時々夢の中にいて、ああこれは夢だ、と思う事がある。
 だからこれは夢なのだと、十四歳の時の姿をした瑪瑙は、眼前の朱の光景を結論付けた。
 たとえそれが意識したとて、すぐに醒めぬ夢だったとしても。
 思い出したくもない、過去の出来事だったとしても――

* * *

 瑪瑙が薬師の真似事をし始めたのは六歳の頃。
 贔屓にしていた薬師の店が定休日だったため、違う薬師の下へ向かったのが切っ掛けだった。
 瑪瑙は姉と一緒に傷薬を求めたのだが、無駄に偉そうなその薬師は相手が農家の子と見るや否や、わざとらしく鼻を抓んで追い払ったのである。
 何でも、元は虹蹟の大都市の権威ある薬師院にいたらしく、そんな自分の薬を使って良い相手は、たとえ左遷された先の田舎だったとしても氏族かそれに準ずるほどの者が打倒、家畜の排泄物に塗れた泥臭い農家連中に売る薬はない、という。
 とはいえ、農家しかいない村の中でそんな戯言なぞ通じようはずもない。
 その薬師は後に、自分から売りに行かねばならぬほど困窮するのだが、自業自得の人生なぞ瑪瑙の記憶には在らず、ゆえに夢でさえ出てきはしない。
 それはそれとして、横柄な薬師にどんな仕返しをしてやろうかとのんびり考える姉を尻目に、六歳の瑪瑙は自分で傷薬を作ろうと思い立つ。
 全ては怪我をして元気を失くしてしまった愛犬のために。
 贔屓の薬師とは家族ぐるみのお付き合いがあったので、薬の材料に関しては問題なく揃えられた瑪瑙は、その日の内に傷薬を作り上げて愛犬に使用。
 まぐれかはたまた才能か、翌日には傷薬によって元気を取り戻した愛犬が、再び四本足で歩けるようになったのである。
 ――が、傷薬を作った事と使った事がバレた瑪瑙は、父親からこっぴどく叱られてしまう。
 瑪瑙が作った傷薬は人間用であり、今回使った材料には入っていなかったが、犬にとっては劇薬になりかねないモノも含まれる場合があったのだ。
 これにより、一時は反省を抱いた瑪瑙だったが、一度得た成功の喜びは彼女に懲りるという機会を失わせていた。
 それでも反省は学習を呼ぶ事に成功しており、瑪瑙はまず、贔屓の薬師に弟子入りを志願する。
 けれども世の中そうそう上手くいくわけもなく、夢見がちな子どものお遊びと解されてしまっては、実際子どもである瑪瑙に出来る事はなかった。
 しかして、捨てる神あれば救う神がいるのもまた必定。
 弟子入りを断わられて二年後、それでも薬師の夢を諦められない瑪瑙の前に、とある薬師が現れる。
 犬は駄目でも人間に使う事は許された例の傷薬をひと目見て、高名でもあった薬師は「面白そうねぇ」と笑い、父親を丸め込んではまんまと瑪瑙を弟子にして自分に同行するよう命じてきた。
 瑪瑙はこれ幸いと喜び勇んでついていく――わけもなく、ただでさえ怪しい薬師から逃れようと試みる。
 基本、お人好しの父親とは違い、瑪瑙は母親に似て、初めて会う人間は滅すべき敵と思うタイプであった。
 そんな野生動物さながらの警戒心に対し、薬師は「あらまあ」と笑うだけだったが、周囲の者たちは瑪瑙の捕獲・薬師への献上を計画する。
 実は傷薬に味を占めた瑪瑙、他にも様々、周囲の者たちが迷惑を被るような代物を作っては使用していたのだ。
 幸いにも人や家畜の命を脅かす被害は出ていなかったが、この先もそうであるとは限らない。
 誰かに手綱を握って貰おうというのが、彼らの総意であった。
 こうして程なく捕まった瑪瑙は薬を嗅がされ昏睡し、その間に遠く離れた、全ての域を管理する中央の、薬師の研究所まで運ばれてしまう。
 そこで目覚めた彼女が最初に目にしたのは、似たような経緯で連れ去られてきた、年齢性別様々な者たちと、透明な板に仕切られた広い空間。
 次いで薬の材料が板向こうに設置されたなら、透明な板が下に沈み、彼らの手が届かない高台に現れた例の薬師は愉しそうに言った。
「さぁて皆さん、愉しい愉しいゲームだよ? ルールは簡単。そこの材料で解毒薬を作って飲むだけ。あらあららん? 皆、よく分からないって顔しているわね? でも大丈夫。あたしの言っている意味はすぐに分かるから、さ」
 意味深にくいっと薬師の口の端が上がる。
 と、ほぼ同時に二、三人が悲鳴を上げた。
 意識を失っている間に毒薬が投与されていたらしい。
 状況を把握した瞬間、その場にいた者は我先にと材料へ手を伸ばす。
 その中である者は薬師をぶん殴るべく階段に向かうが、ここにも使われていた透明な板に阻まれる始末。
 阿鼻叫喚の地獄絵図の中で、薬師はくすくす頭上で笑うのみ。
 最終的に残ったのは瑪瑙の他二名だけで、立っていたのも彼らだけ。
 後の全員は絶え間ない激痛の波に襲われて地べたに伏し、あるいは苦悶を浮かべながら気を失っていた。
 床に散乱した薬の材料や道具、ただ出して欲しいと叩き、血塗れの手跡だらけになった透明な板は、彼らの心情を如実に表している。
 そんな透明な板が今頃になって下がったなら、パンパンと癇に障る間隔で拍手をしつつ、高みの見物をしていた薬師が階段から降りて来た。
 一方的に祝いの言葉を吐く薬師に対し、残った一人が飛び掛るが、虫を払うように頬を張られては倒れ込むしかなく。
 もう一人の方は最初に薬の効果が現れてしまったせいか、そんなやり取りがあってもそちらを向くことすら出来ずにいる。
 ただ、瑪瑙だけが愉しそうな薬師を冷ややかな表情で見据えていた。
 これに気づいた薬師は腕を伸ばして彼女を抱き上げると、至極満足そうに頷いてみせた。
「可愛い子。望みがあるなら言ってご覧? あたしが叶えてあげましょう」
 だから瑪瑙は口にする。
 激痛を伴う物ではあっても致死にはならない毒の、全員の解毒を。
 それともう一つ。
「二度とこんな事すんな、変態」
 激昂するでもなく、軽蔑するでもなく、あくまで淡々と告げた瑪瑙に、ここから彼女に師匠と呼ばれる薬師は破顔して応えた。
「良いわよ、糞餓鬼。その代わり、お前が最後の弟子だからね。あたしの全部をお前に注いであ・げ・る。楽に死ねるとは思わないでね、あたしの可愛い瑪瑙タン?」
 チュッと音を立てて触れられる頬。
 ここで初めて気持ち悪いと顔に出して拭えば、更に笑った師匠は拭いたばかりの頬をねっとりと舐め上げた。

 こうして師匠の末弟子となった瑪瑙は、監禁と表しても過言ではない師匠との一対一の長い缶詰状態の修行生活を経て、中央の薬師院を最短で卒業。
 薬師協会に入り自由を得るのだが、誤って自分の右半分の顔を薬で溶かしては、親しかった者の裏切りを知り、人目を避けながら各地を転々とする事になる。
 それは人付き合いに慣れてきた瑪瑙にとって、人に対する警戒心を再び呼び起こすと共に、今までは感じ得なかった寂しさを与えてきた。
 ――が、これが思い出したくもない過去の出来事だったかと言えば、そうでもない。
 確かに深く傷つきはしたものの、瑪瑙のこれまでの人生の中で何よりもおぞましい記憶とされているのは、この後。
 新しい人間関係を作ろうという名目で、師匠から半ば強引にカァ子を紹介されてからの事である。

* * *

 てっきりカァ子の紹介を終えて帰るとばかり思っていた師匠は、事もあろうに睡眠薬入りのお茶を事前に瑪瑙へ振舞っており、薬の耐性がついているにも関わらず眠りこけてしまった彼女は、そのまま中央の師匠の研究所まで連れ去られてしまった。
 目覚めたところで、弟子になってから幾度となく繰り返されてきた事、今更驚きも怒りもせずに呆れるだけの瑪瑙だったが、身を起こして掛けられていた布が落ちるなり、一気に顔色を悪くさせる。
 長く重たい自分の黒髪が、月光滲む室内の中で、見慣れた裸体に流れる様を見て――
 慌てて身体に布を巻きつけた瑪瑙は、改めて自分が寝かされていた場所を見やると、言い知れぬ悪寒に身を震わせた。
 いつもであれば彼女が長年、自室として使っていた部屋で目覚めるはずなのだが、何故かこの時瑪瑙がいたのは師匠の部屋。
 訳が分からないと混乱する瑪瑙だったが、とりあえず何かないかと師匠の机を探ってみた。
 見つけたのは薬とその材料、マッチや蝋燭といった道具等々。
 これらを置き去りにされていた鞄に詰め込むと、今度は鋏を用いて布を動きやすいように加工する。
 限られた布以外、何も身につけていない状態は、日常生活の中でほとんど肌を露出させない瑪瑙には心許なかったが、四の五の言っている場合ではなかった。
 十割方、瑪瑙をこんな格好にしたのは師匠だろう。
 見られて嬉しいという事は全くないが、時たま実験動物の経過を見るような目で、着替えや風呂を覗きに来る相手、酷いだとか恥ずかしいだとか、そういう感傷は抱くだけ無駄だと知っている。
 それでもこんな風に脱がされた事はなかったのだから、あの変態が次に何をしようとするか、哀しいかな長い付き合い、まさかという思いはあっても瑪瑙は確信していた。
 つまり師と仰いできたあのド変態は今夜、彼女との一線を越える気だ、と。
 肉体関係云々はさて置き、早婚が常識であるこの世界において、十四歳の瑪瑙は適齢期のど真ん中。
 救いようのない変質者であっても、変なところで常識人ぶる師匠は、瑪瑙に手を出したならすぐさま彼女との婚姻を進めるだろう。
 何が嫌と言えば、手を出される以上にそれが嫌だった。
 薬師としての才や師匠としての教えには敬愛の念さえ抱ける相手だが、あんな嗜虐趣味の性格破綻者、一生を添い遂げるなぞ持っての外。
「でもどうして? 性別で見られた事なんて一度もないと思っていたのに。それに……」
 愚痴るに似た呟きを止めた瑪瑙は、白く爛れた右頬を軽く撫でていく。
 この顔になってからというもの、会う度師匠は「不細工ちゃん」と、顔を背けようとする瑪瑙の顎を引っ掴んでは、ニヤニヤ笑いながら言っていたというのに。
 一々反応を返すのも馬鹿らしいと無視してきた瑪瑙だが、それだけに解せなかった。
 あれでも一応は男、幾人も女と付き合っていた場面は見てきたし、時にはそーいう所まで「ほぉら、瑪瑙。こんな風になっているのよン」と強制的に見せられたが、相手は決まってどれも美人揃いで、身体つきも男女関係なくついつい目を惹いてしまう見事なものばかり。
 何を差し引いても一切、瑪瑙に落ち着こうとする理由が理解できなかった。
 否、したくもない。
 呟いた自問を「あの人の考えが分かる方がどうかしている」と切り捨てた瑪瑙、鞄を肩に掛けると部屋の扉を目指して、長めに切り取った布の裾を翻す。
 けれども、瑪瑙が辿り着く前に扉は開いた。
「はぁい、瑪瑙。ご機嫌いかが?」
「……最悪です」
 現れた師匠の姿を目にして、一瞬、別口の逃げたい衝動に駆られた瑪瑙は、顔を引き攣らせながら後退する。
 部屋向こうの廊下に灯る明かりにより、逞しい体躯の影が浮き彫りになっているのだが。
「な、何故に全裸……?」
 扉が閉められ逆光がなくなった事で、先程より見えやすくなったその身体は、壮年に片足をつっ込んだ師匠の裸体を余す事なく瑪瑙に晒していた。
 目のやり場に困る、という可愛らしい神経は残念ながら数々の教えにより、とっくの昔に瑪瑙の中から消え去っていたものの、拘束も受けずに歩み寄ってくる姿は言い知れぬ恐怖を与えてくる。
 青褪めた顔のまま鞄をキツく握り締め、更に後退していく瑪瑙。
 これを嬉しそうに目を細めて見つめる師匠は、くすくす笑いながら更に近づいてきた。
「うふふ。可愛いわねぇ、瑪瑙? それとも未通女って皆こうなのかしら? 何故ってそんなの決まっているじゃない。お前と契るため。だからこそ、お前の服も剥いだのよ?」
「うっわー、直で聞きたくねー」
 ずぞぞぞぞっと這い上がる気持ち悪さに、背中に当たった壁の感触へと身を寄せつつ顔を逸らす。
 羞恥を感じているとでも思ったのか、瑪瑙の顎に人差し指を滑らせた師匠は、彼女の顔を自分に向けさせると艶っぽく笑った。
 性別を問わない危機感が宿り、掛かる息も間近の顔に、瑪瑙の口が一気に捲くし立てる。
「ほ、本気ですか、師匠!? だって私、貴方の好みじゃないはずでしょう!?」
「あらー? この期に及んで師匠、なんてつれない事言わないで? あたしの事は金剛って呼んで頂戴な。それに好みって……あら嫌だわ瑪瑙タン。もしかして勘違いしちゃってる? 今まで相手にしてきた子たちは皆、欲を満たすだけの器でしかないのよ? あたしの狙いは最初からお前だけ。初めに言ったでしょー? あたしの全部をお前に注ぐって。あたしの好みはねぇ、腰を振るだけしか能のない女じゃなくって、お前みたいにあたしと同程度の知識と経験を持つ子なのよ?……ん、まあ、アッチの経験はあたしの方が何倍もあるわけだけど」
(き、聞かなきゃ良かった……)
 どれだけ言葉を重ねても、気分を害する事しかできない告白に、瑪瑙の眦に涙が溜まっていく。
 師匠――自分からそう呼ばれる事を否定した金剛は、そこに薄い唇を押し当てては啜り、壁に体重を預けた瑪瑙の身体がずるずる下降していったなら、左腕を掴んで顎を上向かせ、口付けを施すように顔を近づかせながら、うふっと笑う。
「不安がらなくても良いわよ、瑪瑙。お前はあたしの子どもを孕んで産むの。そうすれば、あたしは全てのデータを得ることが出来る。……あと一つだけなのよ。あたしの子どもだけなの。薬の実験に使いたい対象は」
「!」
 長い付き合いではあるが、ここまで危険な相手だったとは思っていなかった。
 あまりの驚きに声すら失くして目を見開く瑪瑙に、トリップ気味だった視線を戻した金剛は、くいっと口の端を持ち上げる艶美な笑いを象って告げる。
「長かったわぁ。あたしの胤を納めても良いって思える胎、それまで何処を探してもいなかったから。ふふ……大丈夫よ、瑪瑙。お前は大切にしてあげるから。たとえ子どもが産めない身体だったとしても、ずぅーっと愛してあげるわ。知ってる? あたし、お前の身体も結構好みなんだよ。まだまだ発展途上だし、将来的にはあたし専用に――」
「ィイヤッ!!」
 それは、下から抉り込むような拳であった。
 悲鳴に似た瑪瑙の声は、気迫を練り込んだ掛け声のようでもあり、
「――――っ!!」
「……ひぇ」
 標的は、金剛から声と明朗な意識を奪い、瑪瑙には嫌な感触だけを残していく。
 けれども崩れ落ち、尻を高く上げて口から泡を吹き、痙攣を起こしながら悶えるのは金剛のみ。
 辛くも危機を脱せた瑪瑙は、すぐさま逃げるでもなく、鞄から二種類の薬瓶を取り出すとそこ等中にばら撒いた。
 そうして扉向こうへ駆け込んでは、充血した金剛の眼が伸ばした手に合わせ、機械的な動きでマッチを擦り、その小さな炎を中へと放り込む。
 と同時に身を翻し、研究所の出口に向かった。
 最中、背後で幾度となく起こる爆発音と爆風。
 気づいた時、瑪瑙は研究所を見下ろせる小高い丘におり、赤々と燃えゆく建物が焼け焦げ朽ちるまで、彼女はそこに留まり続けた。

 しかし、これは過去の夢であり、夢の結末が過去に起こった事をそのまま素直になぞるかと言えば、そうでもない。
 本来であれば瑪瑙はこの後、通りすがりのゴロツキを襲って金品を強奪、変わりに鞄を与えて研究所放火と金剛殺しのレッテルを擦り付け、古着を買っては「辛くなったらいつでもおいで」と言ってくれたカァ子の元に身を寄せるのだが――

「ふふ。逃げられるとお思い?」
「ぎゃあっ!!?」
 研究所が燃える様を眼前に、急に背後から伸びてきた腕が瑪瑙に覆い被さってきた。
 混乱しつつも何とか逃れようともがく瑪瑙だったが、押し潰す勢いの男の体躯は女の身にはただ重く圧し掛かるのみ。
 ついには耐え切れなくなり瑪瑙は倒れてしまうのだが、炎の中から無傷で生還してきた男はしつこく、彼女を仰向けにすると腹の上に跨り、上下に巻きつけてあった布を剥ぎ取ってしまった。
 両手を押さえつけられては抵抗虚しく、生まれたままの姿で重なる二つの影は、男に愉悦と恍惚を、女に恐怖と絶望を宿して一つに溶け合い……

* * *

「――っはあ、はあ、はあ、はあ」
 唐突に目覚めた瑪瑙は、眼前に広がる暗がりと仰向けの上に感じる重さを知り、ぎくりと身体を強張らせた。
 恐る恐る、自分とは違う寝息が流れる方を向いたなら、
「くじゃく……ゆ、夢…………そう、そうだよね。夢、だもんね? でも、どうして今頃……」
 見知った美人の間抜けな寝顔に安堵の息が零れ、拍子に涙がポロポロと瑪瑙の頬を伝っていく。
 しかしそれは、悪い夢で終わる涙ではなかった。
 どんなに見下げた人間だったとしても、長い時間を共に過ごした者を殺めた恐怖は、今もなお、瑪瑙の手を震わせるのに充分な理由として残っている。
 あんな男だと知っていても、瑪瑙は金剛を慕っていた。
 彼女を最初に認めてくれた彼を、直接的ではないにしろ、手にかけた己の行為は許し難いとすら思っている。
 だが、だからといってあのまま、悪夢の通り金剛をその身に刻んでしまっていたなら。
「ん……めのー? って、泣いているの? どうしたの?」
 眠い目をごしごし擦って起きた孔雀は、瑪瑙の泣き顔を見るなり、慌てた様子で彼女の身体を自分に引き寄せる。
 甘んじて彼の胸に顔を埋めた瑪瑙は、問い掛ける声には答えず、胸元をぎゅっと両手で握り締めてはか細い声で告げた。
「孔雀、お願い。もっと強く、抱き締めて」
「え……と。ゆ、夢? これは夢、なのかな?」
 瑪瑙の心情をすっかり忘れ、訴えに戸惑いながらも喜色を混じらせる孔雀。
 惚ける様子に痺れを切らした瑪瑙は、自分から孔雀に更に密着すると、不安の中に怒りを滲ませながら言った。
「夢でも夢じゃなくても、どっちでも良いから。早く抱き締めて、孔雀」
 ――悪夢の中で感じた温もりを消し去るくらい強く、苦しくなるくらい優しく。
「瑪瑙……」
 目を閉じて暗闇の中で願えば、浮き足立っていた雰囲気を完全に消し去った孔雀が、瑪瑙の身体を包み込むように柔らかく抱き締める。
 かといってそれは、簡単に解けるような代物でもなく。
「孔雀」
「うん?」
「ありがとう」
「……ああ」
 いつもとは違う静かな気配に身を委ねれば、髪を梳いていた手が止まり、そこに口付けが一つ施される。
「ん……」
 軽く触れた箇所からじんわり広がる安堵に、甘える声が鼻を抜けたなら、守るように抱く腕の中で瑪瑙は思った。

 過去を思えば悔やむ事が多い気もするけれど、責められるべきものでもあるけれど、あの時の選択によって今の私は形作られている。
 こうして傍に居てくれる孔雀との出会いさえ、悪夢の通りになってしまってはなかった事なのだ。
 ――と。

「……孔雀」
「うぅ……?」
 眠りに落ちる前、瑪瑙を抱いてまどろむ孔雀へ心の中だけで告げる。
 大好き。
 それは未だに表立っては言えない言葉であったが。
「えへへぇ」
 何を察したのか、それとも完全に夢の世界に旅立ったのか、とても幸せそうに相好を崩した孔雀は、彼に馴染んでしまった瑪瑙をもう一度抱き締めてくれた。

 

 


あとがき
瑪瑙の過去のお話。
瑪瑙の非情さはこういうところから来ております。

UP 2010/2/16 かなぶん

修正 2018/4/18

目次 016

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