮し、一回目の勝手を潰しにここへ来たらしい。
 瑪瑙にしてみれば、次回からは気をつけるよう、告げただけのつもりであったため、孔雀の悲壮感漂う解釈と実行力には目が点となった。
「ここに来てからだって、瑪瑙のためだと、君を視界にも入れぬよう務めてきたというにっ!」
「…………ああ、なるほど」
 泣き叫ぶに似た顔つきで訴えかける孔雀を前に、瑪瑙はぽんっと手を打った。
 別れる間際、孔雀がこちらを見なかったのは、紅玉の傍――というか、瑪瑙から離れる意志を固めるためだったらしい。
 ついでにこの取り乱しっぷりは、緑髄へ向けた辞去の意を孔雀が悲観したせいと知り、瑪瑙に苦笑が浮かぶ。
 途端、「ひぐっ」と変な風に孔雀が鳴いた。
「あー……あのね、孔雀」
 訂正を入れるべく、瑪瑙が手を上げれば、反対に俯く孔雀。
 どうしたのだろうと思う傍ら、完全に無視していようが、紅玉を引っ付けたままの対峙は、変な笑いを瑪瑙に喚起させた。
「ふ」
 思わず苦笑が声に出たなら――

「「「!!?」」」

 孔雀を中心に、一気に下がる温度。
 煽りを受けて領収書が数枚床に落ち、緑髄と紅玉が顔に怯えを宿して、それぞれが孔雀とは別方向へ後ずさった。
 彼らに似た硬い表情は瑪瑙にも宿っていたが、彼女だけは退かずに孔雀を見つめた。
 するとおもむろに上がる、孔雀の顔。
「孔雀……」
 目に入れた瞬間、喉に張り付いた声を掠れさせながら、瑪瑙は彼の名を呼んだ。
 陽光の下、増して美しいと思えた人。
 なのに、今、瑪瑙の前に居る彼は、それすら凌駕する麗容で、清廉な気配を纏っていた。
 一つ息を吸うだけで、肺をズタズタに引き裂かれてしまいそうな凍てつく暖色の瞳で。
 視線を交わすだけで、心の臓を抉るように凄惨な、反して、痛々しくか細い音色で。
「嗤うのか? 我を愚弄するか、瑪瑙よ……この身にすら代え難い君の行いなれば、どのような扱いも甘んじて受けよう。しかし…………耐えて後に待つ仕打ちが此れか? 我は、常に君と対等で在りたいと願っているのに――いたというのに!」
「「ひっ」」
 激情と共に鳴る歯の軋みに際し、不穏な冷気が孔雀から放たれれば、典の父娘が退く足すらなく歯を打ち鳴らす。
 瑪瑙は目を細めるだけで、凍みる風をやり過ごし、ゆっくりと自分の内にある熱を吐き出した。
 もしも自分が、紅玉たちのように孔雀を浅く知っているだけだったら、同じように怯えるのみで、こんな事は絶対しないと思いながら。
 一歩、孔雀の方へと足を進めた。
「孔雀」
 唾液すら絡まない、からからに渇いた声で呼べば、憤るばかりの身体が拒絶を示して、小さくよろめくように下がった。
 孔雀の反応に、瑪瑙は少しばかり身を強張らせたものの、逆にこれが、彼女の背中を強く押していく。
 拒絶が示すのは、関係への恐れだから。
 新しく作られる、維持と変化に依る、壊されゆく――恐れ。
 それは、何かしらの思いを相手へ重ねた証明でもある。
 瑪瑙の歩みを止めないのは、偏に、孔雀が恐れるからだ。
 異様な場を生み出し、名将と謳われた緑髄を差し置いて支配者面をしながら、面と向かって瑪瑙が語るであろう言葉を恐れているから。
 ……自分こそが、拒絶されるとでも思っているのだろうか?
 知らず瑪瑙の口の端に笑みが刻まれたなら、孔雀は手負いの獣を髣髴とさせる目付きのまま、またも足を下がらせた。
 だが、詰めた距離は瑪瑙の方が多い。
「孔雀……」
「っ」
 両手を伸ばせば逃げる顔。
 瑪瑙はこれを許さず、意地の悪い笑みを浮かべては、がっしり顔の側面を挟み込む。
 無理矢理俯かせるように、自分の方へ顔を向けさせる。
「孔雀って、可愛いわ」
「え……?」
 一瞬、叱られた子どもの如く竦められた身体が、瑪瑙の言葉に惚けた声を上げた。
 生真面目な美貌は未だそのままであっても。
「かわ、いい……?」
「うん。勘違いしているところとかが特に」
「可愛い…………か、格好良いじゃなくて?」
「うん。可愛い」
「…………」
 笑顔で断言してやれば、孔雀の顔がくしゃりと歪んだ。
 彼を受け入れ肯定する瑪瑙の言には喜びながらも、自分へ対する評価には悲愴を漂わせる。
 それすらくすりと笑った瑪瑙は、孔雀の首にぶらさがる形まで手を伸ばすと、自然、屈む彼の耳へ囁いた。
「だから……帰りましょう、一緒に」
「いっしょ?……いいの?」
 何を言われたのか戸惑う声音は、いつもの孔雀を取り戻していた。
 恐る恐ると言った風体で回される腕を知り、彼の首を解放した瑪瑙は、その腕が背中を覆う前に、立ち尽くしたままの胴へ己が腕を回した。
 あやすようにその背を叩きながら。
「うん。貴方が私と一緒に帰りたいと望むなら、私は貴方と一緒に帰りたいと望むから」

 だから、一緒に帰ろうよ、孔雀――

 

 


UP 2009/9/4 かなぶん

修正 2018/4/18

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